第104話:出立の前に、結び目は形を求める
フルムーンの熱が少しずつ朝の光に溶けていく頃、砦は不思議な静けさに包まれていた。
昨夜までの歌と笑いが嘘のように消えたわけではない。
広場にはまだ焚き火の跡があり、焦げた薪の匂いが残っている。
吊るされた布飾りは風に揺れ、あちこちに置かれた杯や皿が宴の名残を示していた。
けれど、砦の空気はもう次の動きへ向かっていた。
北の村から来た男たちは、これから二週間ほど砦に留まる。
それぞれの女と過ごし、語り、食べ、眠り、共に仕事をする。
満月の夜だけでは終わらない、古い決まりの中の短い同居。
やがて彼らは男たちの村へ戻る。
村を守る者たちのもとへ。
メバドスが待つ場所へ。
不穏な気配が近づく北東の境界へ。
一方、ソータたちは明日、砦を発つことになっていた。
グランデリアへ戻る。
ミレイユの商会へ戻る。
リーナの薬や村の報告を持ち帰る。
北の砦と男たちの村に必要な物資を改めて整え、再び運び込む。
ただし、次の運搬は、これまでとは形が違う。
ソータが一人で行く。
護衛を連れてゆっくり旅をするのではない。
《神速積載庫》と、これまで整えた荷の管理を使い、必要な物資を高速で運ぶ。
行き帰りを最短にし、砦の備蓄と男たちの村の備えを早急に整える。
その話が出た時、ソータは最初、当然のように反対されると思っていた。
ミレイユは心配する。
ガルドは危険だと言う。
エルザは道中の不測を挙げる。
レオンは「ソータさん一人はやばいっす」と言う。
カレンは「守れない」と短く言う。
そう思っていた。
だが、状況は少し違っていた。
ミレイユが認めたのだ。
それは、ソータが強くなったからではない。
剣を振れるようになったわけでもない。
森で獣を倒せるわけでもない。
認めた理由は、オルドアイだった。
砦から霧の森の道を開き、必要な地点まで送り出し、戻ってくる道も確保する。
ソータが一人で動く範囲を、オルドアイと砦側が管理する。
危険な森の中を無計画に走らせるのではなく、道と時間と合図を決める。
そして何より、ミレイユがオルドアイを「話せる相手」としてだけではなく、「ソータを壊さないように見張る相手」として認めた。
それは小さくない変化だった。
◆◇◆
朝食後、集会小屋に主要な者たちが集まった。
ヤンガルドアイ。
オルドアイ。
ミレイユ。
ソータ。
ガルド。
エルザ。
レオン。
カレン。
アルベール。
そして、バルクとガルナ。
小屋の中には、昨日とは違う緊張があった。
宴のための浮ついた熱ではない。
これから先を決めるための重さだった。
ミレイユは持ち込んだ板と紙を並べた。
砦で確認した物資リスト。
男たちの村での反応。
メバドスから聞いた不穏。
バルクの処遇。
今後の往復計画。
ソータはその隣に座っている。
昨夜から今朝にかけての出来事のせいで、まだ少し落ち着かない。
ミレイユを見るだけで胸が熱くなるし、オルドアイを見ると別の熱が腹の奥に残っている気がする。
だが、今は仕事の場だ。
(ちゃんと座る。)
(ちゃんと聞く。)
(ちゃんと話す。)
ミレイユの紅い髪紐は、今朝きちんと結び直されていた。
少しだけいつもより丁寧に。
それを結んだのはソータだった。
オルドアイの左腕には、緑の組み紐がある。
こちらも今朝、結び目を確かめていた。
外れていない。
ほどけていない。
二つの結び目が、それぞれの場所に残っている。
ヤンガルドアイが口を開いた。
「さて、明日にはお主らが砦を発つ。」
その声で、小屋の空気が引き締まる。
「はい。」
ミレイユが答えた。
「ですが、一度グランデリアへ戻った後、必要物資を再度整え、ソータに運んでもらいます。」
ヤンガルドアイは頷いた。
「前より早く必要になる。」
「ええ。」
ミレイユは紙を指先で押さえた。
「理由は二つあります。一つは通常の備蓄補充。もう一つは、隣国辺境の民の動きに備えるためです。」
メバドスの名はまだ出していない。
だが、誰もがその影を感じていた。
ガルドが低く言う。
「備えるなら早い方がいい。」
「はい。」
ミレイユは頷く。
