第108話:夜の疾走
夜のグランデリアは、昼間とは別の顔をしていた。
商会通りに並ぶ建物の窓には、まだいくつもの灯りが残っている。
帳簿を閉じる音。
木箱を動かす音。
馬の鼻息。
遠くの酒場から漏れる笑い声。
それらが石畳に反響し、夜気の中で薄く混ざり合っていた。
だが、クラウゼン商会の裏手にある積み込み場だけは、そのどれとも違う緊張を帯びていた。
荷が並んでいる。
干し肉。
塩漬け魚。
硬焼きの黒パン。
豆袋。
薬草束。
矢羽根。
革紐。
蝋燭。
毛布。
簡易鍋。
釘。
鉄板。
砦の補修に使う木材の束。
そして、男たちの村へ届ける穀物袋。
どれも派手ではない。
宝石のように輝くわけでもない。
名剣のように人目を引くこともない。
だが、これらが届かなければ、北の砦の火は細る。
村の鍋は空になる。
傷ついた者の膿は止まらない。
矢は尽き、革紐は切れ、毛布のない夜に子供や老人が震える。
ソータは、それをただの荷だとはもう思えなくなっていた。
(運ぶっていうのは、物を右から左へ動かすだけじゃない。)
(この箱の向こうに、待っている誰かがいる。)
(その誰かの明日を、俺は運んでいる。)
そう思うたびに、胸の奥が重くなる。
けれど、その重さを嫌だとは思わなかった。
最初は、この世界で生き残るためだった。
使えるスキルが運送向きだったから。
戦えない自分にもできることがあったから。
それだけだった。
だが今は違う。
北の砦で笑ったアマゾネスたちの顔を知っている。
男たちの村で、無言のままパンを受け取った男の大きな手を覚えている。
最初の村で、薬草を抱えて駆け寄ってきたリーナの銀髪を覚えている。
そして、グランデリアで背中を押してくれるミレイユの声を知っている。
荷の重さには、人の顔が混じるようになった。
「ソータ。」
声をかけられて、ソータは振り向いた。
ミレイユが立っていた。
紅い髪紐が夜風に揺れている。
灯りを受けた紅髪は、暗がりの中でも鮮やかだった。
いつものように帳簿を抱えている。
背筋は伸びている。
表情も崩れていない。
だが、その目の奥にだけ、ほんの少し無理をしている光があった。
ソータには、それが分かった。
分かってしまうくらいには、彼女のことを見てきた。
「最終確認よ。」
「ああ。」
ソータは荷の一覧を書いた板を差し出した。
ミレイユは受け取ると、目だけで素早く品目を追った。
彼女の瞳は鋭い。
商人としての計算。
補給を管理する者としての責任。
そして、ソータを送り出す女としての不安。
その全部が、彼女の横顔に重なっていた。
「北の砦分は問題なし。」
「男たちの村向けも、これでいいわ。」
「穀物、多すぎないか?」
「多いわ。」
「でも、メバドスが余分に求めてきたなら、必要になる可能性があるということよ。」
「穀物は武器じゃないけれど、腹が減った者は戦えない。」
「それに、逃げてきた人間を受け入れることになれば、食べる口は一気に増える。」
「逃げてきた人間……。」
「隣国の動きが本物なら、そうなるかもしれない。」
「本物でなくても、北で何かが起きているなら、食料は多いに越したことはない。」
ミレイユは淡々と言った。
その声は冷静だった。
けれど、冷たいわけではない。
むしろ、現実を見ているからこそ温かい。
ソータは頷いた。
「分かった。」
「全部持っていく。」
「ええ。」
「あなたなら持てる。」
その言葉に、ソータの胸が少しだけ跳ねた。
持てる。
その一言が、別の意味を持って響いた。
ソータは昨日の夜のことを思い出した。
北の砦で三人で夜を越した後、ソータは自分の体に残る妙な力に戸惑っていた。
疲れているはずだった。
深く眠り込んでもおかしくないはずだった。
それなのに、体の芯にはまだ熱が残っていた。
奇妙なほどに、力があった。
その理由を知ったのは、昨日の夜だった。
グランデリアへ戻り、久しぶりに何気なくステータス画面を開いた。
しばらく確認していなかった表示の中に、見慣れない項目があった。
《馬力増強》。
滋養、精力、活力に関わるものを摂取した際、身体能力が大幅に向上する。
効果は摂取物の質と本人の状態により変動する。
それを読んだ瞬間、ソータは固まった。
(ああ。)
(そういうことか。)
