表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
118/148

第118話:紫の姫の湯浴み

 黒い城の浴室は、ソータが想像していたよりもずっと広かった。


 床も壁も黒い石でできている。

 磨かれた石の表面には、紫の燭火が揺れて映っていた。

 天井は高く、湯気はそこへ昇って薄く広がっている。

 奥には大きな湯槽があり、月光を薄めたような白い湯が静かに満ちていた。

 湯の縁には銀の装飾が施され、見たこともない黒い花が小瓶に活けられている。


 どこか神殿のようで、どこか墓所のようでもある。


 けれど、湯気の温かさだけは確かに人間の体に優しかった。


 ソータは入口近くで立ち止まった。


 体はまだ重い。

 だが、服にこびりついた汗と煤と戦場の匂いが、どうにも気になって仕方なかった。

 ようやく湯に入れると思うと、それだけで少し救われる気がした。


 問題は、目の前にルシアがいることだった。


「どうしたの?」


 ルシアが不思議そうに振り返る。


 彼女はすでに湯浴みの準備を終えていた。


 羽は隠されている。

 背中には何もない。

 先ほどまで大きな紫の竜翼のような羽を広げていた姿が嘘のように、今はただ一人の少女の姿をしている。


 ただし、少女というには、あまりにも整いすぎていた。


 薄紫の髪はほどかれ、肩から背へ流れている。

 肌は白く、湯気の中でほんのり血色を帯びている。

 胸元は豊かで形がよく、腰は信じられないほど綺麗にくびれていた。

 細いのに、弱々しくない。

 柔らかそうなのに、どこか人間離れした均整がある。


 ソータは思わず目を逸らした。


(これは駄目だ。)

(ミレイユともオルドアイとも違う。)

(いや、二人が駄目とかそういう話じゃない。)

(これは方向性が違う。)


 ミレイユは理性と知性の中に艶がある女だった。

 オルドアイは生命力そのもののような熱を持つ女だった。

 どちらにもソータはもう何度も心を揺さぶられている。

 だから、女性の体にまったく免疫がないわけではなくなったつもりだった。


 だが、ルシアは別物だった。


 地球でトラックに乗っていた頃の記憶が、唐突に頭の奥から蘇る。


 長い夜の待機時間。

 狭い車内。

 缶コーヒー。

 コンビニで買った雑誌。

 その中に載っていた、外国人モデルの写真。

 金髪や黒髪、青い瞳や緑の瞳の美女たち。

 現実感がなく、画面や紙の向こう側にしかいないような人たち。


 全く女性経験のなかったソータは、それを見るたびに妙に胸を高鳴らせていた。


 憧れというより、遠すぎるものを見る感覚だった。

 自分とは一生縁がない世界。

 華やかで、強く、美しく、触れられないもの。


 今、目の前にいるルシアは、その記憶を嫌でも呼び起こした。


 しかも、雑誌の中ではなく、湯気の中にいる。


(落ち着け。)

(相手は吸血鬼だ。)

(しかも、子供みたいに無邪気で、何を考えてるか分からない。)

(いや、今は分かる。)

(誘惑しようとしている。)

(分かるから余計に困る。)


