第105話:帰り道の村で、薬草の香りは北の砦へ届いていた
翌朝、砦の門前には、旅立ちの空気が静かに満ちていた。
フルムーンの熱は、まだ砦の奥に残っている。
男たちの村から来た男たちは、これから二週間ほど砦に留まることになっていた。
それぞれの女と過ごし、食事を共にし、仕事を手伝い、夜には同じ火を囲む。
その後で、また男たちの村へ戻る。
だから砦全体は、別れの朝というより、長い祭りの二日目のような気配を漂わせていた。
あちこちで男たちが女たちに使われている。
丸太を運ばされる者。
水桶を担がされる者。
弓の弦を直す手伝いをして、逆に手元の不器用さを笑われている者。
けれど誰も本気で嫌がってはいない。
むしろ、その不器用な近さを楽しんでいるように見えた。
その中で、ソータたちは砦を去る準備をしていた。
ソータ。
ミレイユ。
ガルド。
エルザ。
レオン。
カレン。
アルベール。
バルクはもう、一行の中にはいない。
彼はガルナの隣に立っていた。
大きな体で、どこか落ち着かなさそうにしている。
ガルナは腕を組み、平然としているように見えるが、指先だけはバルクの袖を軽く掴んでいた。
レオンがそれを見つけて、にやりと笑った。
「ガルナさん、朝から逃がさない構えっすね。」
ガルナの目が鋭くなる。
「何か言ったか。」
「何でもないっす。」
レオンは一歩下がった。
バルクはその様子を見て、少し困ったように笑う。
だが、その顔はとても幸せそうだった。
ガルドがバルクの前に立った。
「連絡を怠るな。」
「ああ。」
「手紙を書け。」
「ああ。」
「怪我を隠すな。」
「それはガルナにも言われている。」
「なら二重に守れ。」
「分かった。」
バルクは深く頷いた。
それから、少しだけ言葉に詰まり、ガルドをまっすぐ見た。
「世話になった。」
ガルドは眉を動かした。
「終わりではない。」
「分かっている。」
「仲間であることも変わらん。」
バルクの顔が少し歪んだ。
泣きそうな顔ではない。
それでも、胸の奥を押さえるような顔だった。
「ああ。」
短く答えた声は、少し低かった。
ソータも胸が熱くなった。
(別れじゃない。)
(でも、同じ旅には戻らない。)
(こういう形もあるんだ。)
バルクはソータの方へ向き直った。
「ソータ。」
「はい。」
「リーナ殿の村へ寄るのだったな。」
「はい。砦の報告と、薬草の評価を伝えます。」
「俺は元気だと伝えてくれ。」
「もちろんです。」
バルクは少し照れたようにガルナを見た。
「それと。」
レオンが口を開きかけた。
ガルドが視線で止めた。
バルクは真面目に続ける。
「俺は、北で役目を見つけたと伝えてくれ。」
ソータは頷いた。
「ちゃんと伝えます。」
ガルナが横から言う。
「余計なことは言うなよ。」
レオンが小声で言った。
「余計なことって、ガルナさんのことばっかり言ってるとかっすか。」
ガルナの視線が飛ぶ。
レオンはすぐに目を逸らした。
「何でもないっす。」
バルクは顔を赤くしていた。
「事実ではある。」
「認めたっす。」
「レオン。」
ガルドの声が低くなった。
「はいっす。」
周囲に小さな笑いが広がった。
◆◇◆
ヤンガルドアイは門の中央に立ち、一行を見渡した。
「まずは薬師の村へ向かうのだったな。」
ミレイユが頷く。
「はい。砦でリーナさんの薬草と軟膏が高く評価されたことを伝えます。今の段階で渡せる報酬もありますので。」
「よい。」
ヤンガルドアイは満足そうに頷いた。
「砦の薬師長も、あの軟膏には強い関心を示しておった。季節によって油の配合を変えるという話もあったな。」
「ええ。それも伝えます。」
「今後、薬は重要になる。」
ヤンガルドアイの声が少し低くなる。
「怪我をしてから慌てるのでは遅い。備えるものは、食料と武器だけではない。」
「承知しています。」
ミレイユの返答には、商会代理としての硬さがあった。
ソータはリーナの顔を思い浮かべた。
薬草を干す手。
