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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第125話:吸血鬼姫のおもてなし作戦

 次の長い夜も、城の外は静かだった。

 黒い石造りの窓枠の向こうには、いつものように紫がかった霧が流れている。

 遠くの森は月明かりに沈み、黒薔薇の庭では花弁が夜露を受けて鈍く光っていた。

 この城では、夜が日常だった。

 ソータはそのことに少しずつ慣れてきている自分に気づき、同時に、それが少し怖くもあった。


 客室の机には、昨日書きかけた物資の整理表が置かれている。

 男たちの村の補修材。

 北の砦へ回す食料。

 グランデリアから追加で運ぶべき薬草。

 そして、ルシアの城に必要そうなもの。

 人間の本。

 人間用の食材。

 厚手の遮光布。

 外から来た者が驚かないための案内灯。

 スケルトンたちに着せる、もう少し人間らしい外套。

 書けば書くほど、荷が増える。


(俺は何をしてるんだろうな。)

(帰る準備のはずなのに、次に来る準備まで考えてる。)

(でも、考えないわけにはいかない。)

(ここにも道が必要だ。)

(ルシアをこの城に閉じ込めたままにするんじゃなくて、外とつなぐ道が。)


 ソータは羽ペンを置き、肩を回した。

 体の重さはかなり消えている。

 軽く屈伸しても、もう足に嫌な震えはない。

 まだ大技を使えるほどではないが、普通に歩き、軽い荷を運ぶくらいなら問題なさそうだった。


 その時、扉の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。

 チャールズの杖の音ではない。

 ルシアだ。


「ソータ、起きている?」


「ああ。」

「起きてる。」


 扉が開いた。

 ルシアが顔を出した。

 今日は昨日とは違う衣装だった。

 黒を基調にした短めの上着に、薄紫の布を重ねた動きやすそうな服。

 腰には細い飾り帯が巻かれ、髪は片側だけゆるく編まれている。

 いつもの妖艶さよりも、どこか外へ遊びに行く少女のような軽さがあった。

 だが、薄紫の瞳がこちらを見つめるだけで、やはり普通の少女とは違う気配がある。


「今日は選択制にしたわ。」


「選択制?」


 ソータが聞き返すと、ルシアは胸を張った。


「チャールズに言われたの。」

「相手の意思を尊重するなら、選ばせるのがよいって。」


「なるほど。」


「だから、今日はソータが選んで。」


 ルシアは指を一本ずつ立てた。


「泉。」

「温室。」

「月光の回廊。」

「私の部屋。」

「一緒に湯浴み。」


「最後だけ圧が強いな。」


「そう?」


「あと、選択肢が全部この城の中だ。」


「城の外はまだ少し早いでしょう?」

「それに、ソータはまだ完全ではないもの。」


「まあ、それはそうだけど。」


 ルシアは真剣な顔で言った。


「私は尊重しているわ。」

「だから、選んで。」

「どれがいい?」


 ソータは困った。

 確かに選ばせてはいる。

 だが、選択肢の並べ方にルシアの願望がだいぶ混ざっている。

 特に最後の湯浴みは、選ばせるというより、反応を見るために入れたようにも感じる。


 ルシアはじっと見ている。

 薄紫の瞳が、期待に輝いている。

 ソータが迷うだけで、彼女はその迷いを楽しんでいるようだった。


「じゃあ、温室かな。」

「昨日も見たけど、黒薔薇のことをもう少し知りたい。」


 ルシアは一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。


「温室ね。」

「分かったわ。」

「でも、湯浴みは後で選んでもいいのよ。」


「後で考える。」


「考えるのね。」


「言葉の端を拾うな。」


 ルシアは満足そうに頷いた。


「では、温室へ行きましょう。」


 そう言って、彼女は自然に手を差し出した。

 ソータはその手を見た。

 白く細い指。

 昨日より少しだけ、差し出し方が控えめだった。

 強引に掴むのではなく、待っている。


 ソータは少し息を吐き、その手を取った。

 ルシアの顔がぱっと明るくなる。


(こういうところは、本当に分かりやすいな。)

