表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
124/149

第124話:喜ばせたい姫と止める執事

 ルシアは、朝から妙に張り切っていた。

 もっとも、この城で朝という言葉が正しいのか、ソータにはまだよく分からない。

 窓の外は相変わらず暗く、遠くの森には紫がかった霧が漂っている。

 空には月があり、黒い塔の影が中庭へ長く伸びていた。

 ただ、城の奥で灯る燭火の色が少し薄くなり、黒薔薇の香りが夜の終わりに向かうように弱まっている。

 ルシアにとっては、それが一日の区切りらしかった。


 ソータは客室の椅子に座り、チャールズが用意してくれた薄い粥を食べていた。

 人間用に作られたものだ。

 味は淡いが、温かい。

 胃に優しく、体に染みる。

 吸血鬼の城で出される食事としては、驚くほどまともだった。


 ルシアは向かい側の椅子に座り、じっとソータを見ていた。

 肘をつき、両手で頬を支え、薄紫の瞳を好奇心で輝かせている。

 その姿は、妖艶な吸血鬼の姫というより、珍しいものを眺める子供に近い。

 ただし、彼女の黒紫のドレスは肩の線をきれいに見せる形で、柔らかい布が胸元から腰へ流れるように落ちている。

 無邪気な視線と、大人びた姿の差が、ソータの落ち着きを微妙に削っていた。


「おいしい?」


 ルシアが聞いた。


「ああ。」

「温かいし、食べやすい。」


「よかった。」


 ルシアはぱっと笑った。


「チャールズ。」

「ソータが、おいしいって。」


 部屋の隅で控えていたチャールズが、静かに一礼した。


「光栄でございます、ソータ様。」


「いや、普通に助かってます。」

「ありがとうございます。」


「お体の回復には、胃に負担の少ないものがよろしいかと判断いたしました。」

「昨夜より食欲も戻られているようで、安心いたしました。」


「そこまで見てるんですね。」


「執事でございますので。」


 チャールズは当然のように言った。

 骨の顔に表情はない。

 だが、その佇まいには確かな誇りがあった。


 ルシアはソータの匙の動きを目で追っている。

 ソータが粥を口に運ぶ。

 飲み込む。

 少し息を吐く。

 それだけで、彼女は嬉しそうにする。


「ルシア。」

「そんなに見られると食べづらい。」


「少しだけ見るって昨日言ったわ。」


「かなり見てる。」


「これでも減らしているの。」

「本当はもっと見たい。」


「減らしてこれか。」


「進歩よ。」


 ルシアは胸を張った。

 チャールズが横から静かに補足する。


「ルシア様基準では、大きな進歩でございます。」


「チャールズまで。」


「事実でございます。」


 ソータは苦笑しながら、残りの粥を食べた。

 温かいものを腹に入れると、体の奥から少しずつ力が戻ってくる気がする。

 《車体爆裂突進》の反動で削られた体力は、かなり回復してきている。

 まだ全快ではないが、歩き回るだけなら問題はない。

 少し荷を持つこともできそうだった。


(体は戻ってきてる。)

(あと少しで、ちゃんと帰る話をしないといけない。)

(ルシアにどう伝えるかだな。)


