第124話:喜ばせたい姫と止める執事
ルシアは、朝から妙に張り切っていた。
もっとも、この城で朝という言葉が正しいのか、ソータにはまだよく分からない。
窓の外は相変わらず暗く、遠くの森には紫がかった霧が漂っている。
空には月があり、黒い塔の影が中庭へ長く伸びていた。
ただ、城の奥で灯る燭火の色が少し薄くなり、黒薔薇の香りが夜の終わりに向かうように弱まっている。
ルシアにとっては、それが一日の区切りらしかった。
ソータは客室の椅子に座り、チャールズが用意してくれた薄い粥を食べていた。
人間用に作られたものだ。
味は淡いが、温かい。
胃に優しく、体に染みる。
吸血鬼の城で出される食事としては、驚くほどまともだった。
ルシアは向かい側の椅子に座り、じっとソータを見ていた。
肘をつき、両手で頬を支え、薄紫の瞳を好奇心で輝かせている。
その姿は、妖艶な吸血鬼の姫というより、珍しいものを眺める子供に近い。
ただし、彼女の黒紫のドレスは肩の線をきれいに見せる形で、柔らかい布が胸元から腰へ流れるように落ちている。
無邪気な視線と、大人びた姿の差が、ソータの落ち着きを微妙に削っていた。
「おいしい?」
ルシアが聞いた。
「ああ。」
「温かいし、食べやすい。」
「よかった。」
ルシアはぱっと笑った。
「チャールズ。」
「ソータが、おいしいって。」
部屋の隅で控えていたチャールズが、静かに一礼した。
「光栄でございます、ソータ様。」
「いや、普通に助かってます。」
「ありがとうございます。」
「お体の回復には、胃に負担の少ないものがよろしいかと判断いたしました。」
「昨夜より食欲も戻られているようで、安心いたしました。」
「そこまで見てるんですね。」
「執事でございますので。」
チャールズは当然のように言った。
骨の顔に表情はない。
だが、その佇まいには確かな誇りがあった。
ルシアはソータの匙の動きを目で追っている。
ソータが粥を口に運ぶ。
飲み込む。
少し息を吐く。
それだけで、彼女は嬉しそうにする。
「ルシア。」
「そんなに見られると食べづらい。」
「少しだけ見るって昨日言ったわ。」
「かなり見てる。」
「これでも減らしているの。」
「本当はもっと見たい。」
「減らしてこれか。」
「進歩よ。」
ルシアは胸を張った。
チャールズが横から静かに補足する。
「ルシア様基準では、大きな進歩でございます。」
「チャールズまで。」
「事実でございます。」
ソータは苦笑しながら、残りの粥を食べた。
温かいものを腹に入れると、体の奥から少しずつ力が戻ってくる気がする。
《車体爆裂突進》の反動で削られた体力は、かなり回復してきている。
まだ全快ではないが、歩き回るだけなら問題はない。
少し荷を持つこともできそうだった。
(体は戻ってきてる。)
(あと少しで、ちゃんと帰る話をしないといけない。)
(ルシアにどう伝えるかだな。)
そう考えた瞬間、ルシアが身を乗り出した。
「食べ終わった?」
「ああ。」
「じゃあ、次は泉の水。」
「泉の水?」
「天使の泉の水を冷やしておいたの。」
「昨日、ソータが温かいものを飲んだから、今日は冷たいものも嬉しいかなと思って。」
ルシアはそう言って、すぐに立ち上がった。
扉の向こうで待っていたスケルトンが銀の盆を持って入ってくる。
盆の上には、透明な硝子の杯が置かれていた。
中には薄く青白く光る水が入っている。
氷はない。
だが、杯の表面には細かな露がついていた。
「これ、冷えてるのか。」
「地下の石室に置いたの。」
「黒薔薇の蜜も少しだけ入れたわ。」
「甘いものは人間が喜ぶと本に書いてあったから。」
「黒薔薇の蜜って、飲んで大丈夫なやつか?」
「たぶん。」
「またたぶんか。」
チャールズが一歩前に出た。
「ご安心ください。」
「人間の方が摂取しても問題のない濃度に調整済みでございます。」
「チャールズさんが言うなら安心です。」
「恐れ入ります。」
ソータは杯を受け取った。
水はひんやりとしていた。
口に含むと、清らかな冷たさが喉を通り、遅れて花のような甘さが広がる。
薬のような重さはない。
