第三話 ベルクハイム
ベルクハイムへ向かう道は、村を出てからも長く続いた。
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。
森が減って、代わりに、雪に覆われた畑が増えた。
道を行き交う人の姿も多くなった。
荷物を積んだ馬車。
毛皮を束ねて運ぶ商人。
厚手の外套を着た旅人。
村では、一日に数台の馬車を見ることさえ珍しかった。
けれど、ベルクハイムへ近づくにつれて、その数は増えていった。
やがて、雪の向こうに巨大な壁が見えた。
城壁だった。
白く染まった石壁が、遠くまで続いている。
その上には見張り塔がいくつも立っていた。
「ベルクハイムだよ」
御者が言った。
リアは窓から身を乗り出すようにして、城壁を見上げた。
門へ近づくにつれ、人の声が増えていった。
荷車の軋む音。
馬の蹄。
商人たちの呼び声。
金属を打つ音。
いくつもの音が重なり合っている。
門を抜けると、道の両側に建物が並んでいる。
三階建ての建物もあれば、石造りの大きな店もある。
軒先には毛皮が吊るされ、色とりどりの織物が風に揺れていた。
鍛冶屋の前では、赤く焼けた鉄が打たれている。
雪の中を、人々が忙しそうに行き交っていた。
リアは窓から外を眺め続けた。
知らないものばかりで、目を逸らせなかった。
「……すごい」
「そうだろう。北の町じゃ、一番大きいんだぞ」
御者が笑った。
馬車は大通りを抜け、少しずつ人通りの少ない場所へ向かった。
やがて、大きな建物の前で止まる。
白い壁に、幅の広い扉。
その上に、簡素な木の看板が掛かっていた。
「ここだよ」
御者が荷物を下ろすと、扉が開いた。
「ベルクハイム孤児院へ、ようこそ」
出てきたのは、四十代ほどの女性だった。
厚手の灰色の服を着ている。
その後ろから、何人もの子どもたちが顔を覗かせていた。
「新しい子?」
「そうらしいよ」
「女の子だ」
「名前は?」
声が重って、リアは少しだけ後ずさった。
どうすればいいのか分からず立っていると、女性が子どもたちを手で制した。
「ほら、みんな。まずは離れて」
「はーい」
子どもたちが渋々下がる。
女性がリアの前にしゃがんだ。
「名前を教えてくれる?」
「……リア」
「リアね」
女性は微笑んだ。
「私はマルタ。ここでみんなの面倒を見ているの」
リアは頷いた。
「よろしく」
「……よろしくお願いします」
マルタが少し驚いたように目を瞬く。
けれど、すぐに笑った。
「ずいぶん丁寧だね」
リアは首を傾げた。
「そう?」
「そうだよ」
マルタは立ち上がる。
「さあ、中へおいで。外は寒いから」
扉の向こうは、暖かかった。
広い食堂。
壁際に並んだ机。
奥には大きな暖炉。
その周りには、子どもたちの服や靴が整然と並べられている。
そこは村の家よりずっと広い。
そして騒がしかった。
笑い声。
話し声。
椅子を引く音。
誰かが走って、別の誰かに叱られる声。
リアは入口に立ったまま、その光景を眺めた。
「ここが、あなたの部屋」
マルタが廊下の先を指す。
「何人か同じ年頃の子がいるから、きっとすぐに慣れるわ」
リアは頷いて、部屋へ入る。
小さなベッドがいくつか並んでいた。
窓からは、雪に覆われた町が見える。
遠くには城壁。
その向こうには、白い山々。
リアは窓辺まで歩いた。
村とは違う景色だった。
けれど、雪の白さは同じだった。
「リア!」
不意に廊下から声がした。
振り向くと、玄関で出迎えた子どもたちが、扉から顔を覗かせていた。
「ご飯だよ!」
「早く!」
リアは一瞬だけ、窓の外を見た。
それから、扉へ向かう。
「……うん」
新しい町での生活が、始まった。
ベルクハイムでの生活は、村にいた頃よりずっと忙しかった。
朝は鐘の音で起こされる。
顔を洗い、身支度を整える。
朝食を済ませると、それぞれに仕事が割り当てられた。
掃除をする者。
食事の準備を手伝う者。
薪を運ぶ者。
