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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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111/148

第111話:緑の組み紐の夜

 オルドアイの部屋の前に着いた時、ソータは自分の呼吸が少し乱れていることに気づいた。


 走ったからではない。

 荷を運んだからでもない。

 宴の甘い香がまだ体の奥で熱を持っている。

 それに応えるように、《馬力増強》の力が静かに脈打っている。

 血の巡りが速い。

 指先が熱い。

 耳の奥で鼓動が鳴っている。


 けれど、それだけではなかった。


 手を引いているオルドアイがいる。

 その背中が近い。

 長い茶髪が揺れている。

 左腕の緑の組み紐が、松明の明かりに照らされている。

 彼女の手は強く、けれど乱暴ではなかった。


 逃がさないためではない。

 離れたくないから握っている。

 その違いが、今のソータには分かった。


 オルドアイは扉の前で一度立ち止まった。


 振り返る。


 いつものような堂々とした目だった。

 けれど、その奥に揺れがある。

 戦場へ出る時の緊張とは違う。

 敵へ向ける闘志とも違う。

 目覚めたばかりの感情を、どう扱えばいいのか分からない少女のような戸惑いだった。


「入るぞ。」


 彼女はそう言った。


 確認ではなく、宣言のようだった。

 だが、その声にはわずかな震えが混じっていた。


「うん。」


 ソータが頷くと、オルドアイは扉を開けた。


 部屋の中は静かだった。


 宴の声は遠い。

 石壁の向こうで、笑い声や杯の音がかすかに響いている。

 けれど、この部屋の中だけは別の時間に切り離されていた。


 窓から月明かりが差し込んでいる。

 木製の寝台。

 壁に立てかけられた武器。

 畳まれた外套。

 水差し。

 簡素な机。

 その上に置かれた、乾いた薬草の束。

 戦士の部屋らしく飾り気は少ない。

 だが、寝台の脇には薄い毛布が丁寧に重ねられていた。


 ソータはそこで、少しだけ胸が締めつけられた。


 オルドアイが待っていたことが分かったからだ。


 ただ勢いで連れてきたのではない。

 この夜を想像していたのだ。

 どう迎えればいいか分からないまま、それでも部屋を整え、毛布を用意し、ソータが来る可能性を胸のどこかで待っていた。


(本当に、不器用だな。)

(でも、ちゃんと待っていたんだ。)


