第121話:北の砦へ届いた手紙
男たちの村は、夜が明けても静かだった。
昨日まで村を囲んでいたどくろ旗の大集団は消え、柵の外には折れた矢や焦げた草、踏み荒らされた畑の跡だけが残っていた。
壊れかけた柵の向こうには、不自然に盛り上がった土がいくつもあり、その下に何が埋まっているのかを確かめようとする者はいなかった。
盗賊たちは消えた。
逃げた者も少しはいたかもしれないが、村を囲んでいた脅威は完全に取り除かれていた。
あれほどの数がいたはずなのに、朝になった村の周囲は、戦いの後とは思えないほど静まり返っていた。
助かったはずだった。
男たちの村は落ちなかった。
食料も水場も守られた。
負傷者はいる。
柵も家も傷ついた。
だが、村そのものは生きている。
それなのに、誰も素直には喜べなかった。
村を救った紫の羽の女が、最後にソータを抱えて空へ消えたからだった。
バルクは広場の中央に立っていた。
斧を手にしているが、振るう相手はもういない。
その顔には戦いの疲労よりも、もっと深い焦りが刻まれていた。
「俺が北の砦へ行く。」
バルクは低い声で言った。
「ソータが連れ去られた。」
「あの女が何者かも分からん。」
「砦に報告しなければならん。」
男たちは誰も反対しなかった。
村の被害を考えれば、バルクのような戦力を動かすのは痛い。
だが、あの出来事を北の砦へ伝えずにいることはできなかった。
特にオルドアイには。
ソータが最後に戻ると約束していた相手の一人には、何より早く知らせなければならなかった。
メバドスが杖をつくようにして歩み出た。
村長の顔には疲労が濃く残っている。
それでも、目はまだ冷静だった。
「わしも行く。」
「村長。」
バルクが振り返る。
メバドスはゆっくり首を横に振った。
「今回は、わしも行かねばならん。」
「あれはただの報告では済まぬ。」
「盗賊軍団が隣国のせいにして村を潰そうとしたこと。」
「その先の北の砦を狙っていたこと。」
「そして、紫の羽の女が村を救い、ソータを連れ去ったこと。」
「どれも聞いた話だけでは足りん。」
「この目で見た者が話さねばならん。」
バルクは反論できなかった。
メバドスの言う通りだった。
男たちの村が襲われたこと自体も大きい。
だが、その背後に隣国を巻き込む策があり、さらに誰も知らない存在が現れてソータを連れて行ったとなれば、村の者だけで抱え込める話ではない。
「村はどうする?」
バルクが聞いた。
メバドスは広場に残る男たちを見回した。
「持ちこたえた村じゃ。」
「一日二日、わしがいなくとも崩れはせん。」
「柵は応急で直せ。」
「倉庫は三か所に分けたままにしておけ。」
「ソータが残してくれた物資は、勝手に一か所へ戻すな。」
「水場の見張りも続けろ。」
「火の番も怠るな。」
男たちが頷いた。
ソータが残してくれた物資という言葉に、広場の空気が少しだけ沈んだ。
彼は確かにここにいた。
走っていた。
荷を出していた。
柵を直していた。
倒れそうになっても、まだ運ぼうとしていた。
その男が、今どこにいるのか誰にも分からない。
「行くぞ。」
バルクは斧を背負い直した。
メバドスは短く頷き、数人の護衛を選んだ。
二人は村の門を出て、北の砦へ向かう道を急いだ。
村を出る時、バルクは一度だけ空を見上げた。
昼の空には、もう紫の羽はなかった。
ただ、月の下でソータを抱えて飛び去ったあの光景だけが、目の奥に焼きついていた。
(ソータ。)
(生きてろよ。)
(お前が勝手に死ぬなんて、ガルナにも、オルドアイにも、ミレイユにも、絶対説明できねえ。)
バルクは歯を食いしばり、北の道を急いだ。
◆◇◆
北の砦に報告が届いた時、広間は凍りついた。
バルクはできるだけ順を追って話した。
どくろ旗の大集団が村を囲んだこと。
隣国のせいにして村を潰そうとしていたこと。