 ルシアは首を傾げた。


「ソータ。」

「どうしてこっちを見ないの?」


「見たら困る。」


「どうして?」


「色々と。」


「私は綺麗?」


 あまりにも真っ直ぐ聞いてきた。


 ソータは目を逸らしたまま、短く答えた。


「綺麗だよ。」


 ルシアの顔がぱっと明るくなった。


「本当?」


「ああ。」


「チャールズも綺麗だと言っていたけれど、骨の目だから分からなかったの。」

「ソータが言うなら、たぶん本当ね。」


「チャールズに失礼だな。」


「でも、チャールズは骨よ。」


「それはそうだけど。」


 浴室の扉の外から、静かな声がした。


「ルシア様。」

「私の審美眼は骨になっても衰えておりません。」


 チャールズだった。


 ソータは反射的に扉の方を見た。


「いるのか!」


「控えております。」


「なら、助けてくれ。」


「何をでございましょう。」


「この状況をだよ。」


「湯浴みの介助であれば、ルシア様がなさるとのことでしたので。」


「それが問題なんだ。」


 扉の向こうで、ほんの少し間があった。


「ソータ様。」

「ご安心ください。」

「ルシア様には魅了を使用なさらぬよう、厳命しております。」


「そこだけじゃない。」


「なお、私は湿気が苦手でございますので、浴室内には入れません。」


「骨なのに?」


「骨だからこそでございます。」

「関節に響きますので。」


「絶対嘘だろ。」


「では、私は失礼いたします。」


「待て、チャールズ!」


 返事はなかった。


 かつん。

 かつん。

 かつん。


 遠ざかっていく杖の音だけが聞こえた。


 ソータは絶望的な気分で扉を見つめた。


(逃げた。)

(あの骨、逃げた。)


 ルシアは楽しそうに笑っている。


「チャールズは湿気が苦手なのね。」


「たぶん違う。」


「そうなの?」


「俺を置いて逃げたんだと思う。」


「どうして逃げるの?」


「この状況が危ないからだよ。」


 ルシアはきょとんとした。


「危ない?」

「私は魅了を使わないわ。」

「約束したもの。」


「それは偉い。」


「褒めた?」


「褒めた。」


 ルシアは嬉しそうに頷いた。


「では大丈夫ね。」


「大丈夫じゃないんだよな。」


 ソータは深く息を吐いた。


 とにかく、早く洗って早く出る。

 それしかない。

 ルシアに背を向けて湯槽へ向かおうとした。


 その瞬間、足元で何かがつるりと滑った。


「え。」


 石鹸だった。


 黒い石の床に落ちていた白い石鹸を、ソータは見事に踏んでいた。


 疲れの残った足では踏ん張れなかった。

 体が後ろではなく、なぜか前へ傾く。

 腕を伸ばす。

 何かを掴もうとする。

 しかし、掴めるものは湯気と空気しかない。


 次の瞬間、ソータは見事に倒れ込んだ。


 柔らかいものに。


「っ!」


「わっ。」


 ルシアの声がすぐ近くで弾けた。


 ソータの顔は、完全にルシアの胸元へ飛び込んでいた。


 湯気。

 肌の温度。

 甘い香り。

 柔らかさ。

 あまりにも近すぎる距離。


 ソータの思考が真っ白になった。


(終わった。)

(これは終わった。)

(何が終わったのか分からないけど、全部終わった。)


