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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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122/150

第122話:紅い髪紐へ届く夜

 グランデリアの夜は、いつもより冷えていた。

 クラウゼン商会の建物は表通りの喧騒が消えた後も、完全には眠らない。

 倉庫の奥では翌朝出す荷の確認が残り、帳場にはまだ灯りがひとつだけ残っている。

 馬車置き場には油を塗った車輪が並び、積み込み場には空の木箱と麻袋が整然と置かれていた。


 いつもなら、その静けさはミレイユにとって落ち着くものだった。

 仕事が終わり、帳簿を閉じ、明日の荷の流れを頭の中で確認する時間。

 それは商人としての彼女にとって、呼吸を整えるようなものだった。


 だが、その夜のミレイユは帳簿の数字を見ていなかった。

 机の上に広げた紙には、北の砦へ向けた物資の追加案が書かれている。

 保存食。

 薬草。

 矢羽根。

 革紐。

 冬用の毛布。

 男たちの村へ回す分の予備。

 どれも必要なものだ。

 だが、肝心の運ぶ者が戻っていない。


 ソータが出発してから、日が経ちすぎていた。

 北の砦へ行くだけなら、彼はすぐに戻れる。

 男たちの村へ回ったとしても、何らかの報告はあるはずだった。

 まして、あのソータなら、遅れる時は理由を伝えようとする。

 荷の流れを止めないために。

 待つ者を不安にさせないために。


 それがない。

 何もない。


 ミレイユは羽ペンを置いた。

 紅い髪紐が、肩の上でわずかに揺れる。


(遅すぎる。)

(北の砦で何かあった?)

(男たちの村?)

(隣国方面の集団?)

(いいえ、ソータなら、それでも戻る道を作ろうとするはず。)

(戻れない理由があるの?)


