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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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123/148

第123話:長すぎる夜の城

 ソータがこの城の時間に違和感を覚えたのは、手紙を出した翌日のことだった。

 黒い石で造られた客室の窓には、相変わらず厚いカーテンがかかっている。

 その隙間から見える外は、また夜だった。

 紫がかった月明かりが、黒薔薇の庭を淡く照らしている。

 尖った塔の影が中庭に長く落ち、遠くの森は深い藍色に沈んでいた。

 どこか美しい。

 だが、美しすぎて、時間の感覚が狂う。


 ソータは窓辺に立ち、カーテンを少しだけ開けた。

 冷たい夜気が指先に触れる。

 空には星がある。

 月もある。

 薄い霧も流れている。

 だが、昨日も見た。

 一昨日も見た。

 もっと前にも見たような気がする。


(また夜か。)

(いや、俺が寝すぎただけか?)

(でも、昨日もその前も、外はほとんど暗かった。)

(ここに来てから、まともな昼を見てない気がする。)


 体はかなり戻っていた。

 起き上がっても、もう強い目眩はない。

 足に力も入る。

 腕を回すと少し重さは残るが、荷物を持てないほどではない。

 《車体爆裂突進》を使った直後の、体の芯を空っぽにされたような感覚はほとんど消えている。


 それでも、気持ちは落ち着かなかった。

 手紙は出した。

 チャールズが選んだ無言の使者たちは、外套を着て城を出ていった。

 男たちの村。

 北の砦。

 グランデリア。

 それぞれへ、ソータの言葉を運ぶために。


 だが、手紙を出したからといって、問題が解決したわけではない。

 ミレイユが読む。

 オルドアイが読む。

 バルクやメバドスも知る。

 きっと心配する。

 怒る。

 それでも、無事を知らせないよりはずっといい。


(言葉は運べた。)

(次は、俺自身が戻らないといけない。)

(でも、その前に……。)


 ソータは窓の外をもう一度見た。

 夜が長すぎる。

 この城は、何かがおかしい。


 その時、扉が軽く叩かれた。


「ソータ、起きている?」


 ルシアの声だった。

 ソータはカーテンから手を離した。


「ああ。」

「起きてる。」


 扉が開いた。

 ルシアが顔を出す。

 薄紫の髪を肩に流し、今日は淡い黒紫のドレスを着ていた。

 羽は隠している。

 けれど、彼女が部屋に入ってくるだけで、空気が夜に寄るような感覚があった。


 ルシアはソータを見つけると、ぱっと表情を明るくした。


「立ってる。」

「今日はちゃんと立ってるわ。」


「昨日も少しは立ってただろ。」


「昨日は、立ってすぐ座った。」

「今日は窓まで行っている。」

「進歩ね。」


「俺より観察が細かいな。」


「ソータを見るのは楽しいもの。」


 ルシアは悪びれもなく言った。

 ソータは返事に少し困る。

 まっすぐすぎる言葉は、時々、矢より避けづらい。


 ルシアは窓辺に近づき、ソータの隣に立った。

 外の庭を見て、満足そうに微笑む。


「今夜も綺麗でしょう。」


「今夜も、っていうか。」

「ルシア。」

「この城、昼が短くないか?」


 ルシアは不思議そうに首を傾げた。


「昼?」


「そう。」

「朝になって、太陽が昇って、しばらく明るくて、夕方になって夜になる。」

「普通はそうだろ。」


「普通の土地では、そうかもしれないわね。」


「ここは違うのか?」


「ええ。」

「ここは夜が長いもの。」


 あまりにも当然のように言うので、ソータは一瞬言葉を失った。


「どれくらい?」


 ルシアは指を折った。

 少し考える。

 考え方そのものが曖昧なのか、途中で空を見上げる。


「えっと。」

「長い夜があって、少しだけ白くなって、また夜になるでしょう。」

「たぶん、夜が二十時間くらい。」

「明るいのは四時間くらいかしら。」


「二十時間…」


 ソータは思わず繰り返した。


「夜が二十時間?」


「ええ。」

「そのくらい。」

「でも、明るいと言っても、強い太陽ではないわ。」

「霧の向こうが少し白くなるくらい。」

「私はそれでも少し苦手。」


「そりゃ、時間の感覚も狂うわけだ……。」


 ソータは額に手を当てた。

 四日も経っていた理由の一つが、やっと分かった。

 この城では、夜が続きすぎる。

 眠って起きても、外が暗い。

 食事を取っても、話をしても、また暗い。

 人間の体内時計など、簡単におかしくなる。


(ここに長くいたら、本当に日付が分からなくなる。)

