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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第110話:甘い香の宴

 砦の広間は、火と声と匂いで満ちていた。


 壁際には太い薪がくべられ、赤々と燃えている。

 天井の梁には乾かした薬草や肉が吊るされ、その下でアマゾネスたちと男たちが肩を並べて座っていた。

 卓の上には焼けた肉が山のように積まれ、黒パンが籠に盛られ、深い鍋の中では豆と野菜の煮込みが湯気を立てている。

 酒の壺が回り、果実水の杯が配られ、誰かが笑うたびに、広間全体が揺れるようだった。


 ソータはオルドアイの隣に座っていた。


 正確には、座らされていた。


 広間へ入った時から、オルドアイはソータの手を離さなかった。

 卓へ案内されても、彼女は当然のように自分の隣を叩いた。

 そして、ソータが腰を下ろすと、満足そうに頷いた。


「ここだ。」


「いや、分かるけど。」


「分かるならよい。」


 オルドアイは少し胸を張った。


 その仕草が、いつもの戦士としての堂々とした態度と少し違っていた。


 どこか落ち着かない。

 けれど嬉しそうで。

 自分でもどう振る舞えばいいのか分かっていないのに、それでも隣にいたいという気持ちだけは隠せていない。


 ソータはそれを見て、胸の奥がくすぐったくなった。


(オルドアイって、こういう顔もするんだな。)