その先にある女だけの砦を狙っていたこと。
ソータが物資を補充し続けたこと。
《車体爆裂突進》で数十人を吹き飛ばしたこと。
そのせいで、ソータが敵に狙われ始めたこと。
矢の雨がソータへ降ったこと。
そして、紫の羽の女が現れたこと。
言葉にするたび、広間の空気が重くなっていった。
ガルナは途中で顔を青くした。
ヤンガルドアイは腕を組み、表情を消して聞いていた。
アマゾネスたちはざわめくことすら忘れていた。
誰もが、バルクの口から語られる光景を頭の中に描こうとして、描ききれずにいた。
オルドアイだけは、最初から最後まで一言も発しなかった。
彼女は広間の中央に立っていた。
左腕には、緑の組み紐がある。
ソータと別れる時、その紐は朝風に揺れていた。
無事に戻れと言った。
ミレイユにも戻れと言った。
そして、私にも戻れと言った。
ソータは戻ると答えた。
その約束が、いま胸の奥で重く軋んでいる。
「……それで。」
オルドアイはようやく声を出した。
低く、乾いた声だった。
「ソータは、生きていたのか。」
バルクはすぐに頷いた。
「少なくとも、連れ去られた時は生きていた。」
「意識もあった。」
「ただ、かなり消耗していた。」
「あの大技を使った後だったし、朝からずっと動きっぱなしだった。」
「最後も抵抗しようとはしていたが、まともに動ける状態ではなかった。」
オルドアイの拳が震えた。
怒りではない。
恐怖だった。
彼女にとって、戦いは怖くない。
敵がいるなら斬ればいい。
道が塞がっているなら突破すればいい。
だが、相手がどこにいるのか分からない。
どんな存在なのか分からない。
何を目的にしているのか分からない。
それは、剣を振るう場所さえ見つからない恐怖だった。
「その女は、ソータを傷つけていたのか?」
「いや。」
バルクは首を横に振った。
「少なくとも、俺にはそう見えなかった。」
「むしろ、矢の雨からソータを守っていた。」
「抱えて飛んだ時も、乱暴に掴んだというより、落とさないように抱えていた感じだった。」
「落とさないように…」
オルドアイの声が低くなる。
その言葉だけで、広間の空気が少し震えた。
メバドスが一歩前へ出た。
「姫よ。」
「怒る気持ちは分かる。」
「だが、あの女がいなければ、ソータも村も持たなかったのは事実じゃ。」
「矢の雨は、ソータを殺すためのものだった。」
「それを防いだのは、あの紫の女の羽じゃ。」
オルドアイはメバドスを見た。
その目は怒っている。
だが、怒りだけではなかった。
「分かっている。」
「分かっているから、余計にどうすればよいか分からぬ。」
その声は、戦士の姫らしくないほど迷っていた。
助けてくれた。
だから恩がある。
だが、ソータを連れていった。
だから許せない。
強大な力を持つ。
だから迂闊に敵に回せない。
けれど、ソータを返してもらわねばならない。
その矛盾が、オルドアイの胸を締めつけていた。
ヤンガルドアイが静かに口を開いた。
「紫の羽か。」
「古い夜の匂いがしたと言ったが、やはりただの魔物ではなかったようじゃな。」
「母上。」
「何か知っているのか?」
「…知らぬ…」
「知っておれば、もう動いておる。」
ヤンガルドアイは淡々と言った。
その言葉には悔しさが混じっていた。
「…ただ、吸血鬼という古い種の話なら聞いたことがある。」
「人間とも魔族とも違う、夜に属する種族じゃ。」
「だが、とうに滅んだものと思われておる。」
広間に低いざわめきが広がった。
「吸血鬼……。」
オルドアイはその言葉を繰り返した。
知らない名ではない。
だが、それは物語や古い恐怖の中にいる存在だった。
目の前の現実として考えたことはない。
「その女が吸血鬼だと?」
「断言はできぬ。」
「だが、紫の羽、夜の力、死者を動かす術。」