 そう考えた瞬間、ルシアが身を乗り出した。


「食べ終わった?」


「ああ。」


「じゃあ、次は泉の水。」


「泉の水?」


「天使の泉の水を冷やしておいたの。」

「昨日、ソータが温かいものを飲んだから、今日は冷たいものも嬉しいかなと思って。」


 ルシアはそう言って、すぐに立ち上がった。

 扉の向こうで待っていたスケルトンが銀の盆を持って入ってくる。

 盆の上には、透明な硝子の杯が置かれていた。

 中には薄く青白く光る水が入っている。

 氷はない。

 だが、杯の表面には細かな露がついていた。


「これ、冷えてるのか。」


「地下の石室に置いたの。」

「黒薔薇の蜜も少しだけ入れたわ。」

「甘いものは人間が喜ぶと本に書いてあったから。」


「黒薔薇の蜜って、飲んで大丈夫なやつか?」


「たぶん。」


「またたぶんか。」


 チャールズが一歩前に出た。


「ご安心ください。」

「人間の方が摂取しても問題のない濃度に調整済みでございます。」


「チャールズさんが言うなら安心です。」


「恐れ入ります。」


 ソータは杯を受け取った。

 水はひんやりとしていた。

 口に含むと、清らかな冷たさが喉を通り、遅れて花のような甘さが広がる。

 薬のような重さはない。

 妙に澄んでいて、体の中の熱を静かに整えてくれる。


「うまい。」


 ソータが言うと、ルシアの顔が一気に明るくなった。


「本当?」


「ああ。」

「これは本当にうまい。」


「よかった。」

「じゃあ、次から毎日出すわ。」


「いや、毎日じゃなくても。」


「二日に一回?」


「そういう問題じゃなくて。」


「三日に一回?」


 ルシアは真剣に考えている。

 ソータは少し笑った。


「ありがたいけど、無理しなくていいってことだ。」


「無理ではないわ。」

「ソータが喜ぶなら、泉まで行くのは楽しいもの。」


 その言葉に、ソータは少し黙った。

 昨日から、ルシアは何度もそれを言う。

 ソータが喜ぶなら。

 ソータが笑うなら。

 ソータが嬉しいなら。

 その響きは優しい。

 けれど、どこか危うい。


 チャールズも同じことを感じているのか、眼窩の青い火をわずかに揺らした。


「ルシア様。」

「泉へ行かれる際は、日差しの時間を避けるようお願いいたします。」


「分かっているわ。」

「私はかなり進んだルシアだから。」


「ご立派でございます。」


 ルシアは満足そうに頷いた。

 そして、すぐに次のことを思いついたように手を叩く。


「それから、今日は私が綺麗な服を着たの。」


「え?」


「気づいていた?」


 ルシアはその場でくるりと回った。

 黒紫のドレスの裾がふわりと広がる。

 薄紫の髪が肩の上で揺れ、燭火を受けて淡く光った。

 いつもの無邪気な笑顔のままなのに、動きの一つ一つが妙に目を引く。

 ソータは思わず視線をそらしかけ、慌てて戻した。


「気づいてたよ。」


「似合う?」


「ああ。」

「似合う。」


「かわいい?」


「かわいい。」


「きれい?」


「……きれい。」


 ルシアは胸の前で両手を合わせた。


「やっぱり、きれいも嬉しいわ。」


 ソータは額を押さえた。


(この質問、だんだん強くなってないか。)

(最初はかわいいだけだったのに。)

(きれいを覚えた。)

(しかも、自分がどう見えるか少しずつ分かってきてる気がする。)


