第十二話 届かぬ剣
武闘大会まで、あと半月。
朝の訓練場には、木剣の音が絶え間なく響いていた。
乾いた音が重なり、砂を蹴る足音が続く。
「右!」
ヴィクトルの声が飛ぶ。
リアが身体を沈めた。
頭上を木剣が通り過ぎる。
そのまま一歩、後ろへ下がる。
追ってきた相手の剣を受け流し、リアは身体を半身にした。
木剣が空を切る。
リアの足が砂を踏む。
次の瞬間、一歩前へ出た。
相手の肩がわずかに動く。
リアは剣を合わせず、軌道を外す。
相手の脇を抜けるように身体を回し、そのまま距離を取った。
「そこまで!」
ヴィクトルの声が響く。
二人が同時に剣を下ろした。
リアの額から汗が落ちる。
呼吸を整えながら、木剣を握り直した。
「次!」
別の騎士が前へ出る。
体格の大きな一番隊の騎士だった。
木剣を肩に担ぐように構え、口元をわずかに上げる。
「よろしく」
「お願いします」
二人が向かい合う。
「始め!」
踏み込んだのは相手だった。
砂が跳ねる。
大きく振り下ろされた木剣を、リアが受ける。
腕に衝撃が伝わり、そのまま押し込まれる。
リアは一歩、二歩と下がった。
だが、三歩目では下がらない。
身体をひねり、剣を滑らせる。
相手の木剣が横へ流れた。
空いた懐へ、リアが踏み込む。
木剣が肩口へ伸びる。
寸前で止まった。
「そこまで!」
相手が目を丸くする。
リアは剣を引いた。
「……参りました」
騎士が苦笑する。
リアは息を整えながら、木剣を下ろした。
少し離れた場所で、ヴィクトルが腕を組んでいる。
「リア」
「はい」
「次は三人だ」
リアが顔を上げる。
三人の騎士が前へ出た。
一番隊、二番隊、四番隊。
それぞれ構えが違う。
リアは足の位置を変え、周囲を見渡した。
「始め!」
三人が同時に動いた。
一人が正面から踏み込む。
リアは受け流す。
その横から、二人目が斬り込んできた。
リアは半歩下がり、木剣を滑らせる。
三人目が背後へ回ろうとする。
リアが足を止めた。
正面の騎士と、横の騎士の間へ身体を入れる。
三人目が踏み込もうとするが、二人の身体が重なり、剣を振る隙間がない。
木剣が交差した。
リアはその隙間を抜ける。
三人の中央へ入るのではなく、端へ出る。
一人が振り向く。
その肩越しに、別の騎士が踏み込んできた。
リアは身体を沈めた。
木剣が頭上を通り過ぎる。
立ち上がる勢いのまま、最も近い騎士の胸元へ木剣を突き出した。
「そこまで!」
訓練場に声が響いた。
三人が動きを止める。
リアはゆっくりと木剣を下ろした。
肩が上下している。
汗が頬を伝い、顎先から砂へ落ちた。
ヴィクトルが歩いてくる。
「ずいぶん変わったな」
リアが顔を上げる。
ヴィクトルはリアの足元へ目を落とした。
「前なら、今の場面で二歩は下がっていた」
リアが自分の足を見る。
砂の上には、いくつもの足跡が残っている。
以前よりも前へ伸びた跡が、訓練場の中央まで続いていた。
「……はい」
リアは木剣を握り直した。
「もう一度、お願いします」
ヴィクトルの口元がわずかに緩む。
「休め。次は午後だ」
リアは一瞬だけ木剣を見た。
「……はい」
訓練場には、次の組の木剣が打ち合う音が響き始めた。
昼を過ぎても、訓練場から人の気配が消えることはなかった。
午前の訓練を終えた騎士たちが水場へ向かい、入れ替わるように午後の組が木剣を手に集まってくる。
リアは訓練場の端に座り、布で木剣についた砂を拭っていた。
柄を握る手を止め、手のひらを見る。
赤くなった皮膚に、細かな砂が張りついている。
布を置き、立ち上がった。
「リア」
声に振り向く。
ヴィクトルが木剣を一本、肩に担いで立っていた。
「次、俺とやるぞ」
「はい」
二人が訓練場の中央へ歩いていく。
周囲にいた騎士たちが自然と道を空けた。
「お、ついに隊長とか?」
「見ものだな」
誰かが小さく言った。
リアは中央で足を止める。
木剣を構える。
ヴィクトルも正眼に構えた。
「始め」
審判役の騎士の短い声とともに、ヴィクトルが踏み込んだ。
速い。
リアは木剣を立てる。
打ち込まれた一撃を受け、そのまま横へ流す。
ヴィクトルは止まらない。
二撃目。
三撃目。
リアは後ろへ下がった。
砂が靴底の下で鳴る。
ヴィクトルがさらに踏み込む。
リアは腰を落とした。
剣を受け流す。
その瞬間、足が止まった。
ヴィクトルの肩が動く。
リアが踏み込む。
木剣がぶつかった。
乾いた音が響く。
ヴィクトルの剣がわずかに外へ流れる。
リアはそのまま一歩、横へ回った。
ヴィクトルが身体を返す。
木剣が迫る。
リアは受けるのではなく、半歩だけ前へ出た。
剣先が交差する。
ヴィクトルの腕が止まる。
リアの木剣が、その肩口へ届く。
だが、ヴィクトルは手首を返した。
リアの木剣が弾かれる。
「っ……」
木剣が砂の上へ落ちた。
「そこまで」
リアが木剣を拾い上げる。
息が少し乱れていた。
ヴィクトルは木剣を下ろした。
「今のは悪くない」
「……はい」
「前なら、あそこで受けていたな」
