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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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107/151

第107話:出発前の昼寝は、少しだけ長い寄り道になる

 翌日、クラウゼン商会の倉庫は朝から北の匂いを帯びていた。


 もちろん、実際に森の湿気が入ってきたわけではない。

 ここはグランデリアの街中で、倉庫の床は乾いており、外から聞こえるのは荷馬車の車輪と商人たちの声だった。


 それでも、並べられた荷を見れば、誰の目にも分かった。


 これは北へ向かう荷だ。


 盾の補修材。

 縁金。

 鋲。

 厚手革。

 把手用の革紐。

 槍の穂先。

 狩猟用の矢尻。

 矢羽根。

 湿気に強い弦。

 砥石。

 錆止め油。

 雨避けの油布。

 防水文筒。

 合図笛。

 薬箱。

 包帯。

 洗浄用煎じ薬の材料。

 保存食。

 塩。

 小型の密閉容器。

 リーナと砦の薬師長をつなぐ文箱。


 荷札は色ごとに分けられていた。


 青は男たちの村。

 赤は緊急用。

 緑は砦。

 黄は外周見張り。

 白は薬師。

 黒はメバドス直送。


 ミレイユはそれを見ながら、板に記した一覧と実物を照合していた。

 昨日から何度も確認しているはずなのに、彼女の目は少しも緩まない。


 ソータはその隣で、《神速積載庫》へ入れる順を確認していた。


 ただ入れればいいわけではない。

 奥に入れすぎれば取り出しにくい。

 同じ場所へ持っていくものでも、渡す相手や優先度が違う。

 メバドスへすぐ渡すものと、砦の倉庫へ一度置くもの。

 男たちの村へ運ぶものと、オルドアイに確認してから分けるもの。

 薬師長に直接渡すもの。

 リーナへの返答を入れる文箱。


 全部、順番がある。


 以前なら、ソータは自分の記憶に頼っていた。

 大量に入るのだから、必要な時に探せばいいと思っていた。


 今は違う。


 ミレイユに怒られた。

 ガルドに危険だと言われた。

 砦の倉庫で、物の置き場が人の動きを決めると知った。

 リーナの薬草で、荷札の向こうに人がいると改めて思った。


 だから、ソータはひとつひとつ丁寧に確認した。


「これはメバドスさんへ直接。」


「ええ。黒札。盾補修材と外周見張り用の合図笛、それから防水文筒。」


「これは砦の薬師長さんへ。」


「白札。リーナさんの文と試作薬草、それに密閉容器の見本。」


「これはバルクさん用?」


「バルクさん用というより、バルクさんが使う可能性が高い盾補修材ね。黒札と青札の間に入れて。メバドス様が判断できるようにして。」


「分かった。」


 ソータは荷を《神速積載庫》へ入れた。


 感覚としては、目の前の荷が空間の中へ滑り込む。

 だが、ただ消えるわけではない。

 ソータの内側に、位置と重さと札の色が残る。


 以前よりも、その感覚を丁寧に扱えるようになっていた。


(青札、男たちの村。)

(黒札、メバドスさん直送。)

(白札、薬師長。)

(緑札、砦倉庫。)

(赤札、緊急。)

(赤札はすぐ取り出せる位置。)