(でも、これも進歩なんだろうな。)

(待つことを覚え始めてる。)


 ルシアは嬉しそうにソータの手を握り、廊下へ歩き出した。


◆◇◆


 黒薔薇の温室は、昨日よりも香りが濃かった。

 硝子の天井には夜露がつき、その向こうで月がぼんやり歪んでいる。

 鉄の支柱に絡みついた蔓は、ソータたちが入ると、わずかに揺れた。

 まるで来客を見分けているようだった。


 ルシアは温室の中央へ進み、黒薔薇の間でくるりと振り返った。


「今日は、黒薔薇のお茶を作るわ。」


「お茶?」


「ええ。」

「黒薔薇の花弁を少しだけ使うの。」

「チャールズが、人間でも飲めるようにしてくれたわ。」


「毎回チャールズさんの確認が重要だな。」


「チャールズは有能なの。」


「それは分かる。」


 温室の端には、小さな丸いテーブルが用意されていた。

 椅子が二つ。

 白い布。

 銀の茶器。

 その周りだけ、黒薔薇の蔓が不思議と距離を空けている。

 テーブルの上には淡い紫色の茶が入ったポットと、小さな焼き菓子のようなものが置かれていた。


 ソータは椅子に座り、少し驚いた。


「これ、ルシアが用意したのか?」


「ええ。」

「正確には、私が考えて、チャールズが安全にして、スケルトンたちが運んだわ。」


「かなりの共同作業だな。」


「おもてなし作戦よ。」


 ルシアは得意げだった。

 言葉の響きからして、彼女なりに考えた計画らしい。


「作戦って言うと、ちょっと不穏だな。」


「どうして?」

「作戦は大事でしょう?」


「目的による。」


「目的は、ソータを喜ばせること。」


 ルシアはまっすぐ言った。

 ソータは少しだけ黙る。

 昨日、チャールズに止められたはずだ。

 喜ばせること自体は悪くない。

 だが、それによって引き止めようとするなら違う。

 ルシアもその言葉を聞いていた。

 それでも、まだ喜ばせたい気持ちは消えていない。


 いや、消す必要はないのだろう。

 問題は、それを何のために使うかだ。


「喜ばせてくれるのは嬉しいよ。」

「ただ、俺の帰る話をごまかすためじゃないなら。」


 ルシアは少しだけ視線を逸らした。


「少しだけ、ごまかしたい気持ちはあるわ。」


「正直だな。」


「尊重は、嘘をつかないことも含む?」


「たぶん、含む。」


「じゃあ、正直に言うわ。」

「ソータがここにいてくれると嬉しい。」

「だから、喜ばせたい。」

「でも、帰らないでって言い続けたら困らせるでしょう?」

「だから、楽しい時間にするの。」

「それなら、まだよい気がしたの。」


 ルシアはお茶を注ぎながら言った。

 茶器を扱う手つきは少しぎこちない。

 けれど慎重だった。

 こぼさないように、熱すぎないように、ソータの前へそっと置く。


「それでも駄目?」


 ソータは茶を見た。

 薄紫の湯気が立っている。

 黒薔薇の香りは濃すぎず、少し甘い。


「駄目じゃない。」

「ただ、楽しい時間にすることと、帰らない理由にすることは違うと思う。」


「難しいわ。」


「俺も難しい。」


「ソータも?」


「ああ。」

「ここでルシアが一生懸命なのを見ると、帰るって言いづらくなる。」

「でも、言わないといけない。」

「だから、俺も難しい。」


 ルシアは目を瞬かせた。

 そして、少しだけ嬉しそうにした。


「ソータも、言いづらくなるの?」


