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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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106/149

第106話:商会の朝は、北へ運ぶ鉄の音から始まる

 その夜、グランデリアに戻った一行は、驚くほど深く眠った。


 北の森を越えた疲れ。

 砦での緊張。

 フルムーンの熱。

 バルクの決断。

 リーナの村での報告。

 そして、街へ帰り着いた安堵。


 それらが一気に体へ落ちてきたのだろう。


 ガルドは部屋に入るなり剣を手の届く場所へ置き、座った姿勢のまま少しの間目を閉じ、それから無言で寝台へ横になった。


 エルザは弓の弦を外し、矢筒を整え、旅装を畳んでから、静かに灯りを消した。


 レオンは「まだ報告書の下書きを……」と呟いていたが、紙を広げたところで突っ伏し、アルベールに肩を叩かれるまで動かなかった。


 カレンは夕食をしっかり食べた後、盾を壁に立てかけ、槍を横へ置き、短く「寝る」と言って本当にすぐ寝た。


 アルベールだけは、いつも通りだった。

 全員の湯、食事、寝具、戸締まり、翌朝の予定表、倉庫責任者への伝言、書記への呼び出し、さらにミレイユが寝る前に見るべき最低限の書類まで整えてから、ようやく静かに姿を消した。


 ただし、茶については、ミレイユに三度確認された。


「これは?」


「普通の白湯でございます。」


「効能は?」


「体を温めます。」


「それだけ?」


「それだけでございます。」


「本当に?」


「本当に。」


「滋養は?」


「ございません。」


「よろしい。」


 アルベールは深々と礼をした。


「お嬢様のご信頼を取り戻すため、精進いたします。」


「信頼を失った自覚はあるのね。」


「少々。」


「少々ではないわ。」


「では、大いに。」


「分かっているならいいわ。」


 そんなやり取りの後で、ミレイユはようやく自室へ戻った。


 ソータも一緒だった。


 商会の屋敷の中で、ミレイユの部屋は静かだった。

 北の砦の部屋とはまるで違う。

 壁には淡い色の布がかかり、窓辺には小さな花瓶が置かれている。

 机には帳簿と書きかけの文が整えられ、香り袋がひとつ、引き出しの上に置かれていた。


 旅から帰ったばかりの部屋は、懐かしくもあり、少し遠くもあった。


 ソータは入口に立ったまま、しばらく部屋を見ていた。


「帰ってきた感じがする。」


 ミレイユは振り返った。


「あなたの部屋ではないでしょう。」


「でも、何回も来たから。」


「そうね。」


 ミレイユは少しだけ頬を赤くした。


「あなたにとっても、帰る場所の一つになったのかしら。」


「うん。」


 ソータは迷わず頷いた。


 ミレイユの目が柔らかくなる。


 彼女は旅装を解き、髪紐へ手をやった。

 紅い髪紐は、今日もソータが結んだものだった。

 白い石が灯りに小さく光る。


「ほどく?」


 ソータが聞いた。


 ミレイユは少し考えた。


