第109話:砦の倉庫
オルドアイと合流してから、ソータは走るのをやめていた。
グランデリアを出たのは、暗くなってすぐだった。
街の鐘が七つを告げる頃には、ソータはもう街道に出ていた。
それからリーナのいる最初の村を通り越し、北へ続く道を急いだ。
《馬力増強》の力もあり、普通なら考えられない速度で進んできたが、オルドアイと合流してからは足を緩めた。
理由は単純だった。
オルドアイが、嬉しそうにソータの腕へ絡まってきたからだ。
「……歩きにくくないか?」
ソータが言うと、オルドアイは少しも悪びれずに首を傾げた。
「歩きにくいか?」
「少し。」
「なら、慣れろ。」
「そういう問題か?」
「そういう問題だ。」
オルドアイは当然のように言った。
褐色の腕がソータの腕に絡んでいる。
戦士として鍛えられた腕なのに、こうして触れていると、不思議と柔らかさのほうを強く感じた。
長い茶髪が夜風に揺れ、時々ソータの肩に触れる。
左腕には、ミレイユから渡された緑の組み紐が結ばれていた。
月は雲の間に隠れたり、顔を出したりしている。
街道の左右には黒い林が広がり、草むらからは虫の声が聞こえた。
遠くに獣の鳴き声が混じる。
けれど、オルドアイが隣にいるだけで、夜道の不気味さはずいぶん薄れていた。
彼女は北の森を知っている。
風の匂いを読む。
足元の土の柔らかさを見る。
遠くの枝が折れる音だけで、獣か人かを判断する。
その横顔には、砦の姫としての凛々しさがあった。
ただし、腕に絡まっているせいで、その凛々しさは少しだけ台無しになっている。
「嬉しそうだな。」
ソータが言うと、オルドアイは即答した。
「嬉しい。」
「そんなにはっきり言うのか。」
「嬉しいものを嬉しいと言って何が悪い。」
「悪くはないけど。」
「私はお前を待っていた。」
「それに、今日はお前が私のいる砦へ来た。」
「なら、嬉しいに決まっている。」
あまりにまっすぐ言われて、ソータは返す言葉を探した。
ミレイユなら、こういう時、少しだけ言葉を濁す。
照れ隠しに理屈をつける。
商会の都合だとか、補給計画だとか、帰還報告が必要だとか。
その奥にある感情を、全部そのまま出すことはしない。
オルドアイは違う。
欲しいと言う。
嬉しいと言う。
寂しい時は寂しい顔をする。
腹が立てば怒る。
好きなら近づく。
その単純さは時々危うい。
けれど、だからこそ救われる瞬間もある。
(ミレイユに送り出されて、オルドアイに迎えられる。)
(改めて考えると、すごい状況だよな。)
ソータは胸の中で苦笑した。
以前なら、その事実に押し潰されていたかもしれない。
どちらにも悪い。
どちらも選べない。
そうやって、自分だけが被害者のような顔をして逃げていたかもしれない。
だが、もう違う。
三人で選んだ。
ミレイユは半ば開き直ったように笑って、オルドアイによろしくと言った。
オルドアイはその言葉を聞いて、素直に喜んだ。
ソータはその間に立っている。
なら、いちいち罪悪感ばかりを抱いていても仕方がない。
(気にしない、じゃない。)
(軽く扱う、でもない。)
(でも、必要以上に怯えるのは違う。)
(今、隣にいるオルドアイをちゃんと見る。)
(帰ったら、ミレイユにもちゃんと向き合う。)
(それでいい。)
そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「どうした。」
オルドアイが顔を覗き込んできた。
「何でもない。」
「何でもない顔ではない。」
「そうか?」
「少し難しい顔をした。」
「ミレイユのことを考えたか。」
鋭い。
ソータは少しだけ目を逸らした。
「少し。」
オルドアイは不機嫌になるかと思った。
だが、彼女はむしろ満足そうに頷いた。
「よい。」
「いいのか?」
「お前があの女を忘れる男なら、私は嫌だ。」
「……そうか。」
「ああ。」
「だが、今は私の腕にいる。」
「腕にいるのは、どっちかというと俺じゃなくてオルドアイだろ。」
「細かいことを言うな。」
オルドアイはさらに腕へ力を込めた。
ソータは少しよろけた。
「歩きにくいって言っただろ。」
「慣れろ。」
「やっぱりそうなるのか。」
夜道に、二人の小さな笑い声が混じった。