「そりゃなるよ。」


「それは、私の作戦が少し成功している?」


「そういう言い方をすると台無しだな。」


 ルシアはくすくす笑った。

 ソータもつられて苦笑する。

 その笑いが、温室の中に柔らかく響いた。

 黒薔薇の蔓が少しだけ揺れる。


 ソータはお茶を口にした。

 温かい。

 花の香りと、ほのかな甘さが広がる。

 少しだけ体が軽くなるような感覚があった。


「うまい。」


 ルシアの瞳が輝いた。


「本当?」


「ああ。」

「飲みやすい。」


「よかった。」

「チャールズが、花弁を入れすぎると人間には夢見が強くなりすぎると言っていたの。」


「夢見?」


「変な夢を見るらしいわ。」


「入れすぎなくてよかった。」


「少しなら、良い夢を見るかもしれないわ。」


「それはそれで怖いな。」


 ルシアは楽しそうに笑い、向かいの椅子へ座った。

 彼女は茶を飲まない。

 ただ、ソータが飲むのを見ている。

 以前よりは視線が柔らかい。

 でも、やはり見ている。


「今は、見すぎか?」


 ルシアが自分から聞いた。


「少し。」


「では、少しだけ横を見るわ。」


 そう言って、ルシアはわざとらしく黒薔薇の方へ視線を向けた。

 けれど、すぐにちらりとソータを見る。

 ソータは思わず笑った。


「それは見てる。」


「難しいわ。」


「努力は伝わる。」


「ならよかった。」


 ルシアは満足そうにした。

 その様子を見ていると、ソータの胸の奥も少し和らぐ。

 危険な吸血鬼。

 強引に連れ去った姫。

 そういう事実は消えない。

 だが、目の前の彼女は、いま一生懸命に「相手を見ること」を覚えようとしている。


◆◇◆


 温室を出た後、ルシアは次の作戦へ移った。

 月光の回廊で、ソータを驚かせようとしたのだ。


 回廊の中央に立つと、ルシアは壁の銀模様へ手を触れた。

 すると、彫り込まれた蔓と羽の紋様が淡く光り始めた。

 月明かりを吸い込み、床へ柔らかな線を描く。

 黒い石の上に、銀色の道が浮かび上がった。


「すごいな。」


 ソータは素直に感心した。

 ルシアは嬉しそうに微笑む。


「昔からある仕掛け。」

「月が出ている時だけ光るの。」

「ほら、こっち。」


 彼女は銀色の道の上を歩いた。

 足元が淡く光る。

 ソータも後に続く。

 回廊の奥へ進むほど、壁の模様が複雑になっていった。

 羽。

 薔薇。

 星。

 古い文字。

 吸血鬼族の歴史らしき絵もあった。


 ルシアはその一つ一つをあまり知らないようだった。

 チャールズから聞いたことを話すが、自分の記憶ではない。

 そこが少し寂しい。

 城は彼女のものなのに、彼女自身の思い出は少ない。


「ここも、誰かと歩くのは楽しいわ。」


 ルシアが言った。


「昨日も言ってたな。」


「だって、本当にそうだから。」

「一人で歩くと、綺麗だけど静か。」

「ソータと歩くと、同じ道なのに違う。」


「それは、分かる気がする。」


「ソータにもある?」


「ああ。」

「同じ道でも、誰と歩くかで違う。」

「荷物を運ぶ道でも、急ぎの救援物資を運ぶ時と、誰かに贈り物を届ける時じゃ、同じ道でも気持ちが違う。」


「贈り物。」


 ルシアはその言葉に反応した。


「人間は、贈り物をするのが好き?」


「好きな人は多いな。」

「相手が喜びそうなものを考えて、渡す。」