 ルシアはソータの反応をじっと見ていた。

 そして、にこりと笑う。


「ソータが困った顔をした。」


「困らせたいのか?」


「困った顔も、少し楽しい。」


「それは進歩なのか?」


 チャールズが静かに咳払いのような音を立てた。


「ルシア様。」

「相手を困らせることを目的にされるのは、あまり推奨いたしかねます。」


「少しだけなら?」


「程度の問題ではございません。」


「難しいわ。」


 ルシアは本気で悩んでいるようだった。


◆◇◆


 食事の後、ルシアはソータを広間へ連れて行った。

 そこには、なぜかスケルトンたちが整列していた。

 全員が黒い布を肩にかけ、手には楽器らしきものを持っている。

 古い弦楽器。

 小さな太鼓。

 細長い笛。

 見た目だけなら、楽団のようだった。


 ただし、演奏者が全員骨なので、雰囲気はかなり不気味だった。


「これは?」


 ソータが聞くと、ルシアは得意そうに答えた。


「人間の宴。」


「宴?」


「本に書いてあったの。」

「人間は嬉しい時に音楽を鳴らして、食べて、笑って、踊るのでしょう?」

「だから、ソータが元気になったお祝いをするわ。」


「いや、気持ちは嬉しいけど。」


 ソータは広間を見渡した。

 長いテーブルには、果物らしいものが置かれている。

 黒薔薇が飾られ、紫の燭火が灯されていた。

 中央には、踊るためらしい空間もある。

 準備はかなり丁寧だ。

 だが、どこか違う。

 人間の宴を、見たことのない者が本だけで再現したような違和感がある。


 チャールズが隣に立ち、静かに説明した。


「ルシア様が朝からご準備なさいました。」

「私としては、少々段階が早いのではと申し上げたのですが。」


「早いというか、すごいというか。」


「ソータが喜ぶと思ったの。」


 ルシアは真剣だった。

 ソータはその言葉に、胸の奥が少し温かくなる。

 不気味だ。

 不器用だ。

 かなりズレている。

 でも、彼女なりに一生懸命なのは伝わった。


「ありがとう、ルシア。」

「嬉しいよ。」


 ルシアの瞳が輝いた。


「本当?」


「本当。」


「じゃあ、音楽を始めるわ。」


 ルシアが手を上げる。

 スケルトンたちが一斉に楽器を構えた。

 次の瞬間、広間に音が響いた。


 ぎい、と弦が鳴る。

 ぼん、と太鼓がずれる。

 笛は少し遅れて、妙に高い音を出した。

 旋律はある。

 たぶんある。

 だが、全員が少しずつ違う方向を向いている。

 明るい宴の音楽というより、古い城で夜中に聞こえてはいけない怪談の伴奏に近い。


 ソータは固まった。

 ルシアは期待に満ちた顔で見上げてくる。


「どう?」


「個性的だな。」


「個性的…」


 ルシアはチャールズを見た。


「褒め言葉?」


 チャールズは一瞬だけ沈黙した。


「状況によりけりでございます。」


「ソータは褒めたの?」


 ルシアがソータを見る。

 ソータは笑いを堪えきれなかった。

 吹き出す。

 それをきっかけに、広間の空気が少し柔らかくなった。


「ごめん。」

「いや、でも、楽しい。」

「怖いけど楽しい。」


「怖いのに楽しいの?」


「ああ。」

「たぶん、ルシアが一生懸命だから。」


 ルシアは目を丸くした。

 それから、ゆっくり笑った。


「一生懸命だと、怖くても楽しいのね。」


「場合によるけどな。」


 音楽はまだ続いている。

 ずれている。

 不気味だ。

 それでも、ルシアは嬉しそうだった。

 ソータが笑ったからだ。


 彼女はソータの前に立ち、手を差し出した。


「踊る?」


「踊りは得意じゃない。」


「私も本で読んだだけ。」


「それは危険だな。」


「一緒に失敗すれば楽しいかもしれないわ。」


 ルシアがそう言うので、ソータは断りきれなかった。

 彼女の手を取る。

 手は少し冷たい。

 だが、不思議と嫌な冷たさではない。

 長い夜に触れているような冷たさだった。


 ルシアはソータの手を握り、見よう見まねで一歩踏み出した。

 すぐに足が合わない。

 ソータも踊り方など知らない。

 二人はぎこちなく回り、何度も止まり、時々笑った。


 ルシアは楽しそうだった。

 心から楽しそうだった。

 その笑顔を見ると、ソータもつられて笑ってしまう。

 こんな状況で笑っていいのかと、どこかで思う。

 ミレイユやオルドアイは心配している。

 自分は帰らなければならない。

 ルシアは自分を連れてきた張本人だ。


 それでも、目の前の彼女が初めて人間の宴を真似て、失敗しながら笑っている姿を、ただ切り捨てることはできなかった。


(危ないな。)

(情が移る。)

(でも、もう移ってるのかもしれない。)

(だからこそ、ちゃんとしないと。)


