第116話:夜の城へ
ソータは、空の冷たさで自分がまだ意識を失っていないことを知った。
足元には何もない。
地面は遠い。
男たちの村の火は、もう小さな赤い点になっていた。
どくろ旗の残骸も、倒れた柵も、土に沈んでいった盗賊たちも、夜の底へ溶けていく。
耳に残っているのは、バルクの叫び声だった。
「ソータ!」
その声が、何度も胸の中で反響する。
だが、声はすぐに風へ攫われた。
今、ソータを抱えているのは、薄紫の髪をした吸血鬼の少女だった。
ルシア。
夜の城のルシア。
巨大な紫の羽を広げ、月明かりの中を飛んでいる。
背後からソータを抱きかかえる腕は、見た目に似合わず強い。
逃れようとしても、簡単には外れないだろう。
けれど、その腕に込められている力は、先ほどより少し違っていた。
最初は、逃がさないための力だった。
約束だから連れていく。
そう決めた者の、無邪気で強引な力だった。
今は少し、支えるための力になっている。
「ソータ。」
ルシアが耳元で呼んだ。
声は風の中でもよく聞こえた。
不思議なほど澄んでいる。
冷たい夜気の中で、紫色の鈴が鳴るような声だった。
「ねえ、ソータ。」
「聞こえている?」
ソータは答えようとした。
だが、喉が動かなかった。
声が出ない。
体力が底をついている。
朝からずっと走り、荷を出し、負傷者を運び、柵を補修し、矢を防ぎ、《車体爆裂突進》まで使った。
その上で、矢の雨を前にして限界まで《神速積載庫》を開こうとした。
体の芯が空っぽになっている。
言葉どころか、息を整えるだけで精一杯だった。
ルシアは少しだけ慌てたように、ソータを抱える腕の位置を変えた。
「苦しい?」
「ごめんなさい。」
「人間を抱えて飛ぶの、あまり慣れていないの。」
「魔物なら落としても拾えばいいけれど、人間は落とすと壊れるでしょう?」
その言い方はかなり物騒だった。
だが、声には本当に心配が混じっていた。
ソータは薄く目を開けた。
ルシアの横顔が近い。
月明かりに照らされた頬。
薄紫の髪。
大きな瞳。
その瞳は、先ほど戦場で楽しげに輝いていた時とは違っている。
困っていた。
どうすればいいのか分からず、それでもソータの様子を見ようとしている。
「……。」
ソータは何か言おうとした。
だが、息だけが漏れた。
ルシアはそれを見て、さらに声を柔らかくした。
「しゃべらなくていいわ。」
「疲れているのね。」
「すごく疲れている。」
「あなた、ずっと走っていたもの。」
「荷物を出して、誰かを運んで、火を消して、柵を直して。」
「それから、あの大きな鉄の影みたいなものも出したでしょう?」
「あれ、面白かったけれど、あなたには重そうだった。」
ソータは目だけを動かした。
見ていたのか。
そう言いたかった。
ルシアは小さく笑った。
「見ていたわ。」
「少し前から。」
「あなたは目立つもの。」
「人間の群れの中にいるのに、荷物より重いものをいっぱい抱えている。」
「不思議。」
ソータは返せなかった。
返せない代わりに、目を閉じる。
体がだるい。
風が冷たい。
だが、ルシアの腕の中は、思ったより安定していた。
落ちる気配はない。
揺れはあるが、乱暴ではない。
羽ばたきのたびに体が少し浮き沈みするが、そのたびにルシアはソータの体を支え直している。
「寒い?」
ルシアが聞いた。
ソータはかすかに首を動かした。
寒いのか、疲れて震えているのか、自分でも分からなかった。
ルシアは少し考え込むように沈黙した。
それから、背中の大きな羽を少し丸めた。
片方の羽が、ソータの体を風から隠すように包む。
紫の羽の内側は、不思議な暖かさがあった。
火のような熱ではない。
血の通う温度でもない。
夜そのものが薄い布になって体を包むような、静かな暖かさだった。
先ほど矢の雨を受け止めた羽。
その羽が、今は風除けになっている。
「これなら平気?」
ルシアが少し不安そうに聞く。
ソータは、ほんのわずかに頷いた。
ルシアの顔がぱっと明るくなる。
「よかった。」
その声が、意外だった。
ソータは少しだけ目を開ける。
ルシアは本当に安心したような顔をしていた。