妙に澄んでいて、体の中の熱を静かに整えてくれる。
「うまい。」
ソータが言うと、ルシアの顔が一気に明るくなった。
「本当?」
「ああ。」
「これは本当にうまい。」
「よかった。」
「じゃあ、次から毎日出すわ。」
「いや、毎日じゃなくても。」
「二日に一回?」
「そういう問題じゃなくて。」
「三日に一回?」
ルシアは真剣に考えている。
ソータは少し笑った。
「ありがたいけど、無理しなくていいってことだ。」
「無理ではないわ。」
「ソータが喜ぶなら、泉まで行くのは楽しいもの。」
その言葉に、ソータは少し黙った。
昨日から、ルシアは何度もそれを言う。
ソータが喜ぶなら。
ソータが笑うなら。
ソータが嬉しいなら。
その響きは優しい。
けれど、どこか危うい。
チャールズも同じことを感じているのか、眼窩の青い火をわずかに揺らした。
「ルシア様。」
「泉へ行かれる際は、日差しの時間を避けるようお願いいたします。」
「分かっているわ。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「ご立派でございます。」
ルシアは満足そうに頷いた。
そして、すぐに次のことを思いついたように手を叩く。
「それから、今日は私が綺麗な服を着たの。」
「え?」
「気づいていた?」
ルシアはその場でくるりと回った。
黒紫のドレスの裾がふわりと広がる。
薄紫の髪が肩の上で揺れ、燭火を受けて淡く光った。
いつもの無邪気な笑顔のままなのに、動きの一つ一つが妙に目を引く。
ソータは思わず視線をそらしかけ、慌てて戻した。
「気づいてたよ。」
「似合う?」
「ああ。」
「似合う。」
「かわいい?」
「かわいい。」
「きれい?」
「……きれい。」
ルシアは胸の前で両手を合わせた。
「やっぱり、きれいも嬉しいわ。」
ソータは額を押さえた。
(この質問、だんだん強くなってないか。)
(最初はかわいいだけだったのに。)
(きれいを覚えた。)
(しかも、自分がどう見えるか少しずつ分かってきてる気がする。)
ルシアはソータの反応をじっと見ていた。
そして、にこりと笑う。
「ソータが困った顔をした。」
「困らせたいのか?」
「困った顔も、少し楽しい。」
「それは進歩なのか?」
チャールズが静かに咳払いのような音を立てた。
「ルシア様。」
「相手を困らせることを目的にされるのは、あまり推奨いたしかねます。」
「少しだけなら?」
「程度の問題ではございません。」
「難しいわ。」
ルシアは本気で悩んでいるようだった。
◆◇◆
食事の後、ルシアはソータを広間へ連れて行った。
そこには、なぜかスケルトンたちが整列していた。
全員が黒い布を肩にかけ、手には楽器らしきものを持っている。
古い弦楽器。
小さな太鼓。
細長い笛。
見た目だけなら、楽団のようだった。
ただし、演奏者が全員骨なので、雰囲気はかなり不気味だった。
「これは?」
ソータが聞くと、ルシアは得意そうに答えた。
「人間の宴。」
「宴?」
「本に書いてあったの。」
「人間は嬉しい時に音楽を鳴らして、食べて、笑って、踊るのでしょう?」
「だから、ソータが元気になったお祝いをするわ。」
「いや、気持ちは嬉しいけど。」
ソータは広間を見渡した。
長いテーブルには、果物らしいものが置かれている。
黒薔薇が飾られ、紫の燭火が灯されていた。
中央には、踊るためらしい空間もある。
準備はかなり丁寧だ。
だが、どこか違う。
人間の宴を、見たことのない者が本だけで再現したような違和感がある。
チャールズが隣に立ち、静かに説明した。
「ルシア様が朝からご準備なさいました。」
「私としては、少々段階が早いのではと申し上げたのですが。」
「早いというか、すごいというか。」
「ソータが喜ぶと思ったの。」
ルシアは真剣だった。
ソータはその言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
不気味だ。
不器用だ。
かなりズレている。
でも、彼女なりに一生懸命なのは伝わった。
「ありがとう、ルシア。」