「塩、保存食、薬、包帯、矢羽根、弦、補修金具、縄、油紙、密閉容器。さらに、退避時にすぐ持ち出せる小型の箱を増やします。」
オルドアイが言った。
「砦だけではなく、男たちの村にもいる。」
「もちろん。」
ミレイユは視線を向ける。
「男たちの村には、村長メバドス様が残っています。精鋭数人と共に。そこへすぐ使える補給を置く必要があります。」
バルクの肩がわずかに動いた。
彼も気にしている。
自分が村を離れたこと。
メバドスが本当は残ってほしかったこと。
それでもガルナに会うために送り出してくれたこと。
その重さは、バルクの中にもある。
ソータはそれを見て、胸の中で思った。
(バルクさんも、軽く考えてない。)
ミレイユは続けた。
「問題は運搬速度です。通常の隊で往復すれば時間がかかります。護衛を整え、馬車を動かし、森を越えるとなれば、物資が揃ってからさらに日数を取られます。」
レオンが小さく頷いた。
「往復でだいぶかかるっすね。」
「ええ。」
「そこで、俺ですか。」
ソータが言った。
ミレイユは彼を見る。
「そう。」
ソータの背筋が伸びる。
「ただし、条件があります。」
ミレイユの目が鋭くなった。
「一人で勝手に動かない。」
「はい。」
「荷札は必ず付ける。」
「はい。」
「行き先ごとに分ける。」
「はい。」
「体調管理を軽く見ない。」
「はい。」
「妙な滋養剤を勝手に飲まない。」
小屋の中の空気が一瞬止まった。
アルベールだけが穏やかに微笑んでいる。
ソータは顔を赤くした。
「はい。」
オルドアイが少し笑いそうになった。
ミレイユが横目で睨む。
オルドアイは咳払いした。
「それと。」
ミレイユはオルドアイを見る。
「霧の森を通る部分は、オルドアイに管理してもらいます。」
その言葉に、何人かの視線が動いた。
ヤンガルドアイも、少しだけ目を細める。
オルドアイは静かに頷いた。
「任される。」
「任せます。」
ミレイユの声は、はっきりしていた。
「ただし、任せるのはソータを好きにするという意味ではありません。」
「分かっている。」
「ソータを安全に通し、安全に戻すこと。」
「分かっている。」
「途中で余計な寄り道をさせないこと。」
「分かっている。」
「あなた自身も、勝手に試さないこと。」
オルドアイは少しだけ顔を赤くした。
「……分かっている。」
レオンが小声で呟く。
「完全に信用と釘刺しが同時っすね。」
カレンが淡々と言った。
「正しい。」
ミレイユは続けた。
「私は、あなたを認めました。」
小屋の空気がまた少し変わる。
オルドアイの表情も変わった。
「ミレイユ。」
「でも、油断はしません。」
「それでよい。」
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「私も、自分を信用しすぎない。」
その言葉に、ミレイユの目が少し柔らかくなった。
「なら、お願いするわ。」
「ああ。」
ソータは二人のやり取りを見ていた。
胸が熱かった。
ミレイユが、オルドアイを認める。
オルドアイが、それを軽く扱わない。
自分のために二人が妥協しているのではない。
自分を挟んで争いを隠しているのでもない。
二人とも、それぞれの痛みと欲を抱えたまま、形を作ろうとしている。
それが分かった。
(俺も、ちゃんとしないと。)
◆◇◆
物資の話が一通り終わると、ミレイユは紙を一枚めくった。
その動きだけで、バルクの顔が少し引き締まった。
ガルナも隣に座り直す。
彼女は腕を組んでいるが、バルクの近くから離れていない。
ガルドがゆっくり顔を上げた。
「次はバルクか。」
「はい。」
ミレイユは頷いた。
「正式に確認します。」
小屋の中が静かになる。
昨日の夜、二人がどれほど分かりやすく寄り添っていたとしても、正式な話は別だ。
バルクはグランデリア側の仲間であり、契約上の護衛であり、商会の依頼にも関わる人物だった。
感情だけで済ませてはいけない。
だからこそ、ミレイユは商会代理の顔をしていた。
「バルクさん。」
「はい。」
バルクは背筋を伸ばした。
大きな体が、少しだけ緊張している。
「あなたは今後、どうしたいですか。」
問いは短かった。
だが、重い。