(だから、あの夜、俺は……。)
北の砦で、三人で愛し合った夜。
自分でも信じられないほど体が動いた。
ただ気持ちが高ぶっていたからだと思っていた。
ミレイユも、アルベールが何か妙なものを飲ませたのだろうと考えていた。
実際、薬草水の件もあった。
あの執事なら、やりかねないという説得力がありすぎた。
だが、原因はそれだけではなかった。
自分の中に、そんなスキルがあったのだ。
(これは、言えない。)
(絶対に言えない。)
(ミレイユにも、オルドアイにも、アルベールにも。)
(特にアルベールには絶対に言えない。)
ソータは心の中で固く決めていた。
このスキルのことは、誰にも話さない。
便利なのは間違いない。
危険な輸送にも役立つ。
だが、知られた瞬間、いろいろな意味で扱いに困る。
特にアルベールに知られた場合、どんな滋養剤が開発されるか分かったものではない。
(あの人、善意で逃げ道を塞ぐからな。)
「どうしたの?」
ミレイユの声で、ソータは我に返った。
「いや。」
「少し考えてた。」
「顔が変だったわよ。」
「そうか?」
「ええ。」
「アルベールを疑っている時の顔だった。」
「よく分かったな。」
「分かるわよ。」
「私もだいたい同じ顔をするもの。」
ミレイユはそう言って、少しだけ肩をすくめた。
ソータは思わず笑いそうになった。
確かに、アルベールに関しては二人の警戒心はだいたい一致している。
頼りになる。
恐ろしく頼りになる。
だが、頼りになりすぎる者ほど、時に余計なことをする。
「滋養丸は持った?」
「持った。」
「でも、使うかどうかは状況を見て決める。」
「そうして。」
「アルベールは効果だけなら信頼できるけれど、余計な効果まで信頼できるとは限らないから。」
「まったくだ。」
ソータは腰の袋に手を触れた。
そこには小さな丸薬が入っている。
いざという時には使う。
ただし、それが《馬力増強》にどう関わるかは、誰にも言わない。
自分の中だけで扱う。
そう決めていた。
ミレイユは帳簿を閉じた。
荷の確認は終わった。
あとは出発するだけだ。
その瞬間、積み込み場の空気が少し変わった。
仕事の話が終わる。
補給の話が終わる。
管理者と運送屋の時間が終わる。
そこから先に残るのは、ミレイユとソータだった。
ミレイユはしばらく黙っていた。
紅い髪紐が夜風に揺れる。
その指が帳簿の角を何度か撫でた。
言いたいことがある時の癖だった。
「ミレイユ。」
「何?」
「大丈夫か。」
ミレイユは視線を上げた。
「何が?」
「俺が北へ行くこと。」
「オルドアイに会うこと。」
言った瞬間、夜の空気が少しだけ張った。
ミレイユはすぐには答えなかった。
代わりに、ソータをじっと見た。
その目は逃げていない。
怒ってもいない。
ただ、少しだけ呆れたようで、少しだけ痛そうで、そして少しだけ強かった。
「平気ではないわ。」
彼女は正直に言った。
「妬くし、不安にもなる。」
「あなたが向こうでオルドアイに笑いかけるところを想像したら、胸がざわつく。」
「彼女があなたに触れるところを考えたら、落ち着かない。」
「それは消えないわ。」
「……うん。」
「でもね。」
ミレイユは小さく息を吐いた。
それはため息というより、自分自身を整える呼吸だった。
「もう半分くらい開き直ったの。」
「開き直った?」
「ええ。」
「あなたが逃げないと決めた。」
「私も逃げないと決めた。」
「オルドアイも、あの子なりにちゃんと向き合おうとしている。」
「だったら、私だけがずっと綺麗な顔をして我慢するのも違うでしょう。」
ミレイユは口元に笑みを浮かべた。
それは、少し無理をした笑みだった。
けれど、ただのやせ我慢ではなかった。
痛みを抱えたまま、それでも自分で立つ者の笑みだった。
「だから、言うわ。」
ミレイユは一歩近づいた。
紅い髪紐がふわりと揺れる。
「オルドアイによろしく。」
にっこりと微笑んだ。
ソータは一瞬、言葉を失った。
その笑顔は綺麗だった。
綺麗すぎて、逆に怖いくらいだった。
けれど、怖いだけではない。
そこには確かに、ミレイユの覚悟があった。
嫉妬している。
腹も立っている。
寂しい。
不安だ。
それでも、自分で選んだ関係を、自分の手で笑って送り出そうとしている。