男たちの村を覆ったグールの群れを呼び出した時と同じ存在とは思えない。
盗賊たちを土へ引きずり込ませた女。
矢を弾き返し、首領を一蹴りで地面に伏せさせた女。
その女が今、ソータが少し頷いただけで嬉しそうにしている。
(何なんだ、この子は。)
ソータはぼんやりと思った。
怖い。
確かに怖い。
彼女の力は、あまりにも人の尺度から外れている。
悪気なく奪う。
悪気なく縛る。
約束という言葉で、ソータを空へ連れ去った。
村の後始末も、バルクの声も、オルドアイとの約束も、ミレイユへの報告も、すべて置き去りにして。
けれど、今の彼女はソータを傷つけようとしていない。
むしろ、壊さないようにしている。
人間の扱い方が分からないなりに、気をつけている。
それが分かってしまった。
だから余計に、困る。
ルシアは、少しだけ得意げに言った。
「もうすぐ私の城よ。」
「そこなら休めるわ。」
「寝台もあるし、毛布もあるし、水もあるわ。」
「人間が飲めるものも、たぶんあるはず。」
「チャールズが知っていると思う。」
知らない名前が出た。
ソータは少しだけ眉を動かした。
ルシアはそれに気づいた。
「チャールズ。」
「私の側近よ。」
「骨だけれど、ちゃんと話せるの。」
「ものを知っているわ。」
「私に色々教えてくれたの。」
「人間のことも、少し。」
「でも、人間を連れてきたことはあまりないから、きっと驚くわね。」
ルシアは楽しそうに笑った。
「驚くチャールズを見るの、久しぶりかも。」
ソータは返事をしなかった。
返事をする余裕がなかった。
ただ、頭の隅でその情報を拾う。
城。
チャールズ。
骨の側近。
話せる。
ルシア以外に吸血鬼はいないのか。
アンデッドがいるのか。
逃げられる場所はあるのか。
帰る手段はあるのか。
(考えろ。)
(でも、今は無理だ。)
(体が動かない。)
(話す力もない。)
(まずは、倒れないことだ。)
ソータは目を閉じた。
すると、すぐにミレイユの顔が浮かんだ。
紅い髪。
紅い髪紐。
送り出す時のにっこりした笑み。
その笑みの奥にあった嫉妬と覚悟。
『帰ってくる場所を忘れないように。』
胸が痛む。
続いて、オルドアイの顔が浮かぶ。
朝の別れ際。
キスをしたそうにして、けれど一瞬ためらった顔。
ソータが「大丈夫だ」と言った時の、あの嬉しそうな表情。
『無事に戻れ。』
『ミレイユにも、戻れ。』
『そして、私にも戻れ。』
ソータは息を詰めた。
(戻る。)
(戻らなきゃ。)
(でも、今は……。)
体が傾いた。
意識が一瞬、落ちかける。
ルシアがすぐに気づいた。
「ソータ?」
声が近くなる。
「眠ってもいいわ。」
「落とさないから。」
「私、ちゃんと抱えているもの。」
「怖くないわ。」
怖くない。
その言葉を、ソータは素直には信じられない。
だが、今の自分は本当に限界だった。
無理に起きていても、何かを変えられるわけではない。
暴れれば落ちる。
話せば体力を使う。
考え続けても、頭が回らない。
それなら、少しでも力を戻すしかない。
ソータは、ほとんど聞こえない声で呟いた。
「……落とすなよ。」
ルシアの瞳が大きく開いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「落とさないわ。」
「約束する。」
約束。
その言葉に、ソータは少しだけ反応した。
だが、もう言い返す力はなかった。
ルシアは羽をさらに丸めた。
風の音が少し遠くなる。
紫の薄い光に包まれる。
夜空を飛んでいるはずなのに、どこか小さな部屋の中にいるような感覚になった。
「あなた、今は眠っていいわ。」
「城に着いたら起こすから。」
「急いで休ませるわ。」
「本当よ。」
ルシアの声は、驚くほど優しかった。
ソータはその声を聞きながら、少しずつ力を抜いた。
完全に安心したわけではない。
状況は最悪に近い。
連れ去られている。
行き先は吸血鬼の城。
相手は圧倒的な力を持ち、約束の解釈も人間とはずれている。
それでも、今のルシアの腕の中には、少なくともすぐ殺される恐怖はなかった。
