第106話:商会の朝は、北へ運ぶ鉄の音から始まる
その夜、グランデリアに戻った一行は、驚くほど深く眠った。
北の森を越えた疲れ。
砦での緊張。
フルムーンの熱。
バルクの決断。
リーナの村での報告。
そして、街へ帰り着いた安堵。
それらが一気に体へ落ちてきたのだろう。
ガルドは部屋に入るなり剣を手の届く場所へ置き、座った姿勢のまま少しの間目を閉じ、それから無言で寝台へ横になった。
エルザは弓の弦を外し、矢筒を整え、旅装を畳んでから、静かに灯りを消した。
レオンは「まだ報告書の下書きを……」と呟いていたが、紙を広げたところで突っ伏し、アルベールに肩を叩かれるまで動かなかった。
カレンは夕食をしっかり食べた後、盾を壁に立てかけ、槍を横へ置き、短く「寝る」と言って本当にすぐ寝た。
アルベールだけは、いつも通りだった。
全員の湯、食事、寝具、戸締まり、翌朝の予定表、倉庫責任者への伝言、書記への呼び出し、さらにミレイユが寝る前に見るべき最低限の書類まで整えてから、ようやく静かに姿を消した。
ただし、茶については、ミレイユに三度確認された。
「これは?」
「普通の白湯でございます。」
「効能は?」
「体を温めます。」
「それだけ?」
「それだけでございます。」
「本当に?」
「本当に。」
「滋養は?」
「ございません。」
「よろしい。」
アルベールは深々と礼をした。
「お嬢様のご信頼を取り戻すため、精進いたします。」
「信頼を失った自覚はあるのね。」
「少々。」
「少々ではないわ。」
「では、大いに。」
「分かっているならいいわ。」
そんなやり取りの後で、ミレイユはようやく自室へ戻った。
ソータも一緒だった。
商会の屋敷の中で、ミレイユの部屋は静かだった。
北の砦の部屋とはまるで違う。
壁には淡い色の布がかかり、窓辺には小さな花瓶が置かれている。
机には帳簿と書きかけの文が整えられ、香り袋がひとつ、引き出しの上に置かれていた。
旅から帰ったばかりの部屋は、懐かしくもあり、少し遠くもあった。
ソータは入口に立ったまま、しばらく部屋を見ていた。
「帰ってきた感じがする。」
ミレイユは振り返った。
「あなたの部屋ではないでしょう。」
「でも、何回も来たから。」
「そうね。」
ミレイユは少しだけ頬を赤くした。
「あなたにとっても、帰る場所の一つになったのかしら。」
「うん。」
ソータは迷わず頷いた。
ミレイユの目が柔らかくなる。
彼女は旅装を解き、髪紐へ手をやった。
紅い髪紐は、今日もソータが結んだものだった。
白い石が灯りに小さく光る。
「ほどく?」
ソータが聞いた。
ミレイユは少し考えた。
「今日は、あなたがほどいて。」
ソータの胸が跳ねた。
「いいの?」
「あなたが結んだのだから。」
彼女は背を向けた。
ソータはゆっくり近づいた。
指先で髪紐へ触れる。
旅の間、何度も見た紅。
砦でも、森でも、村でも、街へ戻る道でも、ずっとミレイユの髪にあった印。
それをほどく時、ソータは不思議な気持ちになった。
約束を外すのではない。
約束を休ませるような気持ちだった。
結び目をほどくと、ミレイユの髪が肩へ流れた。
旅の埃と湯浴み後の香りが混ざり、近くにいるだけで胸が落ち着く。
「ありがとう。」
ミレイユが小さく言った。
「うん。」
ソータは紅い髪紐を丁寧に机の上へ置いた。
それから二人は、しばらく何も言わずに並んで座った。
疲れている。
とても疲れている。
けれど、ただ眠る前に、互いの無事を確かめたかった。
ここまで戻ってきたことを、体温で確かめたかった。
ミレイユがそっとソータの手を取った。
「今日は、難しい話はしないわ。」
「うん。」
「北のことも、オルドアイのことも、物資のことも、明日から。」
「うん。」
「今夜は休む。」