そして、布を作る者。
リアが最初に任されたのは、糸紡ぎだった。
「ここを持って」
マルタが糸車の使い方を教える。
木でできた車輪が、からからと音を立てて回った。
「足で踏んで、この糸を引くの」
「……こう?」
「そうそう。力を入れすぎないでね」
リアも真似をする。
足で踏むと、車輪が回る。
細い糸が、指先からするすると伸びていった。
「これはね、雪蚕の糸だよ」
マルタが糸を指先でつまんだ。
「雪蚕?」
「この辺りで育てている蚕さ。普通の蚕は暖かい季節に繭を作るけれど、雪蚕は厳しい冬の間に繭を作るの」
リアは糸を見つめた。
白く、細い。
陽の光を受けると、わずかに銀色に見えた。
「この糸はね、肌に触れると少しひんやりするんだ。熱がこもりにくいから、暑い季節には重宝する。ここでは、この糸を使った布を作る仕事もしているんだよ」
「冬に作るのに、夏に使うの?」
「そう。北の土地ならではの品さ」
マルタは笑った。
「王都でも評判がいいんだよ」
リアは細い糸を眺めた。
そんな話を聞いているうちに、糸車が回る。
細い糸が、少しずつ巻き取られていく。
最初の数回は、うまくいった。
「上手じゃない」
隣にいた少女が言った。
リアは少しだけ得意になった。
けれど、その直後だった。
糸がふっと揺れ、隣の糸と絡まった。
「……」
リアは黙って糸を見る。
「引っ張りすぎたんじゃない?」
「そう?」
「ほら、ここ」
少女が解こうとする。
けれど、触れば触るほど絡まりは固くなっていった。
リアの眉間に、少しずつ皺が寄る。
やがて、ぷつん、と糸が切れた。
「「あ」」
少女とリアの声が重なった。
マルタが二人の様子を見て、くすりと笑う。
「まあ、最初はそんなものよ」
リアは切れた糸を見下ろした。
細く、頼りない一本の糸。
これを何本も紡ぎ、布にする。
気が遠くなるような仕事だった。
リアは、少しだけ肩を落とした。
次の日も、糸を紡いだ。
また絡まった。
その次の日も。
今度は糸車を回しすぎて、糸が細くなりすぎた。
「リア、もう少しゆっくり」
「……分かった」
ゆっくり。
足を動かす。
糸を引く。
今度は大丈夫だった。
そう思ったところで、別の場所が切れた。
隣の少女が吹き出した。
「リア、これ苦手だね」
「……うん」
糸紡ぎだけではない。
リアは、織機も苦手だった。
針仕事や布を畳むのも。
細かい作業を続けていると、肩が凝る。
指先に力が入りすぎる。
同じ姿勢で座っていることにも、すぐ飽きた。
「私たちはできるのに、どうしてかな?」
ある日、隣の少女が尋ねた。
「……糸は、軽すぎる」
リアは針を持ったまま答えた。
目の前の布には、歪んだ縫い目が並んでいる。
「軽い?」
「うん」
少女は少し考えた。
「じゃあ、外の仕事したら?」
「外?」
「薪運びとか、雪かきとか」
リアは顔を上げた。
「……それなら、できる」
その日の午後、リアは薪置き場にいた。
束ねられた薪を運ぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
「待って、リア!」
マルタが慌てて駆けてくる。
「そんなに持たなくていいよ」
「持てる」
「そういう問題じゃないの」
マルタが薪を一つ取り上げる。
「身体が大きくなってからにしなさい」
「……分かった」
リアは残った薪を抱え直した。
少し離れたところで、他の子どもたちが雪かきをしている。
「リア、こっち!」
呼ばれて、そちらへ向かう。
雪を掻き、運ぶ。
そして、また掻く。
単純な作業は、苦にならなかった。
身体を動かしている間は、時間が早く過ぎる。
何より、手順を覚えなくても身体が勝手に動いた。
雪を掬う。
足を踏ん張る。
持ち上げる。
投げる。
それを繰り返す。
「リア、速い!」
子どもの一人が声を上げる。
「ほんとだ」
「もうそこまで終わってる!」
リアは手を止めた。
自分の周りだけ、雪がきれいに片付いている。