「ただの魔族や魔物よりは、その話に近い。」
バルクが奥歯を噛んだ。
「死者を動かす術、か。」
「あれは本当に尋常じゃなかった。」
「地面からグールが這い出てきて、盗賊どもを次々と引きずり込んだ。」
「敵の首領らしき奴も、あの女が一蹴りしただけで地面に伏せた。」
「あっという間だった。」
ガルナがバルクの腕を掴んだ。
「あなたは無事でよかった。」
「でも、ソータは……。」
言葉が途切れる。
ガルナも、ソータがただの運び屋でないことを知っている。
彼がいたから物資が届いた。
彼がいたから男たちの村は持ちこたえた。
それでも、あの力の前では、彼自身が荷物のように運ばれていった。
オルドアイは唇を噛んだ。
「私が行く。」
その言葉に、広間の全員がオルドアイを見た。
「今すぐ行く。」
「ソータを探す。」
ヤンガルドアイの声が鋭く飛んだ。
「ならぬ。」
「母上!」
「場所が分からぬ。」
「相手の正体も分からぬ。」
「砦を空ける理由も整っておらぬ。」
「お前が感情のままに飛び出せば、敵は喜ぶだけじゃ。」
「だが、ソータが!」
「分かっておる!」
ヤンガルドアイの声が広間に響いた。
その迫力に、オルドアイが一瞬言葉を失う。
「わしとて分かっておる。」
「あの運び屋がどれほど重要かも、お前にとってどれほど大事かも分かっておる。」
「だが、行き先も分からぬまま剣だけ握って飛び出して、何を斬るつもりじゃ。」
「霧か。」
「夜か。」
「空か。」
オルドアイは言い返せなかった。
剣を握る手に力が入る。
だが、その力の向け場所がない。
「では、私は何をすればいい。」
それは、叫びではなかった。
静かな問いだった。
だからこそ、広間にいる者たちの胸へ重く落ちた。
ヤンガルドアイは少しだけ目を細めた。
「待て。」
「情報を集めろ。」
「ソータが生きている可能性があるなら、相手もすぐに殺すつもりではあるまい。」
「ならば、焦ってこちらが崩れるのが一番悪い。」
「待つのか?」
「今はな。」
オルドアイはうつむいた。
左腕の緑の組み紐を見た。
ミレイユから受け取ったもの。
ただ奪うだけの女ではない証。
ソータがミレイユを忘れない男だから、自分も彼を信じられるのだと思った。
(戻ると言った。)
(ソータは戻ると言った。)
(なら、私は信じるべきなのか。)
(だが、あの紫の女は何者だ。)
(なぜソータを連れていった。)
(ソータは今、どこにいる。)
答えはどこにもなかった。
◆◇◆
三日が過ぎた。
北の砦には何の音沙汰もなかった。
男たちの村からは、被害の整理と補修の報告が届いている。
盗賊軍団の脅威は完全に消えたらしい。
不自然に盛り上がった土も、しばらくすると少しずつ沈み、何事もなかったように荒れ地の一部へ戻っていったという。
誰も掘り返そうとはしなかった。
掘り返してはいけないと、村の誰もが本能的に分かっていた。
バルクは一度村へ戻り、再び砦へ報告に来た。
メバドスも何度か使者を立てた。
だが、ソータについての情報はなかった。
紫の羽の女についても、何も分からなかった。
オルドアイは眠りが浅くなった。
宴の広間にいても、ふと窓の外を見る。
訓練場で槍を振るっていても、空を見上げる。
夜になると、砦の上へ出て霧の向こうを見つめた。
誰も強く止めなかった。
止めても無駄だと分かっていた。
ただ、ヤンガルドアイだけは、遠くからその背中を見ていた。
三日目の夜、オルドアイは自室の机の前に座った。
机の上には紙と筆記具が置かれている。
宛先は、グランデリアのクラウゼン商会。
ミレイユへ送る手紙を書くためだった。
だが、筆は進まなかった。
ソータが連れ去られた。
そう書けばいいのか。
村を救った紫の羽の女に連れて行かれた。
そう書けばいいのか。
相手の正体は分からない。
生きているかどうかも分からない。