「うん。」
ソータは頷いた。
だが、二人はすぐに眠ったわけではなかった。
長い旅の後、言葉ではなく温もりで安心を確かめる時間が少しあった。
疲れた体を寄せ合い、互いの名を呼び、戻ってきたことを確かめた。
熱は穏やかで、どこか眠りに近く、急ぐものではなかった。
北の砦で得た強い夜とは違う。
ここには、慣れた部屋の静けさがあり、二人だけの呼吸があり、帰ってきた恋人たちの安堵があった。
やがて、ソータのまぶたが重くなった。
ミレイユの腕の中で、あるいはミレイユを抱く腕の中で、境目が曖昧になる。
灯りはすでに落とされ、窓の外にはグランデリアの夜の音が遠く響いている。
「ソータ。」
ミレイユが囁いた。
「うん。」
「明日から忙しいわ。」
「うん。」
「だから、今夜は眠りなさい。」
「ミレイユも。」
「ええ。」
ソータは彼女の声を聞きながら、深く眠りへ沈んでいった。
ミレイユはしばらく、ソータの寝顔を見ていた。
疲れ切っている。
けれど、以前のように追い詰められた顔ではない。
北へ道を作り、戻る約束を抱え、また走ろうとしている男の顔。
その寝顔を見ていると、胸が柔らかくなる。
そして、同時に少しだけ悪い考えが浮かんだ。
(たまに。)
ミレイユは心の中で呟いた。
(本当に、ほんの少しなら。)
アルベールの滋養水の件を思い出す。
あれは問題だった。
成分説明はあった。
確認もした。
けれど、結果としてあまりにも効きすぎた。
今後は厳重に管理しなければならない。
そこまでは当然だ。
当然なのだが。
ミレイユは眠るソータの頬にそっと触れた。
(でも、たまに少し滋養のあるものを飲ませてもいいかも……。)
そう思ってしまった瞬間、自分の顔が熱くなった。
(何を考えているの、私は。)
(疲れているのよ。)
(そう、疲れているからよ。)
(明日になればまともになるわ。)
そう自分に言い聞かせながら、ミレイユはそっとソータの胸元へ身を寄せた。
ソータは眠ったまま、彼女を抱き寄せるように腕を動かした。
その無意識の動きが、ミレイユの胸を満たす。
「……ずるい人。」
小さく囁き、彼女も目を閉じた。
その夜、二人は本当に深く眠った。
北の火も、砦の月も、薬草の村の涙も、商会の帳簿も、すべて一度眠りの底へ沈めて。
ただ、互いの温もりだけを残して。
◆◇◆
翌朝、グランデリアの商会は早くから動き出した。
休むと言っても、北から戻った翌日である。
やることは山のようにあった。
倉庫責任者が呼ばれ、書記が帳簿を抱えて走り、使用人たちが客間と会議室を整える。
厨房では旅帰りの一行のために、消化のよい朝食が用意された。
カレンはその量に少し不満そうだったが、ミレイユに「昼にしっかり食べます」と言われて黙った。
レオンは眠そうな目をこすりながらも、北の村で見たことを記憶から引き出していた。
エルザは弓具の素材表を作るために、自分の矢筒を分解する勢いで確認している。
ガルドは装備補修の項目と、護衛隊が持つべき予備品の確認をしていた。
アルベールは全員の動きを把握しつつ、必要な場所に必要な茶と食事を置いていく。
もちろん、茶の成分説明は毎回ついていた。
「こちらは薄い麦茶でございます。」
「効能は。」
「喉を潤し、香ばしい気持ちになります。」
ミレイユが無言で見る。
「……喉を潤します。」
「よろしい。」
ソータはそれを見て、笑いを堪えた。
朝食後、ミレイユはすぐに商会代理の顔になった。
髪には紅い髪紐が結ばれている。
もちろん、今朝もソータが結んだ。
白い石が朝の光を受けて光っている。
「今日はまず、市場と職人街を回ります。」
ミレイユは机の上に広げた紙を指で押さえた。
「北の村のメバドス様へ運ぶべきものを優先します。砦の備蓄も重要だけれど、村側は今、不穏な境界に備える必要があるわ。」