 強い。

 真っ直ぐ。

 豪快。

 欲しいものには手を伸ばす。

 そんな印象が強かった。


 けれど、今のオルドアイは少し違う。


 ソータの杯が空きそうになると、すぐに果実水を注ぐ。

 焼けた肉が運ばれてくると、一番よく焼けたところを選んで皿へ置く。

 パンを取ろうとすれば、先に手を伸ばして渡してくる。

 そのくせ、ソータが礼を言うたび、どこか誇らしそうに目を輝かせる。


「食え。」


「ああ。」


「もっと食え。」


「食べてる。」


「明日は走る。」


「それもさっき聞いた。」


「大事なことは何度でも言う。」


 オルドアイは真剣だった。


 ソータは肉を口へ運んだ。

 香ばしい脂と塩の味が広がる。

 北の砦の料理は豪快だ。

 細かな香辛料の工夫は少ないが、火の通し方がうまい。

 腹に力が入る味だった。


「うまい。」


 そう言うと、オルドアイの表情がぱっと明るくなった。


「そうか。」


「ああ。」


「なら、もっと食え。」


「だから食べてるって。」


 そのやり取りを見て、向かいに座っていたアマゾネスたちがにやにやしている。


「姫様、世話を焼きすぎです。」


「うるさい。」


「ソータ殿、肉を噛む暇もないのでは?」


「ある。」


「姫様に食べさせてもらえばよいのでは?」


 広間の一角から笑いが起きた。


 オルドアイは赤くなるかと思った。

 だが、彼女はしばらく考えた後、真面目な顔で肉を一切れ摘んだ。


「ソータ。」


「待て。」


「何だ。」


「本気にしなくていい。」


「そうなのか?」


「たぶん。」


「だが、食べさせるのは悪くない気がする。」


「悪くないけど、今じゃなくてもいい。」


 周囲の笑いがさらに大きくなった。


 オルドアイはそこでようやく、からかわれているのだと気づいたらしい。

 少しだけ頬を赤くし、肉を自分の口へ入れた。


「お前たちは明日から走らせる。」


「姫様の照れ隠しだ!」


「走るのは慣れています!」


「なら、倍だ。」


 アマゾネスたちは楽しそうに悲鳴を上げた。


 ソータは思わず笑った。


 オルドアイは横目でそれを見る。


「笑ったな。」


「笑った。」


「なぜだ。」


「嬉しそうだから。」


 オルドアイは一瞬、目を瞬かせた。


 それから、少しだけ視線を落とす。


「……嬉しい。」


 声が小さかった。


 宴の喧騒に紛れてしまいそうなほど小さかった。

 けれど、ソータには聞こえた。


「お前が隣にいる。」

「皆の前で。」

「隠れずに。」

「だから、嬉しい。」


 ソータは胸を打たれた。


 今までも、オルドアイはソータへ好意を隠さなかった。

 しかし、それはどこか本能に近かった。

 欲しい。

 触れたい。

 そばにいたい。

 そういうまっすぐな熱だった。


 だが今の言葉には、少し違うものがあった。


 認められたい。

 並びたい。

 誰かに見られても恥じない形で、ソータの隣にいたい。

 そんな、目覚めたばかりの乙女心のようなもの。


 強い姫の中に、まだ扱い方を知らない柔らかな心が生まれている。


 ソータはそれを乱暴に扱ってはいけないと思った。


「俺も、ここに座れてよかった。」


 オルドアイが顔を上げた。


「本当か。」


「本当だ。」


「ミレイユに怒られないか。」


「たぶん怒る。」


「そうか。」


「でも、隠れて座るよりはいい。」


 オルドアイは少し黙った。


 それから、嬉しそうに笑った。


「なら、怒られる時は私もいる。」


「それは心強いな。」


「ああ。」

「私は逃げない。」


 その言葉が、ソータの胸に深く残った。


 逃げない。


 ミレイユも言った。

 ソータも決めた。

 そして今、オルドアイもその言葉を自分のものにしようとしている。


 宴の熱の中で、その言葉だけが静かに光っているように思えた。


◆◇◆


 広間の中央では、バルクとガルナが並んで座っていた。


 バルクは大きな皿を抱えるようにして肉を食べている。

 その隣でガルナが呆れた顔をしながらも、彼の皿へ野菜を足していた。


「肉ばかり食べない。」


「明日は村へ戻るんだぞ。」

「力をつけねばならん。」


「野菜も力になる。」


「なら食う。」


 バルクは素直に野菜も口へ入れた。


 周囲の男たちが笑う。


「バルクはガルナの前だと犬みたいだな。」


「誰が犬だ。」


「待てと言われたら待つだろう。」


「ガルナが言うなら待つ。」


 また笑いが起きた。


 ガルナは顔を赤くしながら、バルクの腕を叩いた。


「そういうことを大声で言わないで。」