(強いな。)
(本当に、強い。)
(でも、その強さに甘えたら駄目だ。)
「分かった。」
「ちゃんと伝える。」
「ええ。」
「それと、私がよろしくと言ったからって、調子に乗らないようにとも伝えて。」
「そこまで伝えるのか?」
「当然よ。」
「よろしくの中に含まれているの。」
「難しいな。」
「女同士の挨拶は複雑なの。」
ミレイユは真顔で言った。
ソータは苦笑した。
だが、その笑いの奥で胸が締めつけられていた。
「帰ってきたら、報告する。」
「全部。」
「全部?」
「仕事のことも。」
「砦のことも。」
「男たちの村のことも。」
「オルドアイのことも。」
ミレイユの目が少し揺れた。
「……本当に全部言われたら、それはそれで腹が立つかもしれないわ。」
「じゃあ、言い方を考える。」
「そうして。」
「でも、隠さないで。」
「隠さない。」
その言葉を口にした時、ソータの胸の奥がわずかに痛んだ。
スキルのことは隠している。
《馬力増強》のことは言わないと決めている。
だから、今の言葉は完全ではない。
(ごめん。)
(でも、これはまだ言えない。)
(言ったら、たぶん俺たちの関係に変な影が落ちる。)
(それに、俺自身がまだ、このスキルをどう扱えばいいのか分かっていない。)
ミレイユはソータの沈黙を別の意味に受け取ったのか、少しだけ眉を緩めた。
「無理に今、全部の答えを出さなくていいわ。」
「ただ、帰ってきなさい。」
「話はそれからよ。」
「ああ。」
「あと、無茶をしたら怒るわ。」
「それは知ってる。」
「知っていても言うの。」
「怒るためじゃなくて、帰ってきてもらうために。」
ミレイユはそう言って、ソータの旅装に手を伸ばした。
襟を直す。
肩紐を整える。
革の留め具を確かめる。
いつものように手際がいい。
だが、その指先にはいつもより少しだけ長く触れる温度があった。
「あなた、自分のことになると雑なのよ。」
「そんなにか?」
「かなり。」
「気をつける。」
「その返事も雑。」
「……ちゃんと気をつける。」
「よろしい。」
ミレイユは頷いた。
それから、周囲をちらりと見た。
商会の者たちは忙しいふりをしている。
木箱を運ぶ手が少し遅い。
帳簿を見る目が文字ではなくこちらへ寄っている。
見ないふりをしながら、全員が見ている。
ミレイユは少しだけ頬を赤くした。
だが、逃げなかった。
「見送りの手続きがまだよ。」
「商会の?」
「私の。」
ソータが答える前に、ミレイユが近づいた。
胸元を掴まれる。
紅い髪が視界に揺れる。
夜風と紙の匂いと、彼女自身の香りが近づく。
唇が重なった。
短いキスだった。
けれど、軽くはなかった。
そこには不安があった。
嫉妬があった。
信頼があった。
それでも送り出すという、彼女なりの意地があった。
離れた後、ミレイユは顔を赤くしたまま、きりっと言った。
「今のも、よろしくの一部よ。」
「オルドアイに?」
「違うわよ。」
「じゃあ、俺に?」
「そうよ。」
ミレイユは少しだけ口を尖らせた。
「あなたが誰に会いに行っても、最初に帰ってくる場所を忘れないように。」
ソータは胸の奥が熱くなった。
「ああ。」
「忘れない。」
「よろしい。」
ミレイユは一歩下がった。
ソータは《神速積載庫》を開いた。
空間がわずかに歪む。
荷を収める場所に、手前も奥もない。
意識すれば、どこに入れたものでも取り出せる。
順番に縛られないことは、このスキルの大きな利点だった。
だからこそ、分類だけは正確にしておく。
北の砦分。
男たちの村分。
緊急用。
補修用。
薬品。
食料。
予備。
ソータは頭の中で札をつけるように、一つずつ収めていった。
樽が消える。
箱が消える。
袋が消える。
木材の束が消える。
積み込み場に山のように並んでいた物資が、次々と見えない格納庫へ収まっていく。
最後に、ミレイユが小さな包みを差し出した。
「これも。」
「何だ?」
「無茶をした時用。」
「無茶する前提か。」
「あなたはしないつもりでも、状況がさせることがあるでしょう。」
「だから、備え。」
「中身は?」
「帰ってから開けてもいいわよ。」
「それ、今必要なやつじゃないのか?」
