第112話:朝の出立
目を覚ました時、ソータはしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が見える。
グランデリアの宿の天井ではない。
クラウゼン商会の客室でもない。
北の砦の石壁に囲まれた、簡素な部屋の天井だった。
窓の外はまだ薄暗い。
東の空が白み始めたばかりで、夜の名残が部屋の隅に沈んでいる。
石壁は冷えているはずなのに、寝台の中だけは妙に温かい。
その理由は、すぐ隣にあった。
オルドアイが眠っていた。
ソータの腕の中で、深く息をしている。
長い茶髪が寝台に広がり、褐色の肩に朝の薄い光がかかっている。
いつもの鋭い目は閉じられていて、戦士としての強さはどこか遠くへ置かれていた。
左腕には、緑の組み紐が残っている。
昨夜、何度も月明かりの中で揺れたその紐が、今は静かに彼女の腕を結んでいた。
ソータは動けなかった。
昨夜の記憶が、ゆっくり戻ってくる。
宴の熱。
甘い香。
オルドアイの手。
部屋の扉が閉まる音。
何度も名を呼んだ声。
触れるたびに確かめた言葉。
好きだと告げた時の、彼女の顔。
胸が熱くなる。
同時に、重くもなる。
(やったことを後悔してるわけじゃない。)
(でも、軽くしていい夜じゃない。)
(ミレイユに、どう話すか。)
(いや、そこから逃げるな。)
(俺が選んだんだ。)
ミレイユの顔が浮かぶ。
紅い髪紐。
にっこり笑って言った声。
『オルドアイによろしく。』
ソータは小さく息を吐いた。
(よろしくは伝えた。)
(伝わりすぎた気もする。)
(……怒られるな。)
そう思った瞬間、腕の中でオルドアイがわずかに動いた。
まつ毛が震える。
ゆっくりと瞳が開く。
最初はぼんやりしていたその目が、ソータを見つけた瞬間、柔らかくほどけた。
「……ソータ。」
「おはよう。」
オルドアイはしばらくソータの顔を見つめていた。
それから、胸元に顔を寄せる。
「いた。」
「いるよ。」
「夢ではないな。」
「ああ。」
「よい朝だ。」
ソータは苦笑した。
「前も言ってたな。」
「よい朝は何度あってもよい。」
オルドアイはそう言って、満足そうに目を細めた。
だが、すぐに何かを思い出したように顔を上げる。
「明るいか。」
「少し。」
「……もう朝か。」
「朝だな。」
オルドアイは露骨に不満そうな顔をした。
「早い。」
「夜明け前には起きるつもりだっただろ。」
「それはそうだ。」
「だが、私の気持ちとしては早い。」
「気持ちの問題か。」
「大事だ。」
オルドアイは真剣に言った。
その顔があまりにまっすぐで、ソータは笑ってしまいそうになった。
けれど、笑う前にオルドアイが少しだけ身を起こした。
毛布が揺れる。
朝の冷気が入り込み、ソータは少し肩をすくめた。
オルドアイは左腕の組み紐を見た。
「残っている。」
「外さなかったからな。」
「うむ。」
彼女はその紐に指を触れた。
それから、ほんの少し恥ずかしそうに笑う。
「昨夜、何度も見た。」
「俺も。」
「これがあると、不思議だ。」
「ミレイユがここにいないのに、少しだけ見ている気がする。」
「怒ってそうか?」
「少し。」
「だよな。」
「だが、逃げるな。」
オルドアイはソータの胸に指を置いた。
「私も逃げん。」
「昨夜は、私も選んだ。」
「お前だけの責任ではない。」
ソータは胸の奥を掴まれたような気がした。
オルドアイはまだ恋に不慣れだ。
感情の出し方も真っ直ぐすぎる。
けれど、責任から逃げようとはしない。
欲しいと手を伸ばしたなら、その先にあるものも受け止めようとする。
「ありがとう。」
「礼ではない。」
「当然だ。」
オルドアイはそう言って、少しだけ顔を赤くした。
「それに、私は嬉しかった。」
「お前が来てくれて。」
「私を見てくれて。」
「好きだと言ってくれて。」
ソータは言葉に詰まった。
オルドアイは照れている。
照れているのに、言う。
言わずにはいられないという顔で、ひとつひとつ大切な石を並べるように言葉にしている。
「私も好きだ。」