 扉が閉まる。


 小さな音だった。

 それなのに、ソータの胸には大きく響いた。


 二人きりになった。


 そう思った瞬間、体の熱がさらに強くなる。


 ソータは息を吸った。

 甘い香は広間ほど濃くない。

 けれど、衣服や髪に残った匂いがまだ二人の間に漂っている。

 花のような、蜜のような、火の奥で溶ける薬草のような香り。

 それが夜気に混じって、理性の輪郭を少しずつ柔らかくしていく。


 オルドアイはソータの手を離さなかった。


「ソータ。」


「うん。」


「私は、嬉しい。」


「さっきも聞いた。」


「何度でも言う。」


 オルドアイは一歩近づいた。


「お前が来た。」

「皆の前で、私の隣に座った。」

「私の手を握り返した。」

「そして今、ここにいる。」


 言葉を並べるたび、彼女の頬が少しずつ赤くなっていく。

 それでも、目は逸らさない。

 隠し方を知らない感情が、まっすぐにソータへ向けられている。


「私は、それが嬉しい。」


 ソータは胸の奥が熱くなった。


 香のせいではない。

 スキルのせいでもない。

 目の前の女が、自分に向けてくれるものの重さに、心が反応していた。


「俺も、来てよかったと思ってる。」


 オルドアイの瞳が揺れた。


「本当か。」


「本当だ。」


「私だからか。」


 その問いは、少し幼かった。


 強い姫らしくない。

 戦士らしくもない。

 ただ、好きな男に確かめたくてたまらない女の声だった。


 ソータは逃げなかった。


「オルドアイだからだ。」


 短く答えると、オルドアイは息を呑んだ。


 次の瞬間、彼女はソータへ抱きついていた。


 強い腕が背中に回る。

 胸元に顔が埋まる。

 体温が一気に近づく。

 ソータはよろけそうになりながらも、彼女を受け止めた。


 オルドアイの体は熱かった。

 戦士としての硬さと、女としての柔らかさが同時にある。

 腕の力は強い。

 けれど、そこに込められているのは支配ではなかった。

 嬉しさをどう扱えばいいか分からず、ただ抱きしめるしかない者の力だった。


「オルドアイ。」


「少し、このまま。」


「うん。」


 ソータは彼女の背に手を置いた。


 それだけで、オルドアイの肩が小さく震えた。


「触れられると、変な感じがする。」


「嫌か?」


「嫌ではない。」

「むしろ、もっとしてほしい。」

「だが、どうしてよいか分からなくなる。」


 正直すぎる言葉に、ソータは苦笑しそうになった。


 けれど笑わなかった。

 笑えば、彼女の真剣さを軽く扱うことになる気がした。


「俺も分からない。」


「お前もか。」


「ああ。」

「熱いし、落ち着かない。」

「でも、ちゃんとしたい。」


「ちゃんと、とは何だ。」


「オルドアイを、香のせいにしないこと。」

「勢いだけにしないこと。」

「俺が触れたいと思って触れること。」

「オルドアイが嫌なら止まること。」


 オルドアイは顔を上げた。


 月明かりの中で、彼女の瞳がまっすぐ光っている。


「嫌ではない。」


「分かってる。」


「もっと触れてほしい。」


 その言葉は、刃のようにまっすぐで、火のように熱かった。


 ソータの理性が大きく揺れた。


(まずい。)

(本当に、全部持っていかれそうだ。)

(でも、止まらないんじゃない。)

(止まらないと決めるんだ。)

(俺が選ぶ。)