ソータは頷いた。
「武器と装備?」
「ええ。ただし、単純に武器を大量に送ればいいわけではありません。」
ガルドが低く言った。
「隣国の辺境の民との関係が分からない。挑発と取られる荷は避けるべきだ。」
「その通りです。」
ミレイユは頷いた。
「だから、表向きは狩猟具、補修具、防護具、生活用の刃物、備蓄品を中心にします。」
ソータは紙を覗き込んだ。
そこには、項目が細かく分けられていた。
槍の穂先。
狩猟用の短弓の弦。
矢羽根。
矢尻。
盾の縁金。
革鎧の補修革。
厚手の手袋。
すね当て。
冬用外套。
雨避けの油布。
砥石。
針金。
革紐。
簡易止血帯。
包帯。
薬箱。
保存食。
塩。
携帯用の小鍋。
火打ち道具。
合図笛。
防水文筒。
ソータは思わず息を吐いた。
「すごい量だね。」
「まだ初期案よ。」
「これで?」
「ええ。」
ミレイユは当たり前のように言った。
「メバドス様は村に残って境界を見ています。必要なのは、戦うためだけの武器ではなく、見張り、狩り、連絡、補修、怪我の処置、悪天候への備えです。」
ガルドが頷く。
「正しい。」
ミレイユはソータを見る。
「あなたの《神速積載庫》で運ぶ前提だから、量は詰められる。でも、分類を間違えれば現場で使えない。」
「荷札だね。」
「そう。」
ミレイユは少し満足そうにした。
「よく分かってきたわね。」
「怒られたから。」
「怒った甲斐があったわ。」
レオンが横から言う。
「褒めてるんすか、それ。」
「褒めています。」
「ならいいっす。」
カレンはリストを見て、短く言った。
「盾の補修材を増やせ。」
ミレイユがすぐにペンを取る。
「理由は?」
「北の村で大物を受けるなら、盾の縁と留め具が傷む。」
ガルドも頷いた。
「バルクが使う分もある。普通の盾より負荷が大きい。」
「確かに。」
ミレイユは書き足した。
「盾用縁金、鋲、革の内張り材、把手用革紐を増量。」
エルザが言う。
「矢羽根は湿気に強いものと、現地で直せる羽根の両方が必要です。完成品だけではなく、材料で持つ方がいいでしょう。」
「採用。」
レオンも手を上げる。
「合図笛は音の高さを分けた方がいいっす。村と砦、森の中で同じ音だと混乱するっす。」
「なるほど。」
ミレイユはそれも書き留める。
「三種。村内用、外周用、緊急用。」
アルベールが穏やかに言った。
「防水文筒は、二重蓋のものをおすすめいたします。」
ミレイユが目を細める。
「あなた、文筒にも詳しいのね。」
「執事でございますので。」
「もう驚かないわ。」
「恐れ入ります。」
ソータはリストが増えていくのを見ながら、自分の胸の中にも荷が積まれていくのを感じた。
だが、以前とは違う。
これは押しつけられている荷ではない。
皆で考え、分類し、必要な場所へ運ぶための荷だ。
ミレイユがそれを形にしている。
ガルドたちが現場の目で補っている。
自分は、それを運ぶ。
それが分かると、不安の中に少しだけ力が湧いた。
◆◇◆
午前中のうちに、ソータとミレイユは商会を出た。
同行はガルドとカレン。
レオンとエルザは商会に残り、矢羽根や弦の候補を倉庫資料から拾うことになった。
アルベールは「お嬢様のお供を」と言ったが、ミレイユに「あなたは成分表を整理しておいて」と言われ、珍しく置いていかれた。
アルベールは少しだけ寂しそうな顔をした。
「お嬢様。」
「何?」
「わたくしは信頼回復の道を歩み始めたばかりにございます。」
「だから成分表を整理するの。」
「なるほど。」
「納得した顔をしないで、ちゃんとやって。」
「かしこまりました。」
ソータは少し笑いながら、ミレイユと共に商会を出た。
グランデリアの市場は朝から賑わっていた。
