第107話:出発前の昼寝は、少しだけ長い寄り道になる
翌日、クラウゼン商会の倉庫は朝から北の匂いを帯びていた。
もちろん、実際に森の湿気が入ってきたわけではない。
ここはグランデリアの街中で、倉庫の床は乾いており、外から聞こえるのは荷馬車の車輪と商人たちの声だった。
それでも、並べられた荷を見れば、誰の目にも分かった。
これは北へ向かう荷だ。
盾の補修材。
縁金。
鋲。
厚手革。
把手用の革紐。
槍の穂先。
狩猟用の矢尻。
矢羽根。
湿気に強い弦。
砥石。
錆止め油。
雨避けの油布。
防水文筒。
合図笛。
薬箱。
包帯。
洗浄用煎じ薬の材料。
保存食。
塩。
小型の密閉容器。
リーナと砦の薬師長をつなぐ文箱。
荷札は色ごとに分けられていた。
青は男たちの村。
赤は緊急用。
緑は砦。
黄は外周見張り。
白は薬師。
黒はメバドス直送。
ミレイユはそれを見ながら、板に記した一覧と実物を照合していた。
昨日から何度も確認しているはずなのに、彼女の目は少しも緩まない。
ソータはその隣で、《神速積載庫》へ入れる順を確認していた。
ただ入れればいいわけではない。
奥に入れすぎれば取り出しにくい。
同じ場所へ持っていくものでも、渡す相手や優先度が違う。
メバドスへすぐ渡すものと、砦の倉庫へ一度置くもの。
男たちの村へ運ぶものと、オルドアイに確認してから分けるもの。
薬師長に直接渡すもの。
リーナへの返答を入れる文箱。
全部、順番がある。
以前なら、ソータは自分の記憶に頼っていた。
大量に入るのだから、必要な時に探せばいいと思っていた。
今は違う。
ミレイユに怒られた。
ガルドに危険だと言われた。
砦の倉庫で、物の置き場が人の動きを決めると知った。
リーナの薬草で、荷札の向こうに人がいると改めて思った。
だから、ソータはひとつひとつ丁寧に確認した。
「これはメバドスさんへ直接。」
「ええ。黒札。盾補修材と外周見張り用の合図笛、それから防水文筒。」
「これは砦の薬師長さんへ。」
「白札。リーナさんの文と試作薬草、それに密閉容器の見本。」
「これはバルクさん用?」
「バルクさん用というより、バルクさんが使う可能性が高い盾補修材ね。黒札と青札の間に入れて。メバドス様が判断できるようにして。」
「分かった。」
ソータは荷を《神速積載庫》へ入れた。
感覚としては、目の前の荷が空間の中へ滑り込む。
だが、ただ消えるわけではない。
ソータの内側に、位置と重さと札の色が残る。
以前よりも、その感覚を丁寧に扱えるようになっていた。
(青札、男たちの村。)
(黒札、メバドスさん直送。)
(白札、薬師長。)
(緑札、砦倉庫。)
(赤札、緊急。)
(赤札はすぐ取り出せる位置。)
ミレイユが横で見ていた。
「今の赤札、どこに置いた?」
「一番手前。俺の感覚だと右側の上段。」
「右側の上段、という言い方であなたが把握できるのね?」
「うん。前より分かる。」
「では、取り出し確認。」
「はい。」
ソータは一度入れた赤札の包みを取り出した。
中身は緊急用の止血布、合図笛、火打ち道具、短い縄。
間違っていない。
ミレイユは頷いた。
「よし。」
その一言に、ソータは少し嬉しくなった。
レオンが横から覗き込む。
「ソータさん、完全に倉庫そのものっすね。」
「褒めてる?」
「褒めてるっす。」
ミレイユがすぐに言う。
「ただし、人間です。」
「はいっす。」
カレンが重い革束を運びながら言った。
「人間倉庫。」
「カレンさん。」
「褒めている。」
「本当ですか。」
「便利だ。」
ソータは微妙な顔をした。
エルザが静かに笑った。
「便利でも、疲れますからね。」
「そう。」
ミレイユがすぐに続ける。
「だから、今日は昼過ぎに休むこと。」
ソータは顔を上げた。
「まだ荷が。」
「休むこと。」
「でも。」
「夜に出発するのよ。」
ミレイユの声は硬かった。
