第119話:吸血鬼姫の枕
湯浴みを終えたソータは、思っていた以上に疲れていた。
体は軽くなった。
汗も煤も泥も落ちた。
髪も洗われ、肌には温かい湯の名残がある。
黒い城の浴室は不気味なほど静かだったが、湯そのものは確かに体を癒やしてくれた。
だが、体力が戻ったわけではない。
むしろ、緊張で無理に立っていた部分がほどけたせいで、疲労が改めて表へ出てきていた。
足元はまだ少し頼りない。
廊下を歩くたび、膝の奥が重い。
肩には《車体爆裂突進》を使った後の鈍い痛みが残っている。
頭も少しぼんやりしていた。
ルシアはそんなソータの横で、やけに機嫌がよかった。
魅了を使わずにかわいいと言われたことが、よほど嬉しかったらしい。
湯浴みの後から、何度も自分の頬に触れている。
時々、薄紫の髪を指で整えながら、ちらちらとソータを見る。
目が合うと、少しだけ得意げに笑う。
「ソータ。」
「何だ。」
「私は魅了なしでもかわいいのよね。」
「さっき聞いた。」
「もう一度聞いてもいい?」
「何度聞くんだ。」
「慣れるまで。」
「慣れたらどうなる。」
「もっと聞く。」
「意味がないだろ。」
ルシアは真剣に考えた。
「でも、聞くと嬉しいわ。」
「……かわいいよ。」
ソータは観念して言った。
ルシアはぱっと顔を輝かせた。
「そう。」
「うん。」
「よし。」
彼女は満足そうに頷いた。
その表情は、黒い城の主というより、初めて褒められた子供のようだった。
湯気の中で見せた艶やかさは確かに危険だったが、こうして廊下を歩いている時の彼女は、どこか無防備だった。
ソータは少し困った。
(かわいいと思うなって方が無理になってきたな。)
(でも、それと帰ることは別だ。)
(ここで絆されすぎたら、本当に帰れなくなる。)
(ミレイユとオルドアイに顔向けできない。)
紅い髪紐。
緑の組み紐。
帰る場所。
それらを思い出して、ソータは気持ちを引き締めた。
そんなソータの前で、ルシアは客間の扉を開けた。
「戻ったわ。」
紫の燭火が灯る部屋。
大きな寝台。
厚いカーテン。
月明かりの入る窓。
机には水差しと黒薔薇。
椅子にはソータの乾かした服が丁寧に畳まれている。
浴室に行く前とほとんど同じ部屋だった。
ただ、一つだけ違うものがあった。
寝台の上に、大きなクッションのようなものが置かれていた。
薄紫色の布で包まれ、銀色の刺繍が入っている。
大きさは人ひとりが抱きつけるほどある。
枕というには大きく、布団というには小さい。
妙にふかふかしていて、寝台の中央に堂々と置かれていた。
ソータはそれを見て、嫌な予感がした。
「……これは?」
ルシアは嬉しそうに答えた。
「私の枕。」
「なぜ俺の寝台にある。」
「ここで使うから。」
「なぜ。」
「添い寝して話をするためよ。」
ソータはしばらく黙った。
廊下の方から、かつん、と杖の音がした。
チャールズがいつの間にか戻ってきていた。
黒い燕尾服のハイクラススケルトンは、扉の前に優雅に立ち、まるで何事もないように一礼する。
「お戻りでございますか。」
「チャールズ。」
ソータはゆっくりと彼を見た。
「これは何だ。」
「ルシア様の枕でございます。」
「それは聞いた。」
「ソータ様がいつ眠ってしまわれてもよろしいように、ルシア様が寝台にてお話を続けられるよう、用意いたしました。」
「用意したのは誰だ。」
「私でございます。」
あっさり言った。
ソータは額を押さえた。
「なぜ止めない。」
「止める理由が見当たりませんでした。」
「見当たるだろ。」
「ルシア様は魅了を使用しないと約束されました。」
「ソータ様はまだ体力が戻っておられません。」
「椅子に座って話すより、横になっていただいた方が身体的負担は少ない。」
「また、ルシア様も本日は非常によく我慢されました。」
「少々の添い寝程度であれば、情操教育上も有益かと判断いたしました。」