「今日は、あなたがほどいて。」


 ソータの胸が跳ねた。


「いいの?」


「あなたが結んだのだから。」


 彼女は背を向けた。


 ソータはゆっくり近づいた。

 指先で髪紐へ触れる。

 旅の間、何度も見た紅。

 砦でも、森でも、村でも、街へ戻る道でも、ずっとミレイユの髪にあった印。


 それをほどく時、ソータは不思議な気持ちになった。


 約束を外すのではない。

 約束を休ませるような気持ちだった。


 結び目をほどくと、ミレイユの髪が肩へ流れた。

 旅の埃と湯浴み後の香りが混ざり、近くにいるだけで胸が落ち着く。


「ありがとう。」


 ミレイユが小さく言った。


「うん。」


 ソータは紅い髪紐を丁寧に机の上へ置いた。


 それから二人は、しばらく何も言わずに並んで座った。


 疲れている。

 とても疲れている。


 けれど、ただ眠る前に、互いの無事を確かめたかった。

 ここまで戻ってきたことを、体温で確かめたかった。


 ミレイユがそっとソータの手を取った。


「今日は、難しい話はしないわ。」


「うん。」


「北のことも、オルドアイのことも、物資のことも、明日から。」


「うん。」


「今夜は休む。」


「うん。」


 ソータは頷いた。


 だが、二人はすぐに眠ったわけではなかった。


 長い旅の後、言葉ではなく温もりで安心を確かめる時間が少しあった。

 疲れた体を寄せ合い、互いの名を呼び、戻ってきたことを確かめた。

 熱は穏やかで、どこか眠りに近く、急ぐものではなかった。


 北の砦で得た強い夜とは違う。

 ここには、慣れた部屋の静けさがあり、二人だけの呼吸があり、帰ってきた恋人たちの安堵があった。


 やがて、ソータのまぶたが重くなった。


 ミレイユの腕の中で、あるいはミレイユを抱く腕の中で、境目が曖昧になる。

 灯りはすでに落とされ、窓の外にはグランデリアの夜の音が遠く響いている。


「ソータ。」


 ミレイユが囁いた。


「うん。」


「明日から忙しいわ。」


「うん。」


「だから、今夜は眠りなさい。」


「ミレイユも。」


「ええ。」


 ソータは彼女の声を聞きながら、深く眠りへ沈んでいった。


 ミレイユはしばらく、ソータの寝顔を見ていた。


 疲れ切っている。

 けれど、以前のように追い詰められた顔ではない。

 北へ道を作り、戻る約束を抱え、また走ろうとしている男の顔。


 その寝顔を見ていると、胸が柔らかくなる。

 そして、同時に少しだけ悪い考えが浮かんだ。


(たまに。)


 ミレイユは心の中で呟いた。


(本当に、ほんの少しなら。)


 アルベールの滋養水の件を思い出す。

 あれは問題だった。

 成分説明はあった。

 確認もした。

 けれど、結果としてあまりにも効きすぎた。

 今後は厳重に管理しなければならない。


 そこまでは当然だ。


 当然なのだが。


 ミレイユは眠るソータの頬にそっと触れた。


(でも、たまに少し滋養のあるものを飲ませてもいいかも……。)


 そう思ってしまった瞬間、自分の顔が熱くなった。


(何を考えているの、私は。)

(疲れているのよ。)

(そう、疲れているからよ。)

(明日になればまともになるわ。)