「夜の移動は、昼に休んでから。あなた一人でスキルを使って砦へ向かうのだから、ここで無理をしてはいけません。」
ソータは言葉に詰まった。
夜に出る。
それは決まっている。
夕方に軽く食べ、体調を確認し、経路と時間を再確認してから、ソータは一人で出発する。
オルドアイが森の道を開き、砦で受け取る。
グランデリア側はミレイユが時刻を管理する。
だから、昼に眠っておく必要がある。
分かっている。
分かっているが、荷を前にすると手を止めにくい。
ミレイユはそれを見越していたように、ソータの手から板を取った。
「昼過ぎまでに第一確認を終える。そこから三時間、あなたは寝る。」
「三時間も?」
「三時間。」
「眠れるかな。」
「眠れなくても横になる。」
「はい。」
ガルドが低く言った。
「従え。」
「はい。」
カレンも頷いた。
「寝不足は判断を落とす。」
「はい。」
レオンが笑う。
「全員に寝ろって言われるソータさん、珍しいっすね。」
「最近、みんなに管理されてる気がする。」
ミレイユは淡々と言った。
「大事な人扱いです。」
ソータは黙った。
その言葉を聞くと、反論ができない。
胸が少し熱くなる。
「……寝ます。」
「よろしい。」
◆◇◆
昼過ぎ、第一確認は予定通り終わった。
まだ届いていない品もある。
夕方に最終確認するものもある。
しかし、今ソータがいなくても進められる作業へ移った。
ミレイユは強制的にソータを倉庫から出した。
「部屋へ。」
「自分の部屋?」
「私の部屋。」
ソータは一瞬止まった。
「ミレイユの?」
「ええ。」
「いいの?」
「あなたの部屋だと、誰かが呼びに来たら起きるでしょう。」
「それは。」
「私の部屋なら、勝手に入れないわ。」
「なるほど。」
ミレイユは少しだけ目を逸らした。
「それに。」
「それに?」
「……私が確認しやすいから。」
声が少し小さくなった。
ソータは胸が温かくなるのを感じた。
「うん。」
二人は商会の廊下を歩いた。
昼の屋敷は慌ただしい。
書記が紙束を抱えて走り、使用人が階段を上がり、倉庫番が伝票を確認している。
その中を、ミレイユはいつものように歩く。
だが、部屋の前に着くと少しだけ表情が柔らかくなった。
扉を開ける。
ミレイユの部屋は、昨夜より整っていた。
机の上の書類は片づけられ、香り袋が置かれ、窓辺の花瓶の水も替えられている。
寝台には薄い掛け布が整えられていた。
「横になって。」
「うん。」
ソータは靴を脱ぎ、上着を外して寝台へ横になった。
体を横たえると、思っていた以上に疲れていることに気づいた。
背中が沈む。
肩が重い。
まぶたがすぐに下がりそうになる。
ミレイユは掛け布をかけてくれた。
「三時間後に起こすわ。」
「ミレイユは?」
「私は少し書類を見てから。」
「休んで。」
ソータが言うと、ミレイユは少し驚いた顔をした。
「あなたに言われるとは思わなかったわ。」
「俺だけ寝るのは嫌だから。」
「子どもみたいね。」
「そうかも。」
ミレイユは小さく笑った。
「分かったわ。少し休む。」
「うん。」
ソータは安心した。
その安心が眠気を連れてきた。
ミレイユが机へ向かう気配を感じながら、ソータは目を閉じた。
香り袋の匂いがする。
ミレイユの部屋の匂い。
紙とインクと、湯浴み後の淡い香り。
(少しだけ。)
(眠る。)
(夜に行く。)
(戻る。)
思考はそこで途切れた。
◆◇◆
どれくらい眠ったのか、ソータには分からなかった。
最初に感じたのは、温もりだった。
自分のすぐそばに、人の体温がある。
柔らかく、近く、呼吸が重なっている。
寝台の沈み方も、自分一人のものではない。
ソータはゆっくり目を開けた。
部屋の光が少し変わっていた。
昼の強い光ではなく、夕方へ向かう柔らかい光。
窓の外で鳥が鳴いている。
そして、隣にはミレイユがいた。
彼女は裸の肩を掛け布の下から少しだけ覗かせ、ソータに寄り添って眠っていた。