 ソータはゆっくり手を動かした。


 オルドアイの背を撫でる。

 肩甲骨のあたりを確かめる。

 戦いで鍛えられた筋肉の下に、確かな体温がある。

 彼女は目を閉じ、短く息を吐いた。


 その反応が、ソータの胸をさらに熱くする。


 オルドアイは自分から顔を近づけた。


「口づけてもいいか。」


「うん。」


 唇が重なった。


 最初は、短く。

 次は少し長く。

 互いの息を確かめるように。

 昨日まで知らなかった距離を、少しずつ自分たちのものにするように。


 オルドアイの口づけは、やはり不器用だった。

 けれど、前よりも少しだけ覚えている。

 強すぎるとソータが息を詰めること。

 急ぎすぎると自分も分からなくなること。

 途中で離れ、目を見ると、安心できること。


 彼女は覚えていた。


 それが、ソータにはたまらなく愛おしかった。


「うまくなったな。」


 唇が離れた後、ソータが小さく言うと、オルドアイは真剣な顔をした。


「そうか。」


「ああ。」


「努力した。」


「どこで?」


「頭の中で。」


 ソータは今度こそ笑ってしまった。


 オルドアイは少しむっとした。


「笑うな。」


「ごめん。」

「でも、嬉しい。」


「ならよい。」


 彼女はそう言って、もう一度口づけた。


 今度は少し強かった。


 ソータの背が扉に近づく。

 オルドアイの手が胸元に触れる。

 旅装の紐を探る。

 だが、相変わらず服の構造が分からないらしく、彼女の指が途中で止まった。


「……また分からん。」


「何が?」


「お前の服だ。」


 ソータは熱に浮かされていたはずなのに、その言葉で少しだけ現実に戻された。


「前も言ってたな。」


「なぜこんなに紐が多い。」


「運送用だから。」


「脱がせにくい。」


「脱がせる前提で作ってないからな。」


 オルドアイは真剣に不満そうな顔をした。


「改善しろ。」


「どこを目指してるんだよ。」


「私が困らぬ服だ。」


 ソータは顔が熱くなった。


 オルドアイは自分がどれほど大胆なことを言っているか、半分くらいしか分かっていないようだった。

 その素直さが、危うくて、甘くて、たまらない。


「手伝う。」


 ソータは自分の留め具に手をかけた。


 だが、オルドアイがその手を止めた。


「待て。」


「何?」


「私がやりたい。」


 声が真剣だった。


 ソータは息を詰めた。


 オルドアイはゆっくりと旅装の紐に触れた。

 先ほどのように勢いで引くのではなく、ひとつひとつ確かめるように。

 結び目を探し、留め具を外し、布の重なりをほどいていく。

 時間はかかった。

 けれど、彼女は途中で投げ出さなかった。


 その指先には、戦士の粗さがある。

 だが同時に、壊したくないものへ触れる慎重さがあった。


 ソータは黙って彼女を見ていた。


 オルドアイの頬は赤い。

 唇は少し開いている。

 呼吸が浅い。

 けれど、目は真剣だった。

 まるで、知らない武器の扱い方を覚える時のように。

 あるいは、大切な宝物の箱を初めて開ける時のように。


 やがて、外套が床へ落ちた。


 次に肩紐が緩む。

 夜気が首筋に触れる。

 ソータは小さく息を吸った。


 オルドアイはその反応を見て、一度手を止める。


「寒いか。」


「いや。」


「怖いか。」


「少し。」


「私もだ。」


 その言葉で、部屋の空気が少し変わった。


 熱だけではない。

 欲だけではない。

 怖さも二人の間に置かれた。


 置かれたからこそ、隠さずに進める気がした。


 ソータはオルドアイの手を取った。


「それでも、いい?」


「いい。」


 オルドアイはすぐに答えた。


「私は、お前が欲しい。」

「だが、お前を壊したくない。」

「だから、何か違うと思ったら言え。」

「私は止まる。」

「たぶん止まれる。」

「いや、止まる。」


 途中で自分に言い聞かせるように言い直した。


 ソータは彼女の不器用さに胸を掴まれた。


「俺も同じだ。」


「お前も私が欲しいか。」


 オルドアイはまっすぐ聞いた。


 ソータは一瞬だけ息を止めた。


 ごまかせない。

 ごまかしたくない。


「欲しい。」


 その一言を聞いた瞬間、オルドアイの表情がほどけた。


 嬉しさ。

 安堵。

 熱。

 少しの恥じらい。

 全部が混ざった顔だった。


 ソータは彼女の頬に触れた。


「触れていいか。」


「いい。」


 ソータの指が、彼女の頬を撫でる。

 耳元へ触れる。

 茶髪をすくう。

 首筋へ近づく。

 オルドアイは目を閉じた。


 いつも戦場で前に立つ彼女が、今はソータの指先に体を預けている。

 その事実が、ソータの心を強く揺さぶった。


 オルドアイは強い。