それは、戦の前触れが北に近づいているとは思えないほど穏やかな時間だった。
けれど、その穏やかさがあるからこそ、ソータは前へ進めた。
荷を運ぶということは、ただ危険な場所へ向かうことではない。
誰かの待つ場所へ向かうことでもある。
やがて、山影の奥に砦の灯りが見え始めた。
北の砦。
石壁の上にかがり火が並び、見張りの影がゆっくり動いている。
門の前には二人の番兵が立っていた。
ソータとオルドアイの姿に気づくと、番兵たちはすぐに背筋を伸ばした。
「姫様!」
「ソータ殿も!」
門の上から声が飛ぶ。
オルドアイはソータの腕から離れなかった。
「開けろ。」
「補給が来た。」
その一言だけで、門の内側が慌ただしく動き出した。
重い木門が軋みながら開く。
砦の中から、火の匂いと、煮込みの匂いと、人の熱気が流れてきた。
外の冷たい夜気とは違う、生活の匂いだった。
ソータはその匂いに、少しだけ安堵した。
砦は問題ない。
少なくとも今夜、北の砦は落ち着いている。
見張りは立っている。
火は消えていない。
人々は動いている。
緊張はあるが、崩れてはいない。
それだけで、届けた荷の意味が少し見える気がした。
◆◇◆
砦に入ると、ソータはすぐに倉庫へ向かった。
オルドアイも当然のようについてくる。
「宴の準備が始まっているぞ。」
途中でアマゾネスの一人が声をかけた。
「後で行く。」
オルドアイは短く答えた。
「ソータも一緒か?」
「荷を下ろしてからだ。」
「なら、急いだ方がいい。」
「今夜は肉が多い。」
その言葉に、通路の奥から別の声が混じった。
「酒もあるぞ!」
「飲みすぎるな。」
オルドアイが即座に返すと、笑い声が起きた。
砦の空気は悪くない。
むしろ、どこか浮き立っていた。
明日の朝には、男たちの村から来ていた者たちが帰る。
隣国方面から不穏な集団が来ているという報せはある。
それでも、今夜は砦に人が集まっている。
久しぶりに顔を合わせた者たちもいる。
明日からまた緊張が戻るからこそ、今夜だけは食って、笑って、力を蓄えようとしているのだろう。
ソータはその空気を感じながら、倉庫の扉を開けた。
砦の倉庫は広い。
石造りの壁に囲まれ、湿気を逃がすための細い窓が高い位置にある。
床には木の板が敷かれ、壁際には棚が並んでいる。
食料の樽。
予備の革。
矢柄。
古い釘。
火打石。
薬草を乾燥させるための吊り紐。
前回来た時より、在庫は明らかに減っていた。
空の棚がある。
それを見るたび、ソータは胸の奥が落ち着かなくなる。
棚が空くということは、誰かがそれを使ったということだ。
腹を満たしたのかもしれない。
傷を縛ったのかもしれない。
壊れた柵を直したのかもしれない。
いずれにせよ、そこにあった物資は砦の時間を少し延ばした。
そして、今はもうない。
(だから、また運ぶ。)
(空いた場所に、次の命綱を入れる。)
ソータは倉庫の中央に立ち、《神速積載庫》を開いた。
空間がわずかに歪む。
オルドアイは何度も見ているはずなのに、少し嬉しそうにその様子を眺めていた。
「やはり、お前のそれは不思議だな。」
「便利ではある。」
「便利だけではない。」
「この砦にとっては、戦士百人とは違う強さだ。」
「褒めすぎだろ。」
「褒めている。」
「受け取れ。」
ソータは少し照れながら、まず食料を出した。
干し肉の樽。
黒パンの箱。
豆袋。
塩漬け魚。
穀物袋。
それらを一か所に積まず、使いやすいように分けていく。
日持ちするものは奥。
すぐに宴や朝食で使う分は入口近く。
湿気に弱いものは棚の上段。
重い袋は腰の高さより下。
運ぶ者の体に負担がかからない位置。
ミレイユなら、きっとそうする。
(倉庫に入れたら終わりじゃない。)
(使う人間が迷わず取れるようにしないと意味がない。)
(ミレイユなら、まず動線を見る。)
ソータは倉庫内を見回しながら、品物を配置した。
次に薬草束。
包帯用の布。
傷薬。
消毒用の酒瓶。
これは倉庫の奥ではなく、扉に近い棚へ置く。
緊急時に奥まで取りに行く余裕はない。
矢羽根と革紐は、武器庫側へ運びやすい箱にまとめる。
釘と鉄板は外壁補修の担当者がすぐ持ち出せる位置へ。
