第120話:黒い城の四日目
目を覚ました時、ソータはしばらく天井を見ていた。
黒い石の天井だった。
紫の燭火が壁に揺れ、その光が天井の模様を淡く照らしている。
窓には厚いカーテンが引かれていて、外が朝なのか夜なのか分からない。
ただ、カーテンの隙間にほんの少しだけ白い光が滲んでいた。
それが昼の光なのか、月の光なのか、ソータにはもう判断がつかなかった。
(どれくらい経ったんだ。)
(ここに来てから。)
(昨日……いや、一昨日か。)
(ルシアに連れてこられたのが夜だったのは覚えてる。)
(その後、眠って、起きて、話して、湯に入って……。)
(それから、また眠って。)
(何回、寝た?)
ソータはゆっくり息を吐いた。
体はだいぶ戻っている。
《車体爆裂突進》を使った後の、体の芯を抜かれたような消耗は薄れていた。
肩や足にはまだ重さが残っているが、昨日までのように寝台から起き上がるだけで息が乱れるほどではない。
手を握る。
開く。
指は動く。
腕にも力が戻っている。
(これなら、歩ける。)
(少なくとも、話はできる。)
(問題は、どうやって帰るかだ。)
ソータは寝台の横へ視線を向けた。
そこには、大きな薄紫色の枕が置かれている。
ルシアの枕だ。
昨夜も、彼女はそれを抱えてソータの隣にいた。
質問をして、首を傾げて、納得したような顔をして、また質問をして。
気がつけば、ソータは眠っていた。
(また寝落ちしたんだろうな。)
(ルシアは怒ってないだろうか。)
(いや、最近は俺が寝ても見てるだけになってきた。)
(それはそれで落ち着かないけど。)
その時、寝台の横から小さな衣擦れの音がした。
「起きた?」
ルシアの声だった。
ソータは顔を向けた。
ルシアは大きな椅子に座っていた。
薄紫の髪をゆるく流し、黒い夜着の上に薄い羽織をかけている。
足を椅子の上に少しだけ丸め、膝の上に黒薔薇の花を置いていた。
羽は隠している。
だが、その存在感は消えていない。
彼女の周囲だけ、空気が薄く紫に染まっているようだった。
「おはよう、ソータ。」
「……おはよう。」
ソータは体を起こそうとした。
ルシアはすぐに立ち上がった。
「待って。」
「急に起きると、またふらつくわ。」
「もう大丈夫だと思う。」
「思うだけでは駄目。」
「昨日もそう言って、少しふらついた。」
「昨日?」
ソータはそこで眉を寄せた。
ルシアは寝台の脇に来て、枕を直そうとした手を止めた。
「どうしたの?」
「ルシア。」
「俺、ここに来てから何日経った?」
ルシアはきょとんとした。
それから、指を折るようにして数え始めた。
「連れてきた夜があったでしょう。」
「その次の日、あなたはほとんど眠っていたわ。」
「黒薔薇を見せた日。」
「天使の泉の水を飲ませた日。」
「湯浴みをした日。」
「それから、昨日は少し歩けるようになった日。」
「待て。」
ソータは額に手を当てた。
「それ、何日だ?」
「四日くらい?」
「四日!?」
思わず声が大きくなった。
ルシアが少し驚いた顔をした。
「そんなに大きな声を出して大丈夫?」
「まだ喉が本調子ではないでしょう。」
「いや、喉よりも。」
「四日って。」
「俺、四日もここにいるのか?」
「たぶん。」
「チャールズなら正確に分かるわ。」
ソータは血の気が引くのを感じた。
四日。
四日も経っている。
男たちの村はどうなった。
バルクはどうしている。
メバドスは無事か。
北の砦には報告が届いたのか。
オルドアイは。
ミレイユは。
(まずい。)
(これは本当にまずい。)
(戻るって言った。)
(オルドアイにも、ミレイユにも。)
(男たちの村にも、物資の整理が残っていた。)
(四日もいないなんて、完全に行方不明だ。)
ソータは寝台から降りようとした。
だが、足を床につけた瞬間、ルシアが前に立った。
「駄目。」
「どいてくれ。」
「駄目。」
「あなた、今、焦っている。」
「焦るに決まってるだろ。」
「四日だぞ。」
「俺がいなくなって四日も経ってるんだ。」
「でも、あなたはまだ完全ではないわ。」
「完全じゃなくても行かないと。」
「どこへ?」
「村へ。」
「砦へ。」
「グランデリアへ。」
「全部?」
「ああ。」
ルシアは少し黙った。
その瞳に、不満と不安が混ざる。
「私の城は?」
「それも話す。」
「でも、今は俺が無事だって知らせないといけない。」
「知らせればいいの?」
「まずは。」
「じゃあ、チャールズに使いを出させるわ。」
ソータは動きを止めた。
「使い?」
「スケルトンは昼でも歩けるわ。」
「グールは見た目が怖いから、やめた方がいいかしら。」
「チャールズなら、手紙を持たせる骨を選べると思う。」
ソータはルシアを見た。
彼女は真剣だった。
引き止めるための言い訳ではなく、本気で解決策を出している顔だった。
「……手紙を出せるのか?」
「出せるわ。」
「たぶん。」
「チャールズが方法を知っているもの。」
その瞬間、ソータは少しだけ息を吐いた。
まだ戻れない。
だが、連絡はできるかもしれない。
それだけでも、状況は変わる。
(まずは無事を知らせる。)
(村と砦。)
(ミレイユにも。)
(いや、グランデリアまで骨の使者を出したら騒ぎになるか。)
(でも、連絡しないよりましだ。)
(問題は、文面だ。)
(どう書く。)
(吸血鬼の城にいます、無事です、って書いたら余計に混乱するか?)
