第117話:吸血鬼の姫は、眠る人間を見つめる
ソータが次に目を覚ました時、部屋の中はまだ薄暗かった。
夜ではない。
窓の外には光がある。
厚いカーテンの隙間から、白い昼の気配が細く差し込んでいる。
けれど、部屋全体は紫の燭火に照らされていて、昼というより、夜の残り香の中にいるようだった。
体は重い。
腕を動かそうとすると、肩の奥が鈍く痛んだ。
足には鉛が入っているようだった。
喉は乾き、頭の奥がぼんやりしている。
《車体爆裂突進》を使った後の消耗が、まだ体の芯に残っていた。
それでも、昨夜よりは少しだけましだった。
寝台がよかったのか。
水を飲めたからか。
それとも、ただ眠れたからか。
少なくとも、意識が沈んで戻らないような危うさは薄れている。
ソータはゆっくり息を吐いた。
(生きてる。)
(城の中か。)
(ルシアの城。)
(……帰れてないな。)
そこで、視界の端に薄紫が映った。
ソータは顔を向けた。
ルシアがいた。
寝台のそばに椅子を置き、そこに座っていた。
膝に両手を置き、背筋を伸ばし、こちらをじっと見つめている。
大きな薄紫の瞳が、眠っているソータを観察していたらしい。
目が合った瞬間、ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「起きた!」
その声は、本当に嬉しそうだった。
ソータは少しだけ目を細めた。
「……ずっといたのか。」
「いたわ。」
「寝てないのか。」
「吸血鬼族は、人間ほど眠らなくても平気よ。」
「眠ることはあるけれど、必要というより、気分に近いの。」
「そうなのか。」
「そう。」
「それに、あなたが起きるところを見たかったの。」
ルシアは何の悪気もなく言った。
ソータは少し困った。
「見てて面白いか?」
「面白いわ。」
即答だった。
「寝ている時、時々顔が動くの。」
「眉が寄ったり、少し苦しそうになったり、誰かの名前を呼びそうになったり。」
「でも水を飲んでからは、少し落ち着いていたわ。」
「人間は眠っている間も忙しいのね。」
「……見すぎだろ。」
「そうなの?」
「たぶん。」
ルシアは首を傾げた。
「チャールズは、客人の睡眠を妨げてはいけないと言ったわ。」
「だから触らなかった。」
「声もかけなかった。」
「見ているだけなら邪魔ではないでしょう?」
理屈としては、間違っているようで間違っていない。
だが、何かが違う。
ソータは苦笑しようとしたが、まだ力が入らなかった。
「水、飲む?」
ルシアがすぐに身を乗り出した。
「飲む。」
短く答えると、ルシアは嬉しそうに立ち上がった。
机の上から杯を取り、水差しの水を注ぐ。
その動きはぎこちない。
けれど、昨日より少し慣れている。
杯をこぼさないように慎重に持ち、ソータの上体を支えるために片手を差し出す。
「起き上がれる?」
「少しなら。」
「無理しないで。」
「チャールズが、人間は無理をすると壊れると言っていたわ。」
「そこまで簡単には壊れない。」
「でも、あなたは昨日壊れかけていた。」
その声には、少しだけ責めるような響きがあった。
ソータは言い返せなかった。
たしかに、壊れかけていた。
自分でも分かる。
あのまま矢の雨を受けていれば死んでいたかもしれない。
ルシアが来なければ、村も自分もどうなっていたか分からない。
ソータはルシアに支えられながら上体を起こし、杯から水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
昨日と同じように、体の奥へゆっくり染みていく。
「うまいな。」
思わず呟くと、ルシアは目を輝かせた。
「それ、天使の泉の水よ。」
「天使の泉?」