 胸の奥に嫌な重さが沈んでいる。

 商人としての勘ではない。

 女としての不安でもない。

 もっと具体的で、冷たいものだった。


 何かが起きた。

 それだけは分かる。

 だが、その何かが分からない。


 ミレイユは立ち上がった。

 窓へ歩き、外を見る。

 夜のグランデリアは静かだった。

 通りの灯はまばらで、遠くに巡回の兵士の足音が聞こえる。

 この街はまだ平穏に見える。

 だが、その平穏の外側で、ソータが何かに巻き込まれている気がしてならなかった。


「アルベール。」


 ミレイユが呼ぶと、扉の向こうからすぐに返事があった。


「はい、ミレイユ様。」


 扉が静かに開く。

 アルベールが入ってきた。

 いつものように身なりは整っている。

 白い手袋。

 無駄のない所作。

 静かな目。

 彼は有能な執事だった。

 そして、ただの執事ではないことを、ミレイユはもう十分に知っている。


「北の砦から、まだ何も?」


「現時点では、ございません。」


「男たちの村からも?」


「はい。」

「通常の伝令経路では、何も届いておりません。」


 ミレイユは眉を寄せた。


「通常の、ね。」


「はい。」

「通常でない経路から何かが来る可能性は、否定いたしません。」


「妙な言い方をするわね。」


「ミレイユ様がお感じになっている不穏と、おそらく同じものを、私も少々感じておりますので。」


 ミレイユはアルベールを見た。

 アルベールは頭を下げたまま、穏やかな顔をしている。

 だが、声にはいつもよりわずかな硬さがあった。


「あなたがそう言う時は、だいたい面倒なことが起きるわ。」


「恐れ入ります。」


「褒めていないわ。」


「承知しております。」


 ミレイユは小さく息を吐いた。

 アルベールは昔からこうだ。

 丁寧で、控えめで、完璧に見える。

 だが、必要な時にはこちらが聞いていないことまで察し、必要でない時には知っていても言わない。

 有能すぎる執事というのは、時々とても扱いづらい。


「あなた、本当に何も知らないの?」


「ソータ様の現在地については、存じません。」


「現在地については?」


 ミレイユの声が少し低くなる。

 アルベールは一切動じなかった。


「はい。」

「ただし、北方に古い夜の気配が動いていることは、薄々感じておりました。」


「古い夜?」


「言葉にすれば、そう表現するのが最も近いかと。」


 ミレイユは机に戻り、指先で帳簿の端を叩いた。


「それは、ソータを危険にさらすもの?」


「危険でないとは申し上げられません。」


「回りくどいわね。」

「危険なのね。」


「はい。」


 ミレイユの指が止まった。

 部屋の空気が少し重くなる。


「なら、なぜ先に言わなかったの。」


「確証がございませんでした。」

「それに、動いたものがソータ様に直接関わるかどうかまでは、判断できませんでした。」


「今は?」


「関わった可能性が高いと見ております。」


 ミレイユは目を細めた。


「アルベール。」


「はい、ミレイユ様。」


「隠していることがあるなら、今のうちに言いなさい。」


 その声には、商会の令嬢としての威圧があった。

 感情に任せて怒鳴る声ではない。

 相手が逃げ道を探す前に、先に扉を閉める声だった。


 アルベールは静かに一礼した。


「私の知識の中には、確かに該当し得る存在がございます。」

「ただし、滅んだものとされて久しい種族ゆえ、軽々に断言することは控えておりました。」


「滅んだもの?」


「はい。」


 ミレイユが問い返そうとした、その時だった。


 商会の門前で、ベルが鳴った。


 夜遅い商会に鳴るには、あまりにもはっきりした音だった。

 小さく、しかし何度も。

 一度。

 二度。

 三度。

 控えめだが、諦めない鳴らし方。


 ミレイユとアルベールは同時に顔を向けた。


「こんな時間に?」


「確認してまいります。」


「私も行くわ。」


「ミレイユ様。」


「止めないで。」

「今の話の流れで、私が部屋に残ると思う?」


 アルベールは一瞬だけ沈黙した。

 そして、深く一礼する。


「承知いたしました。」

「ですが、私より前には出ませんように。」


「命令しているのは私よ。」


「お願いでございます。」


「……分かったわ。」


 ミレイユは燭台を手に取り、アルベールの後に続いた。


◆◇◆


 商会の玄関前には、黒い外套をまとった旅人が立っていた。

 夜の影に溶けるような姿だった。

 帽子を深く被り、顔はほとんど見えない。

 背には小さな荷袋。

 手には一通の手紙。

 それを、門の隙間越しにじっと差し出している。


 門番の男は困惑していた。

 話しかけても返事がないらしい。

 旅人は何も言わない。

 ただ、手紙を見せる。

 それだけを繰り返していた。


「何者?」


 ミレイユが低く聞く。

 門番は振り返り、慌てて頭を下げた。


「ミレイユ様。」

「それが、一言も話さないのです。」

「ただ、何やら手紙のような物を見せておりまして……。」


 アルベールが一歩前に出た。

 その目が、旅人の足元から手元へ、そして外套の奥へ静かに滑る。

 ほんの一瞬だけ、彼の表情が変わった。


「……なるほど。」


 小さな声だった。

 だが、ミレイユは聞き逃さなかった。


「アルベール?」


「ミレイユ様、少々お下がりください。」


「何者なの。」


「敵意はございません。」

「少なくとも、この場で害をなす意図はないかと。」


「なら、受け取りなさい。」


「かしこまりました。」


 アルベールは門へ近づき、旅人の差し出す大きな手紙を静かに受け取った。

 その所作は、まるで高貴な客から招待状を受け取る時のように丁寧だった。

 旅人は手紙が渡ったことを確認すると、ゆっくりと深く一礼した。


 その礼は奇妙だった。

 妙に整っている。

 人間の旅人というより、誰かに仕込まれた召使いのようだった。

 そして、頭を下げたまま、旅人はすっと一歩下がった。


「待ちなさい。」


 ミレイユが声をかけた。

 旅人は止まらなかった。

 夜の路地へ滑るように移動し、次の瞬間には影の奥へ溶けるように姿を消した。


 門番が慌てて外を見る。


「い、いません。」


「追わなくていいわ。」


 ミレイユはそう言った。

 追ったところで無駄だと、彼女にも分かった。


 アルベールは手紙を持ったまま、旅人が消えた方角を見ていた。

 そして、本当に小さく呟いた。


「骨の使い……。」

「やはり、夜の眷属でございましたか。」


 ミレイユの目が鋭くなる。


「アルベール。」

「今、何と言ったの?」


「失礼いたしました。」


「聞こえたわ。」

「骨の使い、と言ったわね。」


「はい。」


「説明しなさい。」


「まずは手紙をお確かめください。」

「差出人をご覧になれば、優先すべきことが分かるかと。」


 ミレイユは手紙を見た。

 封の表に、自分の名が書かれている。


 ミレイユへ。


 そして、差出人の名。


 ソータ。


 ミレイユの呼吸が止まった。

 手が伸びる。

 アルベールが静かに差し出す。

 ミレイユは手紙を受け取った。


 封を切る指が、わずかに震えていた。

 それを見られたくなくて、彼女は少しだけ顎を上げた。


「部屋に戻るわ。」


「はい、ミレイユ様。」


「アルベール。」

「あなたも来なさい。」


「もちろんでございます。」


◆◇◆


 帳場の灯りの下で、ミレイユは手紙を開いた。

 紙にはソータの字があった。

 少し乱れている。

 疲れている時の字だ。

 けれど、確かにソータの字だった。


 ミレイユは一度だけ目を閉じた。


(生きている。)