髪はほどけ、頬には眠りの赤みがある。
紅い髪紐は、枕元に丁寧に置かれていた。
ソータは完全に目が覚めた。
(え。)
(ミレイユ。)
(いつの間に。)
胸が強く鳴る。
ミレイユは深く眠っている。
疲れていたのだろう。
普段の張りつめた表情はなく、安心しきった顔をしている。
ソータの腕に、自然に身を寄せていた。
その無防備さに、ソータの胸が苦しくなる。
起こさない方がいい。
そう思った。
だが、ミレイユが少し身じろぎした。
まつ毛が震え、ぼんやりと目を開ける。
「……ソータ?」
声が寝ぼけている。
「うん。」
「起きたの……?」
「うん。」
「何時……。」
「分からないけど、まだ夕方前だと思う。」
「そう……。」
ミレイユは半分眠ったまま、ソータの胸元へ顔を寄せた。
その仕草があまりにも自然で、ソータは息を止めた。
「ミレイユ。」
「ん……。」
「寝ぼけてる?」
「少し……。」
その声が柔らかく、無防備だった。
ソータは胸の奥が熱くなるのを感じた。
昼寝の後のぼんやりした体に、ミレイユの温もりが近い。
出発前の緊張も、不安も、今だけ少し遠い。
ここにいるのは、商会代理ではない。
北へ荷を出す責任者でもない。
ただ、自分の隣で眠っていた恋人だ。
ソータはゆっくり、彼女の頬に触れた。
ミレイユの目が少しだけ開く。
「ソータ?」
「キスしていい?」
ミレイユは一瞬、寝ぼけたまま瞬きをした。
それから、かすかに微笑んだ。
「聞くのね。」
「聞く。」
「いいわ。」
ソータはミレイユへ口づけた。
最初は短くするつもりだった。
目覚めの挨拶のように。
安心を確かめるように。
だが、唇が重なった瞬間、長い昼寝の後にほどけた感覚が、二人の間で静かに熱を持った。
ミレイユの手が、ソータの肩へ回る。
ソータの手が、彼女の背を抱く。
キスは少しずつ長くなった。
眠りの名残を溶かし、互いの呼吸を確かめ、離れたくない気持ちを隠さなくなっていく。
ミレイユが小さく息を漏らす。
「……長いわ。」
けれど、離れようとはしなかった。
ソータは少しだけ唇を離す。
「やめる?」
ミレイユは目を潤ませたまま、首を横に振った。
「今聞かないで。」
「うん。」
また、唇が重なった。
そこから先は、出発前の短い寄り道だった。
長い旅の前に、互いの温もりを確かめる時間。
不安を言葉にする代わりに、抱きしめる時間。
ソータが北へ走る前に、ミレイユがここにいることを体ごと覚えさせる時間。
ミレイユは何度もソータの名を呼んだ。
ソータも彼女の名を呼んだ。
急ぎすぎず、けれど離れがたく、二人は互いを求めた。
昼寝の静けさは、少しずつ乱れ、やがて穏やかな熱へ変わった。
そして、その熱がひとつの波のように満ちて引いた時、ソータは深く息を吐き、ミレイユを抱きしめたまましばらく動けなかった。
ミレイユも、彼の胸に額を寄せている。
頬は赤く、息は少し乱れていた。
「……出発前に、何をしているのかしら。」
ミレイユが小さく呟いた。
ソータは申し訳なさそうに答える。
「ごめん。」
「謝らないで。」
「でも。」
「私も同じくらい悪いわ。」
ミレイユは顔を上げ、少しだけ笑った。
「むしろ、私の方が悪いかもしれない。」
「どうして?」
「あなたが寝ている間に、隣へ入ったから。」
ソータは驚く。
「そうだったんだ。」
「少し休むだけのつもりだったの。」
「うん。」
「でも、あなたが眠っていて。」
「うん。」
「安心して。」
ミレイユは少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「つい。」
ソータの胸が温かくなった。
「嬉しい。」
「そういう顔をしない。」
「してる?」
「しているわ。」
ミレイユは指先でソータの頬を軽く押した。
その時だった。
扉を叩く音がした。
こん、こん。
二人は同時に固まった。
外から、穏やかな声が聞こえる。
「お嬢様。ソータ様。」