「城の裏の森にあるの。」
「昔、白い翼を持ったものが落ちて、そこから湧いた泉だってチャールズが言っていたわ。」
「本当かどうかは知らないけれど、水は綺麗よ。」
「あなたが飲むと思って、朝に汲んできたの。」
ソータは杯を持つ手を止めた。
「朝に?」
「ええ。」
「外に出たのか。」
「出たわ。」
「太陽、大丈夫なのか?」
ソータが尋ねると、ルシアは少しだけ得意げに胸を張った。
「平気よ。」
「少し苦手なだけ。」
「肌がちりちりするし、目が眩むし、長くいると嫌になるけれど、すぐに灰になったりはしないわ。」
「だから、急いで行って、急いで戻ってきたの。」
それを平気と言っていいのか、ソータには分からなかった。
「無理したのか。」
「無理?」
「苦手なんだろ。」
「でも、あなたが飲む水が必要だったもの。」
ルシアは不思議そうに言った。
それが当然だという顔だった。
ソータは胸の奥が少し詰まった。
昨日、自分を強引に連れ去った相手だ。
約束の解釈をねじるようにして、村から引き剥がした。
危険で、勝手で、力が強すぎる存在。
その相手が、苦手な日の光の中へ出て、水を汲んできた。
自分のために。
どう受け止めればいいのか分からない。
「……ありがとう。」
ソータが言うと、ルシアは嬉しそうに笑った。
「どういたしまして。」
その笑顔が、あまりに素直だった。
◆◇◆
ルシアは、本当によく話した。
ソータが水を飲み終えると、今度は黒薔薇を見せてきた。
庭で摘んできたらしい。
黒い花弁は、夜を薄く重ねたような色をしていた。
ただの黒ではない。
角度によって深い紫が浮かび、花の中心には小さな銀の露が光っている。
棘は鋭いが、ルシアは平気で茎を持っていた。
「これ、庭に咲いているの。」
「黒薔薇。」
「夜に一番よく開くけれど、昼も少しだけ咲いているわ。」
「あなたに見せようと思って取ってきたの。」
ルシアは誇らしげに花を差し出した。
ソータは受け取ろうとしたが、指先が棘に触れそうになって止まる。
ルシアは慌てて茎の棘を羽の先で撫でた。
すると、棘がぽろぽろと落ちた。
「これで痛くないわ。」
「便利だな。」
「でしょう?」
ルシアは嬉しそうだった。
ソータは黒薔薇を受け取った。
かすかな香りがする。
甘いというより、夜の湿った土に似た匂いだった。
どこかルシアの羽の内側を思い出す。
「綺麗だな。」
そう言うと、ルシアはさらに嬉しそうになった。
「そうでしょう。」
「私の城の庭で一番好きなの。」
「でも、誰かに見せるのは初めて。」
「チャールズには?」
「チャールズはいつも見ているわ。」
「でも、綺麗と言ってくれるけれど、目が骨だから、本当に見えているのか時々分からないの。」
その言い方があまりに真剣で、ソータは少しだけ笑ってしまった。
ルシアが目を見開く。
「笑った。」
「悪い。」
「悪くないわ。」
「面白かった?」
「少し。」
「じゃあ、また言う。」
「無理に言わなくていい。」
ルシアは考えるように首を傾げた。
「人間は、面白いことを言おうとすると面白くなくなるの?」
「だいたいそうだな。」
「難しいわ。」
「難しい。」
短い会話。
それだけなのに、ルシアは楽しそうだった。
彼女はソータのそばを離れない。
椅子に座ったり、寝台の端に腰を下ろしたり、時々部屋の中を歩き回ったりする。
窓の外の庭の話をする。
城の塔の話をする。
地下に古い骨がたくさん眠っている話をする。
チャールズが昔どれほど厳しかったかを話す。
吸血鬼族の城には必ず秘密の通路があるが、自分は半分くらいしか把握していないと言う。
ソータは聞いていた。
聞いているつもりだった。
だが、体はまだ重い。
ルシアの声は澄んでいて、心地よい。