 ルシアは倒れなかった。


 吸血鬼の身体能力なのか、ソータを受け止めてもびくともしない。

 むしろ、しっかり抱きとめるように腕を回している。


「ソータ。」


「すまん!」

「本当にすまん!」


 ソータは慌てて離れようとした。


 だが、床が濡れている。

 体に力が入らない。

 さらにルシアの腕が自然に支えてくるせいで、うまく離れられない。


「大丈夫?」

「痛くない?」


「痛くない。」

「いや、違う。」

「痛いとかじゃなくて。」


「顔が赤いわ。」


「そうだろうな!」


 ソータはようやく体を起こそうとした。


 その時、ルシアの視線が下へ落ちた。


 そして、彼女は本当に不思議そうに言った。


「これは何?」


 ソータは固まった。


「何でもない。」


「生きてるの?」


「生きてない。」


「でも、形が変わった。」


「言わなくていい!」


 ルシアはますます興味深そうに見ようとした。


 ソータは慌てて体を丸める。


「見るな。」


「どうして?」


「見られたくないから。」


「見られたくない時間がある、というやつ?」


「そう!」

「それ!」


 ルシアははっとした顔をした。


「分かったわ。」

「見ない。」


 彼女は素直に顔を逸らした。


 その素直さに、ソータは一瞬だけ救われた気持ちになった。


 だが、次の言葉でまた頭を抱えたくなる。


「でも、あとで説明して。」


「説明しない。」


「どうして?」


「人間には、説明しなくていいこともある。」


「また難しいことを言う。」


「これは難しくない。」


「難しいわ。」


 ルシアは真剣に考え込んだ。


 ソータはその隙に距離を取ろうとしたが、足元がまた滑りかけた。


 今度はルシアが素早く手を伸ばし、ソータの腕を掴んだ。


「危ない。」


「助かった。」


「あなた、まだふらついているわ。」

「やっぱり私が洗う。」


「いや、自分で。」


「転んだでしょう。」


「それは石鹸が。」


「石鹸は悪くないわ。」

「踏んだあなたが悪い。」


「正論だけど。」


「だから、座って。」


 ルシアは湯槽の脇にある石の椅子を指差した。


 ソータは抵抗しようとしたが、体力がない。

 それに、これ以上浴室で走り回れば、今度は本当に頭を打つかもしれない。

 諦めて椅子に腰を下ろした。


 ルシアは満足そうに頷いた。


「よし。」

「私が綺麗にする。」


「変なことはするなよ。」


「変なこととは?」


「今聞いたこと全部。」


「分かったわ。」

「今は聞かない。」


「今は?」


「後で。」


「後でも駄目だ。」


 ルシアは少し不満そうにした。


 だが、すぐに石鹸を手に取った。


 その手つきはぎこちない。

 けれど、昨夜の毛布や水と同じように、彼女なりに丁寧だった。


「人間は、どこから洗うの?」


「普通は頭とか、腕とか。」


「では頭。」


 ルシアはソータの髪に湯をかけた。


 温かい湯が頭皮を流れる。

 思ったより気持ちいい。

 戦場の埃が落ちていく感覚があった。


 ソータは思わず息を吐いた。


「気持ちいい?」


「……ああ。」


「よかった。」


 ルシアは嬉しそうに石鹸を泡立てた。


 薄紫の髪を揺らしながら、ソータの髪を洗っていく。

 指先は冷たくはなかった。

 むしろ湯で温まり、柔らかい。

 頭を撫でるように、しかし力加減が分からないのか、時々少し強い。


「痛い?」


「少し強い。」


「こう?」


「それくらい。」


「覚えたわ。」


 ルシアは真剣に頷いた。


 彼女は覚える。


 触れていいか。

 強いか。

 嫌か。

 見ていいか。

 見てはいけないか。

 ソータが言えば、一応聞こうとする。


 そこが、ソータの警戒を少しずつ崩していく。


 危険なのに。

 強引なのに。

 あまりにも世間知らずなのに。


 この吸血鬼の姫は、ちゃんと知ろうとしている。


「ソータ。」


「何だ。」


「洗うの、楽しいわ。」


「そうか。」


「あなたが綺麗になっていく。」