「情操教育。」
ソータは思わず繰り返した。
ルシアは得意げに胸を張った。
「私は学ぶの。」
「何を。」
「人間との距離。」
「距離を学ぶなら近すぎるだろ。」
「近すぎるかどうかも、近づかなければ分からないわ。」
妙に理屈が通っているような、通っていないようなことを言う。
ソータはチャールズへ視線を戻した。
「本気で賛成なのか。」
「はい。」
「なぜだ。」
「私はこれより、食事の準備、ルシア様のお部屋の片づけ、浴室の清掃、その他城内業務がございます。」
「つまり。」
「しばし、ルシア様のお相手をお願い申し上げます。」
丁寧な声だった。
だが、内容は丸投げだった。
ソータは目を細めた。
「チャールズ。」
「はい。」
「もしかして、俺に面倒を見させる気か。」
チャールズは一拍置いた。
青い火の灯った眼窩が、静かに瞬くように揺れる。
「面倒という表現は、いささか直接的でございます。」
「否定してないな。」
「ルシア様は本日、大変ご機嫌でございます。」
「また、ソータ様との対話により、人間社会について学ぼうとされております。」
「これは非常に貴重な機会でございます。」
「貴重な機会を俺に全部押しつけてないか。」
「適材適所でございます。」
「便利な言葉だな。」
「恐れ入ります。」
チャールズは優雅に一礼した。
そのまま扉から一歩下がる。
ソータは察した。
逃げる気だ。
「待て。」
「何でしょう。」
「せめて、しばらくここにいろ。」
「湿気は去りましたが、浴室の清掃には早急な対応が必要でございます。」
「また、ルシア様のお部屋は夜着選びの際に少々散らかっております。」
「放置すれば、明朝には黒薔薇の蔓が衣装棚へ絡みつく恐れがございます。」
「そんなことあるのか。」
「ございます。」
ルシアが横から頷いた。
「あるわ。」
「黒薔薇は寂しがりなの。」
「植物まで面倒なのか、この城。」
「かわいいわよ。」
「そうか。」
ソータが一瞬ルシアに気を取られた隙に、チャールズはさらに後ろへ下がっていた。
「それでは、ソータ様。」
「ルシア様をよろしくお願いいたします。」
「よろしくするな。」
「ルシア様。」
「魅了は禁止でございます。」
「無断で噛むことも禁止でございます。」
「ソータ様が眠られた場合、無理に起こしてはなりません。」
「また、質問は一度に三つまでにしてくださいませ。」
「三つ。」
「はい。」
「それ以上は人間の処理能力を超える恐れがございます。」
「分かったわ。」
「ご立派でございます。」
チャールズは満足そうに頷いた。
そして、今度こそ流れるように廊下へ消えた。
かつん。
かつん。
かつん。
杖の音が遠ざかっていく。
ソータは扉を見つめた。
「逃げたな。」
「チャールズは忙しいのよ。」
「忙しいのは分かるけど、絶対に分かって逃げた。」
「ソータは私と二人だと困るの?」
ルシアが不思議そうに聞いた。
ソータは即答できなかった。
困る。
かなり困る。
だが、嫌かと聞かれると、また別の話になってきている。
それがさらに困る。
「困るけど、嫌ではない。」
ソータは正直に言った。
ルシアの目が輝いた。
「嫌ではない。」
「そこだけ拾うな。」
「大事なところだわ。」
「大事だけど、全部じゃない。」
「人間はすぐ全部じゃないと言うわ。」
「全部じゃないことが多いからな。」
ルシアは少し考えた。
それから、寝台の方へ行き、大きな枕を自分の横に抱えた。
「では、話し合いましょう。」
「寝台で?」
「あなたが眠ってもいいように。」
「椅子でいい。」
「眠ったら落ちるわ。」
「落ちない。」
「浴室で石鹸を踏んだ人間の言葉は信用しない方がいいと、私は学んだわ。」
「そこを学ぶな。」
ルシアは得意げだった。
ソータは抵抗を諦めかけた。
実際、体は横になりたがっている。