 そう自分に言い聞かせながら、ミレイユはそっとソータの胸元へ身を寄せた。


 ソータは眠ったまま、彼女を抱き寄せるように腕を動かした。


 その無意識の動きが、ミレイユの胸を満たす。


「……ずるい人。」


 小さく囁き、彼女も目を閉じた。


 その夜、二人は本当に深く眠った。


 北の火も、砦の月も、薬草の村の涙も、商会の帳簿も、すべて一度眠りの底へ沈めて。


 ただ、互いの温もりだけを残して。


◆◇◆


 翌朝、グランデリアの商会は早くから動き出した。


 休むと言っても、北から戻った翌日である。

 やることは山のようにあった。


 倉庫責任者が呼ばれ、書記が帳簿を抱えて走り、使用人たちが客間と会議室を整える。

 厨房では旅帰りの一行のために、消化のよい朝食が用意された。

 カレンはその量に少し不満そうだったが、ミレイユに「昼にしっかり食べます」と言われて黙った。


 レオンは眠そうな目をこすりながらも、北の村で見たことを記憶から引き出していた。

 エルザは弓具の素材表を作るために、自分の矢筒を分解する勢いで確認している。

 ガルドは装備補修の項目と、護衛隊が持つべき予備品の確認をしていた。

 アルベールは全員の動きを把握しつつ、必要な場所に必要な茶と食事を置いていく。


 もちろん、茶の成分説明は毎回ついていた。


「こちらは薄い麦茶でございます。」


「効能は。」


「喉を潤し、香ばしい気持ちになります。」


 ミレイユが無言で見る。


「……喉を潤します。」


「よろしい。」


 ソータはそれを見て、笑いを堪えた。


 朝食後、ミレイユはすぐに商会代理の顔になった。

 髪には紅い髪紐が結ばれている。

 もちろん、今朝もソータが結んだ。


 白い石が朝の光を受けて光っている。


「今日はまず、市場と職人街を回ります。」


 ミレイユは机の上に広げた紙を指で押さえた。


「北の村のメバドス様へ運ぶべきものを優先します。砦の備蓄も重要だけれど、村側は今、不穏な境界に備える必要があるわ。」


 ソータは頷いた。


「武器と装備?」


「ええ。ただし、単純に武器を大量に送ればいいわけではありません。」


 ガルドが低く言った。


「隣国の辺境の民との関係が分からない。挑発と取られる荷は避けるべきだ。」


「その通りです。」


 ミレイユは頷いた。


「だから、表向きは狩猟具、補修具、防護具、生活用の刃物、備蓄品を中心にします。」


 ソータは紙を覗き込んだ。


 そこには、項目が細かく分けられていた。


 槍の穂先。

 狩猟用の短弓の弦。

 矢羽根。

 矢尻。

 盾の縁金。

 革鎧の補修革。

 厚手の手袋。

 すね当て。

 冬用外套。

 雨避けの油布。

 砥石。

 針金。

 革紐。

 簡易止血帯。

 包帯。

 薬箱。

 保存食。

 塩。

 携帯用の小鍋。

 火打ち道具。

 合図笛。

 防水文筒。


 ソータは思わず息を吐いた。


「すごい量だね。」


「まだ初期案よ。」


「これで?」


「ええ。」


 ミレイユは当たり前のように言った。


「メバドス様は村に残って境界を見ています。必要なのは、戦うためだけの武器ではなく、見張り、狩り、連絡、補修、怪我の処置、悪天候への備えです。」


 ガルドが頷く。


「正しい。」


 ミレイユはソータを見る。


「あなたの《神速積載庫》で運ぶ前提だから、量は詰められる。でも、分類を間違えれば現場で使えない。」


「荷札だね。」


「そう。」


 ミレイユは少し満足そうにした。


「よく分かってきたわね。」


「怒られたから。」


「怒った甲斐があったわ。」


 レオンが横から言う。


「褒めてるんすか、それ。」


「褒めています。」


「ならいいっす。」


 カレンはリストを見て、短く言った。


「盾の補修材を増やせ。」


 ミレイユがすぐにペンを取る。


「理由は?」


「北の村で大物を受けるなら、盾の縁と留め具が傷む。」


 ガルドも頷いた。


「バルクが使う分もある。普通の盾より負荷が大きい。」


「確かに。」


 ミレイユは書き足した。


「盾用縁金、鋲、革の内張り材、把手用革紐を増量。」


 エルザが言う。


「矢羽根は湿気に強いものと、現地で直せる羽根の両方が必要です。完成品だけではなく、材料で持つ方がいいでしょう。」


「採用。」


 レオンも手を上げる。