「それは、喜ばせること?」


「そうだな。」

「でも、相手が本当に欲しいものを考える必要がある。」


「自分があげたいものではなく?」


「それも混ざるけど、相手が困るものを押しつけるのは違うだろ。」


 ルシアは真剣に考え込んだ。


「では、私がソータに黒薔薇を百本あげたら?」


「置く場所に困る。」


「十本なら?」


「少し困る。」


「一本なら?」


「それなら嬉しい。」


「なるほど。」


 ルシアは大きく頷いた。


「数を減らすと尊重に近づくのね。」


「いや、そういう単純な話でもないけど。」


「難しいわ。」


 ソータは苦笑した。

 ルシアは本当に学んでいる。

 ただ、学び方が少しずつずれている。

 でも、そのずれを直そうとしているところが、彼女らしかった。


 回廊の途中で、ルシアはふと立ち止まった。

 窓の外を見る。

 そこには長い夜がある。


「ソータ。」


「何だ?」


「贈り物は、離れている人にも届く?」


「ああ。」

「届くように運べばな。」


「手紙も?」


「もちろん。」


「なら、ミレイユとオルドアイにも、贈り物をしたら少し怒られにくい?」


 ソータは思わず咳き込んだ。


「それは……ものによる。」

「あと、贈り物だけで済む話じゃないと思う。」


「謝る必要がある?」


「あると思う。」


「私は、何を贈ればいい?」


 ルシアの声は真剣だった。

 ふざけているのではない。

 ミレイユとオルドアイの存在を、少しずつ現実の相手として考え始めている。


 ソータは少し考えた。


「ミレイユには、情報が一番大事かもしれない。」

「君が何者で、何をして、何をしなかったのか。」

「正直に話すこと。」


「物ではないの?」


「物も喜ぶかもしれないけど、今は信頼の方が大事だと思う。」


「信頼。」


「オルドアイには……。」

「正直に謝ることかな。」

「彼女はまっすぐだから、誤魔化すと余計に怒る。」


「怖いわ。」


「怖いと思う。」


「ソータは私を守ってくれる?」


「守るというより、一緒に説明する。」


「それは守るのと違うの?」


「君が自分で向き合うことも必要だからな。」


 ルシアは少しだけ唇を尖らせた。


「難しいことばかり。」


「人間関係はだいたい難しい。」


「でも、ソータはやっている。」


「できてるかは怪しいけど、逃げないようにはしてる。」


「逃げない。」


 ルシアはその言葉をまた繰り返した。

 以前よりも、少し深く。


◆◇◆


 その後、ルシアは自分の部屋を見せると言い出した。

 ソータは少し身構えた。

 選択肢の中に入っていた時点で警戒していたが、実際に案内されるとなると、また別の緊張がある。


 ルシアの部屋は、城の高い塔の一角にあった。

 黒い扉には紫の羽の紋章が刻まれている。

 扉が開くと、柔らかな香りが流れ出た。

 黒薔薇よりも淡く、天使の泉よりも甘い。

 部屋の中は広く、天井が高い。

 大きな寝台。

 薄紫の帳。

 丸い窓。

 古い本棚。

 衣装棚。

 そして、床にはふかふかした敷物が敷かれていた。


 思ったよりも、少女らしい部屋だった。

 もっと妖しい空間を想像していたソータは、少し意外に思った。

 棚には古い人形があり、窓辺には黒い小瓶が並んでいる。

 机の上には開きっぱなしの本が置かれ、そこには人間の恋愛や家族について書かれているらしい挿絵が見えた。