「……そう?」
「うん!」
子どもたちが笑う。
リアも、少しだけ笑った。
夕方になると、マルタが仕事の様子を見に来た。
「ずいぶん頑張ったね」
「雪かきは楽しい」
「糸紡ぎより?」
「うん」
即答するリアに、マルタは笑う。
「そうかい」
それから、少し考えるようにリアを見る。
「あなたは、手仕事より身体を動かす方が向いているのかもしれないね」
リアは黙って、自分の手を見た。
指先は赤くなり、袖は少し濡れていた。
それでも、嫌ではない。
むしろ、しっくりくる。
「……そうかも」
リアは小さく笑った。
その夜。
食堂の隅では、昼間に紡いだ糸を使って、子どもたちが布を織っていた。
リアはその様子を少し離れたところから眺める。
自分の手元に残った、絡まった糸。
それを見て、リアは小さく息を吐いた。
「……やっぱり、嫌い」
隣にいた少女が笑った。
「明日もあるよ」
「……分かってる」
リアは渋々、糸を手に取った。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
それから、さらに季節が巡った。
リアは孤児院での生活にも慣れていた。
孤児院には、リアと同じように身寄りのない子どもが何人もいた。
年齢もさまざまだった。
小さな子どももいれば、もうすぐ働きに出る年頃の子もいる。
リアはその中でも、特に外仕事を任されることが多くなった。
薪を運び、雪を払い、倉庫の荷物を整理する。
重い荷物を運ぶ商人が来れば、手伝いに呼ばれることもあった。
「リア、これ持てる?」
「持てる」
「じゃあ、こっちも」
「うん」
荷物を抱えて歩く。
そんな仕事を繰り返しているうちに、身体が少しずつ変わっていった。
腕が強くなり、足腰もしっかりしてきた。
以前より、長く走れるようになった。
特別なことではないけれど、少しだけ嬉しかった。
ある日の午後。
孤児院の仕事を終えたリアは、裏手の道を歩いていた。
その途中で、金属の音が聞こえた。
――キンッ。
乾いた音に、リアは足を止めた。
――キンッ。
音のする方へ向かう。
孤児院から少し離れた場所に、小さな訓練場があった。
雪の上に何人もの騎士が立っている。
厚手の訓練服を着込み、手には木剣を持っていた。
向かい合い、何度も剣を打ち合わせている。
――キィンッ!
木剣同士がぶつかる。
リアは柵の外で立ち止まった。
騎士が剣を振るり、一歩踏み込む。
身体を捻るり、振り下ろす。
受けて、流す。
また踏み込む。
騎士の一人が木剣を落とした。
「もう一度!」
別の騎士が剣を拾い、投げ渡す。
そして再び構える。
その姿を見ているうちに、リアの指がわずかに動いた。
拳を握り、開く。
また握る。
まるで自分も、何かを持っているような感覚だった。
「リア?」
背後から声がした。
振り返ると、孤児院の少女が立っていた。
「何してるの?」
「……見てた」
「それ、楽しいの?」
「うん、楽しい」
小さく頷くリアに、少女が笑う。
「リアは騎士服も似合いそう」
「そう?」
「きっと格好いいよ」
リアは訓練場を見る。
木剣がぶつかる音が響いた。
「戻ろう」
少女が言う。
リアは頷いて、踵を返す。
訓練場の前で足を止めることが、いつの間にか日課になっていた。
仕事が終わったあと、食堂へ戻る前に、少しだけ遠回りをする。
柵の向こうでは、いつも騎士たちが訓練をしていた。
雨の日も。
雪の日も。
風の強い日も。
同じ動きを何度も繰り返している。
リアはそれを黙って見ていた。
「また見てる」
ある日、隣に来た少女が言った。
「うん」
「飽きないの?」
「飽きない」
「何がそんなに面白いの?」
リアは訓練場を見る。
「……分からない」
少女は首を傾げて、笑った。
「分からないの?変なリア」
リアも小さく笑った。
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