(ルシアに悪気がなくても、人間が暮らす場所じゃない。)

(いや、ルシアにとってはここが普通なんだ。)


 ルシアはソータの顔を覗き込んだ。


「嫌?」


「嫌っていうか、驚いた。」

「人間は、昼と夜で時間を見てるところがあるからな。」


「そうなの?」

「夜の方が綺麗なのに。」


「綺麗だけど、ずっと夜だと落ち着かない。」

「朝になった感じがしないんだ。」


「朝になった感じ。」


 ルシアはその言葉を口の中で転がすように繰り返した。


「人間は、朝になると嬉しいの?」


「人によるけど。」

「少なくとも、一区切りにはなる。」

「今日が始まったとか、昨日が終わったとか。」


「昨日と今日を、光で分けるのね。」


「そうだな。」


 ルシアは少し黙った。

 それから窓の外を見た。


「私は、夜で分けていたわ。」

「月が高い時。」

「月が傾く時。」

「霧が濃くなる時。」

「黒薔薇が開く時。」

「そういうもので、なんとなく分かる。」


「吸血鬼らしいな。」


「そう?」


「ああ。」


 ルシアは嬉しそうに笑った。

 ソータが何気なく言っただけの言葉でも、彼女は宝物のように受け取る。

 その反応に、ソータはまた少し胸を詰まらせた。


 扉の外から、杖の音が近づいてきた。

 かつん。

 かつん。

 かつん。

 チャールズが現れる合図だった。


「お話中、失礼いたします。」


 扉の前に、黒い燕尾服のスケルトンが立っていた。

 いつものように背筋が伸び、白い手袋を整えている。


「ソータ様。」

「この城の時間について、お尋ねでございますか。」


「はい。」

「夜が二十時間くらいあるって聞いて、ちょっと驚いてます。」


「人間の方であれば、当然かと存じます。」

「この城は、古い吸血鬼族の領域に建てられております。」

「周辺には夜を引き延ばす性質があり、昼の光は短く、弱くなります。」

「霧と夜気が魔力を留め、吸血鬼族にとっては大変過ごしやすい土地でございます。」


「人間にとっては?」


「長期滞在には、多少の注意が必要でございます。」

「眠りの周期、食欲、日数感覚、気分の上下に影響が出る可能性がございます。」


「やっぱりか。」


「ただし、領域そのものは広大ではございません。」

「城の内側におりますと夜が長く感じられますが、外縁へ向かえば、比較的短時間で通常の昼夜へ戻ります。」


 ソータはその言葉に反応した。


「比較的短時間?」


「はい。」

「方向さえ誤らなければ、徒歩でも抜けられます。」

「もちろん、霧に惑わされなければ、という条件はございますが。」


 ルシアが胸を張った。


「私が教えれば迷わないわ。」


「それは助かる。」


 ソータは素直に言った。

 ルシアは少し得意そうにした。


 チャールズは静かに続ける。


「ただし、領域外へ出れば、ルシア様にとっては不利になります。」

「日光の影響も強まり、人間社会の目もございます。」

「そのため、ルシア様が外へ出る場合は、時間、服装、移動経路を慎重に選ぶ必要がございます。」


「私は少しなら平気よ。」

「すぐ灰になるわけではないもの。」


「はい。」

「ただ、肌がちりちりし、目が眩み、機嫌が非常に悪くなられます。」


「それは余計よ、チャールズ。」


「事実でございます。」


 ルシアは頬を膨らませた。

 ソータは小さく笑った。


 この城は危険だ。

 ルシアも危険な力を持っている。

 だが、こうして話していると、ただ恐れるだけでは見えないものがある。

 彼女にとっての当たり前。

 彼女にとっての不便。

 彼女にとっての孤独。

 それらが少しずつ、夜の中から形を持って浮かび上がってくる。


◆◇◆


 ルシアは、その日、ソータを城の中へ案内した。

 ソータの体力が戻ってきたことが嬉しいらしく、歩く速度はいつもより少し弾んでいた。

 ただし、ソータが少し遅れるとすぐ振り返る。

 階段では先に立つが、途中で手を差し出す。

 長い廊下では、隣に並びたがる。