「さっきまで煙と土の匂いだったのに、今は湯の匂いになっている。」

「不思議。」


「人間は洗うとそうなる。」


「吸血鬼もなるわ。」


「そうなのか。」


「でも、私はあまり汚れない。」

「血も、魔物の血を飲む時はチャールズが服を汚さないようにしてくれるし。」

「三日に一度くらい飲めば平気なの。」

「他には何も食べなくても、飲まなくても大丈夫。」


「便利だな。」


「でも、あなたが水を飲んでほっとする顔は少し羨ましいわ。」

「私はそういう顔をあまりしないから。」


 ソータは目を閉じたまま、少しだけ黙った。


 湯気の中で聞くルシアの声は、先ほどまでより静かだった。

 無邪気な好奇心だけではない。

 自分にないものを見ている声だった。


「水くらいなら、一緒に飲めばいいんじゃないか。」


「必要ないわ。」


「必要なくても、飲んでみればいい。」


 ルシアの手が止まった。


「必要ないのに?」


「人間は必要ないこともする。」

「一緒にいるために。」


 ルシアはゆっくり瞬きをした。


「それは、家族っぽい?」


「たぶん。」


「じゃあ、今度一緒に水を飲む。」


「いいと思う。」


 ルシアは嬉しそうに頷いた。


 そして、またソータの髪を洗い始めた。


◆◇◆


 髪を洗い終えると、今度は背中だった。


 ソータはもう諦めていた。


 浴室で逃げる体力はない。

 チャールズは戻ってこない。

 ルシアは魅了を使っていない。

 そして、思ったより真面目に洗っている。


 なら、必要以上に騒ぐ方が疲れる。


 そう判断した。


 ただし、完全に油断はできない。


 ルシアは時々、とんでもない角度から質問してくる。


「ここは傷?」


「擦り傷だと思う。」


「昨日の矢?」


「たぶん柵の破片。」


「これは?」


「古い傷。」


「誰がつけたの?」


「ゴブリンだったかな。」


「ゴブリン。」

「弱いのに人間には傷をつけるのね。」


「弱くても刃物は痛い。」


「覚えたわ。」


 ルシアはソータの背を洗いながら、ひとつひとつ聞いてくる。

 まるで、ソータという人間の地図を読んでいるようだった。

 傷。

 筋肉。

 骨の形。

 体温。

 呼吸。

 そのすべてが珍しいらしい。


 ソータは少しだけくすぐったくなって、肩を揺らした。


「動いた。」


「くすぐったいんだよ。」


「くすぐったい。」


 ルシアは興味深そうにその言葉を繰り返した。


「ここ?」


「やめろ。」


「ここ?」


「やめろって。」


「面白い。」


「面白がるな。」


 ルシアは楽しそうに笑った。


 ソータはため息をついた。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 もちろん、恥ずかしい。

 困る。

 危ない。

 いろいろと問題はある。

 けれど、ルシアが本当に楽しそうにしていることだけは分かる。

 誰かの世話をするのが初めてなのだろう。

 自分が洗えば相手が気持ちよさそうにする。

 それが嬉しいのだ。


 その素直な喜びが、ソータの中に少しずつ入ってくる。


(まずいな。)

(本当に、かわいいと思えてきてる。)

(油断するな。)

(この子は昨日、俺を連れ去ったんだぞ。)

(でも、水を汲んできて、黒薔薇を見せて、今こうやって洗ってる。)

(悪意がないから、余計に厄介だ。)


 ルシアは背中を洗い終え、満足そうに泡を流した。


「綺麗になった。」


「ありがとう。」


「次は前。」


「自分で洗う。」


「どうして?」


「そこは自分で洗う。」


「見られたくない時間?」


「そうだ。」


 ルシアは真剣な顔で頷いた。


「分かったわ。」

「私は後ろを向く。」


「助かる。」


 ルシアはくるりと背を向けた。


 ソータは急いで自分で洗い始めた。

 だが、後ろ姿のルシアが目に入る。

 濡れた薄紫の髪。

 白い背中。

 細い腰。

 湯気の向こうで柔らかく揺れる輪郭。


(見るな。)

(見たら駄目だ。)

(いや、見えてるだけだ。)

(言い訳が苦しい。)