バルクはすぐには答えなかった。
ガルドを見る。
レオンを見る。
ソータを見る。
エルザを見る。
ミレイユを見る。
カレンを見る。
そして、最後にガルナを見た。
ガルナは何も言わない。
ただ、逃げるなという目で見ている。
バルクはゆっくり息を吸った。
「俺は。」
声は低く、いつもより少し硬かった。
「北に残りたい。」
誰もすぐには喋らなかった。
分かっていた。
ほとんど全員が予想していた。
それでも、本人の口から出ると重みが違った。
バルクは続けた。
「理由は、ガルナだ。」
ガルナの耳が赤くなる。
レオンが口を開きかけたが、ガルドの視線で黙った。
「俺はガルナのそばにいたい。」
バルクはまっすぐ言った。
「だが、それだけではない。」
ガルドの目が少し細くなる。
「男たちの村で、俺は役に立てた。大角猪を止めた。村の男たちは俺を受け入れてくれた。」
「……。」
「砦でも、荷を運び、丸太を押さえ、怪我人の前に立てる。」
「……。」
「俺の盾は、ここで使える。」
その言葉は、昨日も聞いた。
だが今は、さらに深く響いた。
「グランデリアを嫌になったわけではない。」
バルクは少し苦しそうに言った。
「お前たちを軽く見るわけでもない。」
ソータの胸が痛んだ。
「俺にとって、お前たちは仲間だ。」
ガルドは黙っている。
レオンは唇を噛んでいる。
エルザは静かに聞いている。
ミレイユはペンを止めていた。
「だが、俺はここで、別の役目を見つけた。」
バルクはガルナを見た。
「ガルナの隣で、砦と男たちの村の間に立ちたい。」
ガルナは何も言わなかった。
だが、彼女の手が、バルクの膝の上に置かれた手へそっと重なった。
その仕草だけで、十分だった。
ガルドが口を開いた。
「一時的にか。」
バルクはガルドを見る。
「今は、戻るとは言えない。」
「期限を切れないか。」
「切れない。」
「ガルナだけか。」
「違う。」
バルクの声には迷いがなかった。
「ガルナは大きい。俺の中で、とても大きい。」
ガルナの耳がさらに赤くなる。
「だが、それだけなら、お前たちに胸を張って言えない。」
「……。」
「ここで役に立てる。ここで守りたいものがある。ここで食う飯がうまい。」
最後の一言に、レオンが少しだけ笑ってしまった。
バルクもわずかに笑う。
「それも大事だ。」
ガルドはしばらく黙った。
そして、短く言った。
「分かった。」
バルクの顔が少し揺れる。
「いいのか。」
「俺が許す話ではない。」
「ガルド。」
「お前が決めたなら、逃げるな。」
「逃げん。」
「ガルナを言い訳にするな。」
「しない。」
「砦や村を言い訳にするな。」
「しない。」
「自分で選んだと言え。」
バルクは深く頷いた。
「俺が選んだ。」
ガルドは小さく頷く。
「ならいい。」
レオンが顔をくしゃっとさせた。
「バルクさん。」
「何だ。」
「寂しいっす。」
「ああ。」
「でも、めちゃくちゃ幸せそうなので、文句言いにくいっす。」
バルクは笑った。
「すまん。」
「謝られると余計困るっす。」
レオンは鼻をすすった。
「たまには帰ってきてくださいっす。」
「帰れる時は帰る。」
「あと、手紙くださいっす。」
「書く。」
ミレイユがすかさず言った。
「定期連絡の仕組みも作ります。」
レオンが笑った。
「さすがミレイユさんっす。」
ミレイユは商会代理の顔に戻っていた。
「バルクさんの契約については、正式には一時的な北方駐在扱いにします。」
バルクが瞬きをする。
「駐在?」
「ええ。」
「俺は商会の人間になるのか?」
「今すぐ完全に所属変更するわけではありません。ただ、無所属のままでは報酬、責任、連絡、物資の扱いが曖昧になります。」
ミレイユは紙に書きながら続けた。
「あなたは当面、クラウゼン商会の北方協力員、兼、砦および男たちの村との連絡護衛という形にします。」
バルクは難しい顔をした。
「よく分からん。」
ガルナが横で言った。
「働けば飯が出るということか。」
ミレイユは少し笑った。
「かなり簡単に言えば、そうです。」
バルクは頷いた。
「分かった。」
レオンが小声で言う。
「今ので分かるんすね。」