「ここが、私の部屋。」


 ルシアは少し照れたように言った。


「客室よりずっと生活感があるな。」


「そう?」

「私はここで本を読んだり、窓から外を見たり、眠ったりするわ。」

「時々、チャールズから勉強もさせられる。」


「勉強?」


「吸血鬼族の歴史。」

「古い魔術。」

「人間社会の常識。」

「でも、人間社会の常識は、チャールズも少し古い気がするわ。」


「それはありそうだな。」


 ソータが言うと、扉の外からチャールズの声が聞こえた。


「心外でございます。」


「聞いてたんですか。」


「執事でございますので。」


「便利すぎる。」


 ルシアはくすくす笑いながら、机の上の本を閉じた。

 それから衣装棚へ歩く。


「ソータ。」

「少し待っていて。」


「何をするんだ?」


「次の作戦。」


「嫌な予感しかしない。」


「大丈夫。」

「尊重するわ。」


 ルシアは衣装棚の陰に入った。

 布の擦れる音がする。

 ソータは慌てて背を向けた。


「ルシア。」

「着替えるなら俺は外に出るぞ。」


「見たい?」


「そういう聞き方をするな。」


「尊重だから聞いたのに。」


「駄目な方向の尊重だ。」


 扉の外で、チャールズが静かに言った。


「ルシア様。」

「その質問は、ソータ様の心臓に負担をかける可能性がございます。」


「心臓。」

「人間は大変ね。」


「大変だからやめてくれ。」


 衣装棚の向こうで、ルシアが楽しそうに笑う。

 しばらくして、彼女は出てきた。


「もういいわ。」


 ソータは振り返った。

 ルシアは、先ほどよりも大人びたドレスに着替えていた。

 黒に近い深紫の布が体に沿い、肩から腕に薄いレースがかかっている。

 胸元は露骨ではない。

 だが、布の流れが彼女の妖艶さを自然に引き立てていた。

 薄紫の髪は少しほどかれ、片側だけ耳にかかっている。

 無邪気な笑顔なのに、立ち姿はひどく艶やかだった。


 ソータは一瞬、言葉を失った。


 ルシアはその反応を見て、目を輝かせた。


「今、止まった。」


「止まってない。」


「止まったわ。」

「ソータの目が、こうなった。」


 ルシアは自分の目を丸くして真似た。

 まったく似ていない。

 だが、楽しそうだった。


「これは、かわいい?」

「それとも、きれい?」


 ソータは視線を逸らしかけ、なんとか踏みとどまった。

 ここで逃げると、余計にからかわれる。

 それに、彼女は本気で聞いている部分もある。


「きれいだと思う。」


 ルシアの表情が柔らかくなる。


「本当?」


「ああ。」


「じゃあ、これは成功。」


「何の作戦なんだ。」


「ソータが、私をどう見るか知る作戦。」


「危険な作戦だな。」


「でも、尊重して聞いたわ。」


「聞けば何でもいいわけじゃない。」


「難しいわ。」


 ルシアはそう言いながらも、嬉しそうだった。

 自分がソータの視線を揺らしたことを、少し分かっている。

 昨日までの完全な無自覚とは違う。

 妖艶さを覚え始めている。

 それが、ソータにはかなり危なかった。


(まずい。)

(無邪気だけでも大変だったのに、少しずつ自覚し始めてる。)

(いや、冷静になれ。)

(相手はまだ人との距離を学んでる途中だ。)

(俺が流されるわけにはいかない。)