アルベールだった。
ミレイユの顔が一瞬で真っ赤になる。
ソータも慌てて掛け布を引き上げた。
「ちょっと待って!」
ミレイユの声が裏返った。
「かしこまりました。」
扉の向こうの声は、いつも通り穏やかだった。
その穏やかさが余計に恥ずかしい。
ミレイユは慌てて起き上がりかけ、掛け布を押さえ、ソータとぶつかりそうになった。
「ソータ、あっちを向いて。」
「はい。」
「いえ、服を取って。」
「どっち。」
「どっちも!」
「はい!」
二人は慌ただしく動いた。
床に落ちた服を拾い、髪を整え、紅い髪紐を探し、上着を羽織り、寝台の乱れをどうにか誤魔化そうとする。
誤魔化せている気はしなかった。
ミレイユは髪紐を手に取り、結ぼうとして指をもつれさせた。
ソータがそっと言う。
「結ぼうか。」
「今は早く。」
「うん。」
ソータは急ぎながらも丁寧に、紅い髪紐を結んだ。
白い石が揺れる。
少し曲がっている。
ミレイユは鏡を見て、深く息を吸った。
「……後で直すわ。」
「ごめん。」
「謝らない。」
「はい。」
どうにか身なりを整え、ミレイユは扉へ向かった。
まだ頬は赤い。
ソータも耳まで赤い。
「入って。」
扉が開いた。
アルベールは銀盆を持って立っていた。
表情は完璧に穏やかで、何も察していないような顔をしている。
もちろん、察していないはずがない。
「お目覚めでございますか。」
ミレイユは咳払いした。
「ええ。」
「ソータ様は今夜のご出発に備え、少し早めの夕食となります。」
「分かっているわ。」
「ご用意いたしますので。」
アルベールは一拍置いた。
そして、あくまで自然に続けた。
「その前に、お二人で湯浴みなどいかがでしょうか。」
沈黙。
ミレイユの顔がさらに赤くなる。
ソータは視線を床へ落とした。
アルベールは穏やかに続ける。
「旅立ち前には、体を清め、気を整えるのがよろしいかと。」
「アルベール。」
「はい、お嬢様。」
「あなた、絶対に分かって言っているわね。」
「さて、何のことでございましょう。」
「その顔が一番腹立たしいわ。」
「恐れ入ります。」
「褒めていません。」
「承知しております。」
ソータは小さくなっていた。
ミレイユはしばらくアルベールを睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……そうするわ。」
「かしこまりました。」
アルベールは深く礼をする。
「湯はすでに整えてございます。」
「早いわね。」
「執事でございますので。」
「便利に使わないで。」
「はい。」
アルベールは銀盆を少し上げた。
「なお、湯浴み後のお茶は白湯でございます。」
ミレイユは即座に言った。
「よろしい。」
「滋養はございません。」
「聞く前に言わない。」
「失礼いたしました。」
アルベールは静かに下がった。
扉が閉まる。
部屋に二人だけが残った。
ミレイユは両手で顔を覆った。
「……完全に気づかれているわ。」
「うん。」
「うん、じゃないわよ。」
「ごめん。」
「謝らないで。」
ソータが困った顔をすると、ミレイユは顔を覆ったまま小さく笑った。
「でも、湯浴みは必要ね。」
「うん。」
「行きましょう。」
「一緒に?」
ミレイユは手を下ろし、赤い顔のままソータを見た。
「今さら別々にしてどうするの。」
「はい。」
二人はまた少し照れながら、部屋を出た。
◆◇◆
湯浴みは、思った以上に気持ちを落ち着かせた。
商会の浴室は砦の湯とは違う。
木と石で整えられ、香草が少しだけ湯に浮かべられている。
湯気は柔らかく、外の喧騒を遠ざけていた。
二人は最初、妙にぎこちなかった。
さっきまで互いを求め合っていたのに、改めて湯の中に並ぶと照れが戻ってくる。
ミレイユは髪をまとめ直し、ソータはなるべく視線を泳がせないようにした。
「見てもいいわよ。」
ミレイユが言った。
「え。」
