第126話:夜更けの質問会
その夜、ソータは喉の渇きで目を覚ました。
客室の中は薄暗かった。
壁に灯る紫の燭火は、眠る前よりも少し小さくなっている。
窓の外は、相変わらず夜だった。
この城では、それが当たり前になりつつある。
月が高いのか低いのかも、ソータにはまだよく分からない。
ただ、霧の流れが静かで、黒薔薇の庭がひどく深い色に沈んでいることだけは分かった。
寝台の横を見ると、いつもの薄紫の大きな枕が置かれていた。
だが、そこにルシアはいなかった。
昨夜は、話すだけと言いながら寝台の脇でしばらく人間の贈り物について質問していた。
人間は何をもらうと嬉しいのか。
家族に贈るものと恋人に贈るものは違うのか。
謝る時に贈り物をすると逆に怒られることはあるのか。
ミレイユには何を贈れば怒られにくいのか。
オルドアイには何を贈れば斬られにくいのか。
かなり物騒な方向へ脱線しながらも、最後は眠そうに枕を抱えていたはずだった。
(いないな。)
(自分の部屋に戻ったのか?)
(それとも、また何か思いついたのか。)
ソータは体を起こした。
体調は悪くない。
むしろ、昨日の湯浴みと黒薔薇のお茶が効いたのか、体は軽い。
喉の渇きだけが気になった。
客室にも水差しはあったはずだが、手を伸ばしてみると空だった。
昨夜、ルシアが「水を飲むのは体によい」と言って何度も勧めてきたせいで、すっかり飲み切ってしまったらしい。
(食堂に行けば水くらいあるだろ。)
(チャールズさんに頼めばいいんだろうけど、夜中に呼ぶのもな。)
(いや、この城で夜中って言い方が合ってるのか分からないけど。)
ソータは上着を羽織り、静かに部屋を出た。
廊下は冷えていた。
黒い石の床は裸足では少し冷たく、ソータは寝台脇に置かれていた室内履きを履いて歩いた。
紫の灯が一定の間隔で壁に揺れている。
遠くで、かすかに風の音がした。
それ以外は何も聞こえない。
吸血鬼の城は広く、美しく、そして夜更けには少しだけ怖い。
けれど、初めて来た夜ほどの恐怖はなかった。
この廊下の先にいるのが、グールやスケルトンだけではないと知っているからだ。
黒薔薇の温室があり、月光の回廊があり、誰も使わない食堂があり、そしてルシアがいる。
危険で、強引で、無邪気で、寂しがりで、少しずつ相手の気持ちを覚えようとしている吸血鬼の姫が。
食堂へ近づくと、微かな声が聞こえた。
ソータは足を止めた。
「では、恋人と家族はどこから違うの?」
ルシアの声だった。
少し眠そうで、それでも真剣な声。
食堂の扉は少しだけ開いている。
中から紫の灯が漏れていた。
「非常に難しいご質問でございます、ルシア様。」
チャールズの声が続いた。
いつも通り丁寧で、どこか疲れ知らずの声だった。
「恋人とは、互いに特別な情を抱き、共にありたいと願う関係でございます。」
「家族とは、血縁、婚姻、あるいは共に暮らし支え合うことで成り立つ関係でございます。」
「ただし、人間社会におきましては、恋人がやがて家族になる場合もございます。」
「では、恋人は家族の前の段階?」
「そう言える場合もございます。」
「ただし、必ずそうなるわけではございません。」
「必ずではないのね。」
「人間は本当に例外が多いわ。」
「左様でございます。」
ソータは思わず笑いそうになった。
夜更けの食堂で、ルシアはまた人間関係の勉強をしているらしい。
しかも講師は骨の執事。
この光景だけ切り取れば、かなり奇妙だ。
だが、妙に微笑ましくもあった。
(また質問会か。)
(チャールズさんも大変だな。)
(でも、ちゃんと答えてるのがすごい。)
ソータは水を飲みに来たことを一瞬忘れた。
食堂の扉の横には、黒い石の壁が少し出っ張った場所がある。
ちょうど腰かけられそうだった。
ソータは音を立てないようにそっと座り、扉の隙間から漏れる声に耳を傾けた。
盗み聞きは良くない。
そうは思った。
だが、今入っていくと二人の会話を邪魔してしまう気がした。
それに、ルシアがどんなことを考えているのか、少し知りたい気持ちもあった。
(少しだけ。)
(本当に少しだけ聞いたら、水をもらって戻ろう。)