 ミレイユが横で見ていた。


「今の赤札、どこに置いた?」


「一番手前。俺の感覚だと右側の上段。」


「右側の上段、という言い方であなたが把握できるのね?」


「うん。前より分かる。」


「では、取り出し確認。」


「はい。」


 ソータは一度入れた赤札の包みを取り出した。

 中身は緊急用の止血布、合図笛、火打ち道具、短い縄。


 間違っていない。


 ミレイユは頷いた。


「よし。」


 その一言に、ソータは少し嬉しくなった。


 レオンが横から覗き込む。


「ソータさん、完全に倉庫そのものっすね。」


「褒めてる?」


「褒めてるっす。」


 ミレイユがすぐに言う。


「ただし、人間です。」


「はいっす。」


 カレンが重い革束を運びながら言った。


「人間倉庫。」


「カレンさん。」


「褒めている。」


「本当ですか。」


「便利だ。」


 ソータは微妙な顔をした。


 エルザが静かに笑った。


「便利でも、疲れますからね。」


「そう。」


 ミレイユがすぐに続ける。


「だから、今日は昼過ぎに休むこと。」


 ソータは顔を上げた。


「まだ荷が。」


「休むこと。」


「でも。」


「夜に出発するのよ。」


 ミレイユの声は硬かった。


「夜の移動は、昼に休んでから。あなた一人でスキルを使って砦へ向かうのだから、ここで無理をしてはいけません。」


 ソータは言葉に詰まった。


 夜に出る。

 それは決まっている。

 夕方に軽く食べ、体調を確認し、経路と時間を再確認してから、ソータは一人で出発する。

 オルドアイが森の道を開き、砦で受け取る。

 グランデリア側はミレイユが時刻を管理する。


 だから、昼に眠っておく必要がある。


 分かっている。

 分かっているが、荷を前にすると手を止めにくい。


 ミレイユはそれを見越していたように、ソータの手から板を取った。


「昼過ぎまでに第一確認を終える。そこから三時間、あなたは寝る。」


「三時間も?」


「三時間。」


「眠れるかな。」


「眠れなくても横になる。」


「はい。」


 ガルドが低く言った。


「従え。」


「はい。」


 カレンも頷いた。


「寝不足は判断を落とす。」


「はい。」


 レオンが笑う。


「全員に寝ろって言われるソータさん、珍しいっすね。」


「最近、みんなに管理されてる気がする。」


 ミレイユは淡々と言った。


「大事な人扱いです。」


 ソータは黙った。


 その言葉を聞くと、反論ができない。


 胸が少し熱くなる。


「……寝ます。」


「よろしい。」


◆◇◆


 昼過ぎ、第一確認は予定通り終わった。


 まだ届いていない品もある。

 夕方に最終確認するものもある。

 しかし、今ソータがいなくても進められる作業へ移った。


 ミレイユは強制的にソータを倉庫から出した。


「部屋へ。」


「自分の部屋?」


「私の部屋。」


 ソータは一瞬止まった。


「ミレイユの?」


「ええ。」


「いいの?」


「あなたの部屋だと、誰かが呼びに来たら起きるでしょう。」


「それは。」


「私の部屋なら、勝手に入れないわ。」


「なるほど。」


 ミレイユは少しだけ目を逸らした。


「それに。」


「それに?」


「……私が確認しやすいから。」


 声が少し小さくなった。


 ソータは胸が温かくなるのを感じた。


「うん。」


 二人は商会の廊下を歩いた。

 昼の屋敷は慌ただしい。

 書記が紙束を抱えて走り、使用人が階段を上がり、倉庫番が伝票を確認している。

 その中を、ミレイユはいつものように歩く。

 だが、部屋の前に着くと少しだけ表情が柔らかくなった。


 扉を開ける。


 ミレイユの部屋は、昨夜より整っていた。

 机の上の書類は片づけられ、香り袋が置かれ、窓辺の花瓶の水も替えられている。

 寝台には薄い掛け布が整えられていた。


「横になって。」


「うん。」


 ソータは靴を脱ぎ、上着を外して寝台へ横になった。


 体を横たえると、思っていた以上に疲れていることに気づいた。

 背中が沈む。

 肩が重い。

 まぶたがすぐに下がりそうになる。


 ミレイユは掛け布をかけてくれた。


「三時間後に起こすわ。」


「ミレイユは?」


「私は少し書類を見てから。」


「休んで。」


 ソータが言うと、ミレイユは少し驚いた顔をした。


「あなたに言われるとは思わなかったわ。」


「俺だけ寝るのは嫌だから。」


「子どもみたいね。」


「そうかも。」


 ミレイユは小さく笑った。


「分かったわ。少し休む。」


「うん。」


 ソータは安心した。


 その安心が眠気を連れてきた。

 ミレイユが机へ向かう気配を感じながら、ソータは目を閉じた。


 香り袋の匂いがする。

 ミレイユの部屋の匂い。

 紙とインクと、湯浴み後の淡い香り。


(少しだけ。)

(眠る。)

(夜に行く。)

(戻る。)


 思考はそこで途切れた。


◆◇◆


 どれくらい眠ったのか、ソータには分からなかった。


 最初に感じたのは、温もりだった。


 自分のすぐそばに、人の体温がある。

 柔らかく、近く、呼吸が重なっている。

 寝台の沈み方も、自分一人のものではない。


 ソータはゆっくり目を開けた。


 部屋の光が少し変わっていた。

 昼の強い光ではなく、夕方へ向かう柔らかい光。

 窓の外で鳥が鳴いている。


 そして、隣にはミレイユがいた。


 彼女は裸の肩を掛け布の下から少しだけ覗かせ、ソータに寄り添って眠っていた。

 髪はほどけ、頬には眠りの赤みがある。

 紅い髪紐は、枕元に丁寧に置かれていた。


 ソータは完全に目が覚めた。


(え。)

(ミレイユ。)

(いつの間に。)


 胸が強く鳴る。


 ミレイユは深く眠っている。

 疲れていたのだろう。

 普段の張りつめた表情はなく、安心しきった顔をしている。

 ソータの腕に、自然に身を寄せていた。


 その無防備さに、ソータの胸が苦しくなる。


 起こさない方がいい。

 そう思った。


 だが、ミレイユが少し身じろぎした。

 まつ毛が震え、ぼんやりと目を開ける。


「……ソータ?」


 声が寝ぼけている。


「うん。」


「起きたの……?」


「うん。」


「何時……。」


「分からないけど、まだ夕方前だと思う。」


「そう……。」


 ミレイユは半分眠ったまま、ソータの胸元へ顔を寄せた。

 その仕草があまりにも自然で、ソータは息を止めた。


「ミレイユ。」


「ん……。」


「寝ぼけてる?」


「少し……。」


 その声が柔らかく、無防備だった。


 ソータは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 昼寝の後のぼんやりした体に、ミレイユの温もりが近い。

 出発前の緊張も、不安も、今だけ少し遠い。


 ここにいるのは、商会代理ではない。

 北へ荷を出す責任者でもない。

 ただ、自分の隣で眠っていた恋人だ。


 ソータはゆっくり、彼女の頬に触れた。


 ミレイユの目が少しだけ開く。


「ソータ?」


「キスしていい?」


 ミレイユは一瞬、寝ぼけたまま瞬きをした。

 それから、かすかに微笑んだ。


「聞くのね。」


「聞く。」


「いいわ。」


 ソータはミレイユへ口づけた。


 最初は短くするつもりだった。

 目覚めの挨拶のように。

 安心を確かめるように。


 だが、唇が重なった瞬間、長い昼寝の後にほどけた感覚が、二人の間で静かに熱を持った。


 ミレイユの手が、ソータの肩へ回る。

 ソータの手が、彼女の背を抱く。

 キスは少しずつ長くなった。

 眠りの名残を溶かし、互いの呼吸を確かめ、離れたくない気持ちを隠さなくなっていく。


 ミレイユが小さく息を漏らす。


「……長いわ。」


 けれど、離れようとはしなかった。


 ソータは少しだけ唇を離す。


「やめる?」


 ミレイユは目を潤ませたまま、首を横に振った。


「今聞かないで。」


「うん。」


 また、唇が重なった。


 そこから先は、出発前の短い寄り道だった。


 長い旅の前に、互いの温もりを確かめる時間。

 不安を言葉にする代わりに、抱きしめる時間。

 ソータが北へ走る前に、ミレイユがここにいることを体ごと覚えさせる時間。


 ミレイユは何度もソータの名を呼んだ。

 ソータも彼女の名を呼んだ。

 急ぎすぎず、けれど離れがたく、二人は互いを求めた。


 昼寝の静けさは、少しずつ乱れ、やがて穏やかな熱へ変わった。


 そして、その熱がひとつの波のように満ちて引いた時、ソータは深く息を吐き、ミレイユを抱きしめたまましばらく動けなかった。


 ミレイユも、彼の胸に額を寄せている。

 頬は赤く、息は少し乱れていた。


「……出発前に、何をしているのかしら。」


 ミレイユが小さく呟いた。


 ソータは申し訳なさそうに答える。


「ごめん。」


「謝らないで。」


「でも。」


「私も同じくらい悪いわ。」


 ミレイユは顔を上げ、少しだけ笑った。


「むしろ、私の方が悪いかもしれない。」


「どうして?」


「あなたが寝ている間に、隣へ入ったから。」


 ソータは驚く。


「そうだったんだ。」


「少し休むだけのつもりだったの。」


「うん。」


「でも、あなたが眠っていて。」


「うん。」


「安心して。」


 ミレイユは少し恥ずかしそうに目を逸らした。


「つい。」


 ソータの胸が温かくなった。


「嬉しい。」


「そういう顔をしない。」


「してる?」


「しているわ。」


 ミレイユは指先でソータの頬を軽く押した。


 その時だった。


 扉を叩く音がした。


 こん、こん。


 二人は同時に固まった。


 外から、穏やかな声が聞こえる。


「お嬢様。ソータ様。」


 アルベールだった。


 ミレイユの顔が一瞬で真っ赤になる。

 ソータも慌てて掛け布を引き上げた。


「ちょっと待って!」


 ミレイユの声が裏返った。


「かしこまりました。」


 扉の向こうの声は、いつも通り穏やかだった。


 その穏やかさが余計に恥ずかしい。


 ミレイユは慌てて起き上がりかけ、掛け布を押さえ、ソータとぶつかりそうになった。


「ソータ、あっちを向いて。」


「はい。」


「いえ、服を取って。」


「どっち。」


「どっちも!」


「はい!」


 二人は慌ただしく動いた。


 床に落ちた服を拾い、髪を整え、紅い髪紐を探し、上着を羽織り、寝台の乱れをどうにか誤魔化そうとする。


 誤魔化せている気はしなかった。


 ミレイユは髪紐を手に取り、結ぼうとして指をもつれさせた。


 ソータがそっと言う。


「結ぼうか。」


「今は早く。」


「うん。」


 ソータは急ぎながらも丁寧に、紅い髪紐を結んだ。

 白い石が揺れる。

 少し曲がっている。


 ミレイユは鏡を見て、深く息を吸った。


「……後で直すわ。」


「ごめん。」


「謝らない。」


「はい。」


 どうにか身なりを整え、ミレイユは扉へ向かった。

 まだ頬は赤い。

 ソータも耳まで赤い。


「入って。」


 扉が開いた。


 アルベールは銀盆を持って立っていた。

 表情は完璧に穏やかで、何も察していないような顔をしている。


 もちろん、察していないはずがない。


「お目覚めでございますか。」


 ミレイユは咳払いした。


「ええ。」


「ソータ様は今夜のご出発に備え、少し早めの夕食となります。」


「分かっているわ。」


「ご用意いたしますので。」


 アルベールは一拍置いた。


 そして、あくまで自然に続けた。


「その前に、お二人で湯浴みなどいかがでしょうか。」


 沈黙。


 ミレイユの顔がさらに赤くなる。

 ソータは視線を床へ落とした。


 アルベールは穏やかに続ける。


「旅立ち前には、体を清め、気を整えるのがよろしいかと。」


「アルベール。」


「はい、お嬢様。」


「あなた、絶対に分かって言っているわね。」


「さて、何のことでございましょう。」


「その顔が一番腹立たしいわ。」


「恐れ入ります。」


「褒めていません。」


「承知しております。」


 ソータは小さくなっていた。


 ミレイユはしばらくアルベールを睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「……そうするわ。」


「かしこまりました。」


 アルベールは深く礼をする。


「湯はすでに整えてございます。」


「早いわね。」


「執事でございますので。」


「便利に使わないで。」


「はい。」


 アルベールは銀盆を少し上げた。


「なお、湯浴み後のお茶は白湯でございます。」


 ミレイユは即座に言った。


「よろしい。」


「滋養はございません。」


「聞く前に言わない。」


「失礼いたしました。」


 アルベールは静かに下がった。


 扉が閉まる。


 部屋に二人だけが残った。


 ミレイユは両手で顔を覆った。


「……完全に気づかれているわ。」


「うん。」


「うん、じゃないわよ。」


「ごめん。」


「謝らないで。」


 ソータが困った顔をすると、ミレイユは顔を覆ったまま小さく笑った。


「でも、湯浴みは必要ね。」


「うん。」


「行きましょう。」


「一緒に?」


 ミレイユは手を下ろし、赤い顔のままソータを見た。


「今さら別々にしてどうするの。」


「はい。」


 二人はまた少し照れながら、部屋を出た。


◆◇◆


 湯浴みは、思った以上に気持ちを落ち着かせた。


 商会の浴室は砦の湯とは違う。

 木と石で整えられ、香草が少しだけ湯に浮かべられている。

 湯気は柔らかく、外の喧騒を遠ざけていた。


 二人は最初、妙にぎこちなかった。

 さっきまで互いを求め合っていたのに、改めて湯の中に並ぶと照れが戻ってくる。


 ミレイユは髪をまとめ直し、ソータはなるべく視線を泳がせないようにした。


「見てもいいわよ。」


 ミレイユが言った。


「え。」


「さっきまで散々見ていたでしょう。」


 ソータの顔が赤くなる。


「言い方。」


「あなたが変に遠慮するからよ。」


「遠慮というか。」


 ミレイユは湯に肩まで沈み、小さく息を吐いた。


「出発前だから、少し不安なの。」


 ソータは表情を改めた。


「うん。」


「あなたを信じていないわけではないわ。」


「うん。」


「オルドアイの道も信じる。荷の準備もした。手順も決めた。」


「うん。」


「でも、不安は消えない。」


 湯気の向こうで、ミレイユの目が揺れている。


 ソータはゆっくり頷いた。


「俺も不安だよ。」


「あなたも?」


「うん。」


「そう。」


 ミレイユは少しだけ安心したように目を伏せた。


「不安なのに行くのね。」


「うん。」


「無理をして?」


「違う。」


 ソータははっきり答えた。


「必要だから行く。」


 ミレイユは彼を見る。


「それに、戻るって決めてるから。」


「ええ。」


「不安なままでも、戻る道を決めてある。」


「ええ。」


「ミレイユが荷を整えてくれた。オルドアイが森の道を開く。ガルドたちが手順を決めてくれた。」


「ええ。」


「だから、一人で行くけど、一人じゃない。」


 ミレイユの目が柔らかくなる。


「それを忘れないなら、いいわ。」


「忘れない。」


 二人はしばらく湯に浸かった。


 疲れが少しずつほどけていく。

 昼寝の名残も、さっきの熱も、出発前の緊張も、湯の中で少しずつ形を変えていった。


 完全に消えるわけではない。

 けれど、抱えられる大きさになる。


 湯から上がる頃には、ミレイユの髪もソータの顔色も少し落ち着いていた。

 ただし、互いを見るとまだ少し照れた。


 廊下へ出ると、アルベールが当然のように白湯を用意していた。


「お疲れ様でございます。」


 ミレイユは白湯を受け取りながら言った。


「本当に白湯ね?」


「はい。」


「滋養は?」


「ございません。」


「よろしい。」


 ソータも受け取った。


 温かい白湯が喉を通る。

 何の変哲もない。

 ただ、今はそれがありがたかった。


◆◇◆


 早めの夕食は、通常より軽く、しかし栄養のあるものだった。


 柔らかいパン。

 鶏肉と根菜の煮込み。

 塩気を抑えたスープ。

 少量の干し果実。

 蜂蜜を薄く溶いた温かな飲み物。


 ミレイユは飲み物を見て、すぐアルベールを見た。


「これは?」


「蜂蜜を薄く溶いた湯でございます。」


「滋養は?」


「蜂蜜本来のものが、ごくわずかに。」


 ミレイユの目が細くなる。


「ソータには?」


「量を控えております。」


「本当に?」


「はい。」


 ソータは小さく言った。


「蜂蜜も確認されるようになった。」


 レオンが向かいで肩を震わせる。


「仕方ないっす。」


 ガルドは真面目に言った。


「出発前の飲食は管理すべきだ。」


「そうなんだけど。」


 エルザが静かに微笑む。


「心配されているんですよ。」


 カレンはスープを飲みながら言った。


「食える時に食え。」


「はい。」


 ソータは素直に食べた。


 軽いが、体に力が戻る。

 昼寝と湯浴みと食事。

 ミレイユの言う通り、必要だった。


 食事の途中、最終確認が行われた。


 出発は日が落ちてから。

 街を出るまでは通常の道。

 人目が少なくなった地点で、ソータは《神速積載庫》の荷を確認し、速度を上げる。

 夜道は月明かりと事前に確認した街道を使う。

 森へ入る手前で合図。

 オルドアイが霧の道を開く予定。

 砦に到着したら、まずオルドアイとヤンガルドアイへ到着報告。

 その後、緊急荷、メバドス直送荷、薬師長荷を分ける。

 体調に問題があれば、その場で休む。

 戻る時刻は無理に固定しない。

 戻る前に砦から短い文を受け取り、持ち帰る。


 ミレイユは何度も確認した。


「戻りは急がなくていいわ。」


「うん。」


「到着したら休むこと。」


「うん。」


「オルドアイの言うことを聞くこと。」


「うん。」


「ただし、流されすぎないこと。」


「はい。」


 レオンがむせた。


 ガルドが視線を向ける。


 レオンは水を飲んで誤魔化した。


 ミレイユは続ける。


「荷を下ろす順番は?」


 ソータはすぐ答えた。


「赤札の緊急用確認。黒札のメバドス直送。白札の薬師長。緑札の砦倉庫。青札の男たちの村。最後に確認待ち。」


「よし。」


「文箱は?」


「白札の中だけど、薬師長へ直接。」


「よし。」


「自分の確認札は?」


 ソータは少し笑った。


「休息確認済。食事確認済。体調確認済。経路確認済。帰還予定確認済。」


 ミレイユは満足そうに頷いた。


「よろしい。」


 カレンが短く言った。


「荷札人間。」


「またですか。」


「良い意味だ。」


 ソータは苦笑した。


◆◇◆


 日が落ちた。


 グランデリアの空に、夜の青が広がる。

 商会の中庭には、出発を見送る者たちが集まっていた。


 ミレイユ。

 ガルド。

 エルザ。

 レオン。

 カレン。

 アルベール。

 倉庫責任者と書記も、少し離れて立っている。


 ソータは旅装を整えていた。

 荷はほとんど《神速積載庫》の中にある。

 外見だけなら、軽い旅に出るように見える。


 だが、その内側には北へ向かう大量の荷がある。


 ソータは胸に手を当てた。


 重い。

 けれど、持てる。


 ミレイユが前に立った。

 紅い髪紐が夜風に揺れている。


「忘れ物は?」


「ない。」


「体調は?」


「大丈夫。」


「眠気は?」


「ない。」


「無理は?」


「しない。」


「戻る?」


「戻る。」


 ミレイユの目が少し揺れた。


 ソータは一歩近づいた。


「ミレイユ。」


「何?」


「行ってくる。」


 短い言葉だった。


 だが、今の二人には十分だった。


 ミレイユは少しだけ息を吸い、ソータの襟元を整えた。

 それから、紅い髪紐に触れる。


「私のことを忘れたら許さないわ。」


 いつかと同じ言葉。

 だが、今は少し違う響きだった。


 ソータは真っ直ぐ答えた。


「忘れない。」


「オルドアイに会っても?」


「忘れない。」


「荷に夢中になっても?」


「忘れない。」


「自分を荷物扱いしそうになっても?」


「思い出す。」


 ミレイユは頷いた。


「よろしい。」


 そして、彼女はソータへ短く口づけた。


 長くはない。

 門前でのオルドアイのような熱い引き止めではない。

 けれど、深く、確かなキスだった。


 帰ってきなさい。

 私はここにいる。

 あなたの荷を整えて待っている。


 そんな意味が込められていた。


 離れた後、ソータは少しだけ目を閉じた。


「行ける。」


 ミレイユは小さく笑った。


「行ってらっしゃい。」


 ガルドが言う。


「予定外なら戻れ。」


「はい。」


 エルザが続ける。


「夜目に頼りすぎないでください。」


「はい。」


 レオンが手を振る。


「道中で変なもの食べちゃ駄目っすよ!」


「食べないよ。」


 カレンが短く言う。


「止まる判断を忘れるな。」


「はい。」


 アルベールは深く礼をした。


「お気をつけて、ソータ様。」


「はい。」


「なお、帰還後のお茶は白湯にいたします。」


 ソータは少し笑った。


「お願いします。」


 ミレイユがアルベールを横目で見た。


「本当に白湯ね。」


「はい、お嬢様。」


 小さな笑いが中庭に広がった。


 その笑いを胸に、ソータは門へ向かった。


 夜の街道が待っている。

 その先に、北の森がある。

 さらにその奥に、砦がある。


 オルドアイが待っている。

 ヤンガルドアイが待っている。

 バルクとガルナがいる。

 メバドスへ渡す荷がある。

 薬師長へ届ける文箱がある。


 そして、ここにはミレイユがいる。


 ソータは振り返った。


 ミレイユが立っている。

 紅い髪紐が夜風に揺れている。


 ソータはその色をしっかり目に焼きつけた。


(忘れない。)

(戻る。)

(必ず。)


 そして、ソータは夜のグランデリアへ踏み出した。


 《神速積載庫》の奥で、北へ向かう荷札が静かに並んでいる。

 その一つ一つを胸の中で確かめながら、彼は速度を上げた。


 街の灯りが背後へ流れていく。

 夜風が頬を打つ。

 足は軽い。

 胸は重い。

 けれど、その重さはもう、彼を沈めるものではなかった。


 運ぶための重さだった。


 ソータは北へ向かって走り出した。

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