彼女は改めて言った。
「昨夜も言ったが、朝にも言う。」
「夜の熱だけではないと、お前に分かるように。」
ソータの胸が熱くなった。
「俺も好きだよ。」
オルドアイは一瞬、動きを止めた。
そして、寝起きとは思えない勢いでソータに抱きついた。
「強い。」
「またそれか。」
「その言葉は強い。」
「私はまだ慣れていない。」
「慣れたらどうなるんだ?」
「もっと言わせる。」
「結局変わらないな。」
「変わらん。」
二人は小さく笑った。
笑いながら、ソータは彼女を抱き返した。
昨夜のような熱ではない。
朝の光の中で確かめる、穏やかな抱擁だった。
それでも、胸の奥には確かな温度が残る。
オルドアイはしばらくそのまま動かなかった。
やがて、彼女は名残惜しそうに身を離した。
「起きるぞ。」
「ああ。」
「嫌だが、起きる。」
「正直だな。」
「私はそういう女だ。」
オルドアイは寝台から降り、手早く身支度を始めた。
その動きは、さっきまで腕の中にいた女とは別人のようだった。
布を整え、革紐を締め、武器の位置を確かめる。
戦士の顔へ戻っていく。
だが、時々こちらを見る。
目が合うと、少し嬉しそうにする。
そのたびに、ソータは胸がくすぐったくなった。
(分かりやすいな。)
(でも、そこがいいんだろうな。)
ソータも旅装を整えた。
紐を締め直し、肩紐を確認し、腰の袋を確かめる。
《神速積載庫》の中には、男たちの村へ運ぶ荷が残っている。
穀物袋。
薬草。
包帯。
縄。
木杭。
水袋。
矢羽根。
革紐。
予備の毛布。
ミレイユが渡した小さな包み。
アルベールの滋養丸。
そして、自分の中には《馬力増強》という隠し荷もある。
昨夜、香だけで反応した。
それは大きな発見だった。
同時に、厄介な事実でもあった。
(飲み物だけじゃない。)
(香でも、たぶん発動する。)
(条件が思ったより広い。)
(便利だけど、危ない。)
(誰にも言えない。)
(少なくとも、まだ。)
ソータは腰の袋に手を当てた。
オルドアイがそれを見た。
「どうした。」
「いや。」
「荷の確認。」
「そうか。」
オルドアイはそれ以上聞かなかった。
その信頼が、少し痛かった。
(ごめん。)
(でも、これは今は言えない。)
(言うなら、ちゃんと自分で分かってからだ。)
ソータは深く息を吸った。
朝の冷たい空気が肺に入る。
夜の熱が少しずつ現実へ戻っていく。
明日ではない。
もう今日だ。
男たちの村へ行く日だった。
◆◇◆
砦の中庭には、すでに男たちが集まっていた。
空はまだ薄青い。
東の山際だけが明るくなり始めている。
かがり火の炎が朝風に揺れ、石畳の上に長い影を落としていた。
男たちの村から来ていた者たちは、武器を手にしている。
斧。
槍。
短剣。
弓。
農具を改造したようなものもある。
全員が正規兵のように揃っているわけではない。
だが、どの顔にも、自分の村へ帰る者の固さがあった。
バルクはその中心にいた。
大きな肩に斧を担ぎ、腰には短剣を差している。
昨夜の宴で笑っていた顔とは違う。
今は完全に戦う男の顔だった。
ただ、その隣にはガルナがいた。
彼女はバルクの襟元を直している。
少し怒ったような顔だ。
けれど、その手つきは丁寧だった。
「傷を増やして帰ってこないで。」
「なるべくな。」
「なるべくじゃない。」
「分かった。」
「できるだけ。」
「同じよ。」
バルクは困ったように笑った。
ガルナはため息をつきながら、彼の胸を軽く叩いた。
「ちゃんと帰ってきて。」
「ああ。」
「村を守るのは大事だけど、あなたが倒れたら意味がない。」
「分かっている。」
「分かっている顔じゃない。」
「……なるべく前に出すぎない。」
「信用できないわね。」
ガルナはそう言いながらも、バルクの手を握った。
バルクはその手を包む。
ほんの短い沈黙。
周囲の男たちは見ないふりをしている。
アマゾネスたちも、にやにやしながらも茶化さない。
別れの前の時間だと、皆分かっていた。
ソータはその光景を見て、昨夜バルクが言った言葉を思い出した。