食堂の中では、ルシアがまた別の質問を始めていた。
「では、ソータがミレイユに戻ると言ったのは、恋人だから?」
「家族だから?」
「運送屋だから?」
チャールズは少し間を置いた。
「複数の理由が重なっているかと存じます。」
「複数。」
「はい。」
「ミレイユ様はソータ様にとって大切な方であり、信頼する方であり、帰る場所の一つでございます。」
「また、クラウゼン商会との関係もございます。」
「さらに、ソータ様は約束を重んじる方でございますので、戻ると申された以上、その言葉を果たそうとなさるでしょう。」
「オルドアイは?」
「同じく、大切な方であり、戻ると約束された方でございます。」
「二人とも?」
「はい。」
「では、私は?」
そこだけ、ルシアの声が少し小さくなった。
ソータは思わず息を止める。
チャールズはすぐには答えなかった。
食堂の空気が少し静かになる。
燭火が揺れる音さえ聞こえそうだった。
「ルシア様は、現在、ソータ様にとって非常に複雑な立場におられます。」
「複雑。」
「はい。」
「ソータ様をお救いになりました。」
「同時に、強引にお連れになりました。」
「介抱されました。」
「同時に、帰還を遅らせておられます。」
「ソータ様はルシア様を恐れ、困り、心配し、同時に放っておけないと感じておられるように見受けられます。」
「放っておけない。」
ルシアの声が少し明るくなる。
「それは良いこと?」
「良い面もございます。」
「ただし、そこに甘えすぎると、ソータ様のご負担になります。」
「負担。」
「はい。」
「人間の心にも積載量がございます。」
ソータは壁の陰で吹き出しそうになった。
(心の積載量って。)
(チャールズさん、俺に合わせた説明してくれてるのか?)
(いや、分かりやすいけど。)
「積載量。」
「ソータみたいね。」
「ソータ様ならご理解いただきやすいかと。」
「心にも荷物が積めるの?」
「比喩でございます。」
「比喩。」
「それも難しいわ。」
「慣れでございます。」
ルシアはしばらく考えているようだった。
その後、また質問した。
「では、私がソータに寂しいと言うのは、荷物を載せていることになる?」
「多少は。」
「言わない方がいい?」
「いいえ。」
「言葉にすること自体は大切でございます。」
「ただし、寂しいから帰らないでと繰り返せば、それは重い荷となります。」
「寂しいけれど帰る道も考えたい、と伝えるなら、共に運ぶ荷になります。」
「共に運ぶ。」
「はい。」
「それは良い響きね。」
「ソータ様らしい表現を借りるならば、共同配送でございます。」
今度こそ、ソータは口元を押さえた。
(共同配送。)
(恋愛相談で出る単語じゃないだろ。)
(でも、妙に合ってるのが腹立つ。)
ルシアは納得したように頷いているらしい。
「共同配送。」
「では、私はソータと一緒に寂しさを運べばいいのね。」
「多少、表現に注意は必要ですが、概ねそのような方向かと。」
「分かったわ。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「大変ご立派でございます。」
チャールズの声には、本当に少し誇らしさがあった。
ソータは扉の横で、胸の奥が温かくなるのを感じた。
おかしい。
かなりおかしな会話だ。
共同配送だの、心の積載量だの、恋愛相談とは思えない言葉が飛び交っている。
だが、その奥でルシアは本当に学ぼうとしている。
自分の寂しさを、相手に押しつけない方法を。
ソータを喜ばせたい気持ちと、ソータの帰る道をどう両立させるのかを。
(本当に変わろうとしてるんだな。)
(ゆっくりだけど。)
(ズレてるけど。)
(でも、ちゃんと考えてる。)
食堂の中で、椅子が少し鳴った。
ルシアが姿勢を変えたのだろう。
「チャールズ。」
「質問を変えるわ。」
「はい、ルシア様。」
「人間は、眠っている時に本音が出る?」
「寝言という形で出ることもございます。」
「ただし、必ずしも正確な本音とは限りません。」
「夢の影響を受けることも多くございます。」
「では、ソータが寝ている時に私の名前を呼んだら?」
ソータは扉の外で固まった。
(俺、呼んだのか?)