カレンが淡々と言った。
「食事換算は強い。」
エルザが静かに微笑んだ。
ミレイユは続ける。
「報酬は一部をこちらで管理し、必要物資やあなた個人の装備補修に充てます。残りはバルクさん本人の取り分。ガルナさんや砦側との取り決めも別途確認します。」
ガルナが頷いた。
「こいつは食う。装備も傷む。」
「承知しています。」
「肉だけで払うなよ。」
「正式な報酬は必要です。」
「ならよい。」
バルクは少し感動した顔をした。
「ガルナ、俺の装備のことまで。」
「壊れた盾で前に立たれては困る。」
「そうか。」
「それだけだ。」
耳は赤い。
レオンが笑いを堪えた。
ソータも少し笑った。
この二人は、本当に分かりやすい。
分かりやすくて、温かい。
そして、その形をミレイユが作っていく。
バルクの選択は、ただの別れではなくなっていた。
新しい役割として、ちゃんと繋がる。
そのことに、ソータは救われるような気持ちになった。
◆◇◆
バルクの話が一段落した後、小屋には少しだけ沈黙が落ちた。
それは、次に何を話すべきか、全員が分かっていたからだ。
ソータ。
ミレイユ。
オルドアイ。
三人のこと。
隠し続けるわけにはいかない。
砦にいる間、昨夜から今朝にかけて何があったかを細かく語る必要はない。
だが、関係が変わったことは、事実として共有する必要があった。
特に、ヤンガルドアイには。
そして、仲間たちにも。
ミレイユは紙を閉じた。
商会代理の顔ではなく、少しだけ一人の女の顔になった。
ソータは喉が渇くのを感じた。
オルドアイは背筋を伸ばしている。
緑の組み紐へ触れてはいない。
触れたいのを我慢しているようにも見えた。
ヤンガルドアイが三人を見た。
「次は、お主らの話か。」
逃げ場はなかった。
ソータは頷いた。
「はい。」
声が少し震えた。
ミレイユが横で静かに言う。
「私たち三人の関係について、事実としてお話しします。」
レオンが姿勢を正した。
ガルドは黙ったまま目を向ける。
エルザの表情も真剣になる。
カレンは表情こそ変わらないが、肉を食べる手を止めていた。
アルベールは穏やかに控えている。
だが、ミレイユの視線が一瞬だけ彼に刺さった。
昨夜の滋養水の件は、まだ終わっていない。
ヤンガルドアイは腕を組んだ。
「話せ。」
ソータは一度、ミレイユを見た。
彼女が小さく頷く。
次に、オルドアイを見る。
オルドアイも頷いた。
ソータは息を吸った。
「昨日の夜、俺たちは三人で話しました。」
言葉を選ぶ。
「オルドアイの気持ち。ミレイユの気持ち。俺の気持ち。隠さないで、逃げないで話しました。」
誰も茶化さなかった。
「その上で、俺は、ミレイユとの関係をなかったことにはしません。」
ミレイユの手がわずかに動いた。
「俺の帰る場所は、ミレイユです。」
その言葉に、ミレイユの瞳が少し潤んだ。
ソータは続ける。
「でも、オルドアイのことも、軽く扱いません。」
オルドアイの表情が揺れた。
「俺は、オルドアイの気持ちを受け止めると決めました。」
小屋の空気が、さらに重くなる。
それは、単に恋人が増えたという軽い話ではない。
砦の姫であるオルドアイ。
商会代理であるミレイユ。
運送屋であるソータ。
三人の関係は、個人の感情だけでなく、砦と商会の関係にも影響する。
だからこそ、言葉が必要だった。
ミレイユが口を開く。
「私は、ソータを誰かに渡すつもりはありません。」
オルドアイは黙って聞いている。
「ですが、オルドアイの気持ちを、なかったことにはしません。」
「……。」
「彼女がソータを求めることも、ソータが彼女を見ることも、私は知っています。」
声は少し震えていた。
だが、はっきりしていた。
「私は嫉妬します。腹も立ちます。怖くもあります。」
レオンが息を呑む。
エルザは静かに目を伏せた。
「でも、隠されるより、知らないふりをするより、向き合う方を選びました。」
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
「私は、ソータの恋人です。それは変えません。」
そしてオルドアイを見る。