ソータは、その小さな事実にすがるように、浅い眠りへ落ちていった。
◆◇◆
次に目を開けた時、空の色が変わっていた。
夜であることに変わりはない。
だが、地上の景色が深く沈み、代わりに目の前へ大きな影が迫っていた。
城だった。
崖の上に建つ、黒い城。
月光を受けても白くならない石壁。
尖った塔。
細長い窓。
古い蔦が壁を這い、ところどころに紫色の灯が揺れている。
城の背後には深い森が広がり、森の先には黒い山並みが連なっていた。
右奥の闇に隠れるように建つその城は、人間が好んで住む場所には見えなかった。
けれど、廃墟でもなかった。
窓には灯がある。
塔の上には風見のような金属飾りが動いている。
門の前には、ぼんやりと青白い火が二つ灯っていた。
誰かが維持している。
誰かが掃除している。
誰かが待っている。
それでも、寂しい城だった。
広すぎる。
静かすぎる。
音が少なすぎる。
グランデリアの商会には、人の声があった。
北の砦には、火と笑いと足音があった。
男たちの村には、汗と土と鍛冶場の響きがあった。
この城には、そういう生きたざわめきがない。
ソータは薄く目を開けたまま、ぼんやりとそれを見ていた。
ルシアが気づく。
「見えた?」
「あれが私の城。」
声が嬉しそうだった。
自慢している。
だが、どこか自慢に慣れていない声でもあった。
誰かを招いて、自分の城を見せる機会があまりなかったのだろう。
「……大きいな。」
ソータはかすれた声で言った。
ルシアがぱっと笑う。
「でしょう?」
「部屋がたくさんあるの。」
「使っていない部屋もたくさん。」
「あなたの部屋も選べるわ。」
「窓がある部屋がいい?」
「それとも、窓がない方が落ち着く?」
「人間は窓が好き?」
質問が多い。
ソータは答えられず、目を閉じかけた。
ルシアはすぐに口を押さえた。
「あ、しゃべらなくていいのだった。」
「ごめんなさい。」
「チャールズに聞くわ。」
「人間の客室はどれがよいか、きっと知っているもの。」
羽がゆっくり角度を変える。
城の中庭へ降りていく。
地面が近づく。
黒い石畳。
枯れた噴水。
月光を受ける古い像。
像は翼を広げた誰かの姿をしている。
吸血鬼族の祖先だろうか。
ルシアはソータを抱えたまま、ふわりと中庭へ着地した。
足音はほとんどない。
だが、ソータの体には軽い衝撃が伝わった。
その衝撃だけで、体の奥が軋んだ。
「っ……。」
ソータが小さく息を詰めると、ルシアは慌てた。
「痛かった?」
「ごめんなさい。」
「もっとゆっくり降りればよかった。」
「人間は、本当に壊れやすいのね。」
彼女はそう言いながら、ソータを下ろそうとした。
だが、ソータの足はうまく地面を捉えなかった。
膝が折れる。
ルシアは慌てて支えた。
「だめ。」
「立てないのね。」
「無理しないで。」
ソータは悔しかった。
自分で立てない。
それが情けない。
だが、実際に足には力が入らなかった。
《車体爆裂突進》の消耗がまだ抜けていない。
空を飛ぶ緊張が解けたことで、疲労が一気に戻ってきた。
「……悪い。」
ソータが呟くと、ルシアは不思議そうな顔をした。
「どうして謝るの?」
「立てない。」
「疲れているからでしょう?」
「それは悪いことなの?」
ソータは答えられなかった。
ルシアは本当に不思議そうにしている。
人間が弱いことを責めているのではない。
疲れたものが立てないのは当然だと考えている。
「私が運ぶわ。」
ルシアは当然のように言った。
ソータは少しだけ身じろぎした。
「いや、歩ける。」
「歩けていないわ。」
「少し休めば。」
「休む場所まで運ぶの。」
ルシアはそう言って、ソータをもう一度抱き上げた。
今度は背後からではなく、横抱きだった。
いわゆる、抱きかかえられる形。
ソータは一瞬、抵抗しようとした。
だが、体がまったくついてこない。
それに、ルシアの腕はやはり安定していた。
(情けない。)
(でも、今は本当に無理だ。)
(体力を戻す方が先だ。)
ソータは諦めた。
ルシアは満足そうに頷く。
「よし。」
「今度はちゃんと抱えたわ。」
「これなら落ちない。」