父の死を受け止めた時の涙。
それでも薬を作り続けると決めた目。
彼女に伝えなければならない。
彼女の薬が、北の砦で必要とされたこと。
父が遺した技術が、彼女の手を通じて確かに人を助けていること。
そして、今ここで報酬が生まれたこと。
それはただの金ではない。
彼女の薬師としての価値が、北の砦から返ってきた証だった。
オルドアイがソータの前に立った。
左腕の緑の組み紐が、朝の光を受けて深い色に光っている。
彼女はいつものように堂々としていた。
けれど、その目には出立を惜しむ熱が隠しきれずに浮かんでいた。
「ソータ。」
「うん。」
「戻れ。」
「戻る。」
「一人で来る時は、私が道を開く。」
「うん。」
「勝手に迷うな。」
「迷いたくて迷うわけじゃないよ。」
「なら、私の言うことを聞け。」
「聞く。」
オルドアイは頷いた。
その後、少し間を置いて、ソータへ一歩近づいた。
ミレイユの眉がわずかに動く。
だが、止めなかった。
オルドアイはソータの襟元を軽く掴んだ。
引き寄せる。
ソータは目を見開いた。
「オルドアイ?」
「別れの挨拶だ。」
次の瞬間、オルドアイはソータに口づけた。
熱いキスだった。
短いものではなかった。
砦の門前で、朝の光の中で、見送りの女たちと男たちがいる前で、オルドアイは少しも遠慮しなかった。
ただし、それは奪うためだけのものではなかった。
戻れ、という命令。
忘れるな、という印。
自分はここで待つ、という宣言。
ソータは一瞬固まった。
それから、逃げなかった。
ただ、あまりにも長い。
周囲がざわつき始める。
レオンが口元を押さえている。
エルザが目を伏せて少し笑っている。
カレンは無表情で見ている。
バルクは「おお」と言いかけて、ガルナに脇をつつかれた。
ヤンガルドアイは腕を組んで、面白そうに目を細めている。
ミレイユは最初、我慢した。
一息。
二息。
三息。
さらに続いた。
ミレイユの頬が赤くなり、こめかみがぴくりと動いた。
「長い。」
まだ続く。
「長い、長い!!」
ミレイユはついに二人の間へ手を入れ、ソータの肩を引いた。
「もう十分でしょう!」
ようやく離れたソータは、完全に真っ赤になっていた。
オルドアイは満足そうに唇を拭う。
「短かった。」
「どこがよ!」
ミレイユが叫ぶ。
砦の女たちが一斉に笑った。
男たちも笑う。
レオンはとうとう腹を抱えた。
「朝からすごいっす!」
ガルドが低く言う。
「黙れ。」
「はいっす。」
ヤンガルドアイは楽しそうに笑った。
「よい見送りだ。」
ミレイユは顔を赤くしたまま振り返った。
「ヤンガルドアイ様まで!」
「戻る男には印が必要だ。」
「限度があります!」
オルドアイは少しだけ首を傾げる。
「限度を越えたか。」
「越えたわよ!」
「そうか。」
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「次は少し短くする。」
「次がある前提で話さないで。」
「戻るのだろう。」
ミレイユは言葉に詰まった。
周囲がまた笑った。
ソータは何も言えず、ただ顔を赤くして立っていた。
(戻る前から、もう戻る理由が増えている。)
そんなことを思ってしまい、さらに顔が熱くなった。
ミレイユはソータの袖を掴み、軽く引いた。
「行くわよ。」
「はい。」
「今のことは、あとで話します。」
「はい。」
オルドアイが笑う。
「叱られているな。」
ソータは小さく答えた。
「うん。」
「戻った時も叱られるのか。」
ミレイユが即座に言う。
「あなたも叱ります。」
オルドアイは少し嬉しそうにした。
「そうか。」
「嬉しそうにしない!」
また笑いが起きた。
◆◇◆
砦の門が開いた。
森の道が見える。
霧はまだ薄く漂っているが、深くはない。
オルドアイが開いた道なのだろう。
ソータたちは隊列を整えた。
ガルドが先頭近くに立ち、レオンが周囲を見て、エルザが弓に手を添え、カレンがミレイユの近くに立つ。