 けれど、今この瞬間は、強いまま無防備だった。

 守られるために弱くなったのではない。

 信じるために、鎧を少しだけ外している。


 ソータはその信頼を受け止めたかった。


 指先が、左腕の緑の組み紐に触れた。


 オルドアイが目を開く。


「外すか。」


 ソータは首を振った。


「外さない。」


「なぜだ。」


「それは、オルドアイが選んで受け取ったものだから。」


 オルドアイは静かに息を吸った。


「ミレイユの証だ。」


「うん。」


「今夜も残すか。」


「残したい。」


「よい。」


 オルドアイは頷いた。


「私も残したい。」

「これがあると、私はただ奪うだけの女ではないと思える。」


 ソータは胸が痛くなった。


「オルドアイは、もうただ奪うだけじゃないよ。」


「そうか。」


「ああ。」


「なら、もっと証明したい。」


 オルドアイはそう言って、ソータの胸元へ額を寄せた。


 その仕草があまりに素直で、ソータはたまらず彼女を抱きしめた。


 今度はソータの方からだった。


 オルドアイの体がびくりと震える。

 それから、彼女はゆっくり力を抜いた。

 ソータの腕の中へ入ってくる。

 強い女が、強いまま甘えてくる。


 その重みが、温かかった。


◆◇◆


 寝台へ向かうまでの時間は、ひどく長く感じられた。


 部屋の広さは大したものではない。

 扉から寝台までは数歩だ。

 それなのに、二人は何度も立ち止まった。


 口づける。

 離れる。

 名を呼ぶ。

 触れていいかと聞く。

 頷く。

 また近づく。


 月明かりは静かだった。

 外の宴の声は遠くなっていた。

 甘い香は薄れつつある。

 けれど、二人の間に生まれた熱は、香が消えても残っていた。


 ソータの中で、《馬力増強》はまだ燃えている。

 体は驚くほど力を失わない。

 むしろ、触れるたびに、近づくたびに、内側から熱が湧いてくる。

 それは危険なほど強かった。


 だが、今夜のソータはそれをただ衝動として扱わなかった。


 強く抱きしめそうになるたび、オルドアイの顔を見る。

 彼女が苦しそうなら緩める。

 もっと近づいてくるなら受け止める。

 自分の熱だけで進まない。

 オルドアイの熱と呼吸を確かめながら進む。


 オルドアイも同じだった。


 彼女は時々、ソータを押し倒すような勢いで近づいてきた。

 その腕は強い。

 唇は熱い。

 欲しいという気持ちは隠しようがない。


 だが、そのたびに、彼女は途中で止まる。


「強いか。」


「少し。」


「なら、こうか。」


 力を緩める。


「これはいいか。」


「うん。」


「では、これは。」


「待って。」


「待つ。」


 すぐに止まる。


 その素直さが、ソータには愛おしかった。


 彼女は本当に覚えようとしている。

 欲しいものを壊さずに、欲しがる方法を。

 自分の本能を否定せずに、相手を見ながら近づく方法を。

 ミレイユと共に選んだ関係の中で、自分の愛し方を見つけようとしている。


 ソータはその姿に、何度も心を奪われた。


 やがて、二人は寝台へたどり着いた。


 オルドアイが先に腰を下ろす。

 ソータを見上げる。

 月明かりが彼女の髪にかかり、褐色の肌を柔らかく照らしていた。

 戦士装束は少し乱れ、肩からかかる布がずれている。

 その姿は強く、美しく、そしてひどく危うかった。


 ソータは喉を鳴らした。


 オルドアイはその反応を見逃さなかった。


「見ているな。」


「見てる。」


「嬉しい。」


 彼女はそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。


「だが、照れる。」


「オルドアイでも照れるんだな。」


「照れる。」

「ただ、照れ方がよく分からん。」


「そのままでいいと思う。」


「そうか。」


 オルドアイは納得したように頷いた。


 そして、両手を伸ばした。


「来い。」


 命令のようで、願いのようだった。


 ソータはその手を取った。


 次の瞬間、引き寄せられる。


 二人の体が寝台へ沈む。

 毛布が揺れる。

 月明かりが少し乱れる。

 オルドアイの腕がソータの背へ回る。

 ソータも彼女を抱きしめる。


 その瞬間だけ、ソータの理性は大きく傾いた。


 熱い。

 近い。

 柔らかい。

 強い。

 息が触れる。

 名を呼ばれる。

 求められる。


「ソータ。」


 オルドアイが呼んだ。


 その声だけで、胸の奥に火が落ちた。


「オルドアイ。」


 ソータも呼び返す。


 それだけで、彼女は嬉しそうに目を細めた。


「もう一度。」


「オルドアイ。」


「もう一度。」


「オルドアイ。」


 彼女は息を震わせた。


「よい。」

「お前に呼ばれるのは、よい。」