 踊りが終わると、ルシアは息も切らさずに笑った。

 吸血鬼だからか、運動で疲れた様子はほとんどない。

 ソータの方は少し息が上がっていた。

 ただ、それは悪くない疲れだった。


「ソータが笑った。」

「たくさん笑った。」


「笑ったな。」


「じゃあ、成功ね。」


「成功だと思う。」


 ルシアは胸の前で手を握った。

 その表情は本当に幸せそうだった。


 チャールズは広間の隅でそれを見ていた。

 静かに、だが少し心配そうに。


◆◇◆


 宴のあと、ルシアはチャールズを連れて温室へ向かった。

 ソータは少し休むために客室へ戻された。

 ルシアは最初、不満そうだったが、チャールズに「ソータ様には休息も必要でございます」と言われると、しぶしぶ納得した。

 そして今、黒薔薇の温室で、ルシアは花の間を歩きながら考えていた。


 黒薔薇の香りは甘い。

 紫の灯が花弁を照らし、硝子の天井の向こうでは長い夜が続いている。

 蔓がゆっくり揺れ、ルシアの足元に寄ってくる。

 ルシアはそれを指先で撫でた。


「チャールズ。」


「はい、ルシア様。」


「今日の私は、かなり良かったと思うの。」


「ソータ様は大変お喜びでございました。」


「でしょう?」


 ルシアは嬉しそうに振り返った。


「泉の水も飲んだ。」

「私の服も褒めた。」

「音楽で笑った。」

「一緒に踊った。」

「とても良い日だったわ。」


「左様でございます。」


「だから、思ったの。」


 ルシアは黒薔薇の一輪を見つめた。

 その瞳は真剣だった。


「私、ソータを喜ばせることだけ考えていればいい気がするわ。」

「そうすれば、ソータはここにいたくなるでしょう?」


 チャールズの動きが止まった。

 眼窩の青い火が、静かに揺れる。

 彼はすぐには答えなかった。

 ルシアは不思議そうに首を傾げる。


「違うの?」


「ルシア様。」


 チャールズの声は、いつもより少し低かった。


「男と女は、互いに尊重しあわなければ長く一緒にはいられません。」


 ルシアは瞬きをした。


「尊重。」


「はい。」


「私はソータを喜ばせたいのよ。」

「それは尊重ではないの?」


「喜ばせたいと思うお気持ちは、大切なものでございます。」

「そのこと自体は、決して悪いことではございません。」


「なら、いいでしょう?」


「ですが、ソータ様を喜ばせることで、ソータ様ご自身の望みを変えようとなさるなら、それは少し違います。」


 ルシアは眉を寄せた。


「ソータの望み。」


「ソータ様は帰りたいとお考えです。」

「ミレイユ様とオルドアイ様に戻ると約束されています。」

「男たちの村にも、北の砦にも、グランデリアにも、果たすべき役割がおありです。」


「分かっているわ。」

「でも、ここも楽しいと思えば、帰るのが少し遅くなるかもしれないでしょう。」


「そこが問題なのでございます。」


 チャールズは静かに言った。


「ルシア様がソータ様に喜んでいただきたいと願うこと。」

「それは良いことです。」

「しかし、ソータ様が大事にしているものを見ないまま、ここにいたくなるよう仕向けるのであれば、それは尊重とは申せません。」


「仕向ける。」


 ルシアはその言葉を嫌そうに繰り返した。


「私は、悪いことをしているの?」


「悪いと断じるのは簡単でございます。」

「ですが、私はルシア様を責めたいわけではございません。」

「ただ、知っていただきたいのです。」


「何を?」


「一緒にいたいという願いは、相手を閉じ込める理由にはならないということを。」


 温室の空気が静かになった。

 黒薔薇の蔓が揺れる音だけがする。

 ルシアは俯いた。

 薄紫の髪が頬にかかる。


「閉じ込めているつもりはないわ。」


「承知しております。」

「ルシア様は、ソータ様に喜んでいただこうとされています。」

「それは以前よりも大きな進歩でございます。」


「進歩。」


「はい。」

「けれど、その先がございます。」


「その先?」


「ソータ様が帰りたいと願うなら、その願いも大切にすることです。」

「たとえ、それがルシア様にとって寂しいことであっても。」


 ルシアは胸に手を当てた。

 そこが痛む。

 最近、よく痛む。

 ソータが眠っている時。

 ソータがミレイユとオルドアイの話をする時。

 ソータの体力が戻ってきた時。

 嬉しいはずなのに、痛む。


「チャールズ。」


「はい。」


「ミレイユも、こういう気持ちなの?」


 チャールズは静かにルシアを見た。


「おそらくは。」


「オルドアイも?」


「おそらくは。」


「私と同じ?」


「同じ部分もあり、違う部分もあるでしょう。」

「ですが、ソータ様に会いたいと願い、心配し、戻ってきてほしいと望んでいることは間違いないかと存じます。」


 ルシアは黙った。

 胸の中の痛みが、少し違う形になる。

 自分だけが寂しいのだと思っていた。

 この城でソータを見ている自分だけが、ソータがいなくなることを怖がっているのだと思っていた。