「必要になったら分かるようにしてあるわ。」
そう言って、ミレイユは少しだけ笑った。
ソータはその包みを受け取った。
中身は確認しない。
そのまま《神速積載庫》に収める。
ミレイユの備えなら、きっと必要な時に意味を持つ。
「行ってくる。」
「ええ。」
ミレイユは背筋を伸ばした。
そして、もう一度にっこり微笑んだ。
「オルドアイによろしく。」
今度は、さっきより少し自然な笑顔だった。
ソータは頷いた。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい、ソータ。」
その声を背に、ソータは積み込み場を出た。
◆◇◆
グランデリアの外へ出ると、夜は一気に深くなった。
街の灯りが背後に遠ざかる。
石畳の道はやがて土の道へ変わり、両脇には背の低い草と黒い林が広がった。
空には月があった。
雲の切れ間から顔を出し、道の白い砂利を淡く照らしている。
通常の馬車なら、この距離を一晩で抜けるのは難しい。
荷が重ければなおさらだ。
道の状態を読み、馬の疲労を考え、途中の休憩地を選ばなければならない。
川を越える場所。
ぬかるみを避ける道。
夜盗が出やすい林。
霧が溜まる谷。
物流は、ただ速ければいいわけではない。
安全に。
壊さず。
必要な場所へ。
必要な時に。
必要な量を届けることが大事だ。
だが、今のソータには常識外れの手段がある。
《神速積載庫》。
そして、昨日の夜に気づいてしまったもう一つの力。
ソータは腰の袋に手を触れた。
そこにはアルベールが渡してきた滋養丸がある。
正直、使いたくない。
効果は信頼できる。
だが、何がどこまで効くのか分からない。
(《馬力増強》。)
(滋養、精力、活力に関わるものを摂取した際、身体能力が大幅に向上する。)
(……なんでよりによって、そんな説明なんだ。)
ソータは深く息を吐いた。
ステータス画面を久しぶりに見なければ、気づかないままだった。
あの夜の自分の異常な体力も、薬草水か、気持ちの高ぶりか、アルベールの余計な調合のせいだと思い込んでいただろう。
ミレイユは今もそう思っている。
アルベールが何か飲ませたのだろうと。
実際、それで説明がついてしまうところが恐ろしい。
だが、ソータだけは知っている。
自分の中に、このスキルがある。
使えば、夜の輸送をさらに速くできる。
重い荷を抱えたまま走り抜けられる。
砦にも、村にも、間に合う可能性が上がる。
便利だ。
便利すぎる。
だからこそ、怖い。
(これは誰にも言わない。)
(少なくとも、今は。)
(ミレイユにも言わない。)
(オルドアイにも言わない。)
(アルベールには絶対に言わない。)
ソータは半分だけ滋養丸を噛んだ。
苦味が舌に広がる。
次に薬草の青臭さ。
その奥から、じわりと甘い熱が喉を通って落ちていく。
腹の底が温まった。
次に胸。
肩。
腕。
太腿。
足先。
体の芯に火が入るような感覚が走る。
力が湧く。
ただ筋肉が強くなるだけではない。
息が深くなる。
視界が澄む。
足裏が地面をつかむ感覚が鋭くなる。
体の重さが、前へ進むための重さに変わっていく。
(これが、そうか。)
(昨日見た表示は間違いじゃない。)
(なら、使い方を間違えないようにしないと。)
ソータは地面を蹴った。
一歩目で、体が前へ滑るように出た。
二歩目で、風が耳元を裂いた。
三歩目で、街道の土が後ろへ流れた。
夜の道を走る。
荷車はない。
馬もない。
だが、ソータの中には砦と村へ届けるべき大量の物資が入っている。
彼自身が、今は一本の輸送路だった。
月明かりの下、草原が左右へ飛んでいく。
林の影が黒い壁のように迫り、すぐに後ろへ消える。
足元の石を避ける。
ぬかるんだ轍を跳ぶ。
浅い小川を越える。
折れた枝を踏まないように、わずかに進路をずらす。
速度だけなら、もっと出せる。
だが、夜道で速度を出しすぎれば危険だ。
暗闇では、見えない穴ひとつが命取りになる。
足を痛めれば、荷は届かない。
体を壊せば、誰かが待つ明日が遠のく。
(速く。)
(でも、雑にしない。)
(急ぐことと、焦ることは違う。)
ミレイユならそう言うだろう。
オルドアイなら、危ない場所では勘で止まるだろう。
リーナなら、足元の薬草を踏まないように怒るかもしれない。