アルベールは涼しい顔で荷の位置を確認していた。
ミレイユは最後にオルドアイを見た。
「ソータが一人で物資を運んで戻る時、道をお願いするわ。」
オルドアイは真面目に頷いた。
「任せろ。」
「勝手なことはしない。」
「しない。」
「長すぎるキスもしない。」
オルドアイは少し考えた。
「状況による。」
「そこは即答しなさい。」
「……努力する。」
「信用が揺らぐわね。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
「でも、守る。」
その一言は真剣だった。
ミレイユも、そこは疑わなかった。
「お願い。」
「ああ。」
短い会話だった。
けれど、確かなものがあった。
ミレイユが、オルドアイに頼んだ。
オルドアイが、それを受けた。
ソータは二人を見て、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
紅い髪紐。
緑の組み紐。
二つの結び目は、それぞれ別の場所にありながら、今は同じ道を見ていた。
ソータたちは砦を後にした。
◆◇◆
霧の森は、行きよりも穏やかだった。
白い霧は木々の間に漂っている。
だが、迷いを誘うような悪意は感じない。
進むべき道は薄く開かれ、足元の根や石も、危険な場所だけは自然と避けられるように見えた。
オルドアイの気配がある。
ソータはそう感じた。
見えない場所から、彼女が道を見ているような気がした。
ミレイユもそれに気づいているのだろう。
彼女は時折、霧の奥へ視線を向けた。
怒っているわけではない。
警戒しているだけでもない。
認めた相手の仕事を確かめている目だった。
ソータはその横顔を見て、少しだけ安心した。
「ミレイユ。」
「何?」
「さっきのこと、怒ってる?」
「怒っています。」
即答だった。
「はい。」
「でも、嫌だったわけではないわ。」
ソータは驚いて彼女を見た。
ミレイユは少し頬を赤くする。
「勘違いしないで。長すぎたことには怒っているの。」
「うん。」
「でも、彼女があなたを大事に見送ろうとしたことは分かった。」
「うん。」
「だから、怒っているけど、否定はしない。」
ソータは静かに頷いた。
「ありがとう。」
「感謝するなら、次は自分で離れなさい。」
「はい。」
レオンが後ろから小声で言う。
「ソータさん、自分で離れられるっすかね。」
ガルドが低く返す。
「訓練が必要だ。」
カレンが淡々と言った。
「首の後ろを掴んで引けば離れる。」
「物理っすね。」
「有効だ。」
エルザが静かに笑った。
ソータは肩を落とした。
「俺、完全に運搬物みたいになってませんか。」
ミレイユが即座に言う。
「運搬物ではありません。自分で歩くこと。」
「はい。」
霧の中に、少しだけ笑いが広がった。
◆◇◆
昼前、ソータたちはリーナの村へ到着した。
村の入口では、薬草を干す棚が風に揺れていた。
乾いた葉の香りが、道まで漂っている。
畑の端では村人たちが作業をしており、ソータたちに気づくとすぐに声が上がった。
「戻ったぞ!」
「北へ行っていた人たちだ!」
「ミレイユさんも一緒だ!」
しばらくして、村長が出てきた。
その後ろから、リーナも駆けてくる。
マルタは家の戸口から顔を出し、こちらを見るとすぐに腕を組んだ。
リーナは息を弾ませながらも、まず全員の顔を見た。
怪我はないか。
疲労はひどくないか。
その目は、薬師の目だった。
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
ソータは答えた。
リーナの目に、ほっとした色が浮かんだ。
次に、彼女はバルクがいないことに気づいたようだった。
少しだけ視線が動く。
だが、すぐに問い詰めるようなことはしなかった。
ただ、静かに聞いた。
「皆さん、大きな怪我はありませんか。」
「大丈夫です。」
ソータが答える。
「小さな擦り傷と疲労はあります。」
エルザが補足する。
「後で見ます。」