木材の束は湿気を避けるため、床へ直接置かず古い板の上に並べる。
毛布は宴の後に使う者もいるだろうから、半分は宿舎側へ出すよう分ける。
オルドアイはその作業をじっと見ていた。
「お前は、荷を出す時にも考えているのだな。」
「考えないと、後で困る。」
「私は、必要なものが届けばよいと思っていた。」
「届くだけじゃ駄目なんだ。」
「どこにあるか分からなかったら、ないのと同じになることもある。」
「特に、夜とか、怪我人が出た時とか。」
オルドアイは少し黙った。
それから、低く言った。
「なるほど。」
「戦場で武器を探している時間などない。」
「それと同じか。」
「たぶん。」
「なら、お前の仕事はやはり戦いに近い。」
「俺は戦ってないよ。」
「だが、戦う者が倒れぬようにしている。」
「それは、戦いの外ではない。」
その言葉に、ソータは手を止めそうになった。
戦いの外ではない。
けれど、剣を振るうわけではない。
敵を倒すわけでもない。
ただ、荷を運ぶ。
置く。
分ける。
間に合わせる。
地味だ。
だが、その地味な作業がなければ、誰かは立てない。
ソータは小さく息を吐いて、作業を続けた。
「ミレイユの受け売りだよ。」
ぽつりと言うと、オルドアイが少しだけ目を細めた。
「またミレイユか。」
「嫌か?」
「少しだけ。」
「少しなんだ。」
「かなりと言うと、お前が困る。」
「気を使ってくれてるのか?」
「使っている。」
「私は成長している。」
オルドアイは胸を張った。
ソータは笑ってしまった。
「それは助かる。」
「だが、よい女に鍛えられたのは確かだ。」
「私はそれを否定しない。」
オルドアイは左腕の緑の組み紐に触れた。
その仕草を見て、ソータは胸が温かくなる。
ミレイユが渡したもの。
オルドアイが受け取ったもの。
ソータがその間にいることを許された証のようなもの。
それを見るたび、まだ不思議な気持ちになる。
すると、倉庫の入口から重い足音がした。
「ソータ。」
振り向くと、バルクが立っていた。
大柄な体に旅の埃がついている。
砦に来てから休んではいるのだろうが、表情には疲れが残っていた。
それでも、彼の目はしっかりしている。
戦士の目だった。
「バルク。」
「来てくれて助かった。」
バルクは倉庫に入り、並んでいく物資を見回した。
「相変わらず、とんでもない量を運ぶな。」
「必要な分だ。」
「それを一人で運んでくる時点で、十分とんでもない。」
バルクは苦笑し、それから表情を引き締めた。
「村のことを話しておく。」
「ああ。」
「頼む。」
ソータは作業の手を止めず、耳を向けた。
こういう時、完全に手を止めるのはもったいない。
話を聞きながら、荷を出す。
必要なものを並べる。
現場では、考えることと動くことを同時にしなければ間に合わない。
バルクは倉庫の壁にもたれず、中央に立ったまま話し始めた。
「隣国の方から集団が来ているらしい。」
「最初に見つけたのは、村の北東の見張りだ。」
「旗のようなものを掲げている。」
「だが、はっきり隣国の軍旗かどうかは分からん。」
「規模は?」
「分からん。」
「ただ、少なくはない。」
「一部が先に動き、後ろにまだ影があると言っていた。」
「兵なのか?」
「そこも分からん。」
「報せでは、鎧を着た者もいるらしい。」
「だが、隊列が乱れていたとも聞いている。」
「隣国の正規兵なら、もう少しまともに動くはずだ。」
ソータは薬草束を棚へ置きながら、眉を寄せた。
「じゃあ、何なんだ。」
「分からんから困っている。」
バルクの声が低くなる。
「隣国の兵なら、村だけで勝手に判断するわけにはいかない。」
「だが、盗賊や傭兵崩れなら、早く手を打たなければ村が荒らされる。」
「村の男たちは強い。」
「だが、俺たちは今ここにいる。」
その言葉には、焦りがあった。
バルクだけではない。
砦に来ている男たち全員が、おそらく同じ思いを抱えている。
自分たちはここにいる。
だが、村には家がある。
畑がある。
家族がいる。
守りたい相手がいる。
「明日の朝、戻るのか?」
「ああ。」
「夜道をばらばらに戻るより、朝一番に全員で戻る。」
「その方が速いし、万一出くわしても戦える。」
「俺は今からでも行ける。」