黒薔薇の香り。
紫の燭火。
柔らかい寝台。
天使の泉の水。
それらが混ざると、意識が少しずつ沈む。
ルシアが何かを話している途中で、ソータの瞼が落ちた。
「それでね、地下の三番目の扉の向こうには古い棺が……ソータ?」
返事がない。
ルシアは身を乗り出した。
ソータは眠っていた。
ほんの少し眉間に皺を寄せたまま、浅い眠りに落ちている。
ルシアはしばらく固まった。
それから、声を小さくした。
「……眠った。」
部屋の隅に控えていたチャールズが静かに頷いた。
「まだ消耗が残っておいでです。」
「話しすぎた?」
「少々。」
「少々?」
「かなり。」
ルシアは少しだけしょんぼりした。
「楽しかったのに。」
「ソータ様もお聞きになっておりました。」
「ただ、体が追いつかなかったのでございましょう。」
「そう。」
ルシアは寝台のそばで、眠るソータを見つめた。
昨日も見た寝顔。
けれど、今は昨日より少し違って見える。
昨夜は、壊れていないか確かめるために見ていた。
呼吸しているか。
痛そうではないか。
苦しんでいないか。
そういう確認だった。
今は、それだけではない。
眠ってしまったソータの顔を見ていると、胸の奥が少し柔らかくなる。
話を聞いている途中で眠ってしまったのに、腹は立たない。
むしろ、疲れているなら眠ればいいと思う。
毛布がずれていないか気になる。
水を飲めるようにしておきたい。
起きたら、さっきの話の続きをしてもいいだろうかと考える。
その感覚は、ルシアにとって初めてだった。
「チャールズ。」
「はい。」
「眠っている人間は、少しかわいいわね。」
チャールズはわずかに間を置いた。
「そう感じられますか。」
「ええ。」
「さっきまで困った顔をしていたのに、今は静か。」
「でも、動いている。」
「胸が上下している。」
「本当に生きているのね。」
「はい。」
ルシアはそっと手を伸ばした。
ソータの髪に触れようとして、途中で止まる。
「触っていいのかしら。」
「眠っている客人に無断で触れるのは、避けるべきかと。」
「そう。」
ルシアは素直に手を引っ込めた。
だが、少し残念そうだった。
「起きたら聞くわ。」
「それがよろしいでしょう。」
ルシアは頷き、寝台の横でじっとソータを見続けた。
◆◇◆
ソータが次に目を覚ました時、ルシアはまだいた。
今度は寝台のそばの床に座り、黒薔薇の花弁を一枚ずつ数えていた。
「……何してるんだ。」
ソータがかすれた声で聞くと、ルシアは顔を上げた。
「起きた。」
「花弁を数えていたの。」
「なぜ。」
「あなたが眠っている間に、何かして待とうと思って。」
「楽しいか?」
「途中で飽きたわ。」
「だろうな。」
ソータは小さく笑った。
ルシアはその笑みを見て、嬉しそうにした。
「また笑った。」
「そうだな。」
「もっと笑っていいわ。」
「命令か?」
「お願い。」
少しだけ言い直した。
ソータはそれに気づいて、眉を上げた。
「チャールズに教わったのか?」
「ええ。」
「人間には命令よりお願いの方がよい場合が多いって。」
「いい教えだ。」
「でも、お願いしても聞いてくれない時は?」
「話し合う。」
「それでもだめなら?」
「諦めることもある。」
ルシアは眉を寄せた。
「難しいわ。」
「そうだな。」
「私は、欲しいものを手に入れられる力があるのに。」
「だから余計に難しいんだと思う。」
ルシアはきょとんとした。
「力がある方が簡単でしょう?」
「物ならな。」
「でも、人は違う。」
ソータはゆっくり上体を起こした。
まだだるい。
だが、少し話せるくらいには回復している。
ルシアがすぐに枕を直そうとした。