(いや、呼んだ記憶はない。)
(でも寝てる時なら分からない。)
(待て、何の話だ。)
チャールズは平静に答える。
「それだけで特別な結論を出すのは早計でございます。」
「でも、名前を呼ぶのは少し嬉しいわ。」
「お気持ちは理解いたします。」
「ソータはミレイユの名前も呼ぶ?」
「オルドアイの名前も?」
「可能性はございます。」
「それは少し嫌。」
「自然なお気持ちでございます。」
「ただし、そのことでソータ様を責めるべきではございません。」
「分かっているわ。」
「夢の中までは尊重が難しいものね。」
「左様でございます。」
ソータは頭を抱えたくなった。
寝言の話までしている。
これは聞いていていいのか、本格的に怪しくなってきた。
(そろそろ入るか?)
(いや、今入ったら完全に聞いてたのがバレる。)
(もうバレてもいいか?)
(いや、待て、次の話題に移ったら普通に入ろう。)
だが、ルシアの質問は止まらなかった。
「では、寝ている時に手を握るのは?」
「相手が嫌がらず、安眠を妨げない範囲であれば、状況によります。」
「頬にキスは?」
「本来であれば、起きている時に許可を得る方が望ましゅうございます。」
ソータは目を閉じた。
(やっぱりしてたのか。)
(いや、薄々気づいてたけど。)
(チャールズさん、ちゃんと指導してる。)
(ありがとう、チャールズさん。)
「では、寝ているソータの隣で寝るのは?」
「こちらも、事前の確認が望ましゅうございます。」
「最近は聞いているわ。」
「大変な進歩でございます。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
ルシアは少し誇らしげだった。
そこまではまだ良かった。
問題は、その次だった。
「では、もう一つ質問。」
「はい、ルシア様。」
「どうしてソータのあれは、ソータが寝ているのに大きくなったり小さくなったりするのかしら?」
ソータの全身が固まった。
(なっ。)
声に出さないつもりだった。
絶対に出してはいけない場面だった。
だが、喉が勝手に動いた。
「なっ!」
食堂の中が、一瞬で静まり返った。
ソータは口を押さえた。
遅い。
完全に遅い。
扉の内側から、椅子が引かれる音がした。
「ソータ?」
ルシアの声がした。
明らかにこちらへ向いている。
チャールズの声も続いた。
「ソータ様。」
「そこにおいででございましたか。」
ソータは壁の陰で天井を見上げた。
(終わった。)
(完全に終わった。)
(水を飲みに来ただけなのに。)
(どうしてこうなる。)
逃げることも考えた。
だが、足音を立てずに逃げ切れる自信はない。
何より、ここで逃げれば余計にまずい。
ソータは深く息を吸い、食堂の扉を開けた。
◆◇◆
食堂には、ルシアとチャールズがいた。
長いテーブルの端に、二人分の席が用意されている。
ルシアの前には分厚い本が三冊。
人間社会の常識、家族の形、そしてなぜか人体の基礎という題名らしき古い本が積まれていた。
チャールズはその横に立ち、白い手袋の指先で本の頁を押さえている。
完全に夜の勉強会だった。
ルシアは嬉しそうにソータを見た。
「起きていたのね。」
「喉が渇いて、水を飲みに来ただけだ。」
「どこから聞いていたの?」
「ええと……。」
ソータは視線を逸らした。
チャールズが静かに一礼した。
「かなり前からおいでだったように見受けられます。」
「チャールズさん、気づいてたんですか。」
「はい。」
「なら言ってくださいよ。」
「ソータ様が微笑ましげにお聞きになっておられましたので、邪魔をするのも無粋かと。」
「最後の話題になる前に止めてほしかったです。」
「私も、ルシア様のご質問があちらへ向かうとは予測しきれませんでした。」
チャールズは丁寧に言った。
骨の顔なのに、なぜか少しだけ申し訳なさそうに見える。
ルシアは首を傾げた。
「あちら?」
「ルシア。」
「今の質問は、こう、もう少し言い方を選ぶやつだ。」
「そうなの?」
「チャールズはどんな質問にも丁寧に答えてくれるわ。」
「チャールズさんを困らせるな。」