ソータが言うと、バルクは首を振った。
「気持ちはありがたい。」
「だが、村の男たちはまだ砦にいる。」
「お前だけ先に行っても、できることは限られる。」
「それに、今の村には見張りも残っている。」
「すぐ攻め込まれる距離ではないはずだ。」
オルドアイも頷いた。
「明日の朝でよい。」
「焦って夜道を飛ばし、肝心な時に足が鈍っては意味がない。」
「でも。」
「ソータ。」
オルドアイが少し強く名を呼んだ。
「運ぶ者が、自分の体を荷として扱わずにどうする。」
その言葉に、ソータは黙った。
前にも似たことを言われた。
自分自身も荷の一部だと。
届かなければならないものの中に、自分も入っているのだと。
ミレイユも、同じようなことを言った。
無茶をするな。
帰ってこい。
報告しろ。
怒るためではなく、帰ってきてもらうために言うのだと。
(今すぐ走るのが正しいとは限らない。)
(間に合わせるために、休むこともある。)
(分かってる。)
(分かってるけど、待つのは怖いな。)
バルクはソータの顔を見て、少しだけ笑った。
「お前は本当に変わったな。」
「そうか?」
「前なら、もっと困った顔をしていた。」
「今は、困りながらも決めようとしている顔だ。」
「褒めてるのか?」
「たぶんな。」
バルクはそう言って、倉庫の入口の方をちらりと見た。
外からは、宴の準備の声が聞こえてくる。
肉を焼く匂いが強くなってきた。
誰かが酒樽を運んでいるらしく、重い木の音が通路に響く。
「今夜は思いっきりガルナと飯を食って、またしばらくお別れだけどな。」
バルクは寂しそうに言った。
その声が、ソータの胸に残った。
バルクは強い。
大きい。
戦場で前に立てる男だ。
そんな男が、ガルナと一緒に飯を食う時間を惜しんでいる。
明日には村へ戻る。
戦いになるかもしれない。
しばらく砦にも来られないかもしれない。
だから今夜、一緒に飯を食う。
それは、戦士らしくない弱さではない。
むしろ、とても人間らしい強さだった。
ソータは隣にいるオルドアイを見た。
オルドアイもソータを見ていた。
彼女の瞳は、いつものようにまっすぐだった。
嬉しさもある。
欲しさもある。
けれど、それだけではない。
明日、ソータが男たちの村へ向かうことを理解している目だった。
今夜は砦にいる。
明日の朝には出る。
そう決まっている。
なら、今夜を曖昧にしてはいけない。
(ミレイユのことを、いちいち言い訳みたいに考えるのはやめよう。)
(忘れるんじゃない。)
(裏切るんじゃない。)
(でも、オルドアイといる時にまで、ずっと怖がっていたら、それはオルドアイにも失礼だ。)
(今夜は、ちゃんとオルドアイと二人でいる。)
(帰ったら、ミレイユにもちゃんと向き合う。)
(それでいい。)
ソータの中で、何かが静かに決まった。
オルドアイはその変化に気づいたのか、少しだけ目を細めた。
「どうした。」
「今夜は、ちゃんと一緒にいようと思った。」
言ってから、ソータは自分の頬が熱くなるのを感じた。
オルドアイは一瞬だけ固まった。
それから、見る見るうちに嬉しそうな顔になる。
「そうか。」
「ああ。」
「よい決断だ。」
「そんなに堂々と言われると困る。」
「私は困らない。」
「だろうな。」
オルドアイは腕を組んで、満足げに頷いた。
バルクは二人を見て、苦笑した。
「まあ、そういうことなら、荷下ろしは早く終わらせろ。」
「宴の肉がなくなるぞ。」
「それは困るな。」
「ソータは肉より姫様だろう。」
「バルク。」
オルドアイが低い声を出した。
バルクは両手を上げた。
「悪い悪い。」
「俺は何も見ていない。」
「何も聞いていない。」
「ただ、ガルナのところに行くだけだ。」
そう言って、彼は倉庫を出ようとした。
だが、扉の前で一度振り返った。
「ソータ。」
「何だ?」
「明日は頼む。」
「村には、俺の帰る場所がある。」
「お前の荷があれば、守れるものが増える。」
その言葉は重かった。
ただの依頼ではない。
自分の帰る場所を預ける者の声だった。
ソータはまっすぐ頷いた。
「届ける。」
「必要なものを、必要な場所に。」
バルクは満足そうに笑った。
「それでこそ運び屋だ。」
彼は今度こそ倉庫を出て行った。