 ルシアは少し近づいた。

 そして、ソータの前で首を傾げる。


「ソータは、私がきれいだと嬉しい?」


「質問の意味が難しいな。」


「私は、ソータが私をきれいだと言うと嬉しい。」

「だから、ソータも、私がきれいだと嬉しいのかと思った。」


「嬉しいというか、困るというか。」


「また困る。」


「悪い意味じゃない。」


「困るのに?」


「綺麗だから困ることもある。」


 ルシアは目を瞬かせた。

 そして、少し頬を染めたように見えた。

 吸血鬼が本当に赤くなるのかは分からない。

 だが、表情は確かに照れていた。


「それは、とても良い言葉ね。」


「今のは忘れてくれ。」


「覚えておくわ。」


「だよな。」


 チャールズが扉の外で静かに咳払いをした。


「ルシア様。」

「そろそろソータ様の休憩時間でございます。」


「もう?」


「はい。」

「おもてなし作戦は、相手を疲れさせない範囲で行うのが肝要でございます。」


「そうだったわ。」

「喜ばせすぎても疲れるのね。」


「場合によります。」


 ソータは心の中でチャールズに感謝した。

 骨の執事は本当に有能だった。

 時々逃げるが、有能であることは間違いない。


◆◇◆


 休憩のはずだった。

 だが、客室に戻る途中で、ルシアはまた別の選択肢を出した。


「ソータ。」

「休む前に、湯浴みは?」


「結局そこに戻るのか。」


「体をほぐすのは大事でしょう?」

「昨日も良かったと言っていたわ。」


「言ったけど。」


「今日は、私が近づきすぎないようにする。」

「質問も少なくする。」

「見るのも少しだけにする。」


「少しだけ見る前提なのか。」


「目を閉じたら危ないもの。」


「それはそうだけど。」


 ソータは悩んだ。

 体を温めるのは、確かに回復にいい。

 湯に入ると筋肉のこわばりが取れる。

 明日以降、帰る準備を本格的にするなら、体調を整えておきたい。

 ただし、ルシアと一緒という条件が非常に大きい。


 ルシアはじっと待っていた。

 以前なら、もう腕を引っ張って浴場へ向かっていただろう。

 今は待っている。

 選ばせている。

 その進歩を無視するのも違う気がした。


「分かった。」

「ただし、本当にほどほどに。」


 ルシアの顔が明るくなった。


「ほどほどの湯浴みね。」


「その言い方、絶対分かってないだろ。」


「分かっているわ。」

「たぶん。」


「不安だ。」


 浴場には、昨日とは違う香りが漂っていた。

 少し甘く、少し涼しい。

 石造りの床には滑らないように布が敷かれ、湯の縁には天使の泉の水が入った杯も置かれていた。

 準備が良すぎる。


「これも作戦か。」


「ええ。」

「体を温めて、喉が渇いたら水を飲める。」

「チャールズが考えたの。」


「チャールズさんは本当に抜け目ないな。」


「私は、水を置いたらソータが喜ぶと思っただけ。」


「それも助かるよ。」


 ルシアは嬉しそうに笑った。


 湯気の中、ソータは湯に入った。

 温かさが体に染みる。

 昨日よりも、体がよく動く。

 湯の中で肩を回すと、こわばりがほどけていくのが分かった。


 ルシアは少し離れた位置に入っていた。

 湯気の向こうで、薄紫の髪が濡れている。

 今日は本当に近づきすぎないようにしているらしい。

 時々こちらを見て、すぐに目を逸らす。

 その様子が逆に落ち着かない。


「そんなに意識されると、こっちも気になる。」


「見すぎないようにしているの。」


「努力は分かる。」


「でも、見たい。」


「正直だな。」


「尊重は嘘をつかないことも含むのでしょう?」


「便利に使うな。」


 ルシアはくすくす笑った。

 湯気の向こうで、その笑顔だけが見える。

 無邪気で、妖艶で、少しずつ人との距離を学び始めている顔だった。


 しばらく二人は黙って湯に浸かった。

 ソータは目を閉じ、体の状態を確かめる。

 足の重さは少ない。

 腕も動く。

 呼吸も深い。

 体力は戻ってきている。

 明日には、城の外の方角を詳しく聞けるかもしれない。