そんなことを考えると、不思議と足取りが安定した。
誰かの声を覚えていることが、道の支えになる。
誰かの顔を思い出せることが、夜の中で自分の位置を教えてくれる。
やがて、道の空気が変わった。
グランデリア周辺の乾いた土の匂いが薄れ、北の湿った風が混じり始める。
草の背が少し高くなる。
木々の枝が曲がり、風の音が低くなる。
遠くに山の黒い影が見える。
北が近い。
ソータは速度を少し落とした。
このあたりから先は、霧が出やすい。
北の砦へ続く道は何度も整備した。
目印の石も置いた。
危険な穴には枝を差し、崩れやすい斜面には迂回路を作った。
それでも、夜の北道は気を抜けない。
何より、最近は違和感があった。
見られている。
そう感じる瞬間がある。
魔物の気配ではない。
野盗の気配でもない。
殺気ではない。
なら安全かと言われると、それも違う。
もっと静かで、もっと遠くて、もっと冷たい。
まるで、夜そのものに瞳があるような感覚だった。
(気のせいならいい。)
(でも、ヤンガルドアイさんも何か感じていた。)
(オルドアイも、匂いが違うと言っていた。)
ソータは立ち止まらなかった。
だが、意識だけを周囲へ広げる。
右の林。
異常なし。
左の斜面。
小動物の気配。
前方の道。
霧が薄く流れている。
背後。
足跡と、自分の息だけ。
何もいない。
何もいないはずだった。
それでも、首筋に冷たいものが触れたような感覚があった。
ソータは思わず振り返った。
月明かりに照らされた道が、白く伸びている。
その先に、グランデリアの灯りはもう見えない。
ただ、遠い闇があるだけだった。
「……誰だ。」
声は夜に吸われた。
返事はない。
風が吹いた。
草が揺れた。
木々がざわめいた。
それだけだった。
ソータはしばらくその場に立っていた。
胸の鼓動が早い。
滋養丸のせいだけではない。
何かがいる。
そう直感していた。
(敵意はない。)
(でも、興味を持たれている。)
(そんな感じがする。)
興味。
その言葉が、なぜかひどく嫌だった。
襲われるなら、まだ分かる。
奪われるなら、対処のしようがある。
だが、ただ見られている。
値踏みされている。
こちらの中身を、遠くから指先でなぞられている。
それは、荷を狙う盗賊の視線ではなかった。
人を見る目でもない。
珍しいものを見つけた者の、静かな執着に似ていた。
ソータは拳を握った。
「今は、止まれない。」
自分に言うように呟く。
荷がある。
待っている者がいる。
北の砦では、オルドアイたちが補給を待っている。
男たちの村では、メバドスが不穏な報告の続きを抱えているはずだ。
ここで見えない視線に足を止めている場合ではない。
(見ているなら、見ていろ。)
(俺は、運ぶ。)
ソータは再び走り出した。
風が強くなる。
夜道が足元で流れる。
霧が薄く広がり、月明かりがぼやける。
走りながら、ソータは《神速積載庫》の中を意識した。
砦分の荷。
男たちの村向けの荷。
緊急用の薬。
矢羽根。
革紐。
予備の水袋。
アルベールの滋養丸。
ミレイユが最後に追加した小さな包み。
どこに入っていても取り出せる。
手前も奥も関係ない。
ただ、必要な時に迷わないよう、頭の中で場所ではなく用途ごとに印をつけておく。
それが、今のソータのやり方だった。
前方の霧が揺れた。
自然な流れではない。
風に押されたのではなく、内側から形を変えたように見えた。
ソータは足を止めた。
霧の中に影がある。
細い影。
人のようで、人ではないような輪郭。
月明かりが滲んで、はっきりとは見えない。
ソータは息を潜めた。
「誰だ。」
今度は少し強く言った。
影は答えない。
代わりに、霧の奥から声がした。
「遅い。」
聞き慣れた声だった。
ソータの肩から力が抜ける。
霧の中から、オルドアイが現れた。
褐色の肌が月明かりを受けて淡く光っている。
長い茶髪が風に揺れ、左腕には緑の組み紐が結ばれていた。
戦士装束の上に薄い外套を羽織っているが、その立ち姿には夜の冷えなどまるで感じさせない強さがある。
「オルドアイ。」
「もっと早く来ると思っていた。」
「これでもかなり飛ばしてきたんだけどな。」
「なら、私が待ちすぎた。」