 ソータはそのたびに、彼女が無意識に距離を詰めてくることを感じていた。


「まずは、黒薔薇の温室。」


 ルシアが扉を開けると、湿った甘い香りが流れ出した。

 温室の中には、黒い薔薇が無数に咲いていた。

 黒と言っても完全な黒ではない。

 紫の灯を受けると、花弁の端が赤く滲む。

 血のようでもあり、夜空のようでもあった。


 硝子張りの天井には霧が薄くかかり、月明かりがぼんやりと落ちている。

 蔓は鉄の支柱に絡みつき、一部は勝手に床へ伸びていた。

 ソータが足を踏み入れると、近くの蔓がほんの少し動いた気がした。


「今、動かなかったか?」


「寂しがりなの。」

「知らない人が来ると、少し近づくのよ。」


「それは植物の動きじゃない。」


「でも、噛まないわ。」

「たぶん。」


「たぶんは怖い。」


 ルシアは楽しそうに笑った。

 黒薔薇の間を歩きながら、彼女は一輪ずつ指先で触れていく。

 その仕草は優しかった。

 怪物を従える姫というより、庭を世話する少女に近い。


「この薔薇は、いつも私と一緒にいるわ。」

「でも、話はしない。」

「蔓は動くけれど、返事はしない。」

「チャールズは話すけれど、忙しい時もある。」

「だから、ここで誰かと歩くのは少し変な感じ。」


 ソータは足を止めた。

 ルシアも振り返る。


「変?」


「悪い意味ではないわ。」

「胸の中が少しふわっとする。」

「黒薔薇が、いつもより綺麗に見える。」


 ルシアは何気なく言った。

 だが、ソータにはその言葉が重く聞こえた。


 誰かと一緒に歩くだけで、庭が違って見える。

 それほど、この城には誰もいなかったのだ。


 次に案内されたのは、月光の回廊だった。

 黒い石の壁に、銀の模様が彫り込まれている。

 窓は細く高く、そこから差し込む月明かりだけで回廊全体が淡く光っていた。

 足音がよく響く。

 ソータとルシアの足音。

 少し遅れて、遠くでチャールズの杖の音。

 それ以外は何もない。


「ここは、両親が好きだった場所らしいわ。」


「らしい?」


「覚えていないもの。」

「チャールズがそう言っていた。」

「お父様は月を見るのが好きで、お母様はこの銀の模様が好きだったって。」


 ルシアは壁に手を触れた。

 銀の模様は、古い蔓と羽を組み合わせたような形をしている。


「ここに二人で立っていたのかしら。」

「何を話していたのかしら。」

「子供ができたら、この城を明け渡すって、最初から決めていたのかしら。」


 ソータは何も言えなかった。

 吸血鬼族の決まり。

 子供が育てば、両親は城を去る。

 それが当たり前。

 ルシアはそう聞かされて育った。


 だが、当たり前だから寂しくないわけではない。


「ルシアは、両親に会いたいのか?」


 ソータが聞くと、ルシアは少し考えた。


「分からない。」

「会ったら、何を話せばいいのか分からないもの。」

「でも、どうして行ってしまったのかは聞きたい。」

「それが普通だとしても、私は少し嫌だったって言ってみたい。」


「言えばいいと思う。」


「怒られない?」


「怒られるかもしれないけど。」

「でも、言わないと伝わらない。」


 ルシアはソータをじっと見た。


「ソータは、そういうことを言うのが上手ね。」


「上手じゃない。」

「むしろ、最近ようやく逃げないようにしてるだけだ。」


「逃げない…」


 ルシアはその言葉を覚えるように繰り返した。


「私は、逃げている?」


「分からない。」

「でも、まだ話してないことは多いと思う。」


「誰と?」


「俺と。」

「ミレイユと。」

「オルドアイと。」

「たぶん、チャールズとも。」


 ルシアは少しだけ目を伏せた。

 けれどすぐに笑った。


「難しい話は、後にするわ。」

「次は肖像画の間。」


 その笑顔は明るかった。

 だが、少しだけ逃げているようにも見えた。


◆◇◆


 肖像画の間は、城の奥にあった。

 高い天井。

 黒い柱。

 紫の灯。

 壁には古い絵がいくつも飾られている。