 その時、ルシアがぽつりと呟いた。


「元気になっているわね。」


「ああ。」

「かなり戻ってきた。」


「嬉しい。」


 少し間が空いた。


「でも、少し嫌。」


 ソータは目を開けた。

 湯気の向こうで、ルシアが自分の指先を見つめている。


「変な気持ちね。」

「ソータが元気になるのは嬉しいの。」

「倒れない方がいい。」

「苦しくない方がいい。」

「笑ってくれる方がいい。」

「でも、元気になったら帰ってしまう。」

「だから、少し嫌。」


 声は静かだった。

 わがままなのに、責めるような響きではなかった。

 ただ、自分の中に生まれた矛盾を、そのまま見つめている声だった。


 ソータは湯の中で息を吐いた。


「変じゃないと思う。」


「そう?」


「ああ。」

「誰かが元気になるのは嬉しい。」

「でも、それで離れるなら寂しい。」

「そういうのは、たぶん普通だ。」


「普通。」


 ルシアはその言葉を大事そうに繰り返した。


「私の気持ちも、人間の普通に近い?」


「近いと思う。」


「なら、少し嬉しい。」


 ルシアは微笑んだ。

 その表情が、いつもより柔らかかった。


「でも、帰ることは変わらないのね。」


「ああ。」


 ソータは逃げずに答えた。


「変わらない。」

「俺は戻るって言った。」

「ミレイユにも、オルドアイにも。」

「男たちの村にも、北の砦にも、やることがある。」


「私には?」


「君にも、やることができたと思ってる。」


「私に?」


「この城をどう外とつなぐか。」

「君がどう外へ出るか。」

「ミレイユやオルドアイにどう話すか。」

「そういうことを一緒に考えたい。」


 ルシアはじっとソータを見た。

 湯気で表情が少しぼやける。

 だが、瞳の揺れは分かった。


「それは、また来るということ?」


「そのために考えてる。」


「約束?」


 ソータはすぐには答えなかった。

 軽く言えば、ルシアはきっと喜ぶ。

 だが、約束は荷物より重い。

 運ぶと決めたなら、途中で落とせない。


「今すぐ全部は約束できない。」

「でも、来る道を作ることは約束する。」


 ルシアは少し考えた。

 そして、ゆっくり頷いた。


「道を作る約束。」


「ああ。」


「それなら、受け取るわ。」


 ルシアは胸に手を当てた。

 大切なものをしまうような仕草だった。


◆◇◆


 湯浴みの後、ソータは客室の寝台に腰かけた。

 体は軽い。

 血の巡りが良くなり、頭もはっきりしている。

 回復しているという実感が、はっきりあった。


 ルシアは椅子に座り、黒薔薇を一本持っていた。

 湯上がりの髪は乾ききっておらず、薄紫の房が頬にかかっている。

 先ほどの大人びた衣装ではなく、柔らかい夜着に戻っていた。

 そのせいか、少し幼く見える。

 だが、瞳の奥には昨日までよりも深い色があった。


「ソータ。」


「何だ?」


「私、今日も尊重できた?」


 ソータは少し笑った。


「昨日よりは。」


「少し?」


「かなり。」


 ルシアは嬉しそうにした。


「なら、明日はもっとできるわ。」


「張り切りすぎるなよ。」


「張り切りすぎないように張り切る。」


「難しい言い方になってる。」


 ルシアは黒薔薇を見つめた。

 そして、花弁を指先でそっと撫でる。


「でも、ソータ。」

「私はやっぱり、ソータを喜ばせたいわ。」


「うん。」


「それは、やめなくていいのね。」


「やめなくていい。」

「ただ、自分のためだけにしないこと。」

「俺が困ってる時は止まること。」

「帰る話をごまかさないこと。」

「それなら、嬉しい。」


 ルシアは真剣に頷いた。


「難しいけれど、覚えるわ。」


「一度で全部できなくてもいい。」


「間違えたら?」


「直せばいい。」


 ルシアは少し安心したように息を吐いた。

 その横顔を見て、ソータはふと思った。

 彼女はずっと、間違えた時に直す相手がいなかったのかもしれない。

 チャールズはいた。

 だが、チャールズは保護者であり、執事であり、骨の側近だ。