「嬉しいよ。」
ルシアの瞳が輝いた。
「本当?」
「本当。」
「じゃあ、音楽を始めるわ。」
ルシアが手を上げる。
スケルトンたちが一斉に楽器を構えた。
次の瞬間、広間に音が響いた。
ぎい、と弦が鳴る。
ぼん、と太鼓がずれる。
笛は少し遅れて、妙に高い音を出した。
旋律はある。
たぶんある。
だが、全員が少しずつ違う方向を向いている。
明るい宴の音楽というより、古い城で夜中に聞こえてはいけない怪談の伴奏に近い。
ソータは固まった。
ルシアは期待に満ちた顔で見上げてくる。
「どう?」
「個性的だな。」
「個性的…」
ルシアはチャールズを見た。
「褒め言葉?」
チャールズは一瞬だけ沈黙した。
「状況によりけりでございます。」
「ソータは褒めたの?」
ルシアがソータを見る。
ソータは笑いを堪えきれなかった。
吹き出す。
それをきっかけに、広間の空気が少し柔らかくなった。
「ごめん。」
「いや、でも、楽しい。」
「怖いけど楽しい。」
「怖いのに楽しいの?」
「ああ。」
「たぶん、ルシアが一生懸命だから。」
ルシアは目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
「一生懸命だと、怖くても楽しいのね。」
「場合によるけどな。」
音楽はまだ続いている。
ずれている。
不気味だ。
それでも、ルシアは嬉しそうだった。
ソータが笑ったからだ。
彼女はソータの前に立ち、手を差し出した。
「踊る?」
「踊りは得意じゃない。」
「私も本で読んだだけ。」
「それは危険だな。」
「一緒に失敗すれば楽しいかもしれないわ。」
ルシアがそう言うので、ソータは断りきれなかった。
彼女の手を取る。
手は少し冷たい。
だが、不思議と嫌な冷たさではない。
長い夜に触れているような冷たさだった。
ルシアはソータの手を握り、見よう見まねで一歩踏み出した。
すぐに足が合わない。
ソータも踊り方など知らない。
二人はぎこちなく回り、何度も止まり、時々笑った。
ルシアは楽しそうだった。
心から楽しそうだった。
その笑顔を見ると、ソータもつられて笑ってしまう。
こんな状況で笑っていいのかと、どこかで思う。
ミレイユやオルドアイは心配している。
自分は帰らなければならない。
ルシアは自分を連れてきた張本人だ。
それでも、目の前の彼女が初めて人間の宴を真似て、失敗しながら笑っている姿を、ただ切り捨てることはできなかった。
(危ないな。)
(情が移る。)
(でも、もう移ってるのかもしれない。)
(だからこそ、ちゃんとしないと。)
踊りが終わると、ルシアは息も切らさずに笑った。
吸血鬼だからか、運動で疲れた様子はほとんどない。
ソータの方は少し息が上がっていた。
ただ、それは悪くない疲れだった。
「ソータが笑った。」
「たくさん笑った。」
「笑ったな。」
「じゃあ、成功ね。」
「成功だと思う。」
ルシアは胸の前で手を握った。
その表情は本当に幸せそうだった。
チャールズは広間の隅でそれを見ていた。
静かに、だが少し心配そうに。
◆◇◆
宴のあと、ルシアはチャールズを連れて温室へ向かった。
ソータは少し休むために客室へ戻された。
ルシアは最初、不満そうだったが、チャールズに「ソータ様には休息も必要でございます」と言われると、しぶしぶ納得した。
そして今、黒薔薇の温室で、ルシアは花の間を歩きながら考えていた。
黒薔薇の香りは甘い。
紫の灯が花弁を照らし、硝子の天井の向こうでは長い夜が続いている。
蔓がゆっくり揺れ、ルシアの足元に寄ってくる。
ルシアはそれを指先で撫でた。
「チャールズ。」
「はい、ルシア様。」
「今日の私は、かなり良かったと思うの。」
「ソータ様は大変お喜びでございました。」
「でしょう?」
ルシアは嬉しそうに振り返った。
「泉の水も飲んだ。」
「私の服も褒めた。」
「音楽で笑った。」
「一緒に踊った。」
「とても良い日だったわ。」
「左様でございます。」
「だから、思ったの。」
ルシアは黒薔薇の一輪を見つめた。
その瞳は真剣だった。
「私、ソータを喜ばせることだけ考えていればいい気がするわ。」