湯浴みで少し楽になったが、まだ疲れている。
椅子で長く話せば、また意識が落ちる可能性はある。
寝台に横になって話す方が体にはいい。
問題は、ルシアが隣に来ることだ。
(でも、魅了は禁止。)
(噛むのも禁止。)
(チャールズもそこは言っていった。)
(ルシアも約束は守ろうとしている。)
(なら、ここでむやみに拒絶するより、話した方がいい。)
ソータは深く息を吐いた。
「分かった。」
「ただし、近すぎたら言う。」
「分かった。」
「言われたら少し離れる。」
「本当に?」
「少し進んだルシアだから。」
「便利な言葉になってきたな、それ。」
ソータは寝台へ向かった。
横になると、体が一気に沈む。
湯上がりの温かさと、寝台の柔らかさが合わさって、思わず瞼が重くなりかけた。
ルシアは嬉しそうに枕を抱えて、ソータの隣に潜り込んできた。
「近い。」
ソータがすぐに言った。
ルシアは少しだけ離れた。
「これくらい?」
「もう少し。」
ルシアはさらに少し離れた。
「これくらい?」
「……まあ。」
「よし。」
ルシアは満足そうに枕を胸の前に抱いた。
大きな枕が間にある。
なるほど、ただ密着するよりは距離がある。
彼女なりに考えたのだろう。
ソータは少しだけ安心した。
ルシアはその横顔をじっと見つめている。
「ソータ。」
「何だ。」
「質問は一度に三つまでと言われたわ。」
「ああ。」
「まず一つ目。」
「どうすれば、この城をあなたの帰る場所にできる?」
いきなり本題だった。
ソータは天井を見上げた。
黒い石の天井に、紫の灯が淡く揺れている。
「急には無理だ。」
「急にじゃなければできる?」
「分からない。」
「分からない。」
ルシアは繰り返した。
「それは、嫌ではないということ?」
「嫌ではない。」
「でも、俺にはすでに帰る場所がある。」
「ミレイユとオルドアイ。」
「ああ。」
「あと、グランデリアにも仕事がある。」
「男たちの村にも戻らなきゃいけない。」
「北の砦にも報告が必要だ。」
「忙しいわね。」
「運送屋だからな。」
「運送屋は、ずっとどこかへ行ってしまうの?」
「行くけど、戻ることもある。」
「戻る。」
ルシアはその言葉に反応した。
「戻るのは、なぜ?」
「待ってる人がいるから。」
「荷を届ける先があるから。」
「次の約束があるから。」
「約束。」
「そう。」
ルシアは枕を抱く腕に少し力を込めた。
「私は、ソータと約束したわ。」
「だから連れてきた。」
「それは分かってる。」
「でも、俺には他にも約束があった。」
「約束が重なったらどうするの?」
それは難しい問いだった。
ソータは少し沈黙した。
ミレイユの言葉を思い出す。
約束は荷より重い。
荷は多く積める。
《神速積載庫》があれば、普通の人間には運べないほどの荷を運べる。
だが、約束は違う。
多く持てばいいわけではない。
それぞれに相手がいる。
届くべき場所がある。
時間がある。
重さがある。
「順番を決める。」
ソータは言った。
「順番?」
「今すぐ守らなきゃいけない約束と、後で守れる約束がある。」
「ただ、後で守る約束なら、その相手にちゃんと伝えないといけない。」
「勝手に後回しにすると、相手は不安になる。」
ルシアは真剣に聞いていた。
「私は、あなたを勝手に連れてきた。」
「ああ。」
「ミレイユとオルドアイは不安になる?」
「なる。」
ルシアの表情が少し曇った。
「バルクも?」
「なると思う。」
「村の男たちも?」
「なるかもしれない。」
「私は、たくさんの人を困らせた?」
声が小さくなった。
ソータは横を向いた。
ルシアは枕を抱えたまま、少し不安そうにこちらを見ている。
彼女に悪意はない。
だからこそ、今やっと自分の行動が他人にどう響くのかを知り始めている。
「困らせた。」
ソータは正直に言った。
ルシアの肩が少し落ちる。