「……落ちる前提で話すのやめてくれ。」
「落とさない前提よ。」
「そうか。」
会話は短い。
だが、ソータの声が出たことが嬉しかったのか、ルシアは少し笑った。
「しゃべった。」
「少しだけな。」
「うん。」
「少しでいいわ。」
「城に入ったら、すぐに休ませる。」
「約束。」
彼女はまた約束と言った。
今度の約束は、連れ去るためのものではなく、休ませるためのものだった。
それが少しだけ、ソータの警戒を緩めた。
◆◇◆
城の大扉が、音もなく開いた。
誰かが内側から押したわけではない。
ルシアが近づくと、扉が勝手に開いた。
古い魔法か、アンデッドの仕掛けか。
分からない。
中は広い玄関広間だった。
高い天井。
黒い石の床。
紫の炎が灯る燭台。
壁には古い絵が並んでいる。
どの絵にも、薄い肌と鋭い目をした者たちが描かれていた。
おそらく吸血鬼族だろう。
人間とも魔族とも違う、不思議な気配をまとっている。
床は磨かれていた。
埃はない。
蜘蛛の巣もない。
廃城ではない。
確かに手入れされている。
だが、人の声がない。
代わりに、骨の音がした。
かた。
かた。
かた。
階段の下、柱の陰、廊下の奥から、スケルトンたちが現れた。
白い骨の体に、古い執事服や給仕服をまとっている。
彼らは無言で並び、ルシアに向かって一斉に頭を下げた。
ソータは思わず体を強張らせた。
ルシアはすぐに気づく。
「怖い?」
「……少し。」
「この子たちは何もしないわ。」
「私の城の子たち。」
「掃除をしたり、扉を開けたり、荷物を運んだりするの。」
「あなたには触らせないように言うわね。」
ルシアはスケルトンたちに向かって言った。
「この人はソータ。」
「私のお客様よ。」
「勝手に触ってはだめ。」
「怖がらせてもだめ。」
「あと、壊してもだめ。」
スケルトンたちは一斉に頭を下げた。
返事はない。
声がないのだ。
ソータはその光景に、ぞっとしながらも、どこか奇妙な寂しさを感じた。
これがルシアの城の日常なのか。
命令。
沈黙。
従う骨。
話さない召使いたち。
ルシアは彼らに囲まれて育ったのだろう。
誰も反論しない。
誰も笑わない。
誰も怒らない。
誰も困らない。
だから、ソータが困る顔を面白がるのかもしれない。
そう思った時、階段の上から別の足音がした。
かつん。
かつん。
かつん。
骨の軽い音ではない。
杖をつくような、規則正しい音。
階段の踊り場に、ひときわ背の高いスケルトンが現れた。
他のスケルトンとは違う。
骨は白ではなく、わずかに銀色を帯びている。
黒い燕尾服を着ている。
胸元には古い銀鎖。
片手には細い杖。
頭蓋骨の眼窩には、淡い青い火が灯っていた。
その佇まいは、骨でありながら老紳士のようだった。
彼はゆっくり階段を降りてきた。
そして、ルシアの前で深く一礼した。
「お帰りなさいませ、ルシア様。」
声があった。
乾いた骨の響きを含みながらも、低く、品のある声だった。
ルシアの顔が明るくなる。
「ただいま、チャールズ!」
「ご無事で何よりでございます。」
チャールズと呼ばれたスケルトンは顔を上げた。
青い火の視線が、ソータへ向く。
ほんの一瞬、火が揺れた。
「……おや。」
チャールズは静かに言った。
「生きた人間のお客様でございますか。」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
「そうよ。」
「ソータよ。」
「私が連れてきたの。」
「そのようでございますな。」
チャールズはソータの様子を一目で見て取ったらしい。
声の調子が少しだけ変わる。
「かなり消耗されておられます。」
「ルシア様、すぐに休ませるべきかと。」
「分かっているわ。」
「私もそう思っていたの。」
「だから急いで戻ってきたのよ。」
ルシアは少し誇らしそうに言った。
チャールズは丁寧に頷いた。
「賢明でございます。」
ルシアは嬉しそうに笑う。
ソータはそのやり取りをぼんやり見ていた。
チャールズは、ただの配下ではない。
ルシアを叱るというより、導く存在のように見える。
言葉の選び方が優しい。