「事実だ。」


「だから言わないで。」


 バルクは不思議そうな顔をした。

 それから、少しだけ寂しそうに笑った。


「明日にはまた村だ。」

「しばらく、こうして一緒に飯も食えんかもしれん。」

「だから、今夜くらい言わせろ。」


 その一言で、周囲の笑いが少しだけ柔らかくなった。


 ガルナも黙った。


 そして、バルクの皿にもう一切れ肉を置いた。


「なら、ちゃんと食べて。」

「戻ったら、無茶をするんでしょう。」


「村を守るためならな。」


「あなた自身も守って。」


 バルクは答えなかった。


 代わりに、ガルナの手を大きな手で包んだ。


 ガルナは困ったように目を伏せたが、手を引かなかった。


 ソータはその様子を見ていた。


 強い者同士の関係にも、こういう寂しさがある。

 明日へ向かうために食べる。

 別れを前にして、今夜だけは近くにいる。

 その当たり前の温もりが、胸に刺さった。


 隣で、オルドアイが小さく言った。


「バルクはガルナを好いているな。」


「ああ。」


「とても分かりやすい。」


「オルドアイもけっこう分かりやすいけどな。」


「私は隠していない。」


「それはそうだな。」


 オルドアイはソータの腕へそっと触れた。


 宴の最初のように強引に絡むのではなく、確かめるような触れ方だった。


「私は、どうすればよいのだろうな。」


「何が?」


「こういう時だ。」


 オルドアイは広間を見回した。


 バルクとガルナ。

 寄り添う男と女。

 肩を並べて飲む者たち。

 明日離れる相手へ、笑いながらも目を向け続ける者たち。


「戦なら分かる。」

「敵が来れば斬る。」

「守るべき者がいれば前に出る。」

「腹が減れば食う。」

「寒ければ火を焚く。」

「だが、お前の隣にいる時、私は時々分からなくなる。」


 ソータは黙って聞いた。


 オルドアイの声は、いつものように強くはなかった。

 戸惑いが混じっている。

 それでも逃げずに口にしている。


「触れたい。」

「近づきたい。」

「私を見てほしい。」

「ミレイユより多く、とは思わん。」

「いや、少し思う。」

「だが、それをそのまま言うと、お前が困る気もする。」


「……だいぶ分かってきてるな。」


「そうか。」


「ああ。」


 オルドアイは真剣に頷いた。


「私は成長している。」


「うん。」

「してる。」


 ソータがそう言うと、オルドアイは嬉しそうに笑った。


 その笑顔は、戦場で勝利した時のものではない。

 誰かに褒められて、素直に喜ぶ少女のような笑顔だった。


 ソータはその表情を見て、胸が熱くなった。


(ちゃんと見ないとな。)

(この人は、ただ強いだけじゃない。)

(知らないことを知ろうとしている。)

(俺のために。)

(ミレイユのためにも。)


 ソータは、自分からオルドアイの手に触れた。


 オルドアイの目が大きくなる。


「ソータ。」


「今夜は、あまり難しいことを考えすぎないようにする。」


「よい。」


「でも、軽くはしない。」


「それもよい。」


「明日、村に行く。」

「何が起きるか分からない。」

「だから今夜は、ちゃんと食べて、ちゃんと休む。」


「私と?」


「ああ。」

「オルドアイと。」


 オルドアイは一瞬、息を止めたようだった。


 それから、ゆっくり頷いた。


「なら、私は嬉しい。」


 その声は静かだった。


 けれど、広間のどんな笑い声よりも強く、ソータの耳に残った。


◆◇◆


 宴が進むにつれ、広間の空気は少しずつ変わっていった。


 最初は酒と肉の匂いが強かった。

 焼けた脂。

 煮込みの湯気。

 薪の煙。

 果実水の甘さ。

 汗と革の匂い。

 それらが混ざり合い、砦らしい荒々しい宴の匂いになっていた。


 だが、しばらくして、別の香りが混じり始めた。


 甘い。


 ただ甘いだけではない。

 乾いた木を焚いたような落ち着いた香りの奥に、蜜のような柔らかさがある。

 さらにその奥から、花の匂いにも似た湿った熱が立ちのぼってくる。

 鼻をくすぐり、喉の奥を撫で、胸の内側へゆっくり沈んでいくような香りだった。


 ソータは最初、それに気づかなかった。


 広間にはもともと匂いが多い。

 火もある。

 料理もある。

 人も多い。

 だから、香が焚かれても不思議ではなかった。


 北の砦では、宴の時に香を焚くことがある。

 以前この砦に来た最初の宴でも、似た香りが漂っていた。

 あの時も、広間の空気が少しずつ柔らかくなり、人々の距離が近づいていったことを、ソータは今になって思い出した。


(この匂い……。)

(前にもあったな。)