『今夜は思いっきりガルナと飯を食って、またしばらくお別れだけどな。』
あの寂しさは、今ここに続いている。
食べること。
触れること。
言葉を交わすこと。
それらは全部、次に離れるための準備でもある。
オルドアイがソータの隣に立った。
昨夜よりも距離は少しだけ控えめだった。
けれど、指先がそっとソータの手に触れている。
人目を気にしているというより、これから先の場をわきまえている距離だった。
ソータはその指に、ほんの少しだけ触れ返した。
オルドアイの口元がかすかに緩む。
その時、バルクがこちらに気づいた。
「ソータ。」
「ああ。」
「準備はいいか。」
「いつでも。」
「助かる。」
「村へ戻ったら、すぐ荷を出してもらうことになるかもしれん。」
「分かってる。」
「食料と薬はすぐ出せるようにしてある。」
「縄と木杭、水袋もある。」
「火が出た時のために砂袋代わりに使える袋も持ってきた。」
バルクは目を丸くした。
「そんなものまであるのか。」
「ミレイユが念のためって。」
「あと、俺も必要だと思った。」
「さすがだな。」
「まだ使わずに済むのが一番だけどな。」
バルクは深く頷いた。
「そうだな。」
そこへ、ヤンガルドアイが姿を見せた。
朝の薄明かりの中でも、その存在感は強い。
オルドアイの母であり、この砦の中心にいる女。
彼女が歩くだけで、周囲の空気が少し引き締まる。
ヤンガルドアイは男たちを見回した。
「村へ帰る者たちよ。」
「焦るな。」
「固まって進め。」
「見えたものだけで敵を決めるな。」
「隣国の旗があっても、隣国の兵とは限らん。」
「逆もまた然りじゃ。」
男たちが頷く。
ヤンガルドアイの視線がソータへ向いた。
「運び屋。」
「はい。」
「昨夜はよく眠れたか。」
ソータは一瞬、言葉に詰まった。
周囲の空気が微妙に揺れた。
オルドアイが少しだけ顎を上げる。
バルクが露骨に目を逸らす。
ガルナが口元を押さえる。
ヤンガルドアイはにやりと笑った。
「妙な顔をしておる。」
「……眠れました。」
「そうか。」
「ならばよい。」
「夜に力を蓄えたなら、朝は運べ。」
その言い方は、妙に含みがあった。
ソータは顔が熱くなるのを感じた。
オルドアイは堂々としている。
いや、堂々としようとしている。
耳が赤いので、完全には隠せていない。
ヤンガルドアイはオルドアイの左腕を見た。
緑の組み紐を見る。
それから、少しだけ目を細めた。
「外れなんだか。」
「外していない。」
オルドアイが答える。
「そうか。」
ヤンガルドアイは短く頷いた。
「ならば、昨夜はただの熱ではなかったということじゃな。」
オルドアイは真っ直ぐ言った。
「そうだ。」
ソータは胸を打たれた。
彼女は隠さない。
恥じていない。
もちろん細かなことを人前で語るわけではない。
だが、昨夜の意味そのものは否定しない。
それが、オルドアイの誠実さだった。
ヤンガルドアイは満足そうに笑った。
「よい。」
そして、次の瞬間には表情を引き締める。
「だが、気を抜くな。」
「北の空気が少し変わっておる。」
「昨夜、砦の外から見ていた者がおる。」
「紫のような光が、遠くの空に揺れたそうじゃ。」
ソータの背筋が冷えた。
紫の光。
霧の奥で一瞬揺れた色。
女の声のようなもの。
(やっぱり、気のせいじゃなかったのか。)
オルドアイもソータを見た。
彼女も思い出しているのだろう。
霧の中で感じた、見えない気配を。
「母上。」
「それは何だ。」
「分からぬ。」
ヤンガルドアイは即答した。
「だが、魔物の気配とは違う。」
「獣でもない。」
「人の欲でもない。」
「もっと古い夜の匂いじゃ。」
古い夜。
その言葉に、ソータの胸がざわついた。
バルクが眉を寄せる。
「それも村へ向かっているのか。」
「そこまでは分からぬ。」
「だが、不穏は重なるものじゃ。」
「隣国方面の集団だけに目を奪われるな。」
メバドスの使者が前に出た。
昨夜遅くに砦へ戻ってきた若い男だ。
顔には疲れが残り、目の下に影がある。
「村からの最後の報せでは、集団はまだ距離があります。」