 その中でも最も大きな肖像画が、正面の壁に掛けられていた。


 ルシアの両親だった。

 父は長い銀紫の髪を持つ、冷たい美貌の男。

 母は黒いドレスをまとった、気高い女。

 二人とも大きな羽を背にしている。

 その表情は美しいが、どこか遠い。

 絵の中にいるのに、見る者を見返さないような冷たさがあった。


 ルシアはその前に立った。

 いつもより静かだった。


「この絵でしか知らないの。」


「そっか。」


「チャールズは、優しい方々だったと言うわ。」

「でも、優しいならどうして置いていくのかしら。」


 ソータは絵を見上げた。

 答えは出ない。

 種族の掟。

 長命な吸血鬼の価値観。

 孤独に強い種の在り方。

 そう説明することはできる。

 だが、それでルシアの胸の空白が埋まるわけではない。


「ルシアは、置いていかれたと思ってるのか?」


 ルシアはすぐには答えなかった。

 しばらく絵を見て、それから小さく頷いた。


「たぶん。」

「そう思いたくないから、決まりだって言っていたのかもしれない。」

「吸血鬼族はそういうもの。」

「だから寂しくない。」

「だから普通。」

「そう思えば、少し楽だった。」


「今は?」


「今は、人間の家族を知ってしまった。」

「ソータが話してくれたでしょう。」

「一緒に食べて、怒って、笑って、心配して、待っているって。」

「それを聞いてから、この絵を見ると、少し胸が痛い。」


 ルシアの声は静かだった。

 強い吸血鬼の姫ではなく、城に残された一人の娘の声だった。


 ソータは胸が詰まった。

 ルシアは危ない。

 自分を強引に連れてきた。

 人間の常識も知らない。

 だけど、その根っこにあるのは悪意ではない。

 知らなかっただけだ。

 知らされなかっただけだ。

 そして、知らないまま長すぎる夜の中で一人でいた。


 ルシアは突然、ソータの袖を摘んだ。


「でも、今はソータがいるから痛くないわ。」


 ソータは息を止めた。


「いや、それは……。」


「本当よ。」

「ソータが隣にいると、この絵を見ても少し平気。」

「だから、もっといてほしいと思う。」


 まっすぐだった。

 まっすぐすぎて、ソータは簡単に慰められなかった。


「ルシア。」


「分かっているわ。」

「帰る約束があるのでしょう。」

「ミレイユとオルドアイが待っているのでしょう。」

「チャールズにも言われたわ。」

「でも、思うだけなら自由でしょう?」


 ルシアは笑った。

 その笑顔は、少し寂しかった。


「私は、思うことまで我慢するほど進んでいないわ。」


 ソータは何も言えなかった。

 ただ、袖を摘むルシアの指を無理に振りほどくこともできなかった。


◆◇◆


 次に案内されたのは、食堂だった。

 長いテーブル。

 銀の燭台。

 黒い椅子。

 壁には古い食器棚。

 豪華ではあるが、使われた気配がほとんどない。

 テーブルの上には埃ひとつない。

 それは掃除が行き届いているからだ。

 だが、食事の匂いも、人の笑い声も、椅子を引く音も染みついていない。


「ここは、人間の家族が食事をする場所を真似て整えたの。」


 ルシアは少し得意そうに言った。


「真似て?」


「昔、チャールズに本を読んでもらったの。」

「人間の家では、家族が同じ食卓で食事をするって。」

「だから、この部屋をそういう場所にしたの。」


 ソータは長いテーブルを見た。

 椅子は十脚以上ある。

 だが、座る者はいない。


「使ったことは?」


「たまに一人で座るわ。」

「でも、私は食事をしなくても平気だから、すぐ飽きるの。」

「グールは座らせると椅子を汚すし、スケルトンは食べないし、チャールズは立っている方が落ち着くと言うし。」


「チャールズさんらしいな。」


「だから、ソータが座った時は楽しかった。」

「人間が食べるのを見るのも面白いわ。」

「噛んで、飲み込んで、味で顔が変わる。」

「不思議。」


「見られすぎると食べづらいけどな。」


「そうなの?」