 けれど、違うのかもしれない。


 ミレイユも待っている。

 オルドアイも待っている。

 自分と同じように。

 いや、自分よりずっと前から。


「でも。」


 ルシアは小さく言った。


「私は、ソータが来るまで誰もいなかったわ。」

「ミレイユには商会がある。」

「オルドアイには砦がある。」

「たくさん人がいるでしょう。」

「私は、チャールズとスケルトンたちだけ。」


「はい。」


「だから、少しだけ私の方が寂しいかもしれない。」


「そうかもしれません。」


 チャールズは否定しなかった。

 ルシアは驚いたように顔を上げる。


「否定しないの?」


「ルシア様の寂しさは、ルシア様のものでございます。」

「それを否定することは、私にはできません。」


「じゃあ、私は我慢しなくてもいい?」


「寂しいと思うことは、我慢なさらずともよろしいかと。」

「ただし、その寂しさを理由に、ソータ様の道を閉ざしてはなりません。」


 ルシアはまた黙った。

 難しい。

 あまりにも難しい。

 寂しいと思っていい。

 でも、その寂しさでソータを閉じ込めてはいけない。

 喜ばせたいと思っていい。

 でも、それで帰る気持ちを鈍らせようとしてはいけない。


「男と女は難しいわ。」


「はい。」

「大変難しゅうございます。」


「チャールズは経験があるの?」


「私は骨でございますので。」


「答えになっていないわ。」


「知識としては多少ございます。」


 ルシアは少しだけ笑った。

 けれど、その笑いはすぐに消える。


「でも、もう少しだけなら、いいわよね。」


 チャールズは何も言わなかった。

 ルシアは黒薔薇に触れながら、もう一度小さく呟いた。


「もう少しだけ、ソータを喜ばせたいの。」


 その声には、わがままと優しさと寂しさが混ざっていた。

 チャールズは静かに一礼した。


「そのお気持ちが、ソータ様を縛るためではなく、ソータ様と向き合うためのものになりますように。」


 ルシアは答えなかった。

 ただ、黒薔薇の花弁を撫でていた。


◆◇◆


 その後、ルシアは客室へ戻った。

 ソータは椅子に座って、手紙の下書きのようなものを書いていた。

 誰に宛てたものかは分からない。

 紙の上には、物資の名前や道順らしき言葉が並んでいる。

 彼は休んでいる時でさえ、何かを整理している。


 ルシアは扉の前で少し立ち止まった。

 ソータは顔を上げる。


「どうした?」


「何を書いているの?」


「戻った後のこと。」

「男たちの村の補修に何が必要かとか、北の砦にどれを回すかとか。」

「グランデリアから持ってくるものも考えてた。」


「帰った後のこと。」


「ああ。」


 ルシアの胸が少し痛んだ。

 だが、さっきよりは痛みの形が分かる。

 これは、ソータが自分の外側にも道を持っている証だ。


「ソータは、本当に運ぶことばかり考えているのね。」


「そうかもな。」


「私のことは?」


 口にしてから、ルシアは自分でも驚いた。

 思ったより寂しそうな声になった。

 ソータも少し目を丸くする。


「考えてるよ。」


「本当?」


「ああ。」

「この城に何が必要かも考えてる。」

「人間の本とか、料理の材料とか、昼でも使える厚いカーテンとか。」

「あと、外から来る人が驚かないようにする準備とか。」


 ルシアは瞬きをした。


「私の城のことも?」


「君と関わるなら必要だろ。」


「関わる。」


 ルシアはその言葉を噛みしめるように繰り返した。

 ソータは紙を見ながら続ける。


「ただ、いきなり人間の街とつなぐのは難しい。」

「まずは男たちの村か北の砦。」

「そこから少しずつだな。」

「君が外に出るなら、日差し対策も必要だし。」


 ルシアはゆっくり近づいた。

 そして、ソータの隣に座る。

 近い。

 近いが、今日は袖を掴まない。

 ただ、紙の上を覗き込む。


「ソータ。」


「何だ?」


「私、今日は少しだけ分かったわ。」


「何が?」


「喜ばせるだけでは駄目。」

「尊重しないといけない。」


 ソータは少し驚いたようにルシアを見た。


「チャールズさんに言われたのか?」


「ええ。」

「男と女は、互いに尊重しあわなければ長く一緒にはいられません、って。」


「チャールズさんらしいな。」


「難しいわ。」


「難しいな。」


 ソータは素直に頷いた。

 ルシアは少し安心した顔をする。


「ソータにも難しいの?」


「ああ。」

「俺も、ずっと上手くできてるわけじゃない。」

「むしろ、失敗しながら覚えてる。」


「ミレイユと?」

「オルドアイと?」


「そうだな。」

「二人にも、たくさん心配をかけてる。」


 ルシアは胸に手を当てた。


「二人も、私みたいにソータに会いたい?」


 ソータは少し黙った。

 軽く答える話ではなかった。

 だが、誤魔化すことでもない。


「たぶん、会いたいと思ってくれてる。」

「心配もしてると思う。」

「怒ってもいるだろうな。」


「私のせい?」