ルシアはソータの顔を覗き込んだ。
「少し安心した?」
「ああ。」
「少し。」
「なら、よかった。」
ルシアは本当にほっとしたように笑った。
その顔を見て、ソータは胸の奥が少しだけ揺れた。
彼女はソータを帰したくない。
それは間違いない。
だが、ソータが焦っていることを見て、ただ無理に押さえつけるのではなく、別の方法を考えようとしている。
(少しずつ、変わってる。)
(いや、変わろうとしてるのか。)
その時、扉の外から杖の音が聞こえた。
かつん。
かつん。
かつん。
チャールズの足音だった。
「お目覚めでございますか、ソータ様。」
扉が静かに開いた。
黒い燕尾服のスケルトンが、いつものように優雅に一礼する。
「お体の具合はいかがでしょう?」
「かなり戻りました。」
「それより、チャールズ。」
「俺がここに来てから何日経ってますか?」
チャールズの眼窩の青い火が、静かに揺れた。
「正確には、三日と半刻ほどでございます。」
「到着された夜を一日目と数えるならば、本日で四日目にあたります。」
「やっぱり……。」
ソータは深く息を吐いた。
ルシアが少し胸を張る。
「ほら、私はだいたい合っていたわ。」
「合ってたけど、嬉しくない。」
「どうして?」
「四日も行方不明だったからだ。」
チャールズは静かに頷いた。
「その件につきましては、そろそろご説明と連絡が必要かと存じます。」
「ルシア様も、ソータ様の関係者の方々に心配をおかけしていることを、少しずつ理解され始めております。」
「チャールズ。」
ルシアが少し不満そうに言った。
「少しずつではないわ。」
「私はかなり進んだ。」
「では、かなり進まれました。」
チャールズは即座に言い直した。
「ご立派でございます。」
ルシアは満足そうに頷いた。
ソータはそのやり取りに、少しだけ力が抜けた。
(緊張感があるのかないのか分からないな。)
(でも、今は助かる。)
チャールズは一歩前へ出た。
「手紙をご用意いたしましょう。」
「送り先は、男たちの村、北の砦、そしてグランデリアでよろしいでしょうか。」
「お願いします。」
「ただ、グランデリアに骨の使者を出したら騒ぎになりませんか?」
「騒ぎになるでしょう。」
「駄目じゃないか。」
「ですので、外套を着せ、夜間に届けさせます。」
「必要であれば、荷物運びの亡者ではなく、比較的人間らしい外見の者を選びます。」
「比較的人間らしい骨って何ですか?」
「帽子を深く被れば、遠目には旅人に見える程度でございます。」
「…いけるのか?」
ルシアは興味深そうに言った。
「チャールズ。」
「私が飛んで届ける方が早いのではない?」
ソータは即座に首を振った。
「それは駄目。」
「どうして?」
「絶対に騒ぎになる。」
「特にグランデリアに君が飛んで行ったら、大騒ぎになる。」
「ミレイユに会えるわ。」
「今は駄目。」
「オルドアイにも会えるわ。」
「もっと駄目。」
ルシアは少し頬を膨らませた。
「私は謝ろうと思ったのに。」
「それはいい。」
「でも、順番がある。」
「また順番。」
「順番は大事だ。」
チャールズが静かに頷いた。
「ソータ様のおっしゃる通りでございます。」
「謝罪にも段取りがございます。」
「突然、紫の羽を広げて窓から現れるのは、一般的には謝罪前に警戒を招きます。」
「そうなの?」
「はい。」
「極めて高確率で。」
「難しいわ。」
ルシアは本気で悩んでいるようだった。
ソータは少しだけ笑いそうになった。
だが、すぐに表情を引き締める。
手紙。
まずはそれだ。
「紙とペンをください。」
「急いで書きます。」
「かしこまりました。」
チャールズが一礼する。
ルシアは寝台の脇に座り、じっとソータを見た。
「私も見る。」
「手紙を?」
「ええ。」
「あなたが帰る場所に、何を書くのか知りたい。」
ソータは少し迷った。
だが、隠すより見せた方がいいと思った。
「分かった。」
「ただし、途中で口を挟みすぎるなよ。」
「質問は三つまで?」
「手紙を書き終わるまでは、一つまで。」
「少ない。」
「集中したいんだ。」
「分かったわ。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
ルシアは真剣に頷いた。
ソータは椅子に座り直し、チャールズが持ってきた紙へ向かった。
羽ペンを握る。
少し手が震えていた。
疲労ではない。
四日分の重さだった。
誰に何をどう伝えるか。
それは、ただの文章ではない。
約束をつなぎ直すための荷だった。
(運ぶ。)
(今度は言葉を運ぶ。)
(心配を少しでも軽くする。)
(俺が戻る道を、ここから作る。)
ソータは息を整え、最初の一文を書き始めた。