リーナは頷いた。
ミレイユが一歩前へ出る。
「リーナさん。今日は、砦の報告と薬草の件でお話があります。」
リーナの顔が引き締まった。
「はい。」
マルタが近づいてきて、短く言った。
「立ち話じゃ済まない顔だね。集会小屋へ行きな。」
村長も頷いた。
「準備しよう。」
◆◇◆
集会小屋には、乾いた木と薬草の香りが満ちていた。
村長。
リーナ。
マルタ。
数人の村の世話役。
そして、ソータたち一行。
ミレイユは砦でまとめた板と紙を広げた。
その姿を見て、リーナが少しだけ目を丸くする。
「そんなにたくさん。」
「話すことが多いの。」
ミレイユはまず、砦に無事到着したことを伝えた。
そして、話してよい範囲を選びながら、北の砦の暮らしと薬の需要について説明した。
砦は森の湿気が強く、乾燥薬草の保存に工夫が必要なこと。
弓や狩り、外周警備で切り傷や擦り傷が多いこと。
打撲や筋を痛める者も多いこと。
薬草だけでなく、軟膏、包帯、洗浄用の煎じ薬、湿気に強い容器が必要なこと。
そして、リーナの薬草と軟膏が砦の薬師長から高く評価されたこと。
リーナは息を止めるように聞いていた。
「私の薬が。」
声が小さく震えている。
「本当に役に立ったんですか。」
ソータは頷いた。
「うん。砦の薬師長さんが、すごく真剣に見てた。」
レオンが言う。
「口では悪くないって感じだったっすけど、目が完全に気に入ってる人の目だったっす。」
エルザも頷いた。
「ええ。保存方法について、すぐ具体的な話になりました。」
ガルドが短く言う。
「使える薬だ。」
カレンも淡々と付け加えた。
「傷に良い。」
リーナの目に涙が浮かんだ。
彼女は慌てて目元を押さえた。
「すみません。」
マルタが横から言う。
「謝ることじゃないよ。」
リーナは小さく頷く。
「父が残してくれた調合なんです。」
小屋の中が少し静かになった。
リーナの父は、もう帰ってこない。
北の森で命を落とした。
その事実は変わらない。
けれど、彼が残した知識と道具と薬草への目は、娘の中で生きている。
リーナは震える声で続けた。
「私だけの薬じゃありません。父が教えてくれた薬で、私が続けた薬です。」
ソータは静かに言った。
「届いてるよ。」
リーナが顔を上げる。
「リーナのお父さんが残したものも、リーナが続けたものも、北の砦に届いてる。」
「……。」
「俺が運んだのは薬草と軟膏だけど、それだけじゃなかったと思う。」
リーナの涙がこぼれた。
マルタがそっと娘の肩を抱く。
「よかったね。」
リーナは涙を拭きながら頷いた。
「はい。」
ミレイユは少し待ってから、そっと包みを取り出した。
中には今回分の報酬が入っている。
貨幣と、砦側からの仮の取引印。
正式契約はグランデリアで整えるが、今渡せる分として持たされたものだった。
「これは、今回持っていった薬草と軟膏への報酬です。」
ミレイユは包みをリーナの前に置いた。
「村への分と、リーナさん個人の調合料を分けています。」
リーナは驚いたように顔を上げた。
「私個人の分も、ですか。」
「当然です。」
ミレイユの声ははっきりしていた。
「材料を育てた村にも報酬は必要です。でも、調合したのはあなたです。技術に対する対価を曖昧にしてはいけません。」
リーナは包みを両手で受け取った。
指先が震えている。
「ありがとうございます。」
村長も深く頭を下げた。
「ありがたい。これで薬草畑の手入れも進められる。」
マルタがリーナを見た。
「父さんの道具も、直せるね。」
リーナは涙を浮かべたまま、しっかり頷いた。
「はい。」
◆◇◆
その後、話はすぐに実務へ移った。
リーナは涙を拭うと、薬師の顔に戻った。
ミレイユの説明を聞きながら、板へ細かく書き込んでいく。
「湿気が強いなら、乾燥薬草は種類ごとに包み方を変えた方がいいです。」
「香りが飛ぶものと、湿気を吸いやすいものは別の容器に。」
「軟膏は油の配合を変えます。夏場と冬場では伸び方も保存も違うので。」