「君のせいだけじゃない。」

「俺が無理をしたこともある。」

「でも、君が俺を連れてきたことも関係してる。」


 ルシアは目を伏せた。


「そう。」


「責めたいわけじゃない。」

「でも、なかったことにはできない。」


「なかったことにしない。」


「ああ。」


 ルシアは小さく頷いた。

 その言葉は、ソータ自身にも刺さった。

 ミレイユに対しても、オルドアイに対しても、ルシアに対しても。

 なかったことにはしない。

 それが、自分が選ばなければならない道なのだ。


 少し沈黙が流れた。

 長い夜の城にしては、珍しく穏やかな沈黙だった。


 ルシアはやがて顔を上げる。


「でも、今日はもう一つだけ、ソータを喜ばせたい。」


「まだ何かあるのか?」


「あるわ。」


 嫌な予感と、少しの期待が同時に来た。

 ソータは慎重に聞く。


「何をするつもりだ?」


「湯浴み。」


 ソータは紙に落としかけた羽ペンを止めた。


「……湯浴み?」


「ええ。」

「前に一緒に入った時、ソータはとても慌てていたけれど、最後は温まっていたわ。」

「体にも良いでしょう?」

「今日は、体をほぐす香油も用意したの。」


「いや、待て。」

「それは俺一人で入ればいいんじゃないか?」


「私は尊重を覚えたから、聞いているわ。」

「一緒に入ってもいい?」


 ルシアは真剣だった。

 真剣すぎて断りづらい。

 そして、尊重を覚えた結果、真正面から聞いてくるのがずるい。


(ここで駄目と言えばいい。)

(いや、でも体をほぐすのは確かに助かる。)

(チャールズさんがいるなら変なことには……いや、あの人は前に湿気が苦手とか言って逃げたな。)

(信用していいのか、悪いのか。)


 ソータが悩んでいると、扉の外からチャールズの声がした。


「湯浴みにつきましては、ソータ様の体調回復に有効かと存じます。」

「ただし、ルシア様。」

「過度な接近、過度な観察、過度な質問はお控えくださいませ。」


「分かっているわ。」

「私はかなり進んだルシアだから。」


「そのお言葉を信じております。」


「チャールズさん。」

「あなた、見届けてくれるんですよね?」


 ソータが聞くと、扉の外で一瞬だけ沈黙があった。


「浴場内は湿度が高うございますので。」


「逃げる気だ。」


「私は骨でございますゆえ、湿気は大敵でございます。」


「便利な骨ですね。」


「恐れ入ります。」


 ソータは天井を仰いだ。

 ルシアは楽しそうに笑っている。


「大丈夫よ、ソータ。」

「今日は尊重する湯浴み。」


「その言い方がもう不安なんだよ。」


 だが、結局ソータは断りきれなかった。

 体を温めることは必要だったし、ルシアが本気で喜ばせようとしていることも分かっていたからだ。


◆◇◆


 浴場は以前と同じく、黒い石造りだった。

 壁には紫の灯が揺れ、湯気が白く立ち上っている。

 天井は高く、音が柔らかく反響する。

 湯には香油が落とされているのか、花と森を混ぜたような香りがした。

 黒薔薇ほど濃くなく、天使の泉ほど澄んでもいない。

 体の緊張をほどくような、落ち着いた香りだった。


 ソータは腰に布を巻き、慎重に湯へ入った。

 温かさが足から上がってくる。

 思わず息が漏れた。


「これは……気持ちいいな。」


 ルシアが嬉しそうに湯の向こうで笑った。

 彼女も湯に入っているが、湯気が濃く、体の線はほとんど見えない。

 ただ、薄紫の髪が濡れて肌にかかり、瞳だけが湯気の向こうで輝いている。

 それだけで十分に落ち着かない。


「喜んだ?」


「ああ。」

「これは喜んだ。」


「よかった。」


 ルシアは湯の中で少し近づこうとして、途中で止まった。


「近づいてもいい?」


 ソータは驚いた。

 以前なら、彼女は何も聞かずに近づいてきたはずだ。


「ああ。」

「急にじゃなければ。」


「分かったわ。」


 ルシアはゆっくり近づいた。

 それでも近い。

 だが、ちゃんと聞いてから近づいている。

 それが小さな変化だと分かるから、ソータも強くは拒めなかった。


「背中を流してもいい?」


「それも聞くんだな。」


「尊重。」


「覚えたての言葉を使いたいだけじゃないだろうな。」


「少しだけ。」


 ルシアは悪びれずに言った。

 ソータは苦笑する。


「じゃあ、頼む。」


 ルシアは布を取り、ソータの背中を洗い始めた。

 手つきは意外に丁寧だった。

 冷たい指先が、湯で少し温まっている。

 力加減も、以前よりずっと慎重だった。


「痛くない?」


「大丈夫。」


「くすぐったい?」


「少し。」


「これは質問に数える?」


「何の制限だよ。」


「チャールズに、過度な質問は控えるように言われたから。」


「今のは大丈夫だろ。」


「よかった。」


 ルシアは安心したように笑った。

 そして、しばらく黙って背中を洗った。

 その沈黙は、以前より落ち着いていた。

 ソータは湯の温かさに身を任せながら、少しだけ目を閉じる。


(体が戻ってる。)