「でも、村を助けてくれた。」
ソータは続けた。
ルシアは顔を上げた。
「あれは、本当に助かった。」
「君がいなかったら、俺はたぶん死んでいた。」
「村も危なかった。」
「だから、感謝してる。」
「感謝。」
「ああ。」
「困らせたけど、感謝もされている。」
「そう。」
「人間は、同時に二つ持つのね。」
「かなりよくある。」
ルシアは少し考えた。
「難しいけど、少し分かった気がするわ。」
「それはよかった。」
ソータは小さく息を吐いた。
思ったより、話はできている。
ルシアは自分の都合へ話を戻しがちだが、聞かないわけではない。
むしろ、聞きすぎるほど聞く。
知らないだけだ。
人間の関係の仕組みを。
ルシアは再び質問した。
「二つ目。」
「私は、どうすればミレイユとオルドアイをあまり怒らせずに済む?」
ソータは目を瞬かせた。
意外な質問だった。
「気にするのか。」
「気にするわ。」
「あなたがその二人に戻らないと、ここへ戻ってくる約束もできないのでしょう?」
「それに、ミレイユは理性の女だから、怒ると怖そう。」
「オルドアイは本能の女だから、怒ると斬りかかってきそう。」
「呼び方はともかく、だいたい合ってる。」
「では、どうするの?」
ソータは考えた。
「まず、勝手に連れてきたことは謝る。」
「私が?」
「そう。」
「謝る。」
ルシアは眉を寄せた。
「謝ったことはあまりないわ。」
「だろうな。」
「どう言うの?」
「悪かった、心配させた、って。」
「私は悪いことをしたの?」
「少なくとも、心配はさせた。」
「心配させたら謝る?」
「謝った方がいい。」
ルシアは真剣に頷いた。
「分かったわ。」
「心配させたら謝る。」
「あと、覗いたことも謝る。」
ルシアの動きが止まった。
「覗いたこと。」
「ああ。」
「全部?」
「全部。」
「三人の夜も?」
「言い方。」
「オルドアイと二人の夜も?」
「言い方を変えろ。」
「変えても中身は同じよ。」
「そうだけど。」
ソータは顔を手で覆った。
ルシアは不思議そうにしている。
「見られたくない時間だったのね。」
「そうだ。」
「でも、綺麗だったわ。」
「それも言わなくていい。」
「言わない方がいいことが多いわ。」
「そうだな。」
「人間は秘密が多い。」
「秘密というか、配慮だ。」
「配慮。」
ルシアは新しい言葉を覚えるように繰り返した。
「配慮をすると、家族に近づく?」
「少なくとも遠ざかりにくくなる。」
「覚えたわ。」
彼女は枕に顎を乗せた。
その姿は、危険な吸血鬼というより、本当に学び始めた子供のようだった。
「三つ目。」
「まだあるのか。」
「三つまでと言われたわ。」
「そうだった。」
ルシアは少し照れたように目を逸らした。
「私が魅了を使わずにかわいいなら、ソータは私を好きになる?」
ソータは黙った。
簡単に答えられない。
ルシアはまっすぐ見ている。
からかっているわけではない。
欲しい答えを待っている。
けれど、ここで簡単に「なる」と言えば、彼女はすぐに都合よく解釈するだろう。
逆に「ならない」と言えば、傷つける。
それもまた違う。
「好きには、種類がある。」
ソータはゆっくり言った。
ルシアの眉が寄る。
「また種類。」
「あるんだよ。」
「人間はすぐ種類を増やすわ。」
「便利だからな。」
「好きは好きではないの?」
「かわいいと思う好き。」
「友達としての好き。」
「家族としての好き。」
「恋人としての好き。」
「守りたいと思う好き。」
「一緒にいたいと思う好き。」
「いろいろある。」
ルシアは目を丸くした。
「多い。」
「多い。」
「私はどれ?」
ソータは答えに詰まった。
正直、まだ分からない。
かわいいと思う。
放っておけないとも思う。
危険だとも思う。
帰らなければならないとも思う。
彼女の孤独を知ってしまった。
だから、ただ突き放すこともできない。