 対等に怒り、拗ね、笑い、許し合う相手ではなかった。

 だからルシアは、人との距離を知らないままここまで来た。


 ソータは机の上の整理表を見た。

 そこには、いつの間にか一行が増えていた。


 黒薔薇の温室用の手袋。


 自分で書いたはずなのに、少し笑ってしまう。

 この城にも、必要なものはたくさんある。

 物だけではない。

 言葉。

 約束。

 謝罪。

 説明。

 そして、外へ向かう勇気。


 ルシアはふと顔を上げた。


「明日は、何をする?」


「明日は少し、城の外への道を聞きたい。」


 ルシアの指が止まった。

 黒薔薇の花弁が、わずかに揺れる。


「外。」


「ああ。」

「すぐに出るとは言ってない。」

「でも、方角は知っておきたい。」

「男たちの村に一番近いなら、そこへ向かう道も確認したい。」


 ルシアはしばらく黙った。

 その沈黙は重かった。

 だが、前のようにすぐ嫌だとは言わなかった。


「分かったわ。」


 ソータは少し驚いた。


「いいのか?」


「嫌よ。」


「正直だな。」


「でも、分かったわ。」

「ソータが帰る道を知らないままここにいるのは、尊重ではないのでしょう?」


 ソータは静かに頷いた。


「ああ。」


「じゃあ、教える。」

「でも、今日はまだここにいて。」


「今日はいるよ。」


 ルシアはほっとしたように笑った。

 ほんの少しだけ、泣きそうにも見えた。

 ソータはその表情から目を逸らさなかった。


「ルシア。」


「なに?」


「ありがとう。」


 ルシアは目を丸くした。


「何が?」


「教えようとしてくれること。」

「嫌なのに。」


 ルシアは黒薔薇を胸に抱いた。


「嫌だけど、ソータがありがとうと言うなら、少し嬉しい。」

「本当に変な気持ちね。」


「たぶん、それも普通だ。」


「そう。」


 ルシアは小さく笑った。


「普通が増えていくわ。」


 その夜、ルシアはいつもの大きな薄紫の枕を持ってきた。

 だが、寝台へ当然のように乗るのではなく、昨日と同じようにソータを見た。


「ここにいてもいい?」


「ああ。」

「話すだけなら。」


「話すだけ。」

「今日は、外の話はしないわ。」

「明日するから。」


「分かった。」


「今日は、贈り物の話をして。」

「人間は、何をもらうと嬉しいの?」


 ソータは少し考えた。


「人によるな。」

「ミレイユなら、実用的なものとか、質のいいもの。」

「オルドアイなら、戦いで使えるものか、身につけられる証みたいなものかもしれない。」


「証。」


「そう。」

「誰かとのつながりを感じられるもの。」


 ルシアは左手で黒薔薇を撫でた。


「私は、何が嬉しいかしら。」


「本じゃないか?」

「人間の家族の本とか。」


「それも嬉しい。」

「でも、今は道の約束も嬉しい。」


 ソータは頷いた。


「そっか。」


「ソータが運ぶものは、荷物だけじゃないのね。」


「最近、よくそう言われる。」


「私も言うわ。」

「ソータは、道を運ぶ人。」


 ルシアは満足そうに言った。

 それは少し不思議な言い方だったが、ソータには妙にしっくり来た。


 長い夜はまだ続いている。

 だが、明日は城の外への道を聞く。

 それは帰るための道であり、また来るための道でもある。


 ルシアはそれを理解し始めている。

 完全には納得していない。

 寂しさも、独占したい気持ちも消えていない。

 それでも、彼女は道を教えると言った。


(進んでる。)

(本当に、少しずつ。)

(なら、俺もちゃんと進まないと。)


 窓の外で、霧が流れていた。

 黒薔薇の庭の向こうに、まだ見えない道がある。

 その道の先には、男たちの村があり、北の砦があり、グランデリアがある。

 そして、そこからまた、この城へ戻る道も作れるかもしれない。


 ソータは静かに息を吐いた。

 今夜の荷は、まだ積み終わっていない。

 けれど、崩れないように積む順番は、少しずつ見えてきていた。


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