荷車が行き交い、商人の声が響き、鍛冶職人の弟子が鉄の棒を担いで走っている。
香辛料屋の前では異国の匂いが漂い、革職人の店先にはなめした革が吊るされていた。
北の森の静けさとはまるで違う。
ここでは、あらゆるものが声と音を持っている。
ミレイユはその中を迷わず歩いた。
会頭代理として、どの店に何があり、どの職人が信用でき、どの問屋が値をふっかけ、どの倉庫に在庫が眠っているかを知っている。
ソータは隣を歩きながら、何度も感心した。
「ミレイユ、速い。」
「市場は足を止めると捕まるの。」
「捕まる?」
「売り込みに。」
その言葉通り、何人もの商人が声をかけてきた。
「クラウゼンの若奥様! 今日は良い革が入ってますよ!」
ミレイユの足が止まりかけた。
ソータも止まりかけた。
ガルドの眉が動く。
カレンは無表情。
ミレイユはゆっくり商人を見た。
「若奥様ではありません。」
商人は一瞬しまったという顔をした。
だが、すぐに笑顔を作る。
「これは失礼を! 会頭代理!」
「革は見ます。」
「ありがとうございます!」
ソータは小声で言った。
「今の。」
「聞かなかったことにしなさい。」
「はい。」
ミレイユの耳は赤かった。
カレンが淡々と言う。
「顔に出ている。」
「カレン。」
「何も言っていない。」
ソータは少し笑った。
ミレイユに睨まれた。
革問屋では、北方用の厚手革を確認した。
防寒にも防護にも使えるが、重すぎると動きが鈍る。
ガルドが革の厚さを見て、カレンが腕に巻いて動かし、ミレイユが価格と在庫を確認する。
「これは盾の内張りに使える。」
カレンが言った。
「鎧には?」
「硬い。曲がりにくい。肩には向かない。」
ガルドが別の革を手に取る。
「こっちは肘、膝の補修向きだ。」
ミレイユはすぐに数量を決めた。
「厚手革を二束。柔軟革を三束。端切れもまとめて買います。端切れは補修箱へ。」
問屋の主人が目を丸くした。
「端切れまでですか。」
「現地補修には必要です。」
「さすが会頭代理。」
「値引きは?」
「もちろん勉強します。」
そこからの交渉は、ソータには少し怖いほどだった。
ミレイユは笑っている。
だが、目は笑っていない。
相手の提示を聞き、革の傷を指摘し、まとめ買いの利点を示し、次回取引の可能性をちらつかせ、あっという間に価格を下げた。
店を出る頃、主人は汗をかきながらも満足そうに頭を下げていた。
ソータは思わず言う。
「戦ってた。」
ミレイユは涼しい顔で答えた。
「商いです。」
「戦いみたいだった。」
「似たようなものよ。」
ガルドが低く言う。
「良い間合いだった。」
「ありがとうございます。」
ミレイユは少し誇らしげに笑った。
◆◇◆
次に向かったのは鍛冶通りだった。
鉄を打つ音が、通り全体に響いている。
熱い空気。
炭の匂い。
鉄の匂い。
汗の匂い。
ソータは一瞬、北の男たちの村の鍛冶場を思い出した。
低い屋根。
実用的な道具。
無駄のない炉。
メバドスの村で聞いた鉄を打つ音。
ここグランデリアの鍛冶通りは、もっと大きく、もっと賑やかだった。
剣、包丁、鍋、馬具、金具、農具、扉の蝶番まで、あらゆる鉄が並んでいる。
ミレイユが入ったのは、見た目には地味な工房だった。
派手な剣を飾っていない。
店先に置かれているのは、鋲、留め具、槍の穂先、鍬の刃、厚い釘、盾の縁金。
店主は頑固そうな中年の男だった。
「クラウゼンの嬢ちゃんか。」
「会頭代理です。」
「同じだろう。」
「違います。」
店主は鼻で笑った。
「今日は何だ。綺麗な飾り剣なら隣へ行け。」
「実用品を買いに来ました。」
「なら座れ。」
ミレイユはすぐにリストを出した。
店主はそれを見るなり、眉を上げた。
「戦でもするのか。」
「狩猟と防衛の備えです。」
「同じようなものだ。」
「違います。」