慣れていない手つきだったが、ソータが背を預けやすいように一生懸命だった。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
ルシアは嬉しそうに答えた。
それから、椅子に座り直す。
「ねえ、ソータ。」
「あなたの事情を聞くわ。」
「事情?」
「チャールズが言っていたの。」
「お客様を迎える時は、相手の事情を聞くものだって。」
「だから聞くわ。」
「あなたはどこに帰りたいの?」
ようやく来た。
ソータは息を整えた。
ここからが大事だ。
ルシアは悪人ではない。
だが、こちらの事情を知らないまま、自分の約束だけで動いている。
だから説明しなければならない。
「まず、男たちの村。」
「昨日の村?」
「ああ。」
「戦いは終わったけど、後始末がある。」
「怪我人もいる。」
「物資の整理もしなきゃいけない。」
「俺が急にいなくなったから、バルクやメバドスさんも困ってるはずだ。」
「バルクは大きい人?」
「そう。」
「ソータを心配して叫んでいた人。」
「ああ。」
ルシアは少し考えた。
「じゃあ、バルクにソータは無事だと伝えればいい?」
「それも必要だけど、それだけじゃない。」
「難しい。」
「次に北の砦。」
「オルドアイがいる。」
「俺は砦に戻るって約束した。」
「本能の女ね。」
ソータは一瞬固まった。
「……何て?」
「オルドアイ。」
「強くて、まっすぐで、あなたにたくさん触れたい女。」
「本能の女。」
「その呼び方はやめた方がいい。」
「どうして?」
「合っているでしょう?」
「たぶん怒る。」
「怒る顔も見てみたいわ。」
「やめろ。」
ルシアは楽しそうに笑った。
「それから、理性の女。」
「ミレイユか。」
「ええ。」
「赤い髪の女。」
「あなたを送り出す時、笑っていたけれど、心の中はたくさん動いていたわ。」
「あの人も面白い。」
ソータは息を止めた。
やはり見ていた。
どこまで見ていたのか。
聞きたいようで、聞きたくない。
「覗いていたのか。」
「見ていたわ。」
「覗くのはよくない。」
「どうして?」
「相手には、見られたくない時間がある。」
「でも、あなたたちは綺麗だったわ。」
ルシアは悪びれずに言った。
ソータは頭を抱えたくなった。
「そういう問題じゃない。」
「そうなの?」
「そうだ。」
ルシアは真剣に考え込んだ。
「人間は難しいわ。」
「さっきからそればかりだな。」
「だって難しいもの。」
ルシアは素直に言った。
「でも、あなたの事情は分かったわ。」
「村。」
「砦。」
「オルドアイ。」
「ミレイユ。」
「帰る場所がたくさんあるのね。」
「ああ。」
「じゃあ、どうすればこの城にもいてくれる?」
ソータは言葉を失った。
やはり、そこへ戻る。
聞いてはいる。
理解しようとはしている。
しかし、ルシアの関心は最終的にそこへ飛ぶ。
どうすれば、ソータがここにいるか。
「今の話、聞いてたか?」
「聞いていたわ。」
「だから考えたの。」
「あなたは帰る場所がたくさんある。」
「なら、私の城もその一つにすればいいのではないかしら。」
「そんな簡単なものじゃない。」
「どうして?」
「部屋はあるわ。」
「水もあるわ。」
「黒薔薇もあるわ。」
「私もいるわ。」
「チャールズもいるわ。」
「グールもスケルトンも、命令すればあなたを守るわ。」
「守られるためだけに、人は住む場所を選ぶわけじゃない。」
「じゃあ、何で選ぶの?」
ルシアは前のめりになった。
大きな瞳が、まっすぐソータを見ている。
問いは純粋だった。
しかし、その純粋さは痛いほど鋭い。
ソータは少し考えた。
「そこに、帰りたいと思える相手がいるかどうか。」
ルシアは瞬きをした。
「相手。」
「ああ。」
「私はいるわ。」