「私は困っておりません。」
チャールズが真面目に言った。
「ただし、説明の範囲と用語の選定には慎重さが必要でございます。」
「真面目に答えようとしないでください。」
ソータは顔を覆った。
ルシアは本当に不思議そうだった。
「でも、ソータ。」
「これは人体の基礎の本に載っていなかったの。」
「だから聞いたのよ。」
「その本に細かく載ってなくていい。」
「なぜ?」
「なぜって……。」
ソータは答えに詰まった。
ルシアは吸血鬼であり、人間の体をよく知らない。
好奇心で聞いているだけだ。
そこにいやらしい意図はあまりない。
あまりないはずだ。
ただし、最近のルシアはソータの反応を見ることを覚え始めている。
そのため、完全に無邪気とも言い切れないところが厄介だった。
チャールズが助け舟を出した。
「ルシア様。」
「その種のご質問は、相手の羞恥心に関わる場合がございます。」
「特にご本人の前で詳細を問うのは、配慮が必要でございます。」
「羞恥心。」
「はい。」
「恥ずかしいというお気持ちでございます。」
「ソータは恥ずかしいの?」
ルシアが真っ直ぐ聞いた。
「恥ずかしいに決まってるだろ。」
「どうして?」
「体のことなのに。」
「体のことだからだよ。」
ルシアはますます不思議そうにした。
「人間は難しいわ。」
「お腹が鳴るのは笑うのに、あれは恥ずかしいのね。」
「お腹が鳴るのも恥ずかしい人はいる。」
「そうなの?」
「では、ソータのお腹が鳴ったら笑わない方がいい?」
「場合による。」
「また場合。」
「人間社会は場合が多いんだよ。」
ルシアは真剣に頷いた。
「覚えるわ。」
「場合。」
「雑にまとめたな。」
チャールズは本をそっと閉じた。
「では、ルシア様。」
「先ほどのご質問につきましては、非常に簡略化して申し上げます。」
「人間の身体には、本人の意思とは無関係に反応する部分が多くございます。」
「眠っている時であっても、呼吸、心拍、体温調整、筋肉の動きなどは続いております。」
「その一環として、体の一部が変化することもございます。」
「つまり、必ずしもソータ様が何かを意識しておられるわけではございません。」
ソータは硬直した。
「チャールズさん!」
「可能な限り品位を保った説明でございます。」
「そうですけど!」
ルシアは目を丸くした。
「本人の意思ではないの?」
「多くの場合、そのように考えてよろしいかと。」
「では、ソータが私を見てそうなった時は?」
ソータは咳き込んだ。
「ルシア!」
「違うの?」
「前に湯浴みの時、そうだったわ。」
チャールズがそっと一歩下がった。
「この件につきましては、ご本人にご確認くださいませ。」
「逃げた!」
「私は湿気ではなく、空気の湿度を感じましたので。」
「食堂だろ!」
チャールズは優雅に一礼した。
絶対に面白がっている。
ソータはそう確信した。
ルシアはソータにじっと近づいた。
薄紫の瞳が好奇心で輝いている。
ただ、以前のように無遠慮に触れようとはしない。
近づいて、止まる。
それから聞く。
「聞いてもいい?」
「もう聞いてるだろ。」
「では、ちゃんと聞くわ。」
「ソータは、私を見てそうなった時、私のことをどう思っていたの?」
食堂の空気が止まった。
黒い燭台の炎だけが揺れている。
チャールズは完全に気配を薄くしている。
ルシアは真剣だった。
少しだけ照れもあるように見える。
からかいたい気持ちも混ざっているかもしれない。
けれど、それ以上に、自分がソータにどう見えているのかを知りたいのだ。
ソータは頭を抱えたくなった。
逃げたい。
非常に逃げたい。
だが、ここで適当に誤魔化せば、ルシアはまた間違った方向に学ぶ気がした。
「……綺麗だと思った。」
「それと、近いと思った。」
「あと、困った。」
ルシアは瞬きをした。
「綺麗。」
「近い。」
「困った。」
「復唱しなくていい。」
「嬉しい言葉と、注意する言葉が混ざっているわ。」
「そうだな。」
「では、私は綺麗だけど近づきすぎると困らせるのね。」
「かなり正確だ。」