「そうすれば、ソータはここにいたくなるでしょう?」
チャールズの動きが止まった。
眼窩の青い火が、静かに揺れる。
彼はすぐには答えなかった。
ルシアは不思議そうに首を傾げる。
「違うの?」
「ルシア様。」
チャールズの声は、いつもより少し低かった。
「男と女は、互いに尊重しあわなければ長く一緒にはいられません。」
ルシアは瞬きをした。
「尊重。」
「はい。」
「私はソータを喜ばせたいのよ。」
「それは尊重ではないの?」
「喜ばせたいと思うお気持ちは、大切なものでございます。」
「そのこと自体は、決して悪いことではございません。」
「なら、いいでしょう?」
「ですが、ソータ様を喜ばせることで、ソータ様ご自身の望みを変えようとなさるなら、それは少し違います。」
ルシアは眉を寄せた。
「ソータの望み。」
「ソータ様は帰りたいとお考えです。」
「ミレイユ様とオルドアイ様に戻ると約束されています。」
「男たちの村にも、北の砦にも、グランデリアにも、果たすべき役割がおありです。」
「分かっているわ。」
「でも、ここも楽しいと思えば、帰るのが少し遅くなるかもしれないでしょう。」
「そこが問題なのでございます。」
チャールズは静かに言った。
「ルシア様がソータ様に喜んでいただきたいと願うこと。」
「それは良いことです。」
「しかし、ソータ様が大事にしているものを見ないまま、ここにいたくなるよう仕向けるのであれば、それは尊重とは申せません。」
「仕向ける。」
ルシアはその言葉を嫌そうに繰り返した。
「私は、悪いことをしているの?」
「悪いと断じるのは簡単でございます。」
「ですが、私はルシア様を責めたいわけではございません。」
「ただ、知っていただきたいのです。」
「何を?」
「一緒にいたいという願いは、相手を閉じ込める理由にはならないということを。」
温室の空気が静かになった。
黒薔薇の蔓が揺れる音だけがする。
ルシアは俯いた。
薄紫の髪が頬にかかる。
「閉じ込めているつもりはないわ。」
「承知しております。」
「ルシア様は、ソータ様に喜んでいただこうとされています。」
「それは以前よりも大きな進歩でございます。」
「進歩。」
「はい。」
「けれど、その先がございます。」
「その先?」
「ソータ様が帰りたいと願うなら、その願いも大切にすることです。」
「たとえ、それがルシア様にとって寂しいことであっても。」
ルシアは胸に手を当てた。
そこが痛む。
最近、よく痛む。
ソータが眠っている時。
ソータがミレイユとオルドアイの話をする時。
ソータの体力が戻ってきた時。
嬉しいはずなのに、痛む。
「チャールズ。」
「はい。」
「ミレイユも、こういう気持ちなの?」
チャールズは静かにルシアを見た。
「おそらくは。」
「オルドアイも?」
「おそらくは。」
「私と同じ?」
「同じ部分もあり、違う部分もあるでしょう。」
「ですが、ソータ様に会いたいと願い、心配し、戻ってきてほしいと望んでいることは間違いないかと存じます。」
ルシアは黙った。
胸の中の痛みが、少し違う形になる。
自分だけが寂しいのだと思っていた。
この城でソータを見ている自分だけが、ソータがいなくなることを怖がっているのだと思っていた。
けれど、違うのかもしれない。
ミレイユも待っている。
オルドアイも待っている。
自分と同じように。
いや、自分よりずっと前から。
「でも。」
ルシアは小さく言った。
「私は、ソータが来るまで誰もいなかったわ。」
「ミレイユには商会がある。」
「オルドアイには砦がある。」
「たくさん人がいるでしょう。」
「私は、チャールズとスケルトンたちだけ。」
「はい。」
「だから、少しだけ私の方が寂しいかもしれない。」
「そうかもしれません。」
チャールズは否定しなかった。
ルシアは驚いたように顔を上げる。
「否定しないの?」
「ルシア様の寂しさは、ルシア様のものでございます。」
「それを否定することは、私にはできません。」
「じゃあ、私は我慢しなくてもいい?」
「寂しいと思うことは、我慢なさらずともよろしいかと。」