(これなら、本当に帰れる。)

(明日か、明後日には、ちゃんと話さないとな。)


 その考えが浮かぶと、ルシアの手が一瞬止まった。


「今、帰ることを考えた?」


 ソータは目を開けた。


「分かるのか?」


「背中が少し固くなった。」


「鋭いな。」


「ソータを見るのは得意になったわ。」


 ルシアの声は少し寂しかった。


「元気になるのは嬉しい。」

「でも、元気になったら帰ってしまう。」


「ルシア。」


「分かっているわ。」

「帰る約束がある。」

「尊重。」

「順番。」

「道を作る。」

「全部、少しずつ覚えているわ。」


 ルシアは布を握ったまま、ぽつりと言った。


「でも、寂しいものは寂しいのね。」


 ソータは振り返れなかった。

 振り返れば、湯気の向こうにどんな顔をしたルシアがいるのか、見てしまう。

 見たら、言葉を選べなくなりそうだった。


「寂しいって言うのは、悪いことじゃない。」


「チャールズにも言われたわ。」

「でも、寂しいからって閉じ込めてはいけないって。」


「そうだな。」


「じゃあ、寂しい時はどうするの?」


 ソータは少し考えた。


「伝える。」

「待つ。」

「約束する。」

「それでも足りない時は、また会える道を作る。」


「道。」


「ああ。」

「俺が得意なやつだ。」


 ルシアは小さく笑った。

 その笑いは、湯気に溶けるように柔らかかった。


「やっぱり、ソータは運ぶ人ね。」

「荷物だけじゃないのね。」


「最近、自分でもそう思う。」


 ルシアは布を置いた。

 そして、そっとソータの肩に手を置いた。

 冷たくはなかった。

 湯の温度を含んだ、少しだけ温かい手だった。


「ソータ。」

「私、もう少しだけ頑張るわ。」

「尊重する。」

「でも、喜ばせるのもやめない。」


「それは、いいと思う。」


「本当?」


「ああ。」

「俺も、喜ばせてもらうのは嫌じゃない。」


「じゃあ、今は喜んでる?」


「かなり。」


 ルシアは嬉しそうに笑った。


「では、今日の湯浴みは成功ね。」


「そうだな。」


 ソータは湯に肩まで沈んだ。

 体の疲れがほどけていく。

 同時に、胸の中の重さも少し形を変えていく。


 ルシアは変わろうとしている。

 まだ危うい。

 まだ独占欲も強い。

 まだ何が正しいのか分からないまま、手探りで進んでいる。

 でも、聞こうとしている。

 止まろうとしている。

 相手の気持ちを見ようとしている。


 それを見てしまった以上、ソータも中途半端にはできなかった。


◆◇◆


 湯浴みの後、ソータは客室へ戻り、寝台の端に腰かけた。

 体は温まり、血の巡りも良い。

 眠気はあるが、重い疲労ではなかった。

 回復している。

 確実に。


 ルシアは髪を乾かしながら、椅子に座っていた。

 濡れた薄紫の髪が、いつもより深い色に見える。

 黒い夜着に着替え、膝の上には小さな黒薔薇を置いていた。


 チャールズは扉のそばに控えている。

 湿気から逃げたわりには、何食わぬ顔で戻ってきている。


「チャールズ。」


 ソータは少し恨めしそうに呼んだ。


「はい、ソータ様。」


「浴場から逃げましたよね。」


「私は湿気が苦手でございますので。」


「やっぱり便利な言い訳ですよね。」


「長年磨き上げた持病でございます。」


「持病なんですか、それ。」


「骨身に染みております。」


 ソータは思わず笑った。

 ルシアも笑う。

 チャールズは静かに一礼した。


 その空気は穏やかだった。

 吸血鬼の城とは思えないほど、穏やかな夜だった。


 ルシアは黒薔薇を指先で回しながら、ふと呟いた。


「ソータを喜ばせると、私も嬉しい。」

「でも、ソータが帰ることを考えると、私は寂しい。」

「ミレイユも、オルドアイも、きっと寂しい。」

「同じなのね。」


 ソータはルシアを見た。

 彼女は黒薔薇を見つめていた。

 その横顔は、いつもより少し大人びて見えた。


「同じところもあると思う。」


「じゃあ、私は二人に嫌われるわね。」


「怒られるとは思う。」


「嫌われる?」