 ソータは彼女の額に口づけた。

 次に頬へ。

 まぶたへ。

 唇へ。


 オルドアイは最初、それを受けるだけだった。

 だが、すぐに自分から返してきた。

 少し強く。

 少し急ぎすぎて。

 けれど、途中で笑うように息を漏らしながら。


 甘かった。


 ただ優しいだけではない。

 激しさがある。

 欲しさがある。

 抑えようとしても溢れる熱がある。

 それでも、どこか澄んでいた。


 互いを傷つけるための熱ではない。

 誰かを忘れるための夜でもない。

 明日へ向かう前に、今ここにいることを確かめるための夜だった。


 ソータはオルドアイの髪に触れた。


 長い茶髪が指に絡む。

 戦いの中では風に乱れていることが多い髪が、今は月明かりの中で柔らかく流れている。

 ソータが撫でると、オルドアイは目を閉じた。


「気持ちいいか。」


「分からん。」


「分からない?」


「体が全部、変な感じだ。」

「だが、嫌ではない。」

「もっとしてほしい。」


 ソータは頷いた。


 髪を撫でる。

 頬に触れる。

 肩へ手を滑らせる。

 そのたびに、オルドアイの呼吸が少しずつ変わる。


 彼女は強く抱き返してくる時もあれば、急に力を抜いてソータへ身を預ける時もあった。

 時には本能のままに近づき、時には恥ずかしそうに顔を背ける。

 その揺れが、目覚めたばかりの乙女心そのものだった。


「私は、おかしいか。」


 不意にオルドアイが聞いた。


「何が?」


「嬉しいのに、怖い。」

「欲しいのに、壊したくない。」

「もっと近づきたいのに、近づきすぎたらどうなるか分からない。」


 ソータは彼女の頬を撫でた。


「おかしくない。」


「本当か。」


「本当だ。」

「俺も同じだ。」


 オルドアイはソータを見つめた。


「お前も怖いか。」


「怖い。」

「でも、嫌じゃない。」


「私もだ。」


 二人は同時に小さく笑った。


 その笑いで、部屋の空気が少し柔らかくなる。


 ソータは思った。


 これは、ただ情熱だけで進む夜ではない。

 怖さもある。

 ためらいもある。

 間違えたくないという気持ちもある。

 だからこそ、何度も確かめる。

 だからこそ、名前を呼ぶ。

 だからこそ、触れるたびに意味が生まれる。


 オルドアイは、ソータの胸に手を置いた。


「速い。」


「何が?」


「心の音。」


「オルドアイのせいだ。」


 言った瞬間、彼女の顔が赤くなった。


「そうか。」


「ああ。」


「なら、もっと速くしたい。」


 ソータは息を詰めた。


 オルドアイは真顔だった。

 真顔で、とんでもなく甘いことを言う。


「……そういうところだぞ。」


「何がだ。」


「いや。」


 ソータは答える代わりに、彼女を抱き寄せた。


 今度は少し強く。


 オルドアイも応える。

 腕が絡む。

 毛布がずれる。

 月明かりが二人の影を重ねる。


 そこから先、言葉は少しずつ減っていった。


 代わりに、息遣いが増える。

 名前を呼ぶ声が増える。

 確かめるような短い返事が増える。


「大丈夫か。」


「大丈夫だ。」


「強くないか。」


「もっと。」


「本当に?」


「本当だ。」


「嫌なら言え。」


「言う。」

「だから、止まるな。」


 時には激しく。

 時には驚くほど優しく。


 オルドアイは、強い波のようにソータへ向かってきた。

 ソータはそれを受け止め、時に押し返し、時に包むように抱いた。

 どちらか一方が流されるのではなく、二人で夜の中を進んでいく。


 香の熱は、やがて言い訳ではなくなった。

 スキルの力も、ただの勢いではなくなった。

 それらは確かに二人を揺らしていたが、その中心にあったのは、互いへ伸ばした手だった。


 オルドアイは何度もソータの名を呼んだ。


 最初は甘えるように。

 次は縋るように。

 その次は、自分がここにいることを刻みつけるように。


 ソータも呼び返した。


 呼ぶたび、オルドアイの瞳が揺れる。

 その揺れを見るたび、ソータの胸も深く揺れた。


 夜は長かった。


 宴の声は、いつの間にかさらに遠くなっていた。

 広間に残る者たちも、それぞれの温もりへ散っていったのかもしれない。

 砦全体が、明日へ向かう前の静かな熱に包まれていた。


 その中で、ソータとオルドアイは二人だけの時間を重ねた。


 詳しく語るには、あまりにも二人だけの夜だった。


 ただ、その夜、ソータはオルドアイを香のせいにしなかった。

 オルドアイも、ソータの熱をただ都合よく受け取ったのではなかった。

 二人は何度も止まり、何度も確かめ、何度もまた近づいた。

 激しさの中にも名前があり、優しさの中にも欲しさがあった。


 オルドアイは、自分が女として求められることに何度も驚いた。