「ただし、その寂しさを理由に、ソータ様の道を閉ざしてはなりません。」
ルシアはまた黙った。
難しい。
あまりにも難しい。
寂しいと思っていい。
でも、その寂しさでソータを閉じ込めてはいけない。
喜ばせたいと思っていい。
でも、それで帰る気持ちを鈍らせようとしてはいけない。
「男と女は難しいわ。」
「はい。」
「大変難しゅうございます。」
「チャールズは経験があるの?」
「私は骨でございますので。」
「答えになっていないわ。」
「知識としては多少ございます。」
ルシアは少しだけ笑った。
けれど、その笑いはすぐに消える。
「でも、もう少しだけなら、いいわよね。」
チャールズは何も言わなかった。
ルシアは黒薔薇に触れながら、もう一度小さく呟いた。
「もう少しだけ、ソータを喜ばせたいの。」
その声には、わがままと優しさと寂しさが混ざっていた。
チャールズは静かに一礼した。
「そのお気持ちが、ソータ様を縛るためではなく、ソータ様と向き合うためのものになりますように。」
ルシアは答えなかった。
ただ、黒薔薇の花弁を撫でていた。
◆◇◆
その後、ルシアは客室へ戻った。
ソータは椅子に座って、手紙の下書きのようなものを書いていた。
誰に宛てたものかは分からない。
紙の上には、物資の名前や道順らしき言葉が並んでいる。
彼は休んでいる時でさえ、何かを整理している。
ルシアは扉の前で少し立ち止まった。
ソータは顔を上げる。
「どうした?」
「何を書いているの?」
「戻った後のこと。」
「男たちの村の補修に何が必要かとか、北の砦にどれを回すかとか。」
「グランデリアから持ってくるものも考えてた。」
「帰った後のこと。」
「ああ。」
ルシアの胸が少し痛んだ。
だが、さっきよりは痛みの形が分かる。
これは、ソータが自分の外側にも道を持っている証だ。
「ソータは、本当に運ぶことばかり考えているのね。」
「そうかもな。」
「私のことは?」
口にしてから、ルシアは自分でも驚いた。
思ったより寂しそうな声になった。
ソータも少し目を丸くする。
「考えてるよ。」
「本当?」
「ああ。」
「この城に何が必要かも考えてる。」
「人間の本とか、料理の材料とか、昼でも使える厚いカーテンとか。」
「あと、外から来る人が驚かないようにする準備とか。」
ルシアは瞬きをした。
「私の城のことも?」
「君と関わるなら必要だろ。」
「関わる。」
ルシアはその言葉を噛みしめるように繰り返した。
ソータは紙を見ながら続ける。
「ただ、いきなり人間の街とつなぐのは難しい。」
「まずは男たちの村か北の砦。」
「そこから少しずつだな。」
「君が外に出るなら、日差し対策も必要だし。」
ルシアはゆっくり近づいた。
そして、ソータの隣に座る。
近い。
近いが、今日は袖を掴まない。
ただ、紙の上を覗き込む。
「ソータ。」
「何だ?」
「私、今日は少しだけ分かったわ。」
「何が?」
「喜ばせるだけでは駄目。」
「尊重しないといけない。」
ソータは少し驚いたようにルシアを見た。
「チャールズさんに言われたのか?」
「ええ。」
「男と女は、互いに尊重しあわなければ長く一緒にはいられません、って。」
「チャールズさんらしいな。」
「難しいわ。」
「難しいな。」
ソータは素直に頷いた。
ルシアは少し安心した顔をする。
「ソータにも難しいの?」
「ああ。」
「俺も、ずっと上手くできてるわけじゃない。」
「むしろ、失敗しながら覚えてる。」
「ミレイユと?」
「オルドアイと?」
「そうだな。」
「二人にも、たくさん心配をかけてる。」
ルシアは胸に手を当てた。
「二人も、私みたいにソータに会いたい?」
ソータは少し黙った。
軽く答える話ではなかった。
だが、誤魔化すことでもない。
「たぶん、会いたいと思ってくれてる。」
「心配もしてると思う。」
「怒ってもいるだろうな。」
「私のせい?」
「君のせいだけじゃない。」
「俺が無理をしたこともある。」
「でも、君が俺を連れてきたことも関係してる。」
ルシアは目を伏せた。
「そう。」
「責めたいわけじゃない。」