(少なくとも、手紙を書ける状態にはある。)


 それだけで、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。

 だが、安心するにはまだ早い。

 手紙が届いたということは、同時に戻れない理由があるということでもある。


 ミレイユは読み始めた。


「ミレイユへ。」

「まず、心配をかけてごめん。」

「俺は生きている。」

「命に別状はない。」

「体力をかなり消耗していて、すぐには戻れなかった。」

「でも、今は少しずつ回復している。」


 ミレイユの唇が小さく動いた。


「……馬鹿。」


 声は低かった。

 怒っている。

 だが、その奥に安堵が混じっていることを、アルベールは黙って見ていた。


 ミレイユは続きを読んだ。


「男たちの村は、どくろ旗の盗賊軍団に囲まれた。」

「隣国のせいにして村を潰し、その先の北の砦を狙うつもりだったらしい。」

「村はかなり危なかったけど、何とか持ちこたえた。」

「俺も物資を出して、補修して、怪我人を運んでいた。」

「途中で《車体爆裂突進》を使った。」

「そのせいでかなり消耗したし、敵に狙われた。」


 ミレイユの眉が跳ねた。


「あの人は……。」

「またそんな大技を。」


 アルベールが静かに口を挟む。


「ソータ様らしい判断でございます。」


「褒めていないわ。」


「存じております。」


 ミレイユは続きを読んだ。


「矢の雨を受けそうになった時、紫の羽を持つ女性が現れた。」

「彼女は俺を守ってくれた。」

「その後、盗賊軍団を退けて、村を助けてくれた。」

「ただ、その後で俺は彼女の城に連れてこられた。」

「強引だったけど、今のところ危害は加えられていない。」

「むしろ、倒れかけていた俺を休ませてくれている。」


 ミレイユの手が止まった。

 部屋の空気が変わる。


「紫の羽を持つ女性。」


 ミレイユはその一文をもう一度読んだ。

 次に、アルベールを見た。


「心当たりがあるのね。」


 アルベールはすぐには答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。


「アルベール。」


「はい、ミレイユ様。」


「言いなさい。」


「確証はございません。」

「ですが、紫の羽、夜の眷属、骨の使い、死者を動かす力。」

「それらが一致する存在となると、吸血鬼族の可能性がございます。」


「吸血鬼族?」


 ミレイユの声は冷たかった。

 驚きよりも、情報を咀嚼する商人の声だった。


「滅んだのではなかったの。」


「一般には、そのように考えられております。」


「一般には。」


「はい。」


「あなたの昔の知識では?」


「完全に滅んだとは、私は一度も断言しておりません。」


 ミレイユはじっとアルベールを見た。


「それを先に言いなさい。」


「北方で気配を感じた段階では、関連があるとは申し上げられませんでした。」

「また、吸血鬼族であった場合でも、個体差が大きく、必ずしも人間を襲うとは限りません。」


「ソータは連れて行かれているのよ。」


「はい。」

「極めて問題のある行動でございます。」


「随分冷静ね。」


「私まで慌てますと、ミレイユ様がさらにお怒りになりますので。」


「もう怒っているわ。」


「承知しております。」


 アルベールは恭しく頭を下げた。

 ミレイユは手紙に視線を戻す。


「彼女の名前は、ルシア。」

「この城には彼女以外の吸血鬼族はいないらしい。」

「側近にチャールズという、話せるスケルトンがいる。」

「ルシアは人間を襲って血を吸うような相手ではない。」

「むしろ、人間のことをよく知らない。」

「かなり強引で危ないところはあるけど、悪意だけで動いているわけではなさそうだ。」


 ミレイユはそこで深く息を吸った。

 悪意ではない。

 それは時に、悪意より厄介だ。


「ルシアは俺をすぐには帰したくないらしい。」

「でも、話は聞いてくれる。」

「俺は帰るつもりだ。」

「村にも、砦にも、グランデリアにも。」

「約束を忘れていない。」

「ミレイユにも、ちゃんと戻る。」

「勝手にいなくなった形になってしまって、本当にごめん。」

「戻ったら、全部話す。」


 ミレイユはゆっくり目を閉じた。


「当然よ。」


 その声は静かだった。

 怒りはある。

 心配もある。

 安堵もある。

 そして、どうしようもないほどソータらしい文面への苛立ちもある。


「話しただけで済むと思っているのかしら。」