「そうだな。」
「じゃあ、帰りたい?」
ソータは答えに詰まった。
ここで嘘をつけば、後で壊れる。
ルシアは鋭い。
人の縁や約束の匂いを読む。
中途半端な優しさは、おそらく逆効果になる。
「今は、まだ違う。」
ソータは言った。
ルシアの表情が少し止まった。
傷ついたように見えた。
ソータはすぐに続けた。
「嫌いという意味じゃない。」
「ただ、俺にはまだ帰らなきゃいけない場所がある。」
「君の城に来ることと、ここにずっといることは違う。」
「違うのね。」
「違う。」
ルシアは膝の上で指を重ねた。
「……難しいわ。」
今度の声は、少し小さかった。
◆◇◆
午後になっても、ソータは何度か眠った。
話している途中で意識が落ちる。
水を飲んで、また少し眠る。
黒薔薇を見て、泉の話を聞いて、また眠る。
そのたびにルシアは最初こそ戸惑ったが、少しずつ慣れていった。
彼が眠ると、声を小さくする。
毛布を見る。
杯に水を足す。
触っていいか迷い、結局触らない。
ただ、そばで見つめる。
その時間が、ルシアの中で少しずつ変わっていく。
退屈ではない。
不思議と退屈しない。
話していなくても、ソータがそこにいるだけで、部屋が少し違って見える。
寝息がある。
胸の動きがある。
時々、眉が動く。
それだけで、城の静けさが完全な空白ではなくなる。
ルシアはそれを愛しいと思い始めていた。
まだ、その言葉は知らない。
だから彼女は、ただこう思った。
(見ていたい。)
(起きたら話したい。)
(でも、眠っているのも嫌じゃない。)
(不思議。)
夕方に近い頃、ソータは少し長く起きていられるようになった。
窓の外の光が弱まり、カーテンの隙間から入る昼の白さが薄くなる。
ルシアの表情も、少し楽になったように見えた。
「夕方になると元気になるんだな。」
ソータが言うと、ルシアは頷いた。
「昼は少し苦手。」
「夜は楽。」
「でも、昼も嫌いではないわ。」
「人間の暮らしは昼に多いでしょう?」
「前に、遠くの村を見たことがあるの。」
「親と子が外で食事をしていたわ。」
「小さな子供がパンを落として、母親が怒って、父親が笑っていた。」
「楽しそうだった。」
ルシアの声が、少しだけ遠くなった。
ソータは彼女を見た。
ルシアは窓の方を見ている。
薄紫の瞳には、城の庭ではなく、どこか遠い人間の村の光景が映っているようだった。
「羨ましかったのか?」
ソータが尋ねると、ルシアは首を傾げた。
「羨ましい?」
「自分もそうしたいと思ったか、ってこと。」
ルシアは少し考えた。
長い沈黙。
それから、小さく頷いた。
「たぶん。」
初めて、自分でも確かめるような声だった。
「私には、そういうものがなかったから。」
「両親は?」
ソータが聞くと、ルシアはあっさり答えた。
「いないわ。」
「亡くなったのか?」
「いいえ。」
「生きていると思う。」
「吸血鬼族は、子供ができると一緒には暮らさないの。」
「子供が少し育つと、城を明け渡して、親はそれぞれ別の土地へ行く。」
「父は北西の遠い大地に城を持っているらしいわ。」
「母は南の黒い湖のそばに城を持っているらしい。」
「でも、私は会った記憶がほとんどないの。」
ルシアは扉の方を見た。
「玄関の大広間に、大きな肖像画があるでしょう?」
「あれが父と母。」
「私が知っている両親は、あの絵の中だけ。」
ソータは黙った。
昨日、この城に入った時に見た絵のことを思い出す。
壁に並んだ古い肖像画。
薄い肌。
鋭い目。
人間とも魔族とも違う気配を持つ者たち。
そこにルシアの両親もいたのだろう。
「寂しくなかったのか。」
ソータは聞いた。
ルシアはまた首を傾げた。
「分からない。」