「さっきまで散々見ていたでしょう。」
ソータの顔が赤くなる。
「言い方。」
「あなたが変に遠慮するからよ。」
「遠慮というか。」
ミレイユは湯に肩まで沈み、小さく息を吐いた。
「出発前だから、少し不安なの。」
ソータは表情を改めた。
「うん。」
「あなたを信じていないわけではないわ。」
「うん。」
「オルドアイの道も信じる。荷の準備もした。手順も決めた。」
「うん。」
「でも、不安は消えない。」
湯気の向こうで、ミレイユの目が揺れている。
ソータはゆっくり頷いた。
「俺も不安だよ。」
「あなたも?」
「うん。」
「そう。」
ミレイユは少しだけ安心したように目を伏せた。
「不安なのに行くのね。」
「うん。」
「無理をして?」
「違う。」
ソータははっきり答えた。
「必要だから行く。」
ミレイユは彼を見る。
「それに、戻るって決めてるから。」
「ええ。」
「不安なままでも、戻る道を決めてある。」
「ええ。」
「ミレイユが荷を整えてくれた。オルドアイが森の道を開く。ガルドたちが手順を決めてくれた。」
「ええ。」
「だから、一人で行くけど、一人じゃない。」
ミレイユの目が柔らかくなる。
「それを忘れないなら、いいわ。」
「忘れない。」
二人はしばらく湯に浸かった。
疲れが少しずつほどけていく。
昼寝の名残も、さっきの熱も、出発前の緊張も、湯の中で少しずつ形を変えていった。
完全に消えるわけではない。
けれど、抱えられる大きさになる。
湯から上がる頃には、ミレイユの髪もソータの顔色も少し落ち着いていた。
ただし、互いを見るとまだ少し照れた。
廊下へ出ると、アルベールが当然のように白湯を用意していた。
「お疲れ様でございます。」
ミレイユは白湯を受け取りながら言った。
「本当に白湯ね?」
「はい。」
「滋養は?」
「ございません。」
「よろしい。」
ソータも受け取った。
温かい白湯が喉を通る。
何の変哲もない。
ただ、今はそれがありがたかった。
◆◇◆
早めの夕食は、通常より軽く、しかし栄養のあるものだった。
柔らかいパン。
鶏肉と根菜の煮込み。
塩気を抑えたスープ。
少量の干し果実。
蜂蜜を薄く溶いた温かな飲み物。
ミレイユは飲み物を見て、すぐアルベールを見た。
「これは?」
「蜂蜜を薄く溶いた湯でございます。」
「滋養は?」
「蜂蜜本来のものが、ごくわずかに。」
ミレイユの目が細くなる。
「ソータには?」
「量を控えております。」
「本当に?」
「はい。」
ソータは小さく言った。
「蜂蜜も確認されるようになった。」
レオンが向かいで肩を震わせる。
「仕方ないっす。」
ガルドは真面目に言った。
「出発前の飲食は管理すべきだ。」
「そうなんだけど。」
エルザが静かに微笑む。
「心配されているんですよ。」
カレンはスープを飲みながら言った。
「食える時に食え。」
「はい。」
ソータは素直に食べた。
軽いが、体に力が戻る。
昼寝と湯浴みと食事。
ミレイユの言う通り、必要だった。
食事の途中、最終確認が行われた。
出発は日が落ちてから。
街を出るまでは通常の道。
人目が少なくなった地点で、ソータは《神速積載庫》の荷を確認し、速度を上げる。
夜道は月明かりと事前に確認した街道を使う。
森へ入る手前で合図。
オルドアイが霧の道を開く予定。
砦に到着したら、まずオルドアイとヤンガルドアイへ到着報告。
その後、緊急荷、メバドス直送荷、薬師長荷を分ける。
体調に問題があれば、その場で休む。
戻る時刻は無理に固定しない。
戻る前に砦から短い文を受け取り、持ち帰る。
ミレイユは何度も確認した。
「戻りは急がなくていいわ。」
「うん。」
「到着したら休むこと。」
「うん。」
「オルドアイの言うことを聞くこと。」
「うん。」
「ただし、流されすぎないこと。」
「はい。」
レオンがむせた。
ガルドが視線を向ける。
レオンは水を飲んで誤魔化した。
ミレイユは続ける。