 そして、そのたびに嬉しそうに笑った。

 戦士としての誇りとは違う場所で、彼女の胸に新しい光が灯っていくのが、ソータには分かった。


「ソータ。」


 夜の半ば、オルドアイが掠れた声で呼んだ。


「うん。」


「私は、今、幸せだ。」


 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。


 ソータは胸を締めつけられた。


「俺もだ。」


 オルドアイは目を細めた。


「本当に?」


「本当に。」


「なら、よい。」


 彼女はそう言って、ソータの胸に額を寄せた。


 少しの間、二人は何も言わなかった。


 鼓動だけが聞こえた。

 外の風が窓を撫でる音がした。

 遠くで誰かが笑った。

 それから、また静かになった。


 ソータはオルドアイの髪を撫でた。


 オルドアイは目を閉じたまま、左腕を少し動かした。

 緑の組み紐が月明かりを受けて、深い色に沈む。


「これは、外れなかったな。」


「外さなかったから。」


「そうだな。」


 オルドアイは小さく笑った。


「ミレイユに怒られるだろうか。」


「たぶん。」


「そうか。」


「怖いか?」


「少し。」


「オルドアイでも?」


「ミレイユは怖い。」


 ソータは思わず笑った。


 オルドアイも笑った。


 その笑いが、夜の熱を少しだけ日常へ戻してくれた。


「でも、逃げない。」


 オルドアイは言った。


「私も、ちゃんと話す。」

「今夜、お前を欲しいと思ったこと。」

「お前が来てくれて嬉しかったこと。」

「それを、恥じない。」


「うん。」


「だが、怒られたら、お前も一緒に怒られろ。」


「もちろん。」


「よい。」


 オルドアイは満足そうに頷いた。


 それから、ふと真面目な顔になる。


「明日、お前は男たちの村へ行く。」


「ああ。」


「私は砦を離れられん。」

「途中までは行けても、最後までは行けないかもしれん。」


「分かってる。」


「だから、今夜は覚えておけ。」


 オルドアイはソータの頬に触れた。


「お前は一人で行くのではない。」

「私の手の温度も持っていけ。」

「ミレイユの言葉も持っていけ。」

「そうすれば、お前は帰ってこられる。」


 ソータは息を止めた。


 その言葉が、深く胸に落ちる。


 運ぶ者。


 自分は荷を運ぶ。

 けれど、運んでいるのは物だけではない。

 言葉。

 約束。

 触れた手の温度。

 誰かの祈り。

 そういうものも、きっと運んでいる。


「持っていく。」


 ソータは言った。


「必ず。」


 オルドアイは頷いた。


 そして、また近づいてきた。


「では、もう少し私も持たせる。」


 ソータは苦笑した。


「まだ?」


「まだ夜だ。」


「明日、早いぞ。」


「知っている。」


「走るんだぞ。」


「知っている。」


「俺、起きられるかな。」


「私が起こす。」


「優しく?」


「たぶん。」


「たぶんか。」


 オルドアイは嬉しそうに笑った。


「だが、今は眠るには早い。」


 その声は甘かった。


 そして少しだけ挑むようだった。


 ソータの中の熱が、また静かに燃え上がる。


 彼はオルドアイを見た。


 月明かりの中の彼女は、強く、美しく、そしてどうしようもなく愛おしかった。


「オルドアイ。」


「何だ。」


「好きだよ。」


 言った瞬間、オルドアイの瞳が大きく開いた。


 彼女はしばらく動かなかった。


 そして、次の瞬間、顔を真っ赤にしてソータへ抱きついた。


「ずるい。」


「何が?」


「それは、強い。」


「強い?」


「私は、そういう言葉に慣れていない。」


「じゃあ、やめる?」


「やめるな。」


 即答だった。


 ソータは笑って、彼女を抱きしめ返した。


「好きだ。」


 もう一度言う。


 オルドアイは肩を震わせた。


「もう一度。」


「好きだ。」


「もう一度。」


「好きだよ、オルドアイ。」


 オルドアイは顔を上げた。


 瞳が潤んでいる。

 けれど、泣いてはいない。

 嬉しさが強すぎて、どう処理すればいいのか分からない顔だった。


「私も。」


 彼女は言った。


「私は、お前が好きだ。」

「欲しい。」

「守りたい。」

「帰ってきてほしい。」

「それから、また私のところにも来てほしい。」


 ソータは頷いた。


「来る。」


「約束か。」


「約束だ。」


「なら、重いな。」


「約束は荷より重いからな。」


 ミレイユの言葉を口にすると、オルドアイは少しだけ笑った。


「やはり、あの女はよいことを言う。」


「ああ。」


「腹立たしいが。」


「そこは変わらないんだな。」


「変わらん。」


 二人は笑った。


 そして、また近づいた。