「どこへ送る。」
ミレイユは一瞬だけ間を置いた。
「北方です。」
店主はソータを見た。
「その兄ちゃんが運ぶのか。」
「はい。」
ソータは頭を下げた。
「ソータです。」
「細いな。」
「よく言われます。」
店主は少し笑った。
「だが、目は逃げてない。」
ソータはメバドスと同じような言葉に少し驚いた。
「ありがとうございます。」
店主はリストへ視線を戻した。
「槍の穂先は、戦用の長いものより狩猟兼用の短めがいい。持ち替えやすいし、補修もしやすい。」
ガルドが頷く。
「同意する。」
「矢尻は三種。獣用、警告用、硬い皮を抜くもの。」
エルザがいればもっと細かく言っただろう。
だが、ガルドも基本は押さえている。
ミレイユはすぐ書き留めた。
「盾の縁金は?」
カレンが盾を少し前に出す。
「こういう盾を受ける前提で。」
店主はカレンの盾を見て、目を細めた。
「良い盾だな。」
「重い。」
「だろうな。」
「北ではもっと大きな男が大きな盾を使う。」
「なら普通の縁金じゃもたん。」
店主は奥から厚い縁金を出してきた。
「重くなるが、受けるならこっちだ。」
カレンは手に取った。
少し腕を動かす。
「使える。」
ガルドも確認する。
「バルク向きだ。」
ミレイユは数量を決めた。
「盾用縁金を四組。鋲を多めに。把手用の金具も。」
店主が眉を上げる。
「本気だな。」
「必要なので。」
「金はあるのか。」
ミレイユはにっこり笑った。
「価格次第です。」
店主もにやりと笑った。
「怖い嬢ちゃんだ。」
「会頭代理です。」
「はいはい。」
交渉が始まった。
鉄の価格、加工の手間、納期、品質、今後の継続注文。
ミレイユは容赦しない。
店主も簡単には引かない。
ソータには、二人が剣を交えているように見えた。
言葉の剣。
数字の盾。
納期の間合い。
やがて、双方が納得する線で決まった。
店主は伝票を書きながら言った。
「北方なら、錆止め油も持っていけ。湿気でやられる。」
「追加します。」
「砥石も安物じゃ駄目だ。」
「良いものを。」
「刃物より、直す道具を忘れるな。」
ミレイユは顔を上げた。
「それは、北でも同じことを学びました。」
店主は少しだけ満足そうに頷いた。
「なら話が早い。」
◆◇◆
昼近くまで、ソータとミレイユたちは職人街を歩き続けた。
革。
鉄。
弦。
矢羽根。
油布。
薬箱。
防水文筒。
合図笛。
密閉容器。
保存食用の小袋。
買うものは多い。
だが、その場で全てを持ち歩く必要はない。
商会へ納品させるものは伝票を切り、すぐ運ぶべき見本や急ぎの品だけをソータの《神速積載庫》へ入れる。
ソータはひとつひとつ荷札を付けた。
北の村。
メバドス様。
外周見張り用。
盾補修用。
狩猟具。
砦薬師用。
リーナ文箱用。
予備。
確認待ち。
ミレイユがそれを見て頷く。
「いいわ。」
「本当に?」
「ええ。前よりずっと分かりやすい。」
ソータは少し嬉しくなった。
「怒られたから。」
「そればかりね。」
「でも本当だから。」
ミレイユは小さく笑った。
「怒られたことを、ちゃんと荷札に変えられたなら十分よ。」
その言葉は、ソータの胸に残った。
怒られたこと。
失敗したこと。
怖かったこと。
それをただ痛みにするのではなく、次の荷札へ変える。
自分の仕事は、そういうことでもあるのかもしれない。
カレンが荷札の一つを見て言った。
「字が読める。」
「ありがとうございます。」
「進歩だ。」
ソータは素直に嬉しくなった。
ガルドも短く言う。
「現場で迷わない。」
「はい。」
ミレイユは少し誇らしげに見えた。
ソータはその顔を見て、また頑張ろうと思った。
◆◇◆
昼食は、職人街近くの食堂で取ることになった。
商人や職人が多く使う店で、料理は早く、量があり、味も濃い。