「合図笛は音の高さを分けた方がいいっす。村と砦、森の中で同じ音だと混乱するっす。」


「なるほど。」


 ミレイユはそれも書き留める。


「三種。村内用、外周用、緊急用。」


 アルベールが穏やかに言った。


「防水文筒は、二重蓋のものをおすすめいたします。」


 ミレイユが目を細める。


「あなた、文筒にも詳しいのね。」


「執事でございますので。」


「もう驚かないわ。」


「恐れ入ります。」


 ソータはリストが増えていくのを見ながら、自分の胸の中にも荷が積まれていくのを感じた。

 だが、以前とは違う。


 これは押しつけられている荷ではない。

 皆で考え、分類し、必要な場所へ運ぶための荷だ。


 ミレイユがそれを形にしている。

 ガルドたちが現場の目で補っている。

 自分は、それを運ぶ。


 それが分かると、不安の中に少しだけ力が湧いた。


◆◇◆


 午前中のうちに、ソータとミレイユは商会を出た。


 同行はガルドとカレン。

 レオンとエルザは商会に残り、矢羽根や弦の候補を倉庫資料から拾うことになった。

 アルベールは「お嬢様のお供を」と言ったが、ミレイユに「あなたは成分表を整理しておいて」と言われ、珍しく置いていかれた。


 アルベールは少しだけ寂しそうな顔をした。


「お嬢様。」


「何?」


「わたくしは信頼回復の道を歩み始めたばかりにございます。」


「だから成分表を整理するの。」


「なるほど。」


「納得した顔をしないで、ちゃんとやって。」


「かしこまりました。」


 ソータは少し笑いながら、ミレイユと共に商会を出た。


 グランデリアの市場は朝から賑わっていた。

 荷車が行き交い、商人の声が響き、鍛冶職人の弟子が鉄の棒を担いで走っている。

 香辛料屋の前では異国の匂いが漂い、革職人の店先にはなめした革が吊るされていた。


 北の森の静けさとはまるで違う。

 ここでは、あらゆるものが声と音を持っている。


 ミレイユはその中を迷わず歩いた。

 会頭代理として、どの店に何があり、どの職人が信用でき、どの問屋が値をふっかけ、どの倉庫に在庫が眠っているかを知っている。


 ソータは隣を歩きながら、何度も感心した。


「ミレイユ、速い。」


「市場は足を止めると捕まるの。」


「捕まる?」


「売り込みに。」


 その言葉通り、何人もの商人が声をかけてきた。


「クラウゼンの若奥様! 今日は良い革が入ってますよ!」


 ミレイユの足が止まりかけた。


 ソータも止まりかけた。


 ガルドの眉が動く。

 カレンは無表情。


 ミレイユはゆっくり商人を見た。


「若奥様ではありません。」


 商人は一瞬しまったという顔をした。

 だが、すぐに笑顔を作る。


「これは失礼を! 会頭代理!」


「革は見ます。」


「ありがとうございます!」


 ソータは小声で言った。


「今の。」


「聞かなかったことにしなさい。」


「はい。」


 ミレイユの耳は赤かった。


 カレンが淡々と言う。


「顔に出ている。」


「カレン。」


「何も言っていない。」


 ソータは少し笑った。


 ミレイユに睨まれた。


 革問屋では、北方用の厚手革を確認した。

 防寒にも防護にも使えるが、重すぎると動きが鈍る。

 ガルドが革の厚さを見て、カレンが腕に巻いて動かし、ミレイユが価格と在庫を確認する。


「これは盾の内張りに使える。」


 カレンが言った。


「鎧には?」


「硬い。曲がりにくい。肩には向かない。」


 ガルドが別の革を手に取る。


「こっちは肘、膝の補修向きだ。」


 ミレイユはすぐに数量を決めた。


「厚手革を二束。柔軟革を三束。端切れもまとめて買います。端切れは補修箱へ。」


 問屋の主人が目を丸くした。


「端切れまでですか。」


「現地補修には必要です。」


「さすが会頭代理。」


「値引きは?」


「もちろん勉強します。」


 そこからの交渉は、ソータには少し怖いほどだった。


 ミレイユは笑っている。

 だが、目は笑っていない。

 相手の提示を聞き、革の傷を指摘し、まとめ買いの利点を示し、次回取引の可能性をちらつかせ、あっという間に価格を下げた。


 店を出る頃、主人は汗をかきながらも満足そうに頭を下げていた。


 ソータは思わず言う。


「戦ってた。」


 ミレイユは涼しい顔で答えた。