「ですが、夜のうちに一部が動いた可能性があります。」
「見張り小屋の一つから煙が見えたと。」
中庭がざわついた。
バルクの顔が険しくなる。
「見張り小屋だと。」
「村そのものではありません。」
「外れの小屋です。」
「火をつけられたのか、合図なのかは分かりません。」
「行くぞ。」
バルクが即座に言った。
男たちの空気が変わる。
宴の余韻は完全に消えた。
帰る者たちの目になる。
ガルナがバルクの手を離した。
「行って。」
「ああ。」
「村を守って。」
「それから、帰ってきて。」
「必ず。」
バルクは短く答えた。
ガルナは泣かなかった。
ただ、強く頷いた。
ソータはその横で、肩紐を締め直した。
《神速積載庫》の感覚を確かめる。
荷はある。
体も動く。
昨夜の疲れは確かに残っているが、芯にはまだ力がある。
香とスキルの余韻かもしれない。
だが、頼りすぎるつもりはなかった。
(無茶はできる。)
(でも、無茶を前提にしない。)
(俺自身も荷の一部だ。)
(届かなきゃ意味がない。)
オルドアイが近づく。
「私は途中まで同行する。」
「砦は?」
「母上がいる。」
「全軍は動かせんが、私が少し出るくらいなら問題ない。」
ヤンガルドアイは腕を組んで頷いた。
「行け。」
「ただし、深追いはするな。」
「村の状況を見極めたら、必要なら戻って報告せよ。」
「分かっている。」
オルドアイは短く答えた。
それから、ソータへ向き直る。
周囲の目がある。
だからか、昨夜のように抱きつくことはしない。
けれど、彼女は堂々とソータの胸元の留め具を直した。
「少し曲がっている。」
「そうか?」
「そうだ。」
オルドアイは真剣な顔で紐を整える。
その手つきは、昨夜とは違う。
出立前の支度。
戦いへ向かう者を送り出す手だった。
けれど、その指先には確かに昨夜の名残があった。
ソータは小さく言った。
「ありがとう。」
「礼はいらん。」
「帰って言え。」
「分かった。」
「それと。」
オルドアイは少し声を低くした。
「昨夜のことを忘れるな。」
「忘れない。」
「ミレイユに怒られる時も忘れるな。」
「そこもか。」
「そこもだ。」
「私は逃げん。」
「お前も逃げるな。」
「ああ。」
ソータは頷いた。
オルドアイは満足そうに笑った。
その笑顔を胸に入れる。
これも運ぶものだと思った。
荷だけではない。
誰かの笑顔も。
誰かの不安も。
誰かの温度も。
全部、明日の道へ持っていく。
いや、今日の道へ。
◆◇◆
砦の門が開いた。
朝の冷たい風が中庭へ吹き込む。
外の空は明るくなり始めているが、谷間にはまだ霧が残っている。
北の道は白く湿り、遠くの木々は黒い影になっていた。
先頭にバルク。
その後ろに男たち。
左右に数名のアマゾネス。
ソータは中ほどに入る。
オルドアイは彼の少し前、いつでも前線へ出られる位置に立った。
旅の列というより、帰還する小隊だった。
ただし、背負っているものは軍の命令ではない。
村だった。
家だった。
畑だった。
家族だった。
名前のある誰かの生活だった。
ソータはそれを強く感じた。
男たちの背中は重い。
誰も軽口を叩かない。
昨夜は笑っていた者たちも、今朝は静かに前を見ている。
バルクが振り返った。
「行くぞ。」
誰も返事をしなかった。
だが、全員が歩き出した。
ソータも足を踏み出す。
門の内側から、ガルナが見送っている。
彼女の隣には砦の女たちが並んでいた。
誰も泣かない。
ただ、帰ってこいという目で見ていた。
ソータは一度だけ振り返った。
オルドアイも振り返らない。
前を見ている。
だが、左腕の緑の組み紐が朝風に揺れていた。
その揺れを見て、ソータは静かに息を吸った。
(行こう。)
(運ぶ。)
(荷も。)
(約束も。)
(昨夜の温度も。)
(帰る場所も。)
砦の門が背後でゆっくり閉じる。
重い音が、朝の空気に響いた。
男たちの村へ続く道は、霧の中へ伸びていた。
そして、その霧の向こうで、隣国方面から来る集団の影が、少しずつ北の大地へ近づいていた。