「同時に、オルドアイと話し、彼女が踏み込みすぎないように、私自身も逃げないように、形を作ります。」
オルドアイがゆっくり頷いた。
「私は。」
彼女の声は、いつもより少し低い。
「ソータが欲しい。」
ミレイユの肩がわずかに動いた。
だが、彼女は目を逸らさない。
「だが、奪うだけでは駄目だと知った。」
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「ミレイユを知った。ソータが帰る場所を知った。壊せば、ソータも壊れる。」
ヤンガルドアイの目が細くなる。
「だから、私はこの紐を外さない。」
オルドアイは左腕を少し上げた。
「これは、私が何を求め、何を守り、どこまで踏み込むかを忘れないためのものだ。」
ミレイユは黙って頷いた。
「私は、ソータを愛する。」
オルドアイははっきり言った。
「だが、軽くしない。ミレイユを侮らない。ソータに、自分を道具のように扱わせない。」
ソータの胸が熱くなった。
それは昨夜、三人で何度も確認したことだった。
こうして人前で言葉にされると、改めて重い。
ヤンガルドアイはしばらく三人を見ていた。
やがて、低く言った。
「面倒な結び目を作ったものだ。」
ソータは頭を下げた。
「はい。」
「軽い火遊びではないのだな。」
「違います。」
ミレイユも答える。
「違います。」
オルドアイも答えた。
「違う。」
ヤンガルドアイは腕を組み直した。
「ならば、面倒を背負え。」
その言葉は厳しかった。
だが、否定ではなかった。
「ソータ。」
「はい。」
「お主は二人の女に見られている。甘えるな。逃げるな。自分を軽く見るな。」
「はい。」
「ミレイユ。」
「はい。」
「嫉妬を隠して腐らせるな。怒るなら怒れ。だが、己の誇りを忘れるな。」
「はい。」
「オルドアイ。」
「はい。」
「欲しければ欲しいと言え。だが、欲で相手を潰すな。お前は強い。強い者は、己の手の重さを知れ。」
オルドアイは深く頷いた。
「はい、母上。」
ヤンガルドアイは三人を見渡し、最後にため息をついた。
「まったく。」
その声には、呆れと、少しの笑いが混じっていた。
「フルムーンの夜に、よくもこれほど大きな話を増やしてくれたものだ。」
レオンが小声で言った。
「ほんとっすね。」
ガルドが横目で見る。
レオンは慌てて口を閉じた。
しかし、空気は少しだけ緩んだ。
ヤンガルドアイが続ける。
「認めるかどうかは、お主らの今後を見る。」
ソータは頷いた。
「はい。」
「だが、隠さず話したことは評価する。」
ミレイユの肩から、ほんの少し力が抜けた。
オルドアイも静かに息を吐く。
ヤンガルドアイは、今度はアルベールを見た。
「それと、アルベール殿。」
「はい、ヤンガル様。」
「お主の滋養水とやらについては、後でミレイユから責められるがよい。」
アルベールは深く礼をした。
「覚悟しております。」
ミレイユが冷たく言う。
「覚悟だけで済むと思わないことね。」
「はい、お嬢様。」
オルドアイは小さく笑い、ソータは顔を赤くして俯いた。
カレンがぽつりと言った。
「効いたのか。」
小屋の空気が再び止まった。
ソータは真っ赤になる。
ミレイユも赤くなる。
オルドアイは一瞬目を逸らした。
レオンがむせた。
エルザが口元を押さえる。
ガルドが低く言った。
「聞くな。」
カレンは淡々と頷いた。
「了解した。」
ヤンガルドアイは声を上げて笑った。
その笑いで、重かった場がようやく少しほどけた。
◆◇◆
会議が終わる頃には、昼を少し過ぎていた。
外の広場では、男たちと女たちがそれぞれの二週間を始めている。
共に食事の準備をする者。
狩りの道具を整える者。
久しぶりに並んで座り、何も言わずに月の名残を眺める者。
砦は、出立前のソータたちと、滞在を始めた男たちとが交差する場所になっていた。
ソータは小屋を出て、少しだけ空を見上げた。
昨日の満月はもうない。
いや、月そのものは夜になればまた昇る。
だが、あの夜は過ぎた。
その代わりに、朝と昼の光の中で、形にしなければならないものが増えている。
バルクの契約。
北方物資。
メバドスへの支援。
オルドアイとの関係。