ルシアも彼に対しては、少し子供っぽい表情を見せる。
「チャールズ。」
「人間が休む部屋は、どこがいい?」
「東の客室がよろしいでしょう。」
「月光は入りますが、朝日は直接入りません。」
「寝台も柔らかく整えてございます。」
「人間用の水差しも用意できます。」
「食べ物は?」
「人間用の保存食が少々。」
「ただし、新鮮なものはございません。」
「明朝、調達を命じましょう。」
「血は?」
「ルシア様。」
チャールズの声が少しだけ低くなった。
ルシアはきょとんとした。
「飲ませる方の話よ。」
「人間は血を飲まないの?」
「通常は飲みません。」
「そうなの?」
「はい。」
ルシアはソータを見下ろした。
「飲まないの?」
ソータはかすれた声で答えた。
「飲まない。」
「そう。」
ルシアは真剣に頷いた。
「覚えたわ。」
ソータは疲れた頭で思った。
(そこからなのか。)
チャールズが静かに歩き出す。
「こちらへ。」
「ルシア様、そのままお運びください。」
「今床に立たせるのは危険でございます。」
「分かったわ。」
ルシアはソータを抱え直し、チャールズの後に続いた。
廊下を進む。
壁の燭台には紫の火が灯っている。
床には深い色の絨毯が敷かれ、足音を吸っている。
窓の外には夜の森。
時々、骨の召使いたちが無言で頭を下げる。
ソータはルシアの腕の中で、半分眠りかけていた。
だが、意識の端で城を観察する。
豪華だ。
広い。
清潔。
しかし、あまりにも静か。
使われていない部屋が多いのだろう。
扉はいくつもあるのに、人の気配がない。
廊下は長いのに、笑い声がない。
食事の匂いもない。
水音も少ない。
生活があるのに、生きた生活音がない。
ルシアが少し身を乗り出してソータを覗き込んだ。
「眠い?」
「……ああ。」
「もう少しよ。」
声が優しい。
ソータはその声を聞きながら、ふと思った。
この城で、ルシアはずっと暮らしてきたのか。
話せる相手はチャールズだけ。
他は無言のアンデッド。
両親はいない。
同族もいない。
人間にも会わない。
人間の血も吸わない。
ただ、遠くから人間を見て、興味を持って、覗いて、知りたくなって。
そして、ソータを連れてきた。
(危険だ。)
(でも、ただ悪いやつじゃない。)
(それが一番厄介だ。)
ソータは薄く息を吐いた。
ルシアがまた心配そうにする。
「痛い?」
「いや。」
「苦しい?」
「少し眠いだけ。」
「そう。」
「眠っていいわ。」
「でも、部屋についてからの方がいいかしら。」
「人間は運ばれながら眠ると、首が変になる?」
ソータは少しだけ笑いそうになった。
こんな状況で笑いそうになるとは思わなかった。
「……たぶん、大丈夫。」
「たぶんは危ないわ。」
ルシアは真剣だった。
チャールズが前を歩きながら、穏やかに言う。
「ルシア様。」
「人間は多少姿勢が崩れても、すぐに壊れるわけではございません。」
「そうなの?」
「はい。」
「ただし、今のソータ様は相当に消耗されておりますので、丁寧に扱うに越したことはございません。」
「丁寧にするわ。」
「それがよろしいかと。」
チャールズは淡々と答えた。
ソータはその会話を聞いて、ほんの少しだけ緊張を解いた。
少なくとも、チャールズは話が通じそうだ。
それは大きい。
ルシアだけでは危うい。
彼女は純粋すぎる。
自分の欲しいものと相手の事情の境目がまだ分かっていない。
だが、チャールズが間にいるなら、交渉の余地があるかもしれない。
(まずは休む。)
(それから、話す。)
(チャールズにも状況を説明する。)
(ルシアを怒らせず、ここから出る方法を考える。)
廊下の突き当たりで、チャールズが扉を開いた。
客室だった。
広い部屋。
大きな寝台。
厚いカーテン。
机。
椅子。
暖炉。
水差し。
清潔な毛布。
窓からは月が見えるが、朝日が直接入らない位置らしい。
人間の客室としては、かなり上等だった。
ルシアは慎重に寝台へ近づいた。
「下ろすわね。」
「痛かったら言って。」
「言わないと分からないから。」
その言い方が、少し不器用で優しかった。
ソータは小さく頷いた。