だが、連れ去られた時は生きていた。
そう書けば、ミレイユはどう受け取る。
オルドアイは唇を噛んだ。
(私は、何を書けばよい。)
(あの女が誰かも分からぬ。)
(ソータがどこにいるのかも分からぬ。)
(ただ、私は守れなかった。)
(私のところにも戻れと言ったのに。)
(私は、待つことしかできていない。)
ミレイユの顔が浮かぶ。
紅い髪。
強い目。
嫉妬を隠さず、それでも理性で立つ女。
きっと怒る。
きっと責める。
だが、それ以上に心配する。
オルドアイは筆を握ったまま、何度も息を吐いた。
紙には、まだ一文字も書かれていない。
「姫様!」
扉の外から声がした。
見張りの女の声だった。
オルドアイは顔を上げた。
「何だ?」
「門前に、来客です!」
「ただ、様子が妙です。」
オルドアイは立ち上がった。
「敵か?」
「分かりません。」
「旅人のような格好をしていますが、一言もしゃべりません。」
「閉まった門の前で、何かを見せようとしています。」
オルドアイの表情が変わった。
胸の奥で、何かが強く鳴る。
「すぐ行く。」
彼女は剣を取り、部屋を出た。
◆◇◆
北の砦の門前には、確かに一人の旅人が立っていた。
夜の霧の中、外套を深く被り、顔をほとんど隠している。
背丈は人間と変わらない。
荷物も背負っている。
だが、動きが妙に静かだった。
門の上の見張りたちは弓を構えている。
アマゾネスたちも集まっていた。
ヤンガルドアイもすでに来ていた。
その目は、旅人の外套の奥を見透かすように細められている。
「姫!」
見張りの女が声を落とした。
「あれです。」
「何を聞いても答えません。」
「ただ、あれを見せています。」
旅人は、門の前で片手を上げていた。
その手には一通の大きな手紙があった。
封はされている。
表には、はっきりと名前が書かれていた。
オルドアイへ。
そして、差出人の名。
ソータ。
オルドアイの息が止まった。
「開けろ。」
ヤンガルドアイが言う前に、オルドアイはそう命じていた。
「姫様、危険です。」
「構わぬ。」
「門は少しだけ開けろ。」
「私だけが受け取る。」
アマゾネスたちは迷った。
だが、オルドアイの目を見て、誰も止められなかった。
門がゆっくりと開かれる。
鎖の音が夜に響く。
隙間から霧が流れ込む。
オルドアイは剣を抜かずに前へ出た。
旅人は動かない。
ただ、手紙を差し出している。
近づいて、オルドアイは違和感を覚えた。
旅人の気配が薄い。
人間の体温が感じられない。
呼吸の音もしない。
外套の奥から見える手は、手袋に包まれているが、形が少し硬い。
(人間ではない。)
(だが、敵意もない。)
オルドアイは手紙を受け取った。
旅人はゆっくりと深く一礼した。
言葉はない。
声もない。
ただ、礼儀だけは妙に丁寧だった。
「待て。」
旅人が踵を返そうとした時、オルドアイは声をかけた。
「どこへ行く。」
旅人は振り返り、もう一通の手紙を見せた。
今度の宛名は、ミレイユだった。
グランデリア、クラウゼン商会のミレイユへ。
その文字も、ソータの字だった。
オルドアイは胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
ソータは生きている。
少なくとも、手紙を書ける状態にある。
そして、ミレイユにも知らせようとしている。
だが同時に、別の重さも胸に落ちた。
ソータは、あの紫の女のもとから手紙を出している。
まだ戻れてはいない。
「霧をなくす。」
「だから、よろしくお願いします。」
オルドアイはそう言った。
言葉遣いが少しだけ不自然になったのは、自分でも分かった。
相手が何者か分からない。
だが、ソータの手紙を運んできた以上、無下にはできなかった。
旅人はまた一礼した。
そして、音もなく霧の森の方へ歩き出した。