「それは、君次第だと思う。」


 ルシアは顔を上げた。


「私次第。」


「ああ。」

「君がどう話すか。」

「どう向き合うか。」

「そこからだと思う。」


「ソータは一緒にいてくれる?」


「逃げずに話すつもりだ。」


 ルシアは少し安心したように息を吐いた。


「なら、少し怖くない。」


「少しは怖いのか。」


「怖いわ。」

「ミレイユは頭が良さそうだし、オルドアイは強そうだもの。」

「二人とも、私を怒るでしょう?」


「たぶん。」


「ソータは正直ね。」


「誤魔化しても仕方ないからな。」


 ルシアはしばらく黙り、それから小さく笑った。


「でも、会ってみたいわ。」

「ソータが帰りたいと思う人たちを知りたい。」

「私と同じ気持ちになる人たちを、見てみたい。」


 チャールズの眼窩の火が、わずかに柔らかく揺れた。


「大きな進歩でございます、ルシア様。」


「でしょう?」

「私はかなり進んだルシアだから。」


 ルシアは得意そうに言った。

 その声にはいつもの無邪気さが戻っていた。

 だが、その奥には新しい迷いと、新しい理解がある。


 ソータは静かに息を吐いた。


(少しずつだ。)

(本当に少しずつだけど、変わってる。)

(このままなら、ちゃんと話せるかもしれない。)

(ミレイユとオルドアイに紹介するには、まだ嵐が来そうだけど。)


 ソータは思わず苦笑した。

 ミレイユの冷たい笑顔が浮かぶ。

 オルドアイの燃えるような視線が浮かぶ。

 どちらも、間違いなく怒る。

 だが、手紙は届いているはずだ。

 無事だと伝わっているはずだ。

 自分は戻ると書いた。


 なら、戻らなければならない。

 そして、ルシアのことも隠さず話さなければならない。


 ルシアは寝台の近くへ来て、少しだけ首を傾げた。


「ソータ。」

「今日、私は上手に尊重できた?」


 ソータは少し考えた。

 完璧ではない。

 危ういところはたくさんある。

 だが、彼女は聞いた。

 止まった。

 考えた。

 それは以前とは違う。


「ああ。」

「昨日より、ずっと。」


 ルシアの顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ、明日はもっと上手にするわ。」


「ほどほどでいい。」


「ほどほどに上手にする。」


「だから、そういう意味じゃない。」


 ルシアは笑った。

 ソータも笑った。

 チャールズが静かに燭火を整える。


 長い夜の城に、穏やかな時間が流れていた。

 けれど、その穏やかさは永遠ではない。

 ソータの体は回復している。

 手紙は外へ出た。

 ミレイユとオルドアイは、きっともう動き始めている。

 そして、ルシアもまた、自分が何をしてしまったのかを少しずつ理解し始めている。


 夜はまだ二十時間も続く。

 だが、いつまでも夜の中に隠れてはいられない。


(喜ばせること。)

(尊重すること。)

(帰ること。)

(また来ること。)


 ソータはその言葉を胸の中で並べた。

 それは荷物の整理に似ていた。

 どれも乱雑に積めば崩れる。

 順番を間違えれば、誰かを傷つける。

 だから、丁寧に積まなければならない。


 ルシアは寝台の横に置いた大きな薄紫の枕を抱えた。

 今夜も話すつもりなのだろう。

 だが、以前のように当然の顔で寝台へ潜り込むのではなく、少しだけソータを見た。


「ここにいてもいい?」


 ソータはその小さな確認に気づいた。

 そして、頷いた。


「ああ。」

「話すだけなら。」


「話すだけ。」


「本当だろうな。」


「尊重。」


「便利な言葉にするな。」


 ルシアは嬉しそうに笑い、枕を抱えたまま寝台の脇に座った。

 距離は近い。

 けれど、今日の近さは少し違った。


 ソータは窓の外を見た。

 黒薔薇の庭に、長い夜が降りている。

 その夜の中で、ルシアは少しずつ誰かを待つ者の気持ちを知り始めている。


 それは、彼女にとって痛みだった。

 同時に、外へつながる最初の灯でもあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