「じゃあ、次は少しだけ見るわ。」


「少しは見るのか。」


「見たいもの。」


 ルシアは真剣だった。

 ソータは苦笑する。

 彼女の好奇心は幼い。

 だが、時々、妖艶な外見と混ざってひどく危険な距離感になる。

 本人に悪気がないからこそ、余計に厄介だった。


 食堂の奥には、小さな戸棚があった。

 ルシアはそこから古い本を取り出した。

 表紙には、人間の家族らしき絵が描かれている。

 両親と子供たちが食卓を囲んでいる絵だった。


「これを読んで、人間の食堂を作ろうと思ったの。」


 ソータは本を受け取った。

 古い紙の匂いがする。

 子供向けの物語のようだった。


「こういう本が好きなのか?」


「好き。」

「でも、少ないの。」

「昔のものばかり。」

「人間の街には、今もこういう本がある?」


「あると思う。」

「もっとたくさん。」


「たくさん。」


 ルシアの瞳が輝いた。


「家族の本も?」

「街の本も?」

「恋人の本も?」


「たぶんある。」


「ソータが持ってきてくれる?」


 言われて、ソータは少し固まった。

 ルシアはまっすぐ見ている。

 お願いというより、希望を見つけた子供の目だった。


「次に来る時は、考えるよ。」


 ソータはそう答えた。

 軽く言ったつもりだった。

 けれど、ルシアの表情が変わった。


「次。」


 彼女は小さく言った。


「今、次って言った?」


「あ。」


 ソータは自分の言葉に気づいた。

 しまったとは思わなかった。

 むしろ、自然に出ていた。

 帰る。

 でも、縁を切るつもりではない。

 その感覚が、もう自分の中に生まれていた。


「言ったな。」


「次に来るの?」


「まだちゃんと道を作らないといけない。」

「ミレイユにも、オルドアイにも説明しないといけない。」

「君のことも話さないといけない。」

「でも、必要なものがあるなら、運ぶことはできる。」


 ルシアは黙った。

 それから、両手で本を抱えた。


「運ぶ。」


「ああ。」

「俺は運送屋だからな。」


 ルシアは下を向いた。

 顔が髪に隠れる。

 ソータは、怒ったのかと思った。

 だが違った。


「嬉しい。」


 小さな声だった。


「帰る話なのに、少し嬉しい。」

「変ね。」


 ソータは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 帰ることが、終わりではなく道になる。

 ルシアにとって、それは初めての感覚なのかもしれない。


◆◇◆


 その日の終わりも、夜だった。

 もっとも、この城では終わりという言葉にあまり意味がない。

 月は少し傾き、霧の流れが変わった。

 黒薔薇の香りが弱まり、城の奥の燭火が少し暗くなった。

 ルシアはそれで時間を感じているらしかった。


 ソータは客室に戻り、椅子に座った。

 歩き回ったせいで、少し疲れた。

 だが、悪い疲れではない。

 体が戻っている証のような疲労だった。


 ルシアは寝台の端に腰かけて、こちらを見ていた。

 今日は妙に静かだった。

 いつもなら、次から次へ質問が飛んでくる。

 なぜ人間は眠るのか。

 なぜ食べる時に味が大事なのか。

 なぜ恋人は手をつなぐのか。

 なぜ家族は一緒に怒るのか。

 そんな質問が、止まらないほど出てくる。


 けれど今夜は違った。


「疲れた?」


 ルシアが聞いた。


「少し。」

「でも、だいぶ歩けるようになった。」


「よかった。」


 ルシアは微笑んだ。

 だが、その微笑みの奥に不安があった。


 ソータは気づいた。

 自分の体力が戻ることは、ルシアにとって嬉しいことのはずだ。

 倒れない。

 苦しまない。

 元気になる。

 でも同時に、それは帰れる日が近づくことでもある。


「ルシア。」


「なに?」


「明日は、もっとゆっくりでいい。」

「俺を喜ばせようとしすぎなくていい。」


 ルシアは目を瞬かせた。


「どうして分かったの?」


「なんとなく。」