ミレイユとの約束。
自分の新しいスキル。
全部、軽くない。
だが、以前のようにただ押し潰される感じではなかった。
隣にミレイユが来た。
「疲れた顔ね。」
「うん。」
「でも、逃げなかったわ。」
「うん。」
「偉かった、と言ってあげたいところだけれど。」
「けれど?」
「これからが大変よ。」
「はい。」
ソータは素直に頷いた。
ミレイユは少し笑った。
「明日、ここを出るわ。」
「うん。」
「戻ったら、すぐ物資の手配。」
「うん。」
「その後、あなたは一人で高速輸送。」
「うん。」
「怖い?」
ソータは少し考えた。
「怖い。」
ミレイユは頷いた。
「私も怖いわ。」
「でも、認めてくれた。」
「ええ。」
ミレイユは砦の奥を見る。
そこにはオルドアイがいた。
砦の女たちに何か指示を出している。
左腕の緑の組み紐が見える。
「オルドアイを認めたから。」
ミレイユは静かに言った。
「悔しいけれど、彼女はあなたを森で守れる。」
「うん。」
「そして、少なくとも今の彼女は、あなたを勝手に壊そうとはしない。」
「うん。」
「だから、私は認める。」
ソータは胸が詰まった。
「ありがとう。」
「感謝だけでは足りないわ。」
「はい。」
「戻ってくること。」
「戻る。」
「報告すること。」
「する。」
「隠さないこと。」
「隠さない。」
「勝手に滋養水を飲まないこと。」
「飲まない。」
ミレイユは満足そうに頷いた。
そこへ、オルドアイが近づいてきた。
「何の話だ。」
「ソータに釘を刺していたの。」
「足りるか。」
「足りないかもしれないわね。」
「では私も刺す。」
ソータは慌てた。
「もう十分です。」
オルドアイは真面目な顔で言った。
「戻れ。」
ソータは言葉を止めた。
短い一言だった。
だが、深かった。
ミレイユの「戻ってくること」と、オルドアイの「戻れ」は少し違う。
でも、どちらも同じ場所を指している。
帰る場所。
戻るべき場所。
待つ者たちのところ。
ソータは頷いた。
「戻る。」
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「私が道を開く。」
ミレイユが紅い髪紐に触れた。
「私が荷を整える。」
ソータは二人を見た。
「俺が運ぶ。」
三人の言葉が、静かに繋がった。
◆◇◆
その日の夕方、バルクはガルドと二人で砦の外壁近くに立っていた。
ガルナは少し離れたところで、他の女たちと荷の確認をしている。
時折こちらを見る。
バルクはそのたびに姿勢を正す。
ガルドが低く言った。
「落ち着け。」
「落ち着いている。」
「嘘だな。」
「少しだけ落ち着いていない。」
「かなりだ。」
バルクは苦笑した。
夕方の風が、外壁の上を通る。
森の匂いがする。
北の村とも、グランデリアとも違う匂い。
「ガルド。」
「何だ。」
「すまない。」
「何にだ。」
「一緒に帰れないことだ。」
ガルドはしばらく黙った。
「謝るな。」
「だが。」
「お前は逃げていない。」
「……。」
「なら謝る必要はない。」
バルクは唇を引き結んだ。
「寂しい。」
ガルドの目が少し動く。
「俺もだ。」
バルクは驚いたようにガルドを見た。
「お前も言うのだな。」
「言うべきことは言う。」
バルクは少し笑った。
「そうか。」
「だが、必要なら呼ぶ。」
「ああ。」
「その時は来い。」
「必ず。」
「ガルナを言い訳にするな。」
「しない。」
「ガルナも連れてこい。」
バルクは目を丸くした。
「いいのか。」
「必要ならな。」
バルクは嬉しそうに笑った。
「分かった。」
少し離れたガルナが声を上げた。
「何を笑っている!」
バルクが答える。
「ガルナも来いと言われた!」
ガルナの顔が赤くなった。
「声が大きい!」
ガルドはため息をついた。
「変わらんな。」
「変わらんところもある。」
バルクは胸を張った。
ガルドはその横顔を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
◆◇◆
夜、明日の出立に向けて、荷は静かにまとめられていた。
ソータの《神速積載庫》に入るもの。
馬車で持ち帰るもの。