「まだ決められない。」
ソータは言った。
ルシアの表情が少し沈む。
「まだ。」
「そう。」
「でも、嫌いじゃない。」
「嫌いじゃない。」
「それは本当。」
ルシアは枕に顔を少し埋めた。
しばらく黙る。
それから、小さく言った。
「嫌いじゃないなら、少し進んだ?」
「進んだ。」
ソータは答えた。
ルシアは顔を上げた。
「本当?」
「ああ。」
「じゃあ、今日はそれで我慢する。」
「偉い。」
ルシアの瞳がまた輝いた。
「褒めた?」
「褒めた。」
「今日は本当にたくさん褒められるわ。」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ソータも少しだけ笑ってしまった。
◆◇◆
問答は、それからも続いた。
ルシアは本当に質問が多い。
帰る場所はどうやって決まるのか。
家族は一緒に寝るのか。
子供はなぜ親のそばにいたがるのか。
親はなぜ子供を置いていかないのか。
人間はどうして食事を一緒にするのか。
好きな相手が複数いる時、心はどう分けるのか。
ミレイユはなぜ笑いながら怒れるのか。
オルドアイはなぜ怒りながら嬉しそうにするのか。
バルクはなぜガルナに従うのか。
ガルナはなぜ怒っているのにバルクの皿へ肉を入れるのか。
ソータは、答えられるものだけ答えた。
答えられないものは、分からないと言った。
するとルシアは、不思議そうにする。
「ソータも分からないことがあるのね。」
「たくさんある。」
「でも、人間でしょう?」
「人間だからこそ分からないことが多い。」
「また難しいことを言う。」
「事実だよ。」
ルシアは納得したような、していないような顔をした。
それでも、彼女は楽しそうだった。
寝台の上で大きな枕を抱え、時々体を乗り出し、時々枕に顔を埋める。
ソータが眠そうになると、声を少し小さくする。
それでも話したい気持ちが抑えきれず、また小さな声で質問する。
「ソータ。」
「ん。」
「眠い?」
「少し。」
「眠ってもいいわ。」
「私は見ている。」
「見すぎるなよ。」
「努力する。」
「見るな、じゃないからな。」
「見るのは少しならいい?」
「……寝てたら分からないけど。」
「では少し見る。」
「都合よく解釈するな。」
ソータはそう言いながらも、だんだん声が弱くなっていった。
湯浴みで温まった体。
柔らかい寝台。
横で話すルシアの声。
大きな枕の向こうから届く薄い甘い香り。
黒い城の静けさ。
疲労がまた、ゆっくりと上から降ってくる。
ソータは目を閉じかけた。
ルシアはすぐに気づいた。
「眠る?」
「……たぶん。」
「たぶん。」
「今度は本当に眠るかも。」
「いいわ。」
「眠って。」
「私は起こさない。」
「約束?」
「約束。」
ルシアの声は優しかった。
ソータはその声に少し安心した。
完全に警戒を解いたわけではない。
だが、今日一日で、ルシアは何度も約束を守った。
魅了を使わなかった。
見ないと言った時は見なかった。
触らないと言われれば触らなかった。
質問を三つまでと言われたのは途中で忘れかけたが、それでも努力はしていた。
それだけで、少しは眠れる。
(明日、ちゃんと話さないとな。)
(帰る約束。)
(村への伝言。)
(ミレイユとオルドアイへの説明。)
(ルシアをどう納得させるか。)
(チャールズとも交渉しないと。)
(あの骨、逃げ足速いし。)
思考がゆっくり崩れていく。
ルシアの顔がぼんやり見えた。
枕越しにこちらを覗いている。
瞳は大きく、静かで、少しだけ寂しそうだった。
「ソータ。」
「……何。」
「嫌いじゃない?」
「嫌いじゃない。」
「かわいい?」
「かわいい。」
「また来てくれる?」
ソータは眠気の中で、すぐには答えられなかった。
答えないと、ルシアが傷つくかもしれない。
だが、曖昧な約束は危ない。
頭ではそう分かっている。