「洗浄用の煎じ薬も必要ですね。傷口を洗う水の質が不安定なら、粉にして持っていけるものも考えます。」
ミレイユはその一つ一つを丁寧に確認した。
「密閉容器は商会で手配できます。陶器、樹脂加工の小箱、油紙の三種類で試しましょう。」
「はい。」
「次回、試作品をいくつか運びます。」
「お願いします。」
エルザは弓使いの立場から、指や肩の疲労、弦による擦り傷について話した。
カレンは盾役として、打撲と手の豆に効くものを求めた。
ガルドは戦闘時にすぐ使える簡易包帯と止血用の布を挙げた。
レオンは斥候として、匂いの強い薬は獣や敵に気づかれる可能性があると補足した。
リーナはどの意見も真剣に書き留めた。
「砦の薬師長さんと、文でやり取りできますか。」
「できるようにします。」
ミレイユが答える。
「ソータが運ぶ物資の中に、薬師長宛ての文箱を作りましょう。」
「文箱。」
リーナの目が少し輝いた。
「はい。質問、調合表、季節ごとの変化、使用結果を書いて交換する形です。」
「それなら、もっと良くできます。」
リーナの声に力が戻っていた。
ソータはその様子を見て、胸が温かくなる。
悲しみが消えたわけではない。
父の死は戻らない。
けれど、その悲しみの上に、仕事が積み上がっていく。
薬草の香りと、報酬と、次の取引と、文箱。
それらは、リーナが前へ進むための足場になるのかもしれない。
(運んだものが、また次のものを生む。)
(これが、道になるんだ。)
ミレイユが横から小さく言った。
「いい顔ね。」
「そう?」
「自分の仕事の意味を見た顔。」
ソータは少し照れた。
「ミレイユは何でも分かるね。」
「全部ではないわ。」
ミレイユは小さく笑う。
「でも、あなたの顔はかなり分かるようになったわ。」
リーナはそのやり取りを見て、少しだけ柔らかく微笑んだ。
「ミレイユさんが一緒でよかったです。」
ミレイユはリーナを見る。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。」
「ソータさんを、ちゃんと現実へ戻してくれる人が必要ですから。」
「ええ。」
ソータは肩を落とした。
「俺、どこへ行ってもそういう扱いだ。」
マルタが笑った。
「そういう扱いをされるだけのことをしてきたんだろう。」
「否定できません。」
「なら大人しく受け取りな。」
「はい。」
◆◇◆
村での話は、昼過ぎには終わった。
報酬の受け渡し。
次回納品の候補。
薬師長への文箱。
保存容器の試作。
洗浄用煎じ薬の検討。
砦と村をつなぐ薬草の道。
話すべきことは多かったが、ミレイユの整理は早かった。
リーナも要点をすぐに掴む。
村長も、村として薬草畑の面積を少し広げることを承諾した。
マルタは最後まで黙って聞いていたが、報酬袋を見て一度だけ頷いた。
「いい仕事になりそうだね。」
ミレイユは答える。
「そうします。」
「頼もしいことだ。」
出立前、リーナは村の入口まで見送りに来た。
手には小さな薬包みがある。
「これは疲労用です。」
ソータが受け取ろうとすると、ミレイユが先に確認した。
「強い薬ではないのね。」
リーナは真面目に頷いた。
「はい。体を少し温めて、疲れを和らげる程度です。眠気が出ることがあるので、移動中ではなく宿に着いてから飲んでください。」
「ありがとう。用量を書いてもらえる?」
「はい。」
リーナはすぐに小さな紙へ書き足した。
ソータは苦笑する。
「薬をもらうだけで慎重になったね。」
ミレイユがきっぱり答えた。
「慎重でいいの。」
「はい。」
アルベールは穏やかに微笑んでいた。
ミレイユの視線が飛ぶ。
「アルベールも笑わない。」
「はい、お嬢様。」
「あなたから渡されるものも、今後は全部確認します。」
「承知しております。」
マルタはそのやり取りを見て、何かを察したように目を細めた。
「また何かあった顔だね。」
ソータは視線を逸らした。
「いろいろありました。」