オルドアイは当然のように言った。
ソータは苦笑した。
だが、彼女の顔を見た瞬間、胸の奥にあった緊張が少し緩んだ。
彼女はここにいる。
生きている。
砦もまだ落ちていない。
少なくとも、今この瞬間は間に合っている。
「砦は?」
「持っている。」
「だが、状況は良くない。」
オルドアイの表情が引き締まった。
「男たちの村から再び使いが来た。」
「隣国の兵らしき集団が近づいていると。」
「らしき?」
「ああ。」
「旗が見えたという者もいる。」
「だが、動きが妙だとメバドスが言っている。」
「兵にしては乱れている。」
「略奪者にしては数が多い。」
ソータは眉を寄せた。
「どっちなんだ。」
「分からん。」
「だから、急いでいる。」
オルドアイはソータに近づいた。
その距離が、以前より自然に近い。
けれど、彼女はすぐに触れようとはしなかった。
まず、ソータの顔を見る。
息を見る。
体の揺れを見る。
「何か使ったな。」
ソータの心臓が跳ねた。
「え?」
「体の熱が違う。」
「薬か。」
「ああ。」
「アルベールの滋養丸を半分だけ。」
「そうか。」
オルドアイはそれ以上追及しなかった。
ソータは内心で息を吐いた。
(危ない。)
(さすがに鋭いな。)
(でも、スキルのことは言わない。)
オルドアイはじっとソータを見ていた。
「ミレイユはどうしている。」
「心配してた。」
「でも、送り出してくれた。」
「泣いたか。」
「泣いてない。」
「怒ったか。」
「少し。」
「でも、最後は笑ってた。」
「何か言っていたか。」
ソータは少し迷った。
それから、正直に言う。
「オルドアイによろしくって。」
オルドアイが目を瞬かせた。
すぐに、口元がゆっくり上がる。
「そうか。」
「それと、調子に乗るなって。」
「ふっ。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
「ミレイユらしい。」
「よい女だ。」
「ああ。」
「だが、よろしくと言われたなら、私も応えねばならんな。」
「応える?」
オルドアイは一歩近づいた。
月明かりの下で、緑の組み紐が揺れる。
その目は真剣だった。
「私はお前が来て嬉しい。」
「すぐに抱きしめたいと思っている。」
「だが、お前はミレイユにも帰らねばならん。」
「だから、今は短くする。」
「何を?」
「決まっている。」
オルドアイは手を伸ばし、ソータの頬に触れた。
掌は温かい。
荒れた指先が、夜風で冷えた肌を確かめるように撫でた。
「触れていいか。」
今さらのように聞く声が、少しだけ不器用だった。
ソータは頷いた。
「いい。」
オルドアイは近づき、短く口づけた。
熱い。
だが、押し流すような強さではない。
確かめるような口づけだった。
離れると、彼女は満足そうに頷いた。
「これで、よろしくは受け取った。」
「そういうものなのか。」
「そういうものだ。」
「ミレイユに報告しにくいな。」
「なら、うまく言え。」
「難しいな。」
「ミレイユなら分かる。」
オルドアイはそう言って、すぐに表情を引き締めた。
「行くぞ。」
「砦で荷を下ろし、その後すぐに男たちの村へ向かう。」
「ああ。」
「夜明け前に着けるか。」
「着ける。」
「いや、着かせる。」
オルドアイはその答えに満足したように笑った。
「よい顔だ。」
「運ぶ者の顔をしている。」
ソータは《神速積載庫》の感覚を確かめた。
荷はある。
体は動く。
道は続いている。
そして、胸の中には約束がある。
ミレイユの笑顔。
オルドアイの手の温度。
見えない誰かの視線。
男たちの村へ迫る不穏な影。
(選んで、背負って、運ぶ。)
(それが俺の仕事だ。)
(それが、俺がこの世界で逃げないって決めた形だ。)
二人は霧の中を走り出した。
北の山影が、闇の向こうに浮かんでいる。
砦の灯りはまだ遠い。
けれど、確かにそこにある。
ソータは息を吸い、さらに速度を上げた。
夜は深い。
道は長い。
だが、荷は届かなければならない。
そしてその夜、ソータはまだ知らなかった。
霧の奥で彼を見ていた紫の瞳が、ただの気まぐれでは終わらないことを。
その視線の主が、やがて男たちの村で姿を現し、ソータの運ぶものすべてを試すことになるのだと。