 香炉は広間の四隅に置かれていた。


 小さな炭の上で、練り固めた香がゆっくり溶けている。

 白い煙が細く上がり、天井近くで広がって、火の熱に揺られて降りてくる。

 それは目に見えない手のように、広間の男と女たちの肩へ触れていった。


 笑い声が少し変わる。


 大きく、荒々しかった声が、どこか低くなる。

 杯を渡す手が、指先に少し長く触れる。

 隣に座る者との距離が、一寸、また一寸と近づいていく。

 冗談の後に、目が長く合う。

 肩が触れても、誰もすぐには離れない。


 宴の熱が、ただの賑やかさから、別の温度へ変わっていく。


 ガルナがバルクに何かを囁いた。


 バルクは目を丸くし、それから顔を赤くした。

 あの大きな男が、まるで少年のように狼狽えている。

 ガルナも赤い。

 だが、彼の手を離さない。


 周囲では、アマゾネスたちと男たちが、いつもより近く座っている。

 笑いながら肩を寄せる者。

 杯を分け合う者。

 広間の隅へ移動して、静かに話し込む者。

 誰かが歌い始めるが、その歌声も先ほどよりずっと柔らかい。


 それは乱れではなかった。


 明日を前にした者たちが、今夜だけ許される温もりへ手を伸ばしている。

 そんな空気だった。


 けれど、香の甘さは確かに人々の理性の縁を撫でていた。


 ソータは杯を置いた。


 胸の奥が熱い。


 酒はほとんど飲んでいない。

 果実水ばかりだった。

 それなのに、呼吸が少し浅くなっている。

 指先が熱い。

 耳の奥で鼓動が強く鳴る。

 視界の中心にいるオルドアイの輪郭が、いつもより濃く見える。


 褐色の肌。

 長い茶髪。

 強い肩。

 火に照らされた横顔。

 左腕の緑の組み紐。

 杯を持つ指。

 こちらを見る瞳。


 全部が近い。


(まずい。)

(この香、ただの香じゃない。)

(前もそうだったのか。)

(いや、前より強い?)

(それとも、俺の方が……。)


 そこでソータは気づいた。


 自分の内側で、あの力が動いている。


《馬力増強》。


 昨日の夜にステータス画面で知ったばかりのスキル。

 滋養。

 精力。

 活力。

 それらに関わる刺激を受けた時、身体能力が大きく跳ねる。


 香が体内に入っただけで発動するのかは分からない。

 だが、今の自分の状態は明らかに普通ではなかった。

 体が熱い。

 血が速い。

 筋肉の奥に力が満ちていく。

 疲れが遠のき、代わりに別の衝動がせり上がってくる。


(嘘だろ。)

(食べたり飲んだりだけじゃないのか。)

(香でも反応するのか。)

(まずい。)

(これは、本当にまずい。)


 ソータは立ち上がろうとした。


 外へ出る。

 冷たい空気を吸う。

 水を浴びる。

 とにかく、この場から離れなければならない。


 そう思った瞬間、腕に温かい手が触れた。


 オルドアイだった。


「ソータ。」


 彼女の声も、少し低くなっていた。


 ソータは振り向いた。


 オルドアイの頬が赤い。

 酒のせいだけではない。

 香のせいもある。

 けれど、それ以上に、彼女自身の感情がそのまま表に出ていた。


 目が潤んでいる。

 だが、弱っているわけではない。

 むしろ、嬉しそうだった。

 待っていたものが、ようやく自分の方へ近づいてきたと気づいたような顔だった。


「顔が熱い。」


「分かるのか。」


「分かる。」

「お前を見ていたから。」


 ソータは言葉に詰まった。


 オルドアイはソータの手を握った。

 指を絡める。

 逃がさないためというより、自分が離れたくないから握っている手だった。


「この香は、前にも焚かれた。」


「やっぱり。」


「宴の香だ。」

「戦の前や、別れの前に焚く。」

「心を緩める。」

「男と女が、素直になりやすくなる。」


「それ、先に言ってほしかった。」


「普通は少し気分が高ぶるくらいだ。」

「だが、お前は違う顔をしている。」


 オルドアイの視線が、ソータの目から喉元へ、そして胸へ落ちた。


 その視線だけで、ソータの体がさらに熱を持つ。


(見るな。)

(いや、見てほしいと思ってる。)

(何を考えてるんだ、俺は。)

(落ち着け。)

(落ち着かないと。)


 ソータは歯を食いしばった。


「オルドアイ。」

「少し外に出る。」

「頭を冷やす。」


 オルドアイは一瞬、寂しそうな顔をした。


 その顔を見た瞬間、ソータの胸が揺れた。


 彼女は止めたいのだ。

 行かないでほしい。

 隣にいてほしい。

 今夜は自分を見てほしい。

 そう思っている。


 だが、無理に引き止めようとはしない。


 そのことが分かった。


 オルドアイは、左腕の緑の組み紐に触れた。


 ミレイユから渡された証。


 彼女はそれを見てから、ソータへ視線を戻した。


「逃げたいのか。」


 責める声ではなかった。


 確かめる声だった。


 ソータは息を飲んだ。


(逃げたいのか。)

(違う。)

(怖いんだ。)

(香のせいにして、オルドアイを軽く扱うのが怖い。)

(ミレイユに言い訳できないことをするのが怖い。)

(でも、本当は……。)