グランデリアで発注するもの。
次の高速輸送で戻すもの。
リーナへ渡す情報。
村長へ伝える言葉。
ミレイユは最後まで確認を続けた。
レオンは手紙を書き足していた。
エルザは弓具の素材を別にまとめている。
カレンは盾と槍の点検を終えた後、保存食の量を確認していた。
ガルドは外の警戒路をもう一度見回っていた。
アルベールは、何食わぬ顔で夜食と茶を準備している。
ただし、茶を出すたびにミレイユの目が光るため、アルベールは毎回成分を説明することになった。
「これは何?」
「麦茶でございます。」
「効能は?」
「喉を潤します。」
「他には?」
「香ばしい気持ちになります。」
「ふざけない。」
「失礼いたしました。」
ソータはそのやり取りを見て、申し訳なくなりながらも少し笑ってしまった。
オルドアイは楽しそうに見ていた。
「お前の執事は面白いな。」
「面白がる相手じゃないわ。」
「強いしな。」
「それも問題なのよ。」
ヤンガルドアイは遠くでアルベールを見ていた。
メバドスへ送る文は、ミレイユとアルベールの手により、どうにか「首根っこを掴む」という表現を柔らかく整えたものになった。
ただし、柔らかくなりきってはいない。
ヤンガルドアイが最後にどうしても一文を加えたからだ。
次に無茶をする時は、私が直接迎えに行く。
アルベールはそれを見て、「大変よろしいかと」と言った。
ミレイユは諦めた。
◆◇◆
寝る前、ソータは砦の門近くに立っていた。
明日、ここを出る。
一度、グランデリアへ戻る。
そしてまた来る。
以前なら、砦を去ることは単なる帰路だった。
今は違う。
ここにも、戻る場所ができてしまった。
ミレイユが隣に来る。
オルドアイも反対側に立つ。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
夜の森は静かだった。
遠くで虫の声がする。
砦の内側からは、男たちと女たちの低い話し声が聞こえる。
ソータは口を開いた。
「明日、出るんだね。」
ミレイユが答える。
「ええ。」
オルドアイも言う。
「そして戻る。」
「うん。」
ミレイユは少しだけソータを見る。
「次にあなたが一人で来る時、私は街で荷を整えるわ。」
「うん。」
「不安よ。」
「うん。」
「でも、行かせる。」
「うん。」
「オルドアイ。」
ミレイユが呼ぶ。
「何だ。」
「守って。」
その一言に、オルドアイの表情が変わった。
それは命令ではない。
頼みだった。
ミレイユが、オルドアイへ頼んだ。
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「守る。」
短く、はっきりと。
「ソータを森から通す。戻す。勝手なことはしない。」
「ええ。」
「ただし。」
「何?」
「戻ってきた時、少しだけ褒めろ。」
ミレイユは一瞬きょとんとした。
それから、小さく笑った。
「あなたを?」
「ああ。」
「考えておくわ。」
「考えるのか。」
「働き次第ね。」
オルドアイは少しだけむっとした。
だが、楽しそうでもあった。
ソータは二人を見ていた。
自分のことで、二人がこんな会話をしている。
以前なら怖くてたまらなかった。
今も怖い。
でも、それだけではない。
胸の奥が、静かに温かい。
「俺も。」
二人がソータを見る。
「ちゃんと戻る。」
ミレイユが頷く。
「ええ。」
オルドアイも頷く。
「ああ。」
「荷も、言葉も、約束も。」
ソータは自分の胸に手を当てた。
「全部、軽くしない。」
ミレイユの紅い髪紐が夜風に揺れる。
オルドアイの緑の組み紐が月明かりに沈む。
その二つを見ながら、ソータは思った。
運ぶものが増えた。
ずっと増え続けている。
けれど、もう自分をただの荷台だとは思わない。
自分も、選んで運ぶ。
自分も、戻る場所を持つ。
自分も、誰かの手を取る。
明日、砦を去る。
だが、それは終わりではない。
戻るための出立だった。
夜風の中で、三人はしばらく並んで立っていた。
何かを誓うように。
何かを惜しむように。
そして、明日から始まる新しい往復の道を、それぞれの胸に描きながら。