リアは先ほどの動きを思い返すように、足元を見る。
「踏み込む方が、早いと思いました」
「そうだ」
ヴィクトルが頷く。
「守るために、下がる必要がない時もある」
木剣の先で砂を軽く叩く。
「ただし、踏み込むなら周りを見ろ」
「……はい」
ヴィクトルがリアの足元へ視線を落とす。
「お前が守るのは、自分だけじゃないからな」
リアは黙って頷いた。
そのとき、周囲から声が上がった。
「隊長、もう一本!」
「俺も見たいです」
ヴィクトルが振り返る。
「今日は終わりだ」
「ええ?」
「大会前だからって、倒れるまでやればいいと思うな」
騎士たちから笑いが起こる。
リアも木剣を下ろした。
ヴィクトルが歩き出す。
「明日も動けるようにしておけ」
「はい」
リアは木剣を胸の前で抱えた。
訓練場の中央には、二人が踏み込んだ跡が残っている。
その足跡を一度見てから、リアも訓練場の端へ歩いていった。
午後の訓練が終わる頃には、陽が傾き始めていた。
騎士たちが木剣を片付け、訓練場から次々と出ていく。
リアも木剣を戻し、布で額の汗を拭った。
そのまま宿舎へ戻ろうとしたが、足を止める。
訓練場の中央には、誰もいない。
リアは周囲を見回した。
静かになった訓練場へ、戻っていく。
木剣を一本取った。
構え、一歩引く。
剣を受け流し、そのまま踏み込む。
同じ動きを繰り返すうち、少しずつ足の位置が変わっていく。
受けるだけではない。
相手の動きを見て、踏み込む。
リアは何度か木剣を振った。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
リアが振り返る。
「まだやってたのか」
訓練場の入口に、シリウスが立っていた。
肩に外套を掛け、片手に木剣を持っている。
「はい」
リアが木剣を下ろす。
シリウスは訓練場へ入り、周囲を見回した。
「もう皆帰ったぞ」
「分かっています」
シリウスが小さく笑った。
「なら、一本やるか」
リアはわずかに目を見開き、そして小さく笑った。
「お願いします」
二人が向かい合う。
少し離れた場所で、数人の騎士が足を止めた。
シリウスが木剣を構える。
リアも構える。
「始めるぞ」
次の瞬間、シリウスが踏み込んだ。
リアは剣を上げた。
甲高い音が響く。
一撃。
二撃。
リアは受け流し、横へ動く。
シリウスが追う。
リアは足を止めた。
肩。
腰。
足。
視線を剣から外し、シリウスの身体全体を見る。
シリウスの足が動いた。
リアが踏み込む。
剣が交差する。
そのまま身体を滑らせ、シリウスの横へ回る。
シリウスが振り返る。
リアの剣が伸びた。
剣先が、シリウスの袖をかすめる。
「……お」
シリウスの口元が上がった。
リアは構えを崩さない。
次の瞬間、シリウスが一歩踏み込んだ。
先ほどまでとは違う速さだった。
リアの木剣が弾かれる。
それでも、リアは下がらない。
身体を立て直し、もう一度踏み込む。
打ち合う音が、夕暮れの訓練場に続いた。
やがて――
シリウスの木剣が、リアの木剣を大きく弾いた。
木剣が砂の上へ落ちる。
リアが肩で息をする。
シリウスは木剣を下ろした。
「前より、ずっといい」
リアが落ちた木剣を拾う。
「……ありがとうございます」
「礼を言うところじゃないだろ」
シリウスが笑った。
「大会が楽しみだな」
リアは木剣を握り直した。
「はい」
短く答え、まっすぐシリウスを見る。
夕暮れの光が、二人の足元に長い影を落としていた。
「ただな」
シリウスが歩き出しかけて、足を止めた。
リアが顔を上げる。
「大会に勝つことだけを考えるなよ」
「……はい」
「お前が強くなる理由は、それだけじゃないだろ」
リアの指が、木剣の柄をゆっくりと撫でる。
返事はない。
シリウスはそれ以上、何も言わなかった。
「今日はもう休め」
「はい」
シリウスが訓練場を出ていく。
リアはその背中を見送った。
静かになった訓練場で、木剣の柄を握り直す。
三番隊で身につけた守り。
シリウスから教わった間合い。
合同訓練で覚えた、踏み込む動き。
それらを確かめるように、指先へ力を込める。
やがて木剣を壁へ戻し、リアは裏手の出口から訓練場を出た。
夕暮れの廊下を、宿舎へ向かって歩いていく。
訓練場の正門を出たシリウスは、外套を肩に掛け直していた。
その隣に、ユリアが足早に歩いてくる。
「お待たせしました」
「終わったか?」
「はい」
ユリアが誰もいなくなった訓練場の中へ目を向ける。
「リアさん、どんどん強くなってますね」
「ああ」
短く答えて、シリウスは少し考えるように顎へ手を当てた。
「お前も手合わせしてきたらどうだ。いい刺激になるぞ」
「嫌です。リアさんがもっと強くなっちゃうじゃないですか」
「それの何が悪い?」
「シリウス様、負けちゃうかもしれませんよ」
ユリアが頬を膨らませる。
シリウスは一度、訓練場の方を見た。
それから、肩をすくめる。
「それならそれで、いいさ」
「むう……」
ユリアの頬が、さらに膨らんだ。
「ライバルを強くしようなんて