◆◇◆
荷下ろしが終わった頃、砦の広間から大きな笑い声が聞こえてきた。
時刻は、おそらく九時を少し過ぎた頃だった。
倉庫の外の空気はすっかり夜の冷たさに沈んでいる。
けれど、広間の方からは熱が流れてくる。
肉の焼ける匂い。
煮込みの湯気。
酒の甘い匂い。
薪の煙。
人の声。
宴が始まっていた。
ソータは最後の箱を棚に収め、倉庫内を見回した。
空いていた棚には食料が入った。
薬草と包帯は入口近くにまとめた。
補修材は持ち出しやすい場所に置いた。
武器庫側へ運ぶ箱も分けた。
毛布の一部は宿舎へ回すよう印をつけた。
完璧ではないかもしれない。
ミレイユなら、もっと綺麗に配置したかもしれない。
帳簿の数字も、もっと正確に整えただろう。
それでも、今の自分にできるだけのことはした。
(帰ったら、配置のことも報告しよう。)
(たぶん、直されるところはある。)
(でも、それでいい。)
(次はもっとよくできる。)
ソータが倉庫の扉を閉めようとすると、オルドアイが近づいてきた。
「終わったか。」
「ああ。」
「砦分は全部下ろした。」
「男たちの村へ持っていく分は残してある。」
「なら、宴だ。」
「そうだな。」
「腹は減っているか。」
「減ってる。」
「よし。」
「食え。」
「明日は走る。」
オルドアイはそう言って、自然にソータの手を取った。
指と指が絡む。
さっき街道で腕に絡まれていた時よりも、その手つきは少し静かだった。
けれど、離す気はないという力があった。
ソータはその手を握り返した。
オルドアイの目が輝く。
「今、握り返したな。」
「駄目だったか?」
「よい。」
「とてもよい。」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ソータはもう一度思った。
今夜は、ちゃんとこの人を見る。
ミレイユを忘れるわけではない。
比べるわけでもない。
ただ、今ここにいるオルドアイから目を逸らさない。
それが、三人で選んだ関係を軽くしないことなのだと、少しずつ分かり始めていた。
広間へ近づくにつれ、宴の声は大きくなる。
アマゾネスたちの笑い声。
男たちの低い声。
杯がぶつかる音。
肉を切る刃の音。
誰かが歌い始める声。
その中に、バルクの声も混じっていた。
「ガルナ、もっと食え!」
「明日からまた忙しくなるぞ!」
すぐにガルナの声が返る。
「あなたこそ食べなさい!」
「村に戻ったら、また前に出るつもりでしょう!」
周囲から冷やかす声が上がる。
バルクは笑っている。
ガルナも怒っているようで、どこか嬉しそうだ。
別れの前の食事。
戦いの前の温もり。
それが広間の中に満ちている。
ソータは扉の前で一度立ち止まった。
明日の朝には、男たちの村へ向かう。
隣国方面から来る集団の正体はまだ分からない。
兵なのか。
盗賊なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
分からないまま夜を越すのは怖い。
だが、今夜ここで食べることにも意味がある。
腹を満たす。
体を休める。
隣にいる人の温度を確かめる。
明日へ向かうための力を蓄える。
それもまた、運ぶために必要な準備だった。
オルドアイが手を引いた。
「行くぞ、ソータ。」
「ああ。」
二人は広間へ入った。
火の灯りが視界いっぱいに広がる。
熱気が頬を打つ。
大勢の視線が一瞬こちらへ向き、それから笑い声に変わる。
「来たぞ!」
「運び屋だ!」
「姫様が離さないぞ!」
オルドアイはまったく怯まなかった。
「離すわけがない。」
堂々と言い切った。
広間がどっと沸いた。
ソータは顔が熱くなるのを感じながらも、今回は逃げなかった。
手を振りほどかなかった。
曖昧に笑ってごまかすこともしなかった。
オルドアイの隣に座る。
それだけのことが、今夜はひどく大事に思えた。
卓の上には、焼けた肉と黒パン、煮込み、果実水、そして酒が並んでいる。
明日の不安を一時だけ遠ざけるように、砦の広間は笑いと熱に包まれていた。
ソータは杯を受け取り、息を吐いた。
長い夜になる。
そう思った。
だが、その夜がどんな形で自分を揺さぶるのか、ソータはまだ知らなかった。