ルシアは少し考え、それから頷いた。
「分かったわ。」
「綺麗は残す。」
「近づきすぎは減らす。」
「本当に分かってるのか?」
「かなり。」
「その言い方は不安だ。」
チャールズが静かに拍手のように手袋を合わせた。
骨なので音は軽い。
「大変よろしい理解でございます、ルシア様。」
「でしょう?」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「はい。」
「ただし、今後、人体に関するご質問は、まず私にお尋ねくださいませ。」
「ソータ様へ直接お尋ねになる場合は、事前に質問内容が失礼に当たらないか確認いたしましょう。」
「分かったわ。」
「では、さっきの質問は失礼だった?」
「かなり。」
チャールズが即答した。
ルシアは少し驚いた顔をしてから、ソータへ向き直った。
「ごめんなさい、ソータ。」
「私は失礼な質問をしたわ。」
ソータは肩の力を抜いた。
あまりにも素直に謝られると、怒る気が失せる。
「分かってくれたならいい。」
「ただ、次からは本当にチャールズさんに先に聞いてくれ。」
「分かった。」
「でも、チャールズは時々難しい言葉を使うわ。」
「それでも俺に直接聞くよりは安全だ。」
「安全。」
ルシアはまた覚えるように繰り返した。
「ソータの羞恥心を守るために、チャールズに先に聞く。」
「その言い方もやめてくれ。」
「なぜ?」
「羞恥心が守られてないからだよ。」
ルシアは不思議そうにし、チャールズは静かに頷いた。
「学ぶべき点が多うございますね。」
「本当に多いわ。」
ルシアは真剣に言った。
ソータは疲れたように椅子へ座った。
もともと水を飲みに来ただけなのに、なぜか夜中の人体相談に巻き込まれている。
食堂のテーブルには水差しがあった。
チャールズがすぐに杯へ水を注ぎ、ソータの前へ置く。
「どうぞ、ソータ様。」
「ありがとうございます。」
「本来の目的を思い出しました。」
「喉の渇きでございましたか。」
「はい。」
「心まで乾くところでした。」
「それは申し訳ございません。」
チャールズは丁寧に頭を下げた。
ルシアは少し心配そうにソータを見た。
「心も水で潤う?」
「今のは比喩だ。」
「比喩。」
「また比喩。」
「少しずつ覚えよう。」
ソータは水を飲んだ。
冷たい。
天使の泉の水ほど特別ではないが、喉に心地よかった。
大きく息を吐くと、ようやく落ち着いてきた。
◆◇◆
ソータが水を飲み終えると、ルシアは少しだけ椅子に座り直した。
先ほどまでの好奇心いっぱいの顔とは違い、今度はどこか考え込んでいる。
「ソータ。」
「今度は何だ?」
「さっきの話を聞いて、少し分かったわ。」
「何を?」
「ソータの体が反応することと、ソータの心が選ぶことは、同じではないのね。」
ソータは杯を置いた。
その言葉は、思ったよりも真面目だった。
「そうだな。」
「体が勝手に反応することはある。」
「でも、それで何をしていいかが決まるわけじゃない。」
「ちゃんと気持ちとか、相手の意思とか、約束とか、そういうのがある。」
「尊重。」
「ああ。」
「尊重。」
ルシアは頷いた。
薄紫の髪が肩で揺れる。
「私は、ソータが困る顔を見ると少し楽しい。」
「でも、困らせすぎると駄目。」
「ソータが私を綺麗だと思うのは嬉しい。」
「でも、それで私が何をしてもいいわけではない。」
「合っている?」
「合ってる。」
ソータは少し驚きながら答えた。
「かなり合ってる。」
ルシアの表情がぱっと明るくなった。
「また進んだわ。」
「進んだな。」
「チャールズ。」
「はい、ルシア様。」
「私はかなり進んだルシアから、もっと進んだルシアになった?」
「はい。」
「大変望ましい進歩でございます。」
ルシアは嬉しそうにした。
その姿を見て、ソータはつい笑った。
さっきまでの恥ずかしさはまだ残っている。
できれば今の話題は一生掘り返されたくない。
だが、ルシアが本当に学んでいるのなら、多少の犠牲は仕方ないのかもしれない。
(いや、仕方なくない。)
(でも、まあ。)
(少しは意味があった……のか?)