「そういうものだと思っていたから。」
「吸血鬼族はそうするものだって、チャールズが言っていたわ。」
「チャールズも、父と母が去る時に置いていったの。」
「昔からの側近なの。」
「子供の城には、世話役を一人置いていく決まりらしいわ。」
「そうか。」
「だから、私は一人ではなかったわ。」
「チャールズがいた。」
「スケルトンもいた。」
「グールもいた。」
「庭もあった。」
「黒薔薇もあった。」
ルシアは指で数えるように言った。
だが、ソータには分かった。
それは、一人ではなかったという説明ではない。
一人だったことを、寂しさだと知らずに過ごしてきた者の言葉だった。
チャールズは話せる。
世話もしてくれる。
知識も与えてくれる。
けれど、親ではない。
家族でもない。
骨の側近だ。
グールやスケルトンは命令に従う。
でも、笑わない。
喧嘩もしない。
泣かない。
怒らない。
抱きしめてくれない。
ルシアは、それを知らないまま育った。
だから、遠くの村で見た親子の食事が心に残っている。
ソータは胸の奥が少し痛んだ。
「私はね。」
ルシアがぽつりと言った。
「人間のように、子供を作って、家族で暮らしてみたい。」
その言葉は、今までのどの問いよりも静かだった。
無邪気な好奇心だけではない。
彼女の奥にあった、本音だった。
「人間の家族は、同じ場所に帰るのでしょう?」
「一緒に食事をして。」
「怒ったり、笑ったりして。」
「眠っているところを見たりして。」
「どこかへ行っても、また帰ってくるのでしょう?」
「ああ。」
「吸血鬼族は違うわ。」
「父も母も、自分の城へ行った。」
「それが普通。」
「でも、私は、人間の普通も見てみたい。」
「私も、そうしてみたい。」
ルシアはソータを見た。
大きな薄紫の瞳が、まっすぐにこちらを向く。
「だから、ソータ。」
「私と家族になればいいわ。」
ソータは固まった。
しばらく言葉が出なかった。
「……話が飛んだな。」
「飛んでいないわ。」
「あなたは人間でしょう?」
「私は人間の家族を知りたい。」
「あなたには女の子たちがいる。」
「なら、家族の作り方に詳しいのではないの?」
「その前提がいろいろ危ない。」
ルシアは不思議そうにした。
「前に覗き見たあれは、子供を作る儀式なの?」
ソータは呼吸を止めた。
部屋の空気が一瞬で変な方向へ傾く。
扉の横に控えていたチャールズが、わずかに杖を動かした。
「ルシア様。」
「何?」
「質問の仕方には配慮が必要でございます。」
「でも、大事なことよ。」
「大事だからこそでございます。」
ソータは額を押さえた。
まだ体は重い。
なのに、頭だけ急に忙しくなる。
「……そうなることが多い。」
ソータは慎重に言った。
「多い?」
「でも、それをしたら必ず子供ができるわけじゃない。」
「そうなの?」
「ああ。」
「じゃあ、何回もしてみればいいのね。」
ルシアはあまりにも素直に言った。
ソータは深く息を吐いた。
「違う。」
「違うの?」
「いや、間違いではない部分もあるけど、そこだけじゃない。」
「難しいわ。」
「本当に難しいんだよ。」
ソータは疲れた体を枕に預けた。
ルシアは前のめりになる。
「じゃあ、何が必要なの?」
「愛情。」
ソータは言った。
ルシアは瞬きをした。
「愛情。」
「ああ。」
「それは何?」
ソータは詰まった。
短く説明できる言葉ではない。
しかも、相手は人間社会を知らない吸血鬼の姫だ。
間違えれば、彼女は都合よく解釈する。
「相手を大切に思うこと。」
「大切に思っているわ。」
「あなたが壊れたら嫌だもの。」
「それも一つだけど、それだけじゃない。」
「まだあるの?」
「ある。」
ルシアはむっとしたように頬を膨らませた。