「そうかい。」
マルタは深くは聞かなかった。
彼女は、聞くべきことと聞かなくていいことの境目を知っている。
代わりに、ミレイユへ向いた。
「ミレイユさん。」
「はい。」
「ソータを頼むよ。」
「はい。」
「ただし、あんた一人で抱えすぎるんじゃないよ。」
ミレイユの表情が少し変わる。
マルタは続けた。
「優しい男が厄介なら、その男を好きになった女も厄介になる。」
「……はい。」
「怒るのも、待つのも、許すのも、一人で全部やろうとするな。」
ミレイユは少しだけ目を伏せた。
「覚えておきます。」
マルタはミレイユの紅い髪紐を見た。
「その紐、ちゃんと結ばれているね。」
ミレイユはそっと触れた。
「ええ。」
「ほどけかけたら結び直せばいい。」
マルタは言った。
「大事なのは、ほどけかけた時に気づくことさ。」
ミレイユは静かに頷いた。
「はい。」
リーナはソータを見た。
「ソータさん。」
「うん。」
「父の調合を、北へ運んでくれてありがとうございます。」
その言葉に、ソータの胸が詰まった。
「俺は運んだだけだよ。」
言った瞬間、ミレイユの視線が横から刺さった。
ソータは慌てて言い直す。
「……だけ、じゃなくて。運べてよかった。」
リーナは少し笑った。
「はい。」
「次も運ぶ。」
「お願いします。」
「薬師長さんへの文箱も。」
「はい。書きます。」
リーナは胸元に手を当てた。
「私の薬が北へ届くなら、私も少しだけ北へ行ける気がします。」
ソータは頷いた。
「ちゃんと届ける。」
「はい。」
◆◇◆
村を出てから、道は南へ伸びた。
北の森の湿った匂いは少しずつ薄れ、代わりに街道の乾いた土の匂いが近づいてくる。
畑の緑。
低い丘。
遠くを走る荷馬車。
人の暮らしの音。
ソータは一度だけ振り返った。
リーナの村は、もう小さくなっている。
その先には森がある。
さらに奥には砦がある。
見えない。
けれど、ある。
(また来る。)
(物資を持って。)
(文箱を持って。)
(薬の道をつなぐために。)
ミレイユが隣で言った。
「振り返るのは終わり?」
「うん。」
「なら、前へ。」
「うん。」
ソータは前を向いた。
レオンが少し伸びをする。
「グランデリア、久しぶりっすね。」
ガルドが答える。
「戻ったら忙しい。」
「っすよね。」
エルザが静かに数える。
「報告、契約、物資、薬、文箱、装備補修。」
カレンが付け足す。
「食料。」
レオンが笑った。
「カレンさんらしいっす。」
「必要だ。」
「確かに。」
アルベールは涼しい顔で言った。
「戻りましたら、まず皆様の湯浴みと休息を整えましょう。」
ミレイユが即座に言う。
「その後で簡易報告よ。詳細は明朝。」
「かしこまりました。」
「変な茶は出さない。」
「普通の茶を。」
「効能は?」
「香りがよく、喉が潤います。」
「それでよし。」
ソータは少し笑った。
疲れている。
眠い。
胸は重い。
けれど、足は前に出る。
帰る場所へ向かっているから。
そして、また戻る場所があるから。
◆◇◆
夕方、グランデリアの外壁が見えた。
遠くに立つ石の壁。
門を行き交う荷馬車。
商人の声。
旅人の列。
香辛料の匂い。
焼き菓子の甘い匂い。
馬の匂い。
都市のざわめき。
北の森と砦の空気に慣れた後では、そのすべてが少し眩しかった。
ミレイユの顔が変わる。
旅の女から、商会の会頭代理へ。
背筋が伸び、目が鋭くなる。
歩き方まで少し変わる。
ソータはその横顔を見て、胸の奥に安心を覚えた。
(帰ってきた。)
(ミレイユの場所だ。)
(でも、ここからまた北へつながる。)
門をくぐると、街の音が一気に近づいた。
石畳の上を車輪が鳴る。
荷運び人の掛け声が飛ぶ。
店先で値段交渉が始まっている。
誰かが焼いたパンを籠に積み、子どもが走り抜ける。
ソータは少しだけ足を止めそうになった。
北の砦の焚き火。
リーナの村の薬草。
グランデリアの商いの音。
全部が、自分の中でつながっている。