その背中は、霧の中へ静かに溶けていく。
見張りの一人が小さく呟いた。
「何者だったのでしょう?」
ヤンガルドアイが低く答えた。
「骨の匂いがしたな。」
オルドアイは旅人の背中を見つめていた。
骨。
それを聞いても、今は驚けなかった。
紫の羽の女が死者を動かす存在なら、手紙を運ぶ使者が骨であっても不思議ではない。
「広間に集めろ。」
オルドアイは手紙を握りしめたまま言った。
「皆の前で読む。」
「ソータからの手紙だ。」
◆◇◆
広間には、砦の者たちが集まった。
ヤンガルドアイ。
バルク。
ガルナ。
アマゾネスたち。
男たちの村から来ていた者たち。
誰もが息を潜めて、オルドアイの手元を見ていた。
手紙は封を開けられ、広げられた。
ソータの字だった。
少し乱れている。
だが、確かにソータの字だった。
オルドアイは一度だけ息を整えた。
そして、読み始めた。
「オルドアイへ。」
「まず、心配をかけてごめん。」
「俺は生きている。」
「怪我はないわけじゃないけど、命に別状はない。」
「あの時、村で俺を助けてくれた紫の羽の女性に連れてこられて、今はその城で介抱されている。」
「体力の消耗がひどくて、すぐには戻れない。」
「でも、少しずつ回復している。」
「だから、まずは心配しすぎないでほしい。」
広間のあちこちで、息を吐く音がした。
ガルナが胸を押さえた。
バルクも目を閉じ、深く息を吐いた。
オルドアイは一瞬だけ声が詰まりそうになったが、続けた。
「彼女は危険な力を持っている。」
「でも、少なくとも俺を傷つけようとはしていない。」
「むしろ、俺が倒れないように休ませてくれている。」
「詳しいことは戻ってから話す。」
「今はまだ、簡単に説明できる状況じゃない。」
「ただ、俺は戻るつもりだ。」
「村にも、砦にも、グランデリアにも。」
「約束を忘れていない。」
オルドアイの手が震えた。
約束を忘れていない。
その一文だけで、胸の奥に詰まっていた何かが少しだけほどけた。
「男たちの村には、物資の配置をできるだけ崩さないように伝えてほしい。」
「食料は分散したまま。」
「水袋は各通りに回す。」
「薬と包帯は広場奥。」
「柵の補修材は東と南に多めに置いてある。」
「戻ったら、改めて整理する。」
「それまで、どうか持たせてほしい。」
バルクが小さく笑った。
こんな時でも、ソータは荷のことを書いている。
村のことを書いている。
それがソータらしかった。
オルドアイは続きを読んだ。
「オルドアイ。」
「俺は、無事に戻ると言った。」
「ミレイユにも戻る。」
「君にも戻る。」
「だから、今は無茶をしないでほしい。」
「探しに来ようとする気持ちは分かる。」
「でも、相手の場所も力も分からないまま動けば、危ない。」
「俺も帰るために話をしている。」
「必ず、道を作る。」
「だから、砦を守っていてくれ。」
オルドアイは唇を噛んだ。
ソータは分かっている。
自分が飛び出したくなることを。
剣を握り、夜の中へ走り出したくなることを。
それを分かった上で、砦を守れと書いている。
ずるいと思った。
だが、そのずるさがソータらしいとも思った。
「ミレイユにも手紙を出す。」
「怒られるのは分かっている。」
「でも、隠さない。」
「戻ったら、全部話す。」
「オルドアイにも、ちゃんと話す。」
「だから、どうか信じて待っていてほしい。」
「ソータ。」
読み終えると、広間はしばらく静まり返った。
誰もすぐには声を出さなかった。
オルドアイは手紙を胸に押し当てた。
目を閉じる。
呼吸を整える。
涙は出なかった。
だが、胸の奥で張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
「生きている。」
彼女は小さく言った。
「ソータは、生きている。」
ガルナが涙ぐみながら頷いた。