カレンは明らかに満足そうだった。
ミレイユは食事をしながらも、午前中の発注を整理している。
ソータはそれを見て、少し心配になった。
「ミレイユ、食べながら仕事してる。」
「時間が惜しいの。」
「でも、オルドアイに働かせすぎるなって言われた。」
ミレイユの手が止まった。
ガルドが目だけでこちらを見る。
カレンは食べ続けている。
ミレイユはゆっくりソータを見た。
「あなた、それを今言うの。」
「言った方がいいと思って。」
「……正しいわ。」
彼女は紙を畳んだ。
「食べます。」
ソータは少し驚いた。
「素直。」
「あなたに言われると悔しいけれど、正しいから。」
ミレイユは匙を取った。
「それに、オルドアイに言われたからではなく、あなたが見ているから食べるのよ。」
ソータの顔が熱くなる。
「うん。」
カレンが淡々と言った。
「良い。」
ガルドも短く頷いた。
「食事は判断を保つ。」
ミレイユは少しだけ笑った。
「今日は全員に食事で説得される日なのかしら。」
「必要だ。」
カレンが即答した。
昼食を終える頃、ソータはふと北の砦を思い出した。
オルドアイは今頃、砦で何をしているだろう。
バルクはガルナにまた食べさせられているだろうか。
メバドスは村の外周を見ているだろうか。
その全てへ、今買った品々が届く。
自分が運ぶ。
そう思うと、食堂の喧騒の中でも、胸の奥が静かに引き締まった。
◆◇◆
商会へ戻ると、すでに午前中に発注した品の一部が届き始めていた。
革束。
小さな金具箱。
矢羽根の見本。
油布。
文筒。
密閉容器の試作品。
倉庫責任者が目を回している。
「会頭代理、これは北方分でよろしいですか。」
「ええ。分類は私が確認します。ソータ、荷札を。」
「はい。」
ソータはすぐに動いた。
倉庫の一角に、北方用の仮置き場が作られる。
その中でも、砦用、男たちの村用、メバドス直送用、リーナ文箱用、確認待ちに分けた。
ミレイユは全体を見て、すぐに修正を入れる。
「盾補修材はメバドス直送とバルク用で分けて。」
「はい。」
「矢羽根は砦用と村用で湿気対策を別に。」
「はい。」
「合図笛は色紐を付ける。村内用は青、外周用は黄、緊急用は赤。」
「はい。」
「ソータ、赤は目立つから非常用袋の外側へ。」
「分かった。」
ソータは荷を動かしながら、奇妙な感覚を覚えた。
グランデリアの倉庫で荷を分けている。
だが、頭の中には北の砦の倉庫がある。
ミレイユとオルドアイと一緒に整理した、持ち出し箱の配置がある。
男たちの村で見た中央炉と外周の見張り台がある。
ここで荷を置く場所が、向こうの人の動きを決める。
物の置き場は、人の動きを決める。
オルドアイが覚えた言葉を、今度はソータが思い出していた。
(そうだ。)
(ここで間違えたら、向こうで迷う。)
(ここで分ければ、向こうで助かる。)
手が自然と丁寧になる。
荷札の字も、いつもより慎重になる。
ミレイユがそれに気づいた。
「いい集中ね。」
「うん。」
「何を考えていたの?」
「物の置き場は、人の動きを決めるって。」
ミレイユの表情が少し柔らかくなった。
「オルドアイの言葉ね。」
「元はミレイユが言ったことだよ。」
「そうだったかしら。」
「そうだよ。」
ミレイユは少しだけ嬉しそうに目を伏せた。
「なら、ちゃんと北へ届いたのね。」
「うん。」
ソータは荷札を結びながら答えた。
「今度は、ここから北へ戻す。」
◆◇◆
夕方になる頃には、第一便として運ぶ候補が見えてきた。
すべてはまだ揃っていない。
だが、急ぎで送るべきものと、数日待ってまとめるものの区別はついた。
ミレイユは疲れた顔をしていたが、目は冴えていた。
「明日は、さらに薬と保存食、包帯、密閉容器の最終確認をします。」