「でも、なかったことにはできない。」
「なかったことにしない。」
「ああ。」
ルシアは小さく頷いた。
その言葉は、ソータ自身にも刺さった。
ミレイユに対しても、オルドアイに対しても、ルシアに対しても。
なかったことにはしない。
それが、自分が選ばなければならない道なのだ。
少し沈黙が流れた。
長い夜の城にしては、珍しく穏やかな沈黙だった。
ルシアはやがて顔を上げる。
「でも、今日はもう一つだけ、ソータを喜ばせたい。」
「まだ何かあるのか?」
「あるわ。」
嫌な予感と、少しの期待が同時に来た。
ソータは慎重に聞く。
「何をするつもりだ?」
「湯浴み。」
ソータは紙に落としかけた羽ペンを止めた。
「……湯浴み?」
「ええ。」
「前に一緒に入った時、ソータはとても慌てていたけれど、最後は温まっていたわ。」
「体にも良いでしょう?」
「今日は、体をほぐす香油も用意したの。」
「いや、待て。」
「それは俺一人で入ればいいんじゃないか?」
「私は尊重を覚えたから、聞いているわ。」
「一緒に入ってもいい?」
ルシアは真剣だった。
真剣すぎて断りづらい。
そして、尊重を覚えた結果、真正面から聞いてくるのがずるい。
(ここで駄目と言えばいい。)
(いや、でも体をほぐすのは確かに助かる。)
(チャールズさんがいるなら変なことには……いや、あの人は前に湿気が苦手とか言って逃げたな。)
(信用していいのか、悪いのか。)
ソータが悩んでいると、扉の外からチャールズの声がした。
「湯浴みにつきましては、ソータ様の体調回復に有効かと存じます。」
「ただし、ルシア様。」
「過度な接近、過度な観察、過度な質問はお控えくださいませ。」
「分かっているわ。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「そのお言葉を信じております。」
「チャールズさん。」
「あなた、見届けてくれるんですよね?」
ソータが聞くと、扉の外で一瞬だけ沈黙があった。
「浴場内は湿度が高うございますので。」
「逃げる気だ。」
「私は骨でございますゆえ、湿気は大敵でございます。」
「便利な骨ですね。」
「恐れ入ります。」
ソータは天井を仰いだ。
ルシアは楽しそうに笑っている。
「大丈夫よ、ソータ。」
「今日は尊重する湯浴み。」
「その言い方がもう不安なんだよ。」
だが、結局ソータは断りきれなかった。
体を温めることは必要だったし、ルシアが本気で喜ばせようとしていることも分かっていたからだ。
◆◇◆
浴場は以前と同じく、黒い石造りだった。
壁には紫の灯が揺れ、湯気が白く立ち上っている。
天井は高く、音が柔らかく反響する。
湯には香油が落とされているのか、花と森を混ぜたような香りがした。
黒薔薇ほど濃くなく、天使の泉ほど澄んでもいない。
体の緊張をほどくような、落ち着いた香りだった。
ソータは腰に布を巻き、慎重に湯へ入った。
温かさが足から上がってくる。
思わず息が漏れた。
「これは……気持ちいいな。」
ルシアが嬉しそうに湯の向こうで笑った。
彼女も湯に入っているが、湯気が濃く、体の線はほとんど見えない。
ただ、薄紫の髪が濡れて肌にかかり、瞳だけが湯気の向こうで輝いている。
それだけで十分に落ち着かない。
「喜んだ?」
「ああ。」
「これは喜んだ。」
「よかった。」
ルシアは湯の中で少し近づこうとして、途中で止まった。
「近づいてもいい?」
ソータは驚いた。
以前なら、彼女は何も聞かずに近づいてきたはずだ。
「ああ。」
「急にじゃなければ。」
「分かったわ。」
ルシアはゆっくり近づいた。
それでも近い。
だが、ちゃんと聞いてから近づいている。
それが小さな変化だと分かるから、ソータも強くは拒めなかった。
「背中を流してもいい?」
「それも聞くんだな。」
「尊重。」
「覚えたての言葉を使いたいだけじゃないだろうな。」
「少しだけ。」
ルシアは悪びれずに言った。
ソータは苦笑する。
「じゃあ、頼む。」
ルシアは布を取り、ソータの背中を洗い始めた。
手つきは意外に丁寧だった。