「ソータ様なりの誠意かと。」


「分かっているわ。」

「分かっているから、腹が立つのよ。」


 ミレイユは続きを読んだ。


「オルドアイにも手紙を出した。」

「彼女にも、無茶に探しに来ないよう伝えている。」

「ミレイユも、どうか今は無茶をしないでほしい。」

「ただ、情報は欲しい。」

「吸血鬼族や、夜の城について何か知っていることがあれば、アルベールに聞いてほしい。」

「たぶん、あの人なら何か知っている気がする。」


 ミレイユの視線が、ゆっくりアルベールに向いた。


「ご指名よ。」


「光栄でございます、ソータ様。」


「本人はいないわ。」


「では、心中にて。」


「ふざけないで。」


「失礼いたしました。」


 ミレイユは手紙の最後を読んだ。


「俺は必ず戻る。」

「だから、待っていてほしい。」

「ただ待つだけじゃなくて、俺が戻る道を作るために力を貸してほしい。」

「ミレイユなら、きっと俺より上手く段取りを作れる。」

「頼りにしている。」

「ソータ。」


 読み終えた瞬間、ミレイユは手紙を机の上に置いた。

 部屋はしばらく静まり返った。


 アルベールは何も言わなかった。

 ミレイユが最初に何を言うかを、待っていた。


 ミレイユは手紙を見つめたまま、紅い髪紐に触れた。


「頼りにしている、ですって。」


 唇がわずかに笑う。

 だが、目は笑っていなかった。


「勝手に吸血鬼の城に連れて行かれて。」

「変な女に介抱されて。」

「四日近く連絡もできなくて。」

「それで、私に段取りを作れと。」


「非常にソータ様らしいかと。」


「ええ。」

「本当に、腹立たしいくらいソータらしいわ。」


 ミレイユは椅子に座った。

 背筋は真っ直ぐだった。

 さっきまでの不安に沈む女ではない。

 商会を動かす令嬢の顔になっていた。


「アルベール。」


「はい、ミレイユ様。」


「吸血鬼族について、あなたが知っていることを全部出しなさい。」

「嘘も隠し事も許さないわ。」

「今必要なのは、恐れることではなく、条件を整理することよ。」


「かしこまりました。」


「それと、ソータへの返事を書くわ。」

「オルドアイにも連絡を取る必要がある。」

「北の砦へ向けた物資も用意する。」

「もしソータが戻ってきた時、すぐ動けるようにしておく。」


「承知いたしました。」


「それから。」


 ミレイユの声が少し低くなる。


「そのルシアという女が、ソータを返す気がない場合の手も考えておきなさい。」


 アルベールの眼差しがわずかに鋭くなった。


「穏便な手段から、でよろしいでしょうか。」


「当然よ。」

「ソータを助けた相手なら、いきなり敵に回すのは愚策だわ。」

「でも、ソータを返さないなら話は別。」


「かしこまりました。」


 ミレイユはもう一度手紙を手に取った。

 乱れたソータの字を指先でなぞる。

 怒りがある。

 心配がある。

 嫉妬もある。

 紫の羽の女。

 介抱。

 城。

 ルシア。

 どれも心穏やかに聞ける言葉ではない。


 だが、最後の一文だけは、胸の奥にまっすぐ届いていた。


 俺は必ず戻る。


「戻ってきたら、説教ね。」


「はい。」


「その後で、詳しく聞くわ。」


「はい。」


「ルシアという女のことも。」


「はい。」


「オルドアイの反応も。」


「はい。」


 ミレイユは小さく息を吐いた。


「……無事でいなさい、ソータ。」


 その声だけは、誰に命じるものでもなかった。

 ただ、遠くへ届いてほしい願いだった。


 アルベールは静かに一礼した。


「ソータ様なら、きっと戻られます。」


「当然よ。」

「戻ってこなかったら、こちらから取りに行くわ。」


「その際は、全力でお供いたします。」


「当たり前よ。」


 ミレイユは手紙を丁寧に畳んだ。

 紅い髪紐が、燭火の中でわずかに揺れる。


 夜はまだ深い。

 だが、何をすべきかは見え始めていた。


 ソータは生きている。

 なら、道は作れる。

 荷も、人も、約束も、届く道を作るのが商会の仕事だ。


(待つだけなんて、性に合わないわ。)

(ソータ。)

(あなたが帰る道くらい、私が整えてあげる。)

(だから、余計な女に捕まったまま、ぼんやりしているんじゃないわよ。)


 ミレイユは新しい紙を広げた。

 返事を書くために。

 そして、ソータを取り戻す段取りを始めるために。

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