ルシアはソータの笑顔に気づいた。
「今、笑った。」
「ああ。」
「笑った。」
「私が進んだから?」
「それもある。」
「あと、夜中に何の話をしてるんだろうって思った。」
「人間の勉強。」
「勉強の範囲が広すぎる。」
「ソータのことを知るには、人間を知らないといけないでしょう?」
ルシアは当然のように言った。
その言葉に、ソータは少しだけ黙った。
ソータのことを知るには、人間を知る。
ルシアはそう考えている。
つまり、彼女はソータを自分の都合のいいものとしてではなく、少しずつ一人の人間として見ようとしているのだ。
その方法が非常にズレていて、時々とんでもないところへ飛んでいくだけで。
「そうだな。」
「でも、人間を知るなら、恥ずかしいこともあるって覚えておいてくれ。」
「覚えるわ。」
「羞恥心。」
「場合。」
「尊重。」
「共同配送。」
「体と心は別。」
「最後のまとめがすごいな。」
チャールズが静かに言った。
「本日の学習内容としては、非常に濃密でございました。」
「濃密すぎます。」
ソータは水をもう一口飲んだ。
ようやく喉の渇きは収まった。
だが、目はすっかり覚めてしまった。
ルシアはテーブルの上の本を閉じた。
そして、少しだけ恥ずかしそうにソータを見る。
「ソータ。」
「聞いていたなら、他に間違っていたところはある?」
「今から添削するのか?」
「そう。」
「間違えたら直すのでしょう?」
ソータは困った。
だが、その姿勢は悪くない。
「全部は無理だけど。」
「一つだけ言うなら、ミレイユとオルドアイのことを考えようとしてくれてるのは、良いことだと思う。」
「本当?」
「ああ。」
「二人はきっと怒る。」
「でも、君が二人の気持ちを考えようとしてることは、ちゃんと伝えた方がいい。」
「贈り物より?」
「まずは言葉だな。」
「言葉を運ぶ。」
「そう。」
ルシアは真剣に頷いた。
「私は、二人に言葉を運ぶ練習をするわ。」
「それはいいと思う。」
「では、練習していい?」
「今?」
「ええ。」
「夜中だぞ。」
「この城はだいたい夜よ。」
「それを言われると弱いな。」
ルシアは少し姿勢を正した。
チャールズも静かに見守る。
ソータは椅子に座ったまま、少し身構えた。
ルシアは深く息を吸った。
「ミレイユ。」
「私はソータを連れてきたわ。」
「ごめんなさい。」
「でも、ソータを助けたかったのも本当。」
「それから、ソータがかわいくて、きれいで、困る顔が面白くて、帰したくなかったのも本当。」
「途中から絶対怒られる。」
ソータは即座に言った。
「そうなの?」
「正直すぎる。」
「特に、帰したくなかったのも本当、は言い方を考えた方がいい。」
「嘘は駄目でしょう?」
「嘘じゃなくて、順番と言い方だ。」
チャールズが頷いた。
「ソータ様のおっしゃる通りでございます。」
「謝罪においては、事実を述べる順番が重要でございます。」
「順番。」
「また順番。」
「順番は大事だ。」
ソータとチャールズの声が重なった。
ルシアは二人を見比べた。
「二人とも同じことを言ったわ。」
「大事だからな。」
「大事でございます。」
ルシアは少し悔しそうにしながらも、また頷いた。
「では、オルドアイには?」
「もっと慎重に。」
「なぜ?」
「たぶん、勢いで来るから。」
「剣で?」
「可能性はある。」
ルシアは真剣に考え込んだ。
「では、まず羽で防ぐ準備をする?」
「それは火に油を注ぐ。」
「難しいわ。」
「謝る時に防御姿勢から入るのはよくないと思う。」
「でも斬られたら?」
「俺が間に入る。」
ルシアはぱっと顔を上げた。
「本当?」
「ああ。」