冷たい指先が、湯で少し温まっている。
力加減も、以前よりずっと慎重だった。
「痛くない?」
「大丈夫。」
「くすぐったい?」
「少し。」
「これは質問に数える?」
「何の制限だよ。」
「チャールズに、過度な質問は控えるように言われたから。」
「今のは大丈夫だろ。」
「よかった。」
ルシアは安心したように笑った。
そして、しばらく黙って背中を洗った。
その沈黙は、以前より落ち着いていた。
ソータは湯の温かさに身を任せながら、少しだけ目を閉じる。
(体が戻ってる。)
(これなら、本当に帰れる。)
(明日か、明後日には、ちゃんと話さないとな。)
その考えが浮かぶと、ルシアの手が一瞬止まった。
「今、帰ることを考えた?」
ソータは目を開けた。
「分かるのか?」
「背中が少し固くなった。」
「鋭いな。」
「ソータを見るのは得意になったわ。」
ルシアの声は少し寂しかった。
「元気になるのは嬉しい。」
「でも、元気になったら帰ってしまう。」
「ルシア。」
「分かっているわ。」
「帰る約束がある。」
「尊重。」
「順番。」
「道を作る。」
「全部、少しずつ覚えているわ。」
ルシアは布を握ったまま、ぽつりと言った。
「でも、寂しいものは寂しいのね。」
ソータは振り返れなかった。
振り返れば、湯気の向こうにどんな顔をしたルシアがいるのか、見てしまう。
見たら、言葉を選べなくなりそうだった。
「寂しいって言うのは、悪いことじゃない。」
「チャールズにも言われたわ。」
「でも、寂しいからって閉じ込めてはいけないって。」
「そうだな。」
「じゃあ、寂しい時はどうするの?」
ソータは少し考えた。
「伝える。」
「待つ。」
「約束する。」
「それでも足りない時は、また会える道を作る。」
「道。」
「ああ。」
「俺が得意なやつだ。」
ルシアは小さく笑った。
その笑いは、湯気に溶けるように柔らかかった。
「やっぱり、ソータは運ぶ人ね。」
「荷物だけじゃないのね。」
「最近、自分でもそう思う。」
ルシアは布を置いた。
そして、そっとソータの肩に手を置いた。
冷たくはなかった。
湯の温度を含んだ、少しだけ温かい手だった。
「ソータ。」
「私、もう少しだけ頑張るわ。」
「尊重する。」
「でも、喜ばせるのもやめない。」
「それは、いいと思う。」
「本当?」
「ああ。」
「俺も、喜ばせてもらうのは嫌じゃない。」
「じゃあ、今は喜んでる?」
「かなり。」
ルシアは嬉しそうに笑った。
「では、今日の湯浴みは成功ね。」
「そうだな。」
ソータは湯に肩まで沈んだ。
体の疲れがほどけていく。
同時に、胸の中の重さも少し形を変えていく。
ルシアは変わろうとしている。
まだ危うい。
まだ独占欲も強い。
まだ何が正しいのか分からないまま、手探りで進んでいる。
でも、聞こうとしている。
止まろうとしている。
相手の気持ちを見ようとしている。
それを見てしまった以上、ソータも中途半端にはできなかった。
◆◇◆
湯浴みの後、ソータは客室へ戻り、寝台の端に腰かけた。
体は温まり、血の巡りも良い。
眠気はあるが、重い疲労ではなかった。
回復している。
確実に。
ルシアは髪を乾かしながら、椅子に座っていた。
濡れた薄紫の髪が、いつもより深い色に見える。
黒い夜着に着替え、膝の上には小さな黒薔薇を置いていた。
チャールズは扉のそばに控えている。
湿気から逃げたわりには、何食わぬ顔で戻ってきている。
「チャールズ。」
ソータは少し恨めしそうに呼んだ。
「はい、ソータ様。」
「浴場から逃げましたよね。」
「私は湿気が苦手でございますので。」
「やっぱり便利な言い訳ですよね。」
「長年磨き上げた持病でございます。」
「持病なんですか、それ。」
「骨身に染みております。」
ソータは思わず笑った。
ルシアも笑う。
チャールズは静かに一礼した。
その空気は穏やかだった。
吸血鬼の城とは思えないほど、穏やかな夜だった。
ルシアは黒薔薇を指先で回しながら、ふと呟いた。
「ソータを喜ばせると、私も嬉しい。」
「でも、ソータが帰ることを考えると、私は寂しい。」