「商いです。」


「戦いみたいだった。」


「似たようなものよ。」


 ガルドが低く言う。


「良い間合いだった。」


「ありがとうございます。」


 ミレイユは少し誇らしげに笑った。


◆◇◆


 次に向かったのは鍛冶通りだった。


 鉄を打つ音が、通り全体に響いている。

 熱い空気。

 炭の匂い。

 鉄の匂い。

 汗の匂い。


 ソータは一瞬、北の男たちの村の鍛冶場を思い出した。

 低い屋根。

 実用的な道具。

 無駄のない炉。

 メバドスの村で聞いた鉄を打つ音。


 ここグランデリアの鍛冶通りは、もっと大きく、もっと賑やかだった。

 剣、包丁、鍋、馬具、金具、農具、扉の蝶番まで、あらゆる鉄が並んでいる。


 ミレイユが入ったのは、見た目には地味な工房だった。

 派手な剣を飾っていない。

 店先に置かれているのは、鋲、留め具、槍の穂先、鍬の刃、厚い釘、盾の縁金。


 店主は頑固そうな中年の男だった。


「クラウゼンの嬢ちゃんか。」


「会頭代理です。」


「同じだろう。」


「違います。」


 店主は鼻で笑った。


「今日は何だ。綺麗な飾り剣なら隣へ行け。」


「実用品を買いに来ました。」


「なら座れ。」


 ミレイユはすぐにリストを出した。


 店主はそれを見るなり、眉を上げた。


「戦でもするのか。」


「狩猟と防衛の備えです。」


「同じようなものだ。」


「違います。」


「どこへ送る。」


 ミレイユは一瞬だけ間を置いた。


「北方です。」


 店主はソータを見た。


「その兄ちゃんが運ぶのか。」


「はい。」


 ソータは頭を下げた。


「ソータです。」


「細いな。」


「よく言われます。」


 店主は少し笑った。


「だが、目は逃げてない。」


 ソータはメバドスと同じような言葉に少し驚いた。


「ありがとうございます。」


 店主はリストへ視線を戻した。


「槍の穂先は、戦用の長いものより狩猟兼用の短めがいい。持ち替えやすいし、補修もしやすい。」


 ガルドが頷く。


「同意する。」


「矢尻は三種。獣用、警告用、硬い皮を抜くもの。」


 エルザがいればもっと細かく言っただろう。

 だが、ガルドも基本は押さえている。


 ミレイユはすぐ書き留めた。


「盾の縁金は?」


 カレンが盾を少し前に出す。


「こういう盾を受ける前提で。」


 店主はカレンの盾を見て、目を細めた。


「良い盾だな。」


「重い。」


「だろうな。」


「北ではもっと大きな男が大きな盾を使う。」


「なら普通の縁金じゃもたん。」


 店主は奥から厚い縁金を出してきた。


「重くなるが、受けるならこっちだ。」


 カレンは手に取った。

 少し腕を動かす。


「使える。」


 ガルドも確認する。


「バルク向きだ。」


 ミレイユは数量を決めた。


「盾用縁金を四組。鋲を多めに。把手用の金具も。」


 店主が眉を上げる。


「本気だな。」


「必要なので。」


「金はあるのか。」


 ミレイユはにっこり笑った。


「価格次第です。」


 店主もにやりと笑った。


「怖い嬢ちゃんだ。」


「会頭代理です。」


「はいはい。」


 交渉が始まった。


 鉄の価格、加工の手間、納期、品質、今後の継続注文。

 ミレイユは容赦しない。

 店主も簡単には引かない。


 ソータには、二人が剣を交えているように見えた。

 言葉の剣。

 数字の盾。

 納期の間合い。


 やがて、双方が納得する線で決まった。


 店主は伝票を書きながら言った。


「北方なら、錆止め油も持っていけ。湿気でやられる。」


「追加します。」


「砥石も安物じゃ駄目だ。」


「良いものを。」


「刃物より、直す道具を忘れるな。」


 ミレイユは顔を上げた。


「それは、北でも同じことを学びました。」


 店主は少しだけ満足そうに頷いた。


「なら話が早い。」


◆◇◆


 昼近くまで、ソータとミレイユたちは職人街を歩き続けた。


 革。

 鉄。

 弦。

 矢羽根。

 油布。

 薬箱。

 防水文筒。

 合図笛。

 密閉容器。

 保存食用の小袋。


 買うものは多い。

 だが、その場で全てを持ち歩く必要はない。

 商会へ納品させるものは伝票を切り、すぐ運ぶべき見本や急ぎの品だけをソータの《神速積載庫》へ入れる。