 その後の夜は、甘く、長く、熱を帯びて続いた。


 時に、二人は互いを求める強さに驚いた。

 時に、ふと我に返って照れた。

 時に、何も言えずに抱き合った。

 時に、名前を呼ぶだけで胸がいっぱいになった。


 強く求めることと、優しく触れることは、矛盾しない。

 激しさと大切にする気持ちは、同じ腕の中にあっていい。

 二人はそのことを、言葉ではなく、夜の温度で少しずつ覚えていった。


◆◇◆


 やがて、月が少し傾いた。


 部屋の中の明かりは薄く、窓から入る光も柔らかくなっている。

 外の宴はほとんど静まっていた。

 遠くで見張りの足音がする。

 砦は夜の深みに沈んでいる。


 ソータは寝台の上で、オルドアイを腕に抱いていた。


 体は疲れている。

 疲れているはずなのに、芯にはまだ熱が残っている。

 《馬力増強》の影響なのか。

 香の名残なのか。

 それとも、オルドアイと過ごした夜そのものの熱なのか。

 もう区別はつかなかった。


 オルドアイはソータの胸に頬を寄せている。


 いつもの強気な姫の顔ではない。

 戦士の顔でもない。

 満たされ、安心し、少しだけ眠たそうな女の顔だった。


「ソータ。」


「うん。」


「眠るな。」


「少しは寝ないと明日まずい。」


「分かっている。」

「だが、もう少し起きていろ。」


「どうして?」


「お前がここにいるのを、もう少し覚えていたい。」


 ソータは胸が苦しくなった。


 その言葉があまりに素直だったから。


「いるよ。」


「今はな。」


「また来る。」


「約束か。」


「約束。」


 オルドアイは小さく頷いた。


 それから、ソータの胸に指先で何かを書くように触れた。


「私は、今日のことを忘れない。」


「俺も。」


「甘い香があった。」

「お前の顔が熱かった。」

「私の手を握った。」

「私の部屋に来た。」

「私を見て、好きだと言った。」


「全部覚えてるな。」


「忘れぬ。」


 オルドアイは少しだけ顔を上げた。


「忘れたら、怒る。」


「忘れない。」


「ならよい。」


 彼女は満足そうに目を閉じた。


 ソータはその髪を撫でながら、胸の奥で静かに誓った。


(この夜を、軽くしない。)

(香のせいだけにしない。)

(スキルのせいにも逃げない。)

(オルドアイがくれたものを、ちゃんと持っていく。)

(明日、村へ。)

(そして、いつかミレイユのところへも。)


 少しだけ、ミレイユの顔が浮かんだ。


 紅い髪紐。

 にっこり笑って言った声。


『オルドアイによろしく。』


 ソータは目を閉じた。


(よろしくは、たぶん伝わった。)

(伝わりすぎたかもしれない。)

(帰ったら、怒られるかな。)

(でも、隠さない。)

(逃げない。)


 胸元で、オルドアイが小さく動いた。


「今、ミレイユのことを考えたな。」


 ソータは目を開けた。


「分かるのか。」


「分かる。」


「少し考えた。」


「よい。」


 オルドアイは眠たそうな声で言った。


「お前があの女を忘れぬから、私は安心できる。」

「そして、少し悔しい。」


「どっちなんだ。」


「どちらもだ。」


「正直だな。」


「私はそういう女だ。」


 ソータは笑った。


 オルドアイも薄く笑った。


 それから、彼女は最後に小さく呟いた。


「だが、今夜の最後は私のことだけ考えろ。」


 ソータは彼女を抱きしめた。


「うん。」


 オルドアイは満足そうに息を吐いた。


 夜は静かに深まっていく。


 明日の朝、男たちの村へ向かう道が待っている。

 隣国方面から迫る集団の影がある。

 ソータが運ばなければならない荷がある。

 選ばなければならない瞬間が、もうすぐ来る。


 けれど、この夜だけは。


 月の下で、緑の組み紐を残したまま、オルドアイはソータの腕の中で眠りに落ちた。


 ソータはその温もりを抱きしめながら、しばらく眠らなかった。


 彼女の呼吸を聞いていた。

 髪の匂いを覚えていた。

 手の重さを覚えていた。

 好きだと言った時の、あの嬉しそうな顔を胸に刻んでいた。


 やがて、彼も目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、ソータは思った。


(運ぶ。)

(この夜も。)

(この温度も。)

(明日の道へ、ちゃんと運ぶ。)


 砦の外では、北の風が石壁を撫でていた。


 そして、東の空はまだ暗かった。

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― 新着の感想 ―
ミレイユ嬢がこれを知ったらソータ氏の顔に紅葉マークが一杯付きそうである……
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