「人間は面倒ね。」
「そうだな。」
「でも、面倒なところを飛ばすと、たぶん家族にはなれない。」
チャールズが静かに頷いた。
「ソータ様のおっしゃる通りかと。」
ルシアが振り返る。
「チャールズもそう思うの?」
「はい。」
「家族とは、形を整えれば成立するものではございません。」
「血縁のみで語れるものでもなく、同居のみで完成するものでもない。」
「ましてや、一方の意思だけで作れるものではございません。」
「でも、吸血鬼族は子供を作ったら城を渡すわ。」
「それは吸血鬼族の慣習でございます。」
「人間の家族とは異なります。」
「じゃあ、私は人間の家族を作りたい。」
「であれば、人間の手順と心を学ぶ必要がございます。」
ルシアはソータを見た。
「心。」
「そう。」
ソータは頷いた。
「一緒にいたいと思うだけじゃなくて、相手が何を望んでいるかも考える。」
「相手が嫌がることをしない。」
「困らせたら、なぜ困ったのか考える。」
「自分だけが満足する形にしない。」
「そういうのが必要だと思う。」
ルシアは黙った。
珍しく、すぐには反論しなかった。
「私は、ソータを困らせている?」
小さく聞いてきた。
ソータは少し迷った。
だが、嘘をつかなかった。
「かなり。」
ルシアの肩が少し落ちた。
「そう。」
「でも、話を聞こうとはしてくれてる。」
ルシアが顔を上げる。
「それはよいこと?」
「ああ。」
「じゃあ、私は少し進んだ?」
「少し。」
ルシアの表情が少し明るくなった。
「少し進んだ。」
彼女は嬉しそうに繰り返した。
チャールズが穏やかに言った。
「ご立派でございます、ルシア様。」
「褒めた?」
「はい。」
「今日はたくさん褒められるわ。」
ルシアは少し得意げになった。
ソータはその様子を見て、思わず小さく笑った。
(危ない。)
(本当に危ない子なんだけど。)
(こういうところは、かわいいんだよな。)
そう思ってしまった自分に、ソータは少しだけ驚いた。
◆◇◆
夜になる頃、ソータはようやく少し動けるようになってきた。
まだ立ち上がるとふらつく。
だが、ベッドの上で体を起こし、短く歩くくらいならできそうだった。
汗と戦場の汚れが体に残っている。
服もところどころ煤け、泥がついている。
眠って少し体が戻ってくると、今度はその不快感が強くなってきた。
「湯浴みをしたい。」
ソータが呟くと、ルシアが目を輝かせた。
「湯浴み。」
「ああ。」
「体を洗いたい。」
「分かったわ。」
「浴室がある。」
「広いわ。」
「昔、母が使っていた浴室らしいの。」
「黒い石でできていて、湯気が出るの。」
「チャールズが管理しているわ。」
彼女は立ち上がりかけて、ふと止まった。
目が何かを思いついた時のものになる。
薄紫の瞳がきらりと光る。
「湯浴み。」
もう一度言った。
今度は、少し違う声音だった。
ソータは嫌な予感がした。
「何を考えてる。」
「誘惑。」
ルシアは素直に言った。
ソータは目を閉じた。
「言うな。」
「チャールズが前に言っていたの。」
「私は体も魅力的で、魅了もあるから、男の人を誘惑することはできるって。」
「湯浴みなら、誘惑に向いているのではないかしら。」
「チャールズ。」
ソータは思わず側近の名を呼んだ。
部屋の隅のチャールズが、静かに一礼した。
「補足いたしますと、一般論として申し上げたものでございます。」
「一般論が危険すぎる。」
「反省しております。」
ルシアは不思議そうにチャールズを見た。
「だめなの?」
「誘惑そのものが常に悪いわけではございません。」
チャールズは丁寧に言った。
「それはいい考えではございますが、魅了を使ってはいけません。」
ルシアは首を傾げた。