クラウゼン商会に着くと、待っていた使用人たちが一斉に動いた。
「お帰りなさいませ!」
「会頭代理!」
「ソータ様もご無事で!」
「護衛の皆様も!」
ミレイユはすぐに指示を出した。
「まず全員に湯浴みと休憩を。旅装のまま詳細報告はしません。夕食後に簡易報告、詳細は明朝から。」
「かしこまりました!」
「北方物資の手配については、今夜のうちに倉庫責任者と書記を呼んで。塩、保存食、薬、包帯、密閉容器、油紙、縄、矢羽根、弦、補修金具を別帳簿で整理します。」
「はい!」
「リーナさんの薬草関連は新しい取引枠で帳簿を開いて。仮払いは済ませました。正式契約書を準備します。」
「かしこまりました!」
「バルクさんの北方協力員契約の草案も必要です。」
使用人が一瞬だけ驚いた。
「バルク様の?」
「ええ。事情は後で説明します。」
ミレイユの声に迷いはなかった。
ソータはその姿を見て、少しだけ笑った。
戻ってきた。
ミレイユの戦場へ。
商会という、もう一つの砦へ。
アルベールが静かに礼をした。
「お嬢様、まずは湯浴みを。」
「分かっているわ。」
「ソータ様も。」
「はい。」
ソータは素直に頷いた。
ミレイユが横目で見る。
「今日は素直ね。」
「怒られる前に従おうと思って。」
「よろしい。」
レオンが後ろで小声で言う。
「成長っすね。」
ガルドが短く答えた。
「まだだ。」
エルザが微笑む。
「でも、少しは。」
カレンが言った。
「飯は。」
ミレイユが振り返る。
「湯浴みの後です。」
「了解した。」
カレンは素直だった。
◆◇◆
夜、簡単な夕食と簡易報告を終えた後、ソータは商会の中庭に出た。
街の夜は、砦の夜とは違う。
焚き火ではなく、窓明かり。
森の虫ではなく、遠くの馬車の音。
湿った土ではなく、石畳の冷たさ。
それでも、空には同じ月があった。
満月から少し欠け始めた月。
北の砦でも、きっと同じ月が見えている。
オルドアイも見ているかもしれない。
バルクとガルナも、砦のどこかで見ているかもしれない。
リーナも、薬草をしまいながら見上げているかもしれない。
ミレイユが隣へ来た。
「休んでいないわね。」
「少しだけ。」
「少しだけが長くなるのよ。」
「戻ります。」
「よろしい。」
二人はしばらく月を見た。
「帰ってきたね。」
ソータが言う。
「ええ。」
「でも、また行く。」
「ええ。」
「忙しくなる。」
「当然よ。」
ミレイユは月を見たまま言った。
「北に道ができたのだから。」
ソータはその言葉を胸に受け止めた。
道ができた。
物の道。
薬の道。
手紙の道。
報酬の道。
不穏に備える道。
そして、自分が走る道。
「ミレイユ。」
「何?」
「俺、ちゃんと運ぶよ。」
ミレイユはソータを見る。
「知っているわ。」
「でも、自分を荷台にしない。」
彼女の目が柔らかくなる。
「ええ。」
「戻る。」
「ええ。」
「報告する。」
「ええ。」
「勝手に抱え込まない。」
「それも大事ね。」
「うん。」
ミレイユはそっと、ソータの手を取った。
「明日から、また仕事よ。」
「うん。」
「今夜は休む。」
「うん。」
「そして、次に北へ向かう時は、あなた一人でも一人じゃないことを忘れないで。」
ソータは彼女を見る。
ミレイユの紅い髪紐は、湯浴みの後に結び直されていた。
白い石が月明かりを受けて小さく光っている。
「うん。」
北の砦には、緑の組み紐がある。
ここには、紅い髪紐がある。
リーナの村には、薬草の香りがある。
男たちの村には、メバドスがいる。
バルクとガルナが笑っている。
すべてが、見えない道でつながっている。
ソータはその道を、これから何度も運ぶことになる。
物資を。
言葉を。
報酬を。
薬を。
不安を。
約束を。
そして、必ず戻る。
グランデリアの夜風が、二人の間を静かに通り抜けた。
月は北と街の両方を照らしていた。
ソータはミレイユの手を握り返しながら、次に走る道を、胸の中で静かに確かめていた。