「そのためにも、ちゃんと俺が一緒に話す。」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ると、ソータはまた胸の奥が少し重くなる。
約束が増えている。
でも、これは逃げてはいけない約束だ。
◆◇◆
しばらくして、夜更けの質問会はようやく終わった。
チャールズが本を片づけ、スケルトンに茶器を下げさせる。
ソータは水を飲み終え、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、俺は戻るよ。」
「喉も潤ったし、いろいろ削られたし。」
「削られた?」
「比喩だ。」
「また比喩。」
ルシアは楽しそうに笑った。
そして、ふと思い出したように言った。
「ソータ。」
「さっきの質問、本当にごめんなさい。」
その声は、今度はからかいではなかった。
ちゃんと謝っている。
ソータは少しだけ肩の力を抜いた。
「もういいよ。」
「ただ、次からは段階を踏んでくれ。」
「段階。」
「まずチャールズさんに聞く。」
「それから、本人に聞いていい内容か考える。」
「それでも分からなかったら、柔らかく聞く。」
「柔らかく。」
「そう。」
「どうしてソータのあれは、ではなく?」
「二度と言わないでくれ。」
ルシアは口元を押さえた。
笑っている。
「分かったわ。」
「言わない。」
「心の中では思うかもしれないけれど。」
「心の中もできれば別のことを考えてくれ。」
「それは少し難しいわ。」
「正直すぎる。」
チャールズが静かに一礼した。
「ソータ様。」
「本日は大変失礼いたしました。」
「私の教育が行き届かず。」
「いや、チャールズさんはかなり頑張ってると思います。」
「むしろ、よく毎回あれだけ丁寧に答えられますね。」
「ルシア様のご成長に必要でございますので。」
その言葉には、確かな忠誠と愛情のようなものがあった。
骨の執事。
吸血鬼の姫の側近。
けれど、彼はただ仕えているだけではない。
長い夜の中で、ルシアを育て、守り、間違えれば止めようとしてきたのだろう。
ソータはチャールズへ軽く頭を下げた。
「ルシアのこと、ずっと見てきたんですね。」
「はい。」
「それが私の役目でございます。」
「大変ですね。」
「ええ。」
「非常に。」
チャールズが即答したので、ルシアが不満そうに頬を膨らませた。
「チャールズ。」
「失礼いたしました。」
「非常にやりがいのある務めでございます。」
「言い直しても遅いわ。」
ソータは笑った。
その笑い声が、夜更けの食堂に小さく響いた。
吸血鬼の城。
長すぎる夜。
黒い石の食堂。
骨の執事。
おかしな質問をする吸血鬼の姫。
水を飲みに来ただけなのに巻き込まれた運送屋。
普通なら、異様な光景だ。
だが今のソータには、どこか温かい光景にも見えていた。
ルシアはまだ間違える。
明日もきっと変な質問をする。
チャールズはそれに丁寧に答え、時々止める。
ソータは巻き込まれ、困り、笑い、そして考える。
それが、この城に初めて生まれた日常なのかもしれない。
「おやすみ、ルシア。」
「チャールズさんも。」
「おやすみ、ソータ。」
「おやすみなさいませ、ソータ様。」
ソータは食堂を出た。
廊下はまだ夜に沈んでいる。
だが、来た時よりも少しだけ暗さが柔らかく感じられた。
(とんでもない質問だったな。)
(でも、少しずつ進んでる。)
(本当に、少しずつ。)
客室へ戻りながら、ソータは小さく息を吐いた。
明日は城の外への道を聞く。
帰るための道。
また来るための道。
その話を、ルシアとしなければならない。
長い夜は、まだ続いている。
けれど、その夜の中にある笑い声は、もう最初の頃ほど孤独ではなかった。