「どうして?」
「心を支配してしまえば、それは恋人でも家族でもなく、ただの下僕でございます。」
部屋の空気が静かになった。
ルシアの表情が止まる。
「下僕。」
「はい。」
「ルシア様は、ソータ様と対等に話したいとおっしゃいました。」
「家族を知りたいともおっしゃいました。」
「であれば、魅了によって意思を曲げることは、その目的から遠ざかります。」
「でも、魅了を使えば、好きになってもらえるのではないの?」
「好きになったように見せることはできましょう。」
「しかし、それはソータ様の心ではございません。」
「ルシア様が動かした影でございます。」
ルシアは黙った。
薄紫の瞳が揺れる。
「影では、家族になれない?」
チャールズは静かに答えた。
「なれません。」
ルシアはソータを見た。
ソータも彼女を見る。
彼女の中で、何かが動いているのが分かった。
欲しい。
そばに置きたい。
城にいてほしい。
家族になりたい。
そのために使える力が自分にはある。
けれど、それを使えば、自分が欲しかったものとは違うものになる。
初めて、ルシアはその矛盾にぶつかっている。
ソータはゆっくり言った。
「ルシア。」
「何。」
「魅了を使わないなら、話はできる。」
「使ったら?」
「たぶん、俺は君を怖がる。」
ルシアの顔が少し曇った。
「それは嫌。」
「じゃあ、使わないでくれ。」
ルシアは膝の上で指を握った。
しばらく黙る。
そして、小さく頷いた。
「分かった。」
「魅了は使わない。」
ソータは少し息を吐いた。
チャールズも静かに頷く。
「賢明でございます。」
ルシアは顔を上げた。
「でも、魅了を使わずに誘惑するのはいいの?」
ソータは咳き込みそうになった。
チャールズは一拍置いてから答えた。
「相手の意思を尊重し、拒否を受け入れるのであれば、求愛行動の一種として否定はいたしません。」
「チャールズ。」
ソータは低く言った。
「何で援護するんだ。」
「私は事実を申し上げております。」
「事実が厄介なんだよ。」
ルシアは少し元気を取り戻したように見えた。
「では、湯浴みの準備をするわ。」
「魅了は使わない。」
「でも、私がかわいいと思わせる努力はしてもいいのね?」
ソータは返事に困った。
困った顔を見て、ルシアは嬉しそうに笑った。
「その顔、好き。」
「困らせるな。」
「困らせすぎないようにするわ。」
「本当か?」
「少し進んだルシアだから。」
得意げに言う。
ソータは思わず笑ってしまった。
危険だ。
やはり危険だ。
けれど、昨日よりは少しだけ、この吸血鬼の姫のことが分かってきた。
彼女は支配を知らずに支配する。
孤独を知らずに孤独だった。
家族を知らずに家族を欲しがっている。
そして今、初めて自分の力を使わない選択を覚えようとしている。
(かわいいと思っちゃ駄目だろ。)
(いや、駄目ってことはないけど。)
(これはかなりまずい。)
ソータは額を押さえた。
ルシアは楽しそうにくるりと振り返る。
「チャールズ。」
「浴室を用意して。」
「それから、私の一番綺麗な夜着も。」
「かしこまりました。」
「ルシア。」
ソータが呼ぶと、彼女は振り返った。
「何?」
「夜着はいらない。」
「いるわ。」
「湯浴みだろ。」
「誘惑もするもの。」
「魅了は使わないって言ったよな。」
「使わないわ。」
「だから、努力するの。」
ルシアは胸を張った。
ソータは言葉を失った。
チャールズは静かに一礼したまま、どこか楽しんでいるようにも見えた。
黒い城の夜が、また深くなっていく。
そしてソータは、男たちの村へ戻るための交渉が、思っていたよりずっと長く、難しく、そして妙に甘いものになりそうだと悟り始めていた。