「よかった……。」
バルクは大きく息を吐き、頭をかいた。
「あいつ、こんな時まで物資の配置を書いてやがる。」
「本当に運び屋だな。」
メバドスが苦笑した。
「だからこそ、村は助かったのじゃ。」
「手紙でも荷を運んでおる。」
ヤンガルドアイは腕を組んだまま、手紙を見つめていた。
「介抱されている、か。」
その声には、わずかな警戒があった。
オルドアイもそれに気づいた。
安心した。
確かに安心した。
ソータは生きている。
手紙を書ける。
戻る意思もある。
それは大きい。
だが、不安が消えたわけではなかった。
バルクの話した紫の羽の女の力は、あまりにも凄まじい。
矢の雨を防ぎ、矢を弾き返し、グールを呼び、盗賊軍団を土の中へ消した。
そんな存在の城で、ソータは介抱されている。
助けてくれている。
だが、帰してくれるとは限らない。
オルドアイは手紙を握りしめた。
(ソータ。)
(生きているのだな。)
(戻るつもりなのだな。)
(なら、私は待つ。)
(だが、もしその女がお前を返さぬなら。)
胸の奥に、静かな炎が灯る。
焦りではない。
怒りでもない。
もっと深く、冷たい決意だった。
(その時は、私は行く。)
(霧でも夜でも、斬れぬものなら斬る方法を探す。)
(だが今は、お前が言った通り、砦を守る。)
オルドアイは顔を上げた。
「母上。」
「何じゃ。」
「霧の見張りを増やす。」
「男たちの村への道も開けておく。」
「ソータからまた報せが来る可能性がある。」
「使者が骨でも、門前で斬るなと全員に伝えてくれ。」
ヤンガルドアイはわずかに笑った。
「骨の客人を歓迎する日が来るとはな。」
「歓迎はしない。」
「だが、手紙は受け取る。」
「よい判断じゃ。」
オルドアイは頷いた。
「それと、ミレイユへの手紙が届くように、霧を薄くしておく。」
「あの使者が迷わぬように。」
バルクが少し驚いたように見た。
「いいのか。」
「相手は、ソータを連れて行った側の使者だぞ。」
「分かっている。」
「だが、ミレイユに届かねばならぬ。」
「あの女には、ソータの無事を知る権利がある。」
言いながら、オルドアイは左腕の緑の組み紐に触れた。
ミレイユの証。
今ほど、その意味を強く感じたことはなかった。
「私は、ただ奪う女ではない。」
「ソータがミレイユにも戻ると言ったなら、その道を塞がぬ。」
広間の空気が少し変わった。
誰かが小さく息を呑んだ。
バルクは静かに頷いた。
ガルナは涙を拭いながら、少しだけ微笑んだ。
ヤンガルドアイは娘を見て、満足そうに目を細めた。
「強くなったな。」
オルドアイは答えなかった。
ただ、手紙をもう一度見た。
ソータの文字。
少し乱れた線。
それでも、戻ると書いてある。
それだけを、今は信じることにした。
◆◇◆
その夜、北の砦の霧は少しだけ薄くなった。
山道の見張りは増やされ、男たちの村へ続く道には灯が置かれた。
骨の旅人が通るかもしれない道を、アマゾネスたちが警戒しながらも開けておくという、奇妙な夜になった。
オルドアイは砦の上に立っていた。
空は深く、月は雲の奥に薄く隠れている。
遠く、グランデリアの方角は見えない。
だが、その先にミレイユがいる。
「届け。」
オルドアイは小さく呟いた。
「ミレイユにも、届け。」
風が緑の組み紐を揺らした。
その風は山道へ流れ、霧の薄い道を下っていく。
その先で、無言の旅人がミレイユ宛ての手紙を抱え、静かに歩いているはずだった。
オルドアイは夜空を見上げた。
紫の羽は見えない。
だが、どこかでソータが生きている。
それだけが、今夜の砦を支えていた。
(戻れ、ソータ。)
(お前が戻る場所は、一つではない。)
(だからこそ、必ず戻れ。)
北の風が石壁を撫でた。
砦は静かだった。
だが、その静けさの中に、待つ者たちの息づかいが確かにあった。