けれど、眠気が深い。
「……ちゃんと話してからな。」
ようやく言った。
ルシアは少し考えた。
「ちゃんと話す。」
「ああ。」
「それなら、少し進んだ?」
「進んだ。」
ソータの声はもうほとんど寝言に近かった。
ルシアは枕を抱きしめた。
「おやすみ、ソータ。」
「……おやすみ。」
その返事を最後に、ソータは眠りへ落ちた。
◆◇◆
ルシアはしばらく動かなかった。
寝台の上で、枕を抱えたまま、眠るソータを見ていた。
さっきまで話していた人間が、今は静かに眠っている。
胸が上下している。
髪は湯浴みの後で少し柔らかくなっていた。
顔色も昨日よりはいい。
それでも、疲れはまだ残っている。
ルシアはそっと手を伸ばした。
途中で止まる。
触っていいか聞いていない。
チャールズが言った。
眠っている客人に無断で触れるのは避けるべきだと。
ソータも言った。
見られたくない時間があると。
人間には配慮が必要だと。
ルシアは手を戻した。
けれど、少ししてから、また手を伸ばした。
今度は触れない。
指先を、ソータの髪の少し上で止める。
温度だけを感じる。
生きている気配。
湯の残り香。
人間の呼吸。
「嫌いじゃない。」
ルシアは小さく呟いた。
ソータの言葉を、胸の中で何度も転がす。
嫌いじゃない。
かわいい。
少し進んだ。
ちゃんと話してから。
それは、ルシアが欲しい答えそのものではなかった。
城にいると言ってくれたわけではない。
家族になると言ってくれたわけでもない。
ずっと一緒にいると約束したわけでもない。
けれど、完全に拒まれたわけでもない。
それが、今のルシアには不思議と嬉しかった。
チャールズの言う通り、魅了を使わなくてよかった。
もし魅了を使って、好きと言わせていたら、きっとこの嬉しさはなかった。
ソータ自身が困りながら言った言葉だから、胸が温かくなる。
ルシアは枕をそっと横へずらした。
ソータとの間にあった距離が少し縮まる。
「近すぎたら言うって言っていたわ。」
ルシアは小さく言った。
「でも、眠っているから言わないわね。」
少し考える。
「これは、ずるい?」
返事はない。
ソータは眠っている。
ルシアはまた少し考えた。
それから、ほんの少しだけ身を乗り出した。
唇を、ソータの頬へ近づける。
触れる直前で止まった。
心臓がないはずなのに、胸の奥が変に揺れる。
吸血鬼族の体に、人間のような鼓動はない。
それなのに、今は何かが小さく弾んでいる気がした。
「これは、何かしら。」
ルシアは呟いた。
答えは分からない。
だから、試した。
そっと、ソータの頬に口づけた。
本当に軽く。
湯上がりの肌に、唇が少しだけ触れる。
それだけだった。
ソータは起きなかった。
ただ、少しだけ息を深くした。
ルシアは慌てて離れた。
起きたかと思った。
怒られるかと思った。
けれど、ソータは眠ったままだった。
ルシアは胸に手を当てた。
「……強い。」
なぜか、オルドアイの言葉を真似るような声になった。
そして、自分で少し笑った。
枕を抱え直し、今度はソータのすぐ隣に横になる。
触れすぎないように。
でも、離れすぎないように。
彼の呼吸が聞こえる距離で。
ルシアは目を閉じた。
普段、眠りは必要ではない。
眠らなくても平気だ。
三日に一度、魔物の血を飲めば、食事も水もいらない。
城にいれば何も困らない。
グールもスケルトンもいる。
チャールズもいる。
それでも、今夜は眠ってみたいと思った。
ソータが眠っているから。
一緒に眠るということが、人間の家族に少し近い気がしたから。
ルシアは小さく囁いた。
「おやすみ、ソータ。」
「明日も、少し進もうね。」
黒い城の客間で、紫の燭火が静かに揺れていた。
窓の外では月が高く昇り、黒薔薇の庭を淡く照らしている。
その夜、吸血鬼の姫は初めて、誰かの隣で眠った。