 ソータはひとつひとつ荷札を付けた。


 北の村。

 メバドス様。

 外周見張り用。

 盾補修用。

 狩猟具。

 砦薬師用。

 リーナ文箱用。

 予備。

 確認待ち。


 ミレイユがそれを見て頷く。


「いいわ。」


「本当に?」


「ええ。前よりずっと分かりやすい。」


 ソータは少し嬉しくなった。


「怒られたから。」


「そればかりね。」


「でも本当だから。」


 ミレイユは小さく笑った。


「怒られたことを、ちゃんと荷札に変えられたなら十分よ。」


 その言葉は、ソータの胸に残った。


 怒られたこと。

 失敗したこと。

 怖かったこと。

 それをただ痛みにするのではなく、次の荷札へ変える。


 自分の仕事は、そういうことでもあるのかもしれない。


 カレンが荷札の一つを見て言った。


「字が読める。」


「ありがとうございます。」


「進歩だ。」


 ソータは素直に嬉しくなった。


 ガルドも短く言う。


「現場で迷わない。」


「はい。」


 ミレイユは少し誇らしげに見えた。


 ソータはその顔を見て、また頑張ろうと思った。


◆◇◆


 昼食は、職人街近くの食堂で取ることになった。


 商人や職人が多く使う店で、料理は早く、量があり、味も濃い。

 カレンは明らかに満足そうだった。


 ミレイユは食事をしながらも、午前中の発注を整理している。

 ソータはそれを見て、少し心配になった。


「ミレイユ、食べながら仕事してる。」


「時間が惜しいの。」


「でも、オルドアイに働かせすぎるなって言われた。」


 ミレイユの手が止まった。


 ガルドが目だけでこちらを見る。

 カレンは食べ続けている。


 ミレイユはゆっくりソータを見た。


「あなた、それを今言うの。」


「言った方がいいと思って。」


「……正しいわ。」


 彼女は紙を畳んだ。


「食べます。」


 ソータは少し驚いた。


「素直。」


「あなたに言われると悔しいけれど、正しいから。」


 ミレイユは匙を取った。


「それに、オルドアイに言われたからではなく、あなたが見ているから食べるのよ。」


 ソータの顔が熱くなる。


「うん。」


 カレンが淡々と言った。


「良い。」


 ガルドも短く頷いた。


「食事は判断を保つ。」


 ミレイユは少しだけ笑った。


「今日は全員に食事で説得される日なのかしら。」


「必要だ。」


 カレンが即答した。


 昼食を終える頃、ソータはふと北の砦を思い出した。

 オルドアイは今頃、砦で何をしているだろう。

 バルクはガルナにまた食べさせられているだろうか。

 メバドスは村の外周を見ているだろうか。


 その全てへ、今買った品々が届く。


 自分が運ぶ。


 そう思うと、食堂の喧騒の中でも、胸の奥が静かに引き締まった。


◆◇◆


 商会へ戻ると、すでに午前中に発注した品の一部が届き始めていた。


 革束。

 小さな金具箱。

 矢羽根の見本。

 油布。

 文筒。

 密閉容器の試作品。


 倉庫責任者が目を回している。


「会頭代理、これは北方分でよろしいですか。」


「ええ。分類は私が確認します。ソータ、荷札を。」


「はい。」


 ソータはすぐに動いた。


 倉庫の一角に、北方用の仮置き場が作られる。

 その中でも、砦用、男たちの村用、メバドス直送用、リーナ文箱用、確認待ちに分けた。


 ミレイユは全体を見て、すぐに修正を入れる。


「盾補修材はメバドス直送とバルク用で分けて。」


「はい。」


「矢羽根は砦用と村用で湿気対策を別に。」


「はい。」


「合図笛は色紐を付ける。村内用は青、外周用は黄、緊急用は赤。」


「はい。」


「ソータ、赤は目立つから非常用袋の外側へ。」


「分かった。」


 ソータは荷を動かしながら、奇妙な感覚を覚えた。


 グランデリアの倉庫で荷を分けている。

 だが、頭の中には北の砦の倉庫がある。

 ミレイユとオルドアイと一緒に整理した、持ち出し箱の配置がある。

 男たちの村で見た中央炉と外周の見張り台がある。


 ここで荷を置く場所が、向こうの人の動きを決める。


 物の置き場は、人の動きを決める。


 オルドアイが覚えた言葉を、今度はソータが思い出していた。


(そうだ。)

(ここで間違えたら、向こうで迷う。)

(ここで分ければ、向こうで助かる。)