ルシアは本当にゆっくりと、ソータを寝台へ下ろした。
毛布が体を受け止める。
背中が寝台に沈む。
その瞬間、全身の力が抜けた。
「……っ。」
痛みではなく、安堵の息が漏れた。
寝台は柔らかかった。
北の砦の寝台とも、商会の客室とも違う。
古いが手入れされている。
体が沈みすぎず、ちょうどよく支えられる。
ルシアは寝台の脇に膝をつくように座り、ソータの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫。」
「本当?」
「たぶん。」
「また、たぶん。」
ルシアは少し不満そうにした。
チャールズが水差しを確認し、杯へ水を注いだ。
「ソータ様。」
「少量で結構です。」
「水を。」
ソータは起き上がろうとした。
だが、腹に力が入らない。
ルシアがすぐに支える。
「無理しないで。」
彼女はソータの背に手を添え、上体を少しだけ起こした。
チャールズが杯を渡す。
ルシアがそれを受け取り、ソータの口元へ近づけた。
ソータは一瞬ためらった。
だが、水の匂いは普通だった。
喉が焼けるように乾いている。
少しずつ飲む。
冷たい水が喉を通った。
体の奥へ染みる。
「……助かる。」
ソータが呟くと、ルシアは嬉しそうに笑った。
「よかった。」
チャールズは静かに頷く。
「ひとまず、命に別状はなさそうでございます。」
「ただし、魔力と体力の消耗が激しい。」
「今夜は会話も控え、眠っていただくべきでしょう。」
「え。」
ルシアが不満そうな声を出した。
「私は話したいことがたくさんあるのに。」
「明日以降になさいませ。」
「でも。」
「ルシア様。」
チャールズの声は柔らかいが、はっきりしていた。
「ソータ様は、壊れてしまっては話せません。」
ルシアははっとした。
そして、真剣に頷いた。
「それは困るわ。」
「であれば、お休みいただくことが最優先でございます。」
「分かった。」
ルシアはソータへ向き直った。
「ソータ。」
「今日は眠っていいわ。」
「本当は、人間のことを色々聞きたいけれど。」
「あなたが壊れたら嫌だから、我慢する。」
我慢という言葉が、少し誇らしげだった。
ソータはかすかに目を開ける。
「……助かる。」
「明日は聞くわ。」
「……少しだけな。」
「少しだけ。」
ルシアは頷いた。
だが、すぐに付け足す。
「たくさんの少しだけ。」
ソータは返す気力もなく、目を閉じた。
チャールズが毛布を整える。
骨の手なのに、不思議と所作は丁寧だった。
ルシアはその様子をじっと見て、真似るように毛布の端を直した。
少し不器用だった。
それでも、優しくしようとしているのは分かった。
「ソータ。」
ルシアが小さく呼ぶ。
ソータは目を開けなかった。
「なに。」
「私、落とさなかったでしょう。」
ソータは少しだけ口元を動かした。
「……ああ。」
「約束、守ったわ。」
「うん。」
「だから、あなたも私の城に来た。」
「約束、守った。」
その言葉には、満足があった。
けれど、責める響きはなかった。
今はただ、自分とソータの間に約束が成立したことを、嬉しそうに確かめているだけだった。
ソータは眠りに沈みながら、かすかに思った。
(この子にとって、約束はたぶん玩具じゃない。)
(でも、人間の約束の重さとは違う。)
(そこを間違えたら、また連れていかれる。)
(いや、もう連れてこられてるんだけど。)
思考が途切れかける。
ルシアの声が遠くなる。
「おやすみ、ソータ。」
少し間があった。
それから、彼女は小さく続けた。
「明日、私にたくさん教えてね。」
ソータは返事をしたかどうか、自分でも分からなかった。
ただ、最後に聞こえたのは、チャールズの静かな声だった。
「ルシア様。」
「お客様を迎える時は、まず相手の事情をお聞きするものです。」
「そうなの?」
「はい。」
「じゃあ、明日は事情を聞くわ。」
「それから、私の聞きたいことも聞く。」
「それがよろしいでしょう。」
「チャールズ。」
「はい。」
「人間って、思ったより温かいのね。」
チャールズは少し沈黙した。
それから、穏やかに答えた。
「生きておりますから。」
