8.それが僕の名前か
乳母車に乗せられて外出したりしているうちに、僕の身体はどんどん成長していた。
どこかを掴まらずによろよろ歩けるようになった。
同時に視界もはっきりしてきた。
視野が狭いというかまだ前方の狭い範囲しか見えないけど、割としっかり認識出来る。
だけど風景がアニメみたいなんだよ。
何というか平面的で。
書き割りのようだ。
僕の前世は謎に満ちているけど、どうやら心理学も勉強していたみたいで発達心理学というか生理学の知識がある。
趣味で読んだんじゃなくて学科の単元として体系的に学んだみたい。
同時にIT関係の知識だろうけど、AIのディープラーニングについての方法論も。
人間の認識って、実は何度も何十回も色々な経験を重ねて作られていくものらしい。
例えば猫には色々な種類がいるけど、それら全部をひっくるめて「猫」と認識出来るのは、数限りない猫の実物や画像や映像を見て学んでいるからだ。
そうじゃないと三毛猫は猫だがクロネコは別の動物だと思ってしまう。
これはどんな物にも当てはまる。
人間が世界を世界として認識出来ているのは、赤ちゃんの頃からひたすら経験を重ねてきたからだ。
人間が得る情報の9割は視覚からだそうで、だから目が見えると見えないとでは情報量が違う。
意識がはっきりしてからかなりの間、目がよく見えなかったのは物理的というよりは脳が情報を処理出来なかったからじゃないかな。
発達途中の脳の回路が流れ込んでくる情報を受け止めきれずに霧散させていたんだと思う。
そもそも「見る」という行為は目で捉えた情報を脳が処理することによって初めて発現する。
つまり人は目では無くて脳で「見て」いるわけだ。
今の僕はかろうじて視覚情報を処理出来るようになった状態で、まだ奥行きとか3次元的な情報処理が出来ないんだろう。
なので周りの風景が書き割りみたいになっているのかも。
そもそも形や色が判るだけで凄いと思う。
それに、どうもこの歳である程度の視覚があるって僕が転生者だからかもしれない。
前世で「見る」という経験をしているから。
もちろんまだ脳の回路に視覚情報を処理するプログラムが出来ていない、というよりは未発達だからいい加減だけど、それでも完成形を知っているというのは大きい。
これってチートなのでは。
多分成長したら消える能力だろうけど。
今の僕は単純なゲームみたいな書き割りの世界をヨロヨロ歩いているだけで、この状態で外に出たらあっという間に死ぬぞ多分。
人間ってつくづくひ弱な生き物だ。
母親らしき人に抱き上げられたり父親らしき巨人に空中に差し上げられたり(多分、高い高いとかされたんだと思う)、時々は熱くてモフモフにくっつかれたりしながら僕の毎日は過ぎて行った。
前世で読んだラノベだと、こんな時は密かに魔法の練習をしたり体内の魔素を巡らせたりして訓練していたけど、もちろんそんなものはない。
周りの人の発する音がやっと「声」になり始めたんだけど、それによると僕は「スーチャン」と呼ばれている。
それが僕の名前か。
どういう字なのか知らない。
キラキラネームじゃないことを祈るしかない。
ちなみに名字はまだ判らない。
経験して判ったけど、人間って家庭内では自分ちの名字なんか言わないんだよね。
どこかに書いてあるということもない。
ていうかやっと細かい所まで見えるようになってきて、でも赤ん坊の周りには手描きの文字なんかないしね。
壁にカレンダーとかポスターとかが貼ってあればいいんだけど、それもない。
でもミルクとかの箱には製品名が書いてあった。
日本語だった。
良かった(泣)。
いや、もちろん英語とかだったとしても別に文句はないんだけど。
まだ赤ん坊だから、これから覚えればいいんだし。
でも僕の脳のOSは日本語で記述されているから、今世の母国語が英語だったらちょっと苦労したかもしれない。
そうじゃなくて、もし異世界語とかだったらどうしようかと怯えていたんだよ。
前世で読んだラノベと違って異世界転生者って苦労すると思わない?
だって前世での経験がまったく役に立たないどころかむしろ邪魔になる。
世界が違えば常識も違う。
普通は成長するに従ってその世界の常識を覚えていくんだけど、最初から日本の常識で固定されていたら大混乱しそうだ。
基本的人権とかなかったら?
身分が厳密に決められていたら?