「ミレイユも、オルドアイも、きっと寂しい。」
「同じなのね。」
ソータはルシアを見た。
彼女は黒薔薇を見つめていた。
その横顔は、いつもより少し大人びて見えた。
「同じところもあると思う。」
「じゃあ、私は二人に嫌われるわね。」
「怒られるとは思う。」
「嫌われる?」
「それは、君次第だと思う。」
ルシアは顔を上げた。
「私次第。」
「ああ。」
「君がどう話すか。」
「どう向き合うか。」
「そこからだと思う。」
「ソータは一緒にいてくれる?」
「逃げずに話すつもりだ。」
ルシアは少し安心したように息を吐いた。
「なら、少し怖くない。」
「少しは怖いのか。」
「怖いわ。」
「ミレイユは頭が良さそうだし、オルドアイは強そうだもの。」
「二人とも、私を怒るでしょう?」
「たぶん。」
「ソータは正直ね。」
「誤魔化しても仕方ないからな。」
ルシアはしばらく黙り、それから小さく笑った。
「でも、会ってみたいわ。」
「ソータが帰りたいと思う人たちを知りたい。」
「私と同じ気持ちになる人たちを、見てみたい。」
チャールズの眼窩の火が、わずかに柔らかく揺れた。
「大きな進歩でございます、ルシア様。」
「でしょう?」
「私はかなり進んだルシアだから。」
ルシアは得意そうに言った。
その声にはいつもの無邪気さが戻っていた。
だが、その奥には新しい迷いと、新しい理解がある。
ソータは静かに息を吐いた。
(少しずつだ。)
(本当に少しずつだけど、変わってる。)
(このままなら、ちゃんと話せるかもしれない。)
(ミレイユとオルドアイに紹介するには、まだ嵐が来そうだけど。)
ソータは思わず苦笑した。
ミレイユの冷たい笑顔が浮かぶ。
オルドアイの燃えるような視線が浮かぶ。
どちらも、間違いなく怒る。
だが、手紙は届いているはずだ。
無事だと伝わっているはずだ。
自分は戻ると書いた。
なら、戻らなければならない。
そして、ルシアのことも隠さず話さなければならない。
ルシアは寝台の近くへ来て、少しだけ首を傾げた。
「ソータ。」
「今日、私は上手に尊重できた?」
ソータは少し考えた。
完璧ではない。
危ういところはたくさんある。
だが、彼女は聞いた。
止まった。
考えた。
それは以前とは違う。
「ああ。」
「昨日より、ずっと。」
ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、明日はもっと上手にするわ。」
「ほどほどでいい。」
「ほどほどに上手にする。」
「だから、そういう意味じゃない。」
ルシアは笑った。
ソータも笑った。
チャールズが静かに燭火を整える。
長い夜の城に、穏やかな時間が流れていた。
けれど、その穏やかさは永遠ではない。
ソータの体は回復している。
手紙は外へ出た。
ミレイユとオルドアイは、きっともう動き始めている。
そして、ルシアもまた、自分が何をしてしまったのかを少しずつ理解し始めている。
夜はまだ二十時間も続く。
だが、いつまでも夜の中に隠れてはいられない。
(喜ばせること。)
(尊重すること。)
(帰ること。)
(また来ること。)
ソータはその言葉を胸の中で並べた。
それは荷物の整理に似ていた。
どれも乱雑に積めば崩れる。
順番を間違えれば、誰かを傷つける。
だから、丁寧に積まなければならない。
ルシアは寝台の横に置いた大きな薄紫の枕を抱えた。
今夜も話すつもりなのだろう。
だが、以前のように当然の顔で寝台へ潜り込むのではなく、少しだけソータを見た。
「ここにいてもいい?」
ソータはその小さな確認に気づいた。
そして、頷いた。
「ああ。」
「話すだけなら。」
「話すだけ。」
「本当だろうな。」
「尊重。」
「便利な言葉にするな。」
ルシアは嬉しそうに笑い、枕を抱えたまま寝台の脇に座った。
距離は近い。
けれど、今日の近さは少し違った。
ソータは窓の外を見た。
黒薔薇の庭に、長い夜が降りている。
その夜の中で、ルシアは少しずつ誰かを待つ者の気持ちを知り始めている。
それは、彼女にとって痛みだった。
同時に、外へつながる最初の灯でもあった。