「私はそんなに分かりやすい?」


「かなり。」


「そう。」


 ルシアは少し考え込んだ。

 それから、不思議そうに自分の胸に手を当てた。


「ソータが笑うと、ここが温かくなるの。」

「だから、もっと笑わせたいと思う。」

「ソータが驚くと、私を見てくれるでしょう。」

「だから、もっと驚かせたいと思う。」

「ソータが喜ぶと、私も嬉しい。」

「だから、ソータを喜ばせることだけ考えたらいいのかなと思った。」


 ソータは静かに聞いていた。

 それは純粋な言葉だった。

 危ういほど純粋だった。


「でも、それだけだと駄目なの?」


 ルシアが尋ねる。


 ソータは答えを探した。

 駄目、とだけ言えば傷つける。

 いい、と言えば誤解させる。

 ルシアはまだ、人と人の距離を学んでいる途中だ。


「喜ばせようとしてくれるのは嬉しい。」

「でも、俺が何を大事にしてるかも見てほしい。」


「帰ること?」


「それも。」

「約束も。」

「待ってる人たちも。」

「君のことも。」


「私のことも?」


「ああ。」

「だから、ちゃんと話してる。」


 ルシアはソータをじっと見た。

 薄紫の瞳が揺れている。


「私、ソータを困らせている?」


「困る時はある。」


 ルシアの肩が少し落ちる。


「でも、嫌いじゃない。」


 その言葉に、ルシアは顔を上げた。


「嫌いじゃない?」


「ああ。」


「かわいい?」


「それは前にも言っただろ。」


「もう一度。」


「かわいいよ。」


 ルシアは嬉しそうに笑った。

 その笑顔だけなら、年相応の少女のようだった。

 だが、次の瞬間には、黒紫のドレスの裾を少し摘み、ゆっくり首を傾げる。


「きれい?」


 ソータは言葉に詰まった。

 無邪気なのか。

 狙っているのか。

 最近、少し分からなくなってきている。


「……きれいだよ。」


 ルシアはさらに嬉しそうにした。


「そう。」

「それも嬉しい。」


 ソータは視線をそらした。


(危ない。)

(体力が戻ってきたせいで、別の意味で危ない。)

(いや、冷静になれ。)

(相手は吸血鬼で、連れ去った張本人で、でも悪い子ではなくて……。)

(情報量が多すぎる。)


 ルシアはそんなソータを見て楽しそうにしている。

 どうやら、少しだけ分かってやっている顔だった。


「ソータ。」


「何だ?」


「明日は、もっと喜ばせるわ。」


「だから、ほどほどに。」


「ほどほどに喜ばせる。」


「そういう意味じゃない。」


 ルシアはくすくす笑った。

 城の長い夜に、その笑い声が柔らかく響いた。


 扉の外で、チャールズが小さく咳払いのような音を立てた。


「ルシア様。」

「喜ばせることは結構でございますが、何事も相手のご意向を確認してからでございます。」


「分かっているわ、チャールズ。」

「私はかなり進んだルシアだもの。」


「それは大変頼もしいことでございます。」


 チャールズの声は丁寧だったが、どこか心配そうだった。


 ソータは窓の外を見た。

 夜はまだ長い。

 この城では、夜が二十時間も続く。

 だが、その長い夜の中で、何かが少しずつ変わっている。


 ルシアはソータを閉じ込めたいだけの姫ではなくなりつつある。

 ソータもまた、彼女をただの危険な吸血鬼として切り捨てられなくなっている。


 それが良いことなのか、悪いことなのかはまだ分からない。

 ただ一つだけ分かることがある。


 この城にも、道が必要だ。

 外へ向かう道。

 人と人をつなぐ道。

 そして、ルシアが長すぎる夜から出るための道。


(俺は、また荷物を増やしてるな。)

(でも、運ぶって決めたなら。)

(ちゃんと背負わないといけない。)


 ソータは静かに息を吐いた。

 窓の外で、黒薔薇が夜風に揺れていた。

 長すぎる夜は、まだ終わらない。

 けれど、どこか遠くで、短い朝が近づいている気がした。

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