「そう。」
ルシアの声が、少しだけ柔らかくなる。
「生きているのね。」
その言葉を最後に、ソータの意識は深い眠りへ落ちていった。
◆◇◆
ルシアは、寝台で眠るソータをしばらく見つめていた。
胸が上下している。
息をしている。
疲れ切っている。
それでも、生きている。
彼女はそれが不思議だった。
グールもスケルトンも、息をしない。
チャールズは話すが、胸は動かない。
城の中にいる者たちは、命令すれば動く。
だが、眠るというより止まるだけだ。
温かくならない。
困った顔もしない。
水を飲んでほっとした顔もしない。
ソータは違った。
疲れている。
苦しそう。
けれど、水を飲んだ時、少し安心した顔をした。
羽で風を避けた時、ほんの少し頷いた。
落とさないと約束した時、声を出した。
その全部が、ルシアには新しかった。
「チャールズ。」
「はい、ルシア様。」
「人間は、弱いのね。」
「我々吸血鬼族やアンデッドと比べれば、肉体的には脆弱でございます。」
「でも、彼はずっと走っていたわ。」
「弱いのに。」
「疲れるのに。」
「倒れそうなのに。」
「どうして?」
チャールズは寝台のソータを見た。
青い火が、静かに揺れる。
「守るものがあったのでしょう。」
「守るもの。」
「はい。」
「人間は、自分よりも大切なもののために、無理をすることがございます。」
「自分より大切?」
ルシアは首を傾げた。
「変なの。」
「人間とは、時にそういうものです。」
「ソータもそう?」
「おそらく。」
ルシアはソータの顔を見た。
眠っていても、眉間に少し皺が寄っている。
どこかへ帰ろうとしているような顔だった。
「帰りたいと思っているのかしら。」
「思っておられるでしょう。」
チャールズは静かに答えた。
ルシアの顔が少し曇る。
「どうして?」
「ここにいれば安全なのに。」
「私が守れるのに。」
「寝台もあるのに。」
「水もあるのに。」
「帰る場所があるからではございませんか。」
「帰る場所。」
ルシアはその言葉を繰り返した。
城の中は静かだった。
この城はルシアの場所だ。
だが、帰る場所という言葉は、少し違う響きをしていた。
ただ住んでいる場所ではないのだろう。
誰かが待っている場所。
戻らなければならない理由がある場所。
ルシアは胸の奥に、小さな違和感を覚えた。
それが寂しさなのか、不満なのか、興味なのか、まだ分からない。
「チャールズ。」
「はい。」
「私は、ソータに帰ってほしくないかもしれない。」
「そうでございますか。」
「でも、帰りたいのに帰さないのは、よくないこと?」
チャールズは少しだけ沈黙した。
それから、慎重に言葉を選んだ。
「人間社会では、よくないこととされる場合が多いかと。」
「場合が多い。」
「ほぼ、よくないことでございます。」
「そう。」
ルシアは唇を尖らせた。
「難しいわ。」
「はい。」
「人間は難しゅうございます。」
「でも、知りたい。」
「であれば、まずはソータ様にお聞きになるのがよろしいでしょう。」
「明日?」
「明日でございます。」
「今夜は眠らせて差し上げませ。」
ルシアは少し不満そうにしたが、すぐにソータを見る。
彼は眠っている。
疲れ切った顔で、それでも呼吸をしている。
ルシアはその呼吸を聞いているうちに、不満が少し薄れた。
「分かったわ。」
彼女は小さく言った。
「今夜は我慢する。」
「ご立派でございます。」
「褒めた?」
「褒めました。」
ルシアは少し嬉しそうにした。
それから、寝台の脇に座ったまま、ソータを見つめ続けた。
チャールズは静かに一礼し、部屋の隅へ下がる。
紫の炎が揺れる。
窓の外では、月が黒い森を照らしていた。
ルシアは、眠るソータへそっと囁いた。
「おやすみ、ソータ。」
「明日、あなたの帰る場所のことを教えて。」
「それから、私がどうしたらあなたに残ってもらえるのかも。」
返事はない。
ソータは深く眠っている。
それでもルシアは、なぜか満足そうに微笑んだ。
黒い城の夜は静かだった。
その静けさの中で、吸血鬼の少女は初めて、自分以外の誰かの寝息を聞きながら夜を過ごした。