 ソータは目を閉じて洗った。


 そのせいで、また石鹸を取り落とした。


 ころん、と音がする。


 ルシアが振り返りかける。


「見ないで!」


「見ないわ。」


 ルシアは慌てて前を向き直った。


 ソータは床を手探りで石鹸を探す。


 すると、ルシアが羽を出さずに、髪だけを少し動かしているように見えた。

 いや、気のせいだろうか。

 石鹸がころころとソータの手元へ戻ってきた。


「今、何かしたか?」


「していないわ。」


「本当か?」


「少しだけ。」


「やっぱりしたのか。」


「でも、見ていないわ。」


「そこは守ったんだな。」


「私は少し進んだルシアだから。」


 得意げな声だった。


 ソータは思わず笑ってしまった。


◆◇◆


 何とか体を洗い終えた後、ソータは湯槽に浸かった。


 温かい湯が全身を包む。

 筋肉の奥に溜まっていた疲労が、少しずつほどけていく。

 思わず深い息が漏れた。


「はぁ……。」


 それは、久しぶりに心から出た息だった。


 ルシアが湯槽の縁に腰をかけ、興味深そうに覗き込む。


「気持ちいい?」


「すごく。」


「そんな顔になるのね。」


「どんな顔だよ。」


「力が抜けた顔。」

「水を飲んだ時より、もっと安心している。」


「湯は偉大だからな。」


「湯は偉大。」


 ルシアは真剣に繰り返した。


 それから、自分も湯槽に入ってきた。


 ソータは反射的に端へ寄った。


 ルシアは当然のように近づいてくる。


「広いのに、なぜ逃げるの?」


「近いから。」


「近いとだめ?」


「今は少し。」


「少しならいい?」


「解釈するな。」


 ルシアは楽しそうに笑った。


 湯が揺れる。

 波がソータの胸元へ当たる。

 ルシアの薄紫の髪が湯に広がり、黒い石の湯槽の中で花のように見えた。


 彼女は本当に美しかった。


 そして、無邪気だった。


 その組み合わせが、ソータを何度も困らせた。


「ねえ、ソータ。」


「何だ。」


「私は、魅了を使っていないわ。」


「ああ。」


「今の私は、少しはかわいい?」


 問いは小さかった。


 先ほどまでの無邪気な勢いとは違う。

 少しだけ不安が混じっている。

 自分の力ではなく、自分自身を見てほしいという気持ちがそこにあった。


 ソータは湯気の向こうのルシアを見た。


 昨日、紫の羽で矢を防いだ吸血鬼。

 グールを呼び、盗賊を土へ沈めた少女。

 勝手にソータを抱えて飛び去った危険な存在。


 同時に。


 苦手な昼に泉の水を汲みに行った少女。

 黒薔薇を見せてくれた少女。

 話し疲れて眠ったソータを黙って見守った少女。

 今、魅了を使わずに、かわいいかと聞いてくる少女。


 ソータはゆっくり頷いた。


「かわいいよ。」


 ルシアの瞳が大きく開いた。


「本当?」


「本当。」


「魅了なしで?」


「魅了なしで。」


 ルシアはしばらく固まっていた。


 それから、湯の中で膝を抱えるようにして、少し顔を隠した。


「……強い。」


「それ、オルドアイも言ってたな。」


「本能の女も?」


「その呼び方はやめろって。」


 ルシアは顔を隠したまま、小さく笑った。


「でも、嬉しい。」

「魅了なしでかわいいのね。」

「なら、少し進んだ?」


「進んだと思う。」


「よかった。」


 ルシアは本当に嬉しそうだった。


 ソータはその顔を見て、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。


 まずい。


 そう思う。


 けれど、もう完全には拒めなかった。


 この子は危険だ。

 だからこそ、ちゃんと教えなければならない。

 力で奪うのではなく、相手に来てもらうこと。

 魅了ではなく、自分自身を見てもらうこと。

 家族は欲しがるだけでは作れないこと。


 それを教えるには、ただ突き放すだけでは駄目だ。


 ソータは湯に肩まで沈みながら、小さく息を吐いた。


(帰る。)

(それは絶対だ。)

(でも、この子を泣かせて逃げるだけじゃ駄目だ。)

(ちゃんと話して、納得させる。)

(……できるのか、これ。)


 ルシアは湯の中で足を揺らしている。


 その顔は、どこか幸せそうだった。


「ソータ。」


「何?」


「また洗ってもいい?」


「毎回は困る。」


「時々なら?」


「状況による。」


「状況。」


 ルシアは真剣に頷いた。


「覚えたわ。」


 ソータは少し不安になった。


「何を覚えたんだ。」


「時々なら、洗ってもいいかもしれない。」


「だいぶ都合よく覚えたな。」


「私は学ぶのが早いの。」


「方向が怪しい。」


 ルシアは楽しそうに笑った。


 浴室の外では、遠くでチャールズの杖の音が聞こえた気がした。


 たぶん、戻ってくる気配を見せているだけだ。

 中には入ってこない。

 あの骨は、こういう場面では妙に逃げ足が速い。


 ソータは湯に身を沈めたまま、天井を見上げた。


 黒い石。

 紫の灯。

 白い湯気。

 薄紫の髪を揺らす吸血鬼の姫。


 男たちの村へ帰る道は、まだ遠い。


 ミレイユに謝る道も、オルドアイに説明する道も、考えるだけで胃が痛い。


 それでも今は、少しだけ体が楽だった。


 そして、その楽になった体のすぐ隣で、ルシアが魅了を使わずに褒められたことを、子供のように喜んでいた。


 ソータは目を閉じた。


(本当に、厄介な荷を背負ったな。)


 そう思いながらも、湯の温かさとルシアの小さな笑い声に、ほんの少しだけ身を委ねた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