 手が自然と丁寧になる。

 荷札の字も、いつもより慎重になる。


 ミレイユがそれに気づいた。


「いい集中ね。」


「うん。」


「何を考えていたの?」


「物の置き場は、人の動きを決めるって。」


 ミレイユの表情が少し柔らかくなった。


「オルドアイの言葉ね。」


「元はミレイユが言ったことだよ。」


「そうだったかしら。」


「そうだよ。」


 ミレイユは少しだけ嬉しそうに目を伏せた。


「なら、ちゃんと北へ届いたのね。」


「うん。」


 ソータは荷札を結びながら答えた。


「今度は、ここから北へ戻す。」


◆◇◆


 夕方になる頃には、第一便として運ぶ候補が見えてきた。


 すべてはまだ揃っていない。

 だが、急ぎで送るべきものと、数日待ってまとめるものの区別はついた。


 ミレイユは疲れた顔をしていたが、目は冴えていた。


「明日は、さらに薬と保存食、包帯、密閉容器の最終確認をします。」


 ソータは頷いた。


「俺が一人で北へ運ぶのは、その後?」


「ええ。早ければ明後日。遅くても三日以内。」


「分かった。」


「ただし、あなたの体調次第。」


「大丈夫。」


 ミレイユがじっと見る。


 ソータはすぐ言い直した。


「大丈夫だと思うけど、ちゃんと確認する。」


「よろしい。」


 ガルドが横から言った。


「一人で動く前に、経路と時間を決める。」


「はい。」


 カレンが続ける。


「戻らない時の手順も必要だ。」


 空気が少し重くなる。


 ミレイユの顔が硬くなった。


 だが、彼女は逃げなかった。


「必要ね。」


 ソータも頷いた。


「決めよう。」


 戻ると約束した。

 だが、約束は気持ちだけでは守れない。

 戻れなかった時にどう動くか。

 遅れた時に誰へ知らせるか。

 オルドアイがどこまで探しに来るか。

 グランデリア側がどう判断するか。


 それもまた、荷札だった。


 不安に名前をつける作業。

 怖さを手順に変える作業。


 ミレイユは紙を取り出した。


「夕食後に決めます。」


「休まなくていいの?」


 ソータが聞く。


「休むために決めるのよ。」


 ミレイユは答えた。


「決めていなければ、眠れないでしょう。」


 ソータは少し黙った。


 確かに、そうだ。


 怖さを抱えたまま眠ろうとするより、怖さに形を与えた方が眠れる。


 ミレイユらしい。

 そして、今の自分たちに必要なことだった。


◆◇◆


 その夜、倉庫の一角には北へ向かう荷が整然と並び始めていた。


 盾の補修材。

 槍の穂先。

 矢羽根。

 弦。

 革。

 油布。

 合図笛。

 文筒。

 薬箱。


 まだ完成ではない。

 だが、道の形は見え始めている。


 ソータはその前に立ち、ひとつひとつの荷札を見た。


 メバドスへ。

 男たちの村へ。

 砦へ。

 リーナ文箱へ。

 バルク用。

 ガルナ確認。

 オルドアイ確認。

 ミレイユ確認済。


 最後の札を見て、少し笑った。


 ミレイユ確認済。


 それは、今のソータにとって最も信頼できる札の一つだった。


 背後からミレイユが来た。


「何を笑っているの?」


「この札。」


 ミレイユも見て、少しだけ笑った。


「大事でしょう。」


「うん。」


「それが付いている荷は、安心して運んでいいわ。」


「分かった。」


「ただし。」


「ただし?」


「あなた自身には、まだ札が足りない。」


 ソータは首を傾げた。


「俺自身?」


 ミレイユは指を折りながら言った。


「休息確認済。食事確認済。体調確認済。経路確認済。帰還予定確認済。」


 ソータは思わず笑った。


「俺、荷物扱い?」


「違うわ。」


 ミレイユは真剣に言った。


「大事な人扱いよ。」


 ソータの胸が詰まった。


 冗談のように言われた言葉の奥に、確かな不安と愛情があった。


 彼はミレイユを見る。


「ちゃんと確認する。」


「ええ。」


「自分にも札を付ける。」


 ミレイユは少し笑った。


「よろしい。」


 倉庫の外では、グランデリアの夜が深まっている。

 遠くの街灯りが揺れ、商会の中にはまだ少しだけ人の気配がある。


 北の砦は遠い。

 男たちの村はさらに遠い。

 メバドスは今も境界を見ているだろう。

 オルドアイは霧の森を見ているだろう。

 バルクはガルナに食べさせられているだろう。


 そして、ここには荷がある。


 ソータはそれを見つめた。


 明日も買う。

 整える。

 分ける。

 札を付ける。

 そして、運ぶ。


 物を運ぶことは、道を作ることだ。

 道を作ることは、人をつなぐことだ。


 ソータはその重さを、今は少し誇らしく感じていた。


 ミレイユが隣で言った。


「今日はここまで。」


「うん。」


「眠るわよ。」


「はい。」


 二人は倉庫を後にした。


 北へ運ぶ鉄と革の匂いを背に、商会の廊下を並んで歩く。

 明日も忙しい。

 明後日も、その次も。


 けれど今夜は、また眠る。

 戻るために。

 運ぶために。

 そして、ほどけかけた結び目に気づいた時、何度でも結び直すために。

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