ソータは頷いた。
「俺が一人で北へ運ぶのは、その後?」
「ええ。早ければ明後日。遅くても三日以内。」
「分かった。」
「ただし、あなたの体調次第。」
「大丈夫。」
ミレイユがじっと見る。
ソータはすぐ言い直した。
「大丈夫だと思うけど、ちゃんと確認する。」
「よろしい。」
ガルドが横から言った。
「一人で動く前に、経路と時間を決める。」
「はい。」
カレンが続ける。
「戻らない時の手順も必要だ。」
空気が少し重くなる。
ミレイユの顔が硬くなった。
だが、彼女は逃げなかった。
「必要ね。」
ソータも頷いた。
「決めよう。」
戻ると約束した。
だが、約束は気持ちだけでは守れない。
戻れなかった時にどう動くか。
遅れた時に誰へ知らせるか。
オルドアイがどこまで探しに来るか。
グランデリア側がどう判断するか。
それもまた、荷札だった。
不安に名前をつける作業。
怖さを手順に変える作業。
ミレイユは紙を取り出した。
「夕食後に決めます。」
「休まなくていいの?」
ソータが聞く。
「休むために決めるのよ。」
ミレイユは答えた。
「決めていなければ、眠れないでしょう。」
ソータは少し黙った。
確かに、そうだ。
怖さを抱えたまま眠ろうとするより、怖さに形を与えた方が眠れる。
ミレイユらしい。
そして、今の自分たちに必要なことだった。
◆◇◆
その夜、倉庫の一角には北へ向かう荷が整然と並び始めていた。
盾の補修材。
槍の穂先。
矢羽根。
弦。
革。
油布。
合図笛。
文筒。
薬箱。
まだ完成ではない。
だが、道の形は見え始めている。
ソータはその前に立ち、ひとつひとつの荷札を見た。
メバドスへ。
男たちの村へ。
砦へ。
リーナ文箱へ。
バルク用。
ガルナ確認。
オルドアイ確認。
ミレイユ確認済。
最後の札を見て、少し笑った。
ミレイユ確認済。
それは、今のソータにとって最も信頼できる札の一つだった。
背後からミレイユが来た。
「何を笑っているの?」
「この札。」
ミレイユも見て、少しだけ笑った。
「大事でしょう。」
「うん。」
「それが付いている荷は、安心して運んでいいわ。」
「分かった。」
「ただし。」
「ただし?」
「あなた自身には、まだ札が足りない。」
ソータは首を傾げた。
「俺自身?」
ミレイユは指を折りながら言った。
「休息確認済。食事確認済。体調確認済。経路確認済。帰還予定確認済。」
ソータは思わず笑った。
「俺、荷物扱い?」
「違うわ。」
ミレイユは真剣に言った。
「大事な人扱いよ。」
ソータの胸が詰まった。
冗談のように言われた言葉の奥に、確かな不安と愛情があった。
彼はミレイユを見る。
「ちゃんと確認する。」
「ええ。」
「自分にも札を付ける。」
ミレイユは少し笑った。
「よろしい。」
倉庫の外では、グランデリアの夜が深まっている。
遠くの街灯りが揺れ、商会の中にはまだ少しだけ人の気配がある。
北の砦は遠い。
男たちの村はさらに遠い。
メバドスは今も境界を見ているだろう。
オルドアイは霧の森を見ているだろう。
バルクはガルナに食べさせられているだろう。
そして、ここには荷がある。
ソータはそれを見つめた。
明日も買う。
整える。
分ける。
札を付ける。
そして、運ぶ。
物を運ぶことは、道を作ることだ。
道を作ることは、人をつなぐことだ。
ソータはその重さを、今は少し誇らしく感じていた。
ミレイユが隣で言った。
「今日はここまで。」
「うん。」
「眠るわよ。」
「はい。」
二人は倉庫を後にした。
北へ運ぶ鉄と革の匂いを背に、商会の廊下を並んで歩く。
明日も忙しい。
明後日も、その次も。
けれど今夜は、また眠る。
戻るために。
運ぶために。
そして、ほどけかけた結び目に気づいた時、何度でも結び直すために。