 ソータはオルドアイを見た。


 彼女は待っていた。

 強引に奪うのではなく。

 手を握ったまま。

 自分の目で、答えを待っていた。


 その姿に、胸の奥で何かが決まった。


「逃げたいわけじゃない。」


 ソータは言った。


 声が少し掠れていた。


「ただ、今の俺は普通じゃない。」

「香のせいもある。」

「だから、流されたくない。」


「流されたら、私は嫌なのか。」


「違う。」

「オルドアイを、そういうふうに扱いたくない。」


 オルドアイの目が揺れた。


 それは、嬉しさの揺れだった。


「なら、私を見ろ。」


「見てる。」


「もっと。」


 ソータは息を詰めた。


 オルドアイはまっすぐに続けた。


「私はここにいる。」

「香のせいだけではない。」

「私は、お前といたい。」

「今夜、私の部屋に来てほしい。」

「だが、嫌なら言え。」

「怖いなら止まる。」

「私は、欲しいものを壊したくない。」


 その言葉は、不器用だった。


 だが、嘘はなかった。


 オルドアイの中で目覚めたばかりの乙女心は、まだ扱い方を知らない。

 欲しい。

 触れたい。

 選ばれたい。

 今夜だけは自分を見てほしい。

 それでも、壊したくない。

 ミレイユから受け取った組み紐に恥じたくない。

 その全部が、彼女の言葉から溢れていた。


 ソータは目を閉じそうになった。


 熱に流されるのは簡単だった。

 けれど、それでは駄目だ。

 今、自分が答えなければならないのは、香でもスキルでもない。

 目の前のオルドアイだ。


「行く。」


 ソータは短く言った。


 オルドアイの手に力が入る。


「本当か。」


「ああ。」

「でも、香のせいだけにはしない。」

「俺が行く。」


 オルドアイの顔が、ぱっと輝いた。


 それは、戦場で勝った時よりもずっと幼く、ずっと女らしい笑顔だった。


「なら、私の部屋に行こう。」


 彼女は立ち上がった。


 周囲の何人かが気づいた。


 アマゾネスたちがにやりとする。

 男たちは見ていないふりをする。

 バルクは一瞬だけこちらを見て、すぐにガルナへ視線を戻した。

 ガルナも気づいていたが、何も言わず、ただ少しだけ微笑んだ。


 広間の隅では、甘い香の煙がまだ揺れている。


 人々の距離はさらに近くなっていた。

 誰かが誰かの肩にもたれ、誰かが手を取り、誰かが広間を抜けていく。

 それぞれが、明日へ向かう前の夜を、自分たちの形で確かめていた。


 オルドアイはソータの手を引いた。


 ソータは立ち上がる。


 体の奥は熱い。

 鼓動は速い。

 《馬力増強》は確かに発動している。

 だが、その熱の中心にあるものを、ソータはもう香だけのせいにはしなかった。


(俺が選んだ。)

(今夜は、オルドアイを見る。)

(ミレイユを忘れるんじゃない。)

(隠れるんじゃない。)

(でも、今この手を取るのは、俺の意思だ。)


 広間を出る時、オルドアイが振り返った。


「ソータ。」


「何?」


「嬉しい。」


 ただそれだけだった。


 その一言で、ソータの胸はどうしようもなく熱くなった。


「ああ。」


 彼は彼女の手を握り返した。


「俺もだ。」


 オルドアイは息を呑んだ。


 そして、今にも泣きそうなほど嬉しそうに笑った。


 廊下へ出ると、宴の声は背後で少し遠くなった。

 甘い香はまだ薄く漂っている。

 石壁に掛けられた松明の火が揺れ、二人の影を長く伸ばす。


 オルドアイは急ぎすぎない。

 けれど、迷いもしない。


 ソータもまた、足を止めなかった。


 夜はまだ深い。


 明日の朝には、男たちの村へ向かう。

 隣国方面から来る集団の正体を確かめなければならない。

 守るべき荷がある。

 届けるべき物資がある。

 果たすべき役目がある。


 それでも今夜だけは。


 この夜の一部だけは。


 ソータは、オルドアイの手の温度を選んだ。


 廊下の奥で、彼女の部屋の扉が静かに見えてきた。

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