「荷を下ろす順番は?」
ソータはすぐ答えた。
「赤札の緊急用確認。黒札のメバドス直送。白札の薬師長。緑札の砦倉庫。青札の男たちの村。最後に確認待ち。」
「よし。」
「文箱は?」
「白札の中だけど、薬師長へ直接。」
「よし。」
「自分の確認札は?」
ソータは少し笑った。
「休息確認済。食事確認済。体調確認済。経路確認済。帰還予定確認済。」
ミレイユは満足そうに頷いた。
「よろしい。」
カレンが短く言った。
「荷札人間。」
「またですか。」
「良い意味だ。」
ソータは苦笑した。
◆◇◆
日が落ちた。
グランデリアの空に、夜の青が広がる。
商会の中庭には、出発を見送る者たちが集まっていた。
ミレイユ。
ガルド。
エルザ。
レオン。
カレン。
アルベール。
倉庫責任者と書記も、少し離れて立っている。
ソータは旅装を整えていた。
荷はほとんど《神速積載庫》の中にある。
外見だけなら、軽い旅に出るように見える。
だが、その内側には北へ向かう大量の荷がある。
ソータは胸に手を当てた。
重い。
けれど、持てる。
ミレイユが前に立った。
紅い髪紐が夜風に揺れている。
「忘れ物は?」
「ない。」
「体調は?」
「大丈夫。」
「眠気は?」
「ない。」
「無理は?」
「しない。」
「戻る?」
「戻る。」
ミレイユの目が少し揺れた。
ソータは一歩近づいた。
「ミレイユ。」
「何?」
「行ってくる。」
短い言葉だった。
だが、今の二人には十分だった。
ミレイユは少しだけ息を吸い、ソータの襟元を整えた。
それから、紅い髪紐に触れる。
「私のことを忘れたら許さないわ。」
いつかと同じ言葉。
だが、今は少し違う響きだった。
ソータは真っ直ぐ答えた。
「忘れない。」
「オルドアイに会っても?」
「忘れない。」
「荷に夢中になっても?」
「忘れない。」
「自分を荷物扱いしそうになっても?」
「思い出す。」
ミレイユは頷いた。
「よろしい。」
そして、彼女はソータへ短く口づけた。
長くはない。
門前でのオルドアイのような熱い引き止めではない。
けれど、深く、確かなキスだった。
帰ってきなさい。
私はここにいる。
あなたの荷を整えて待っている。
そんな意味が込められていた。
離れた後、ソータは少しだけ目を閉じた。
「行ける。」
ミレイユは小さく笑った。
「行ってらっしゃい。」
ガルドが言う。
「予定外なら戻れ。」
「はい。」
エルザが続ける。
「夜目に頼りすぎないでください。」
「はい。」
レオンが手を振る。
「道中で変なもの食べちゃ駄目っすよ!」
「食べないよ。」
カレンが短く言う。
「止まる判断を忘れるな。」
「はい。」
アルベールは深く礼をした。
「お気をつけて、ソータ様。」
「はい。」
「なお、帰還後のお茶は白湯にいたします。」
ソータは少し笑った。
「お願いします。」
ミレイユがアルベールを横目で見た。
「本当に白湯ね。」
「はい、お嬢様。」
小さな笑いが中庭に広がった。
その笑いを胸に、ソータは門へ向かった。
夜の街道が待っている。
その先に、北の森がある。
さらにその奥に、砦がある。
オルドアイが待っている。
ヤンガルドアイが待っている。
バルクとガルナがいる。
メバドスへ渡す荷がある。
薬師長へ届ける文箱がある。
そして、ここにはミレイユがいる。
ソータは振り返った。
ミレイユが立っている。
紅い髪紐が夜風に揺れている。
ソータはその色をしっかり目に焼きつけた。
(忘れない。)
(戻る。)
(必ず。)
そして、ソータは夜のグランデリアへ踏み出した。
《神速積載庫》の奥で、北へ向かう荷札が静かに並んでいる。
その一つ一つを胸の中で確かめながら、彼は速度を上げた。
街の灯りが背後へ流れていく。
夜風が頬を打つ。
足は軽い。
胸は重い。
けれど、その重さはもう、彼を沈めるものではなかった。
運ぶための重さだった。
ソータは北へ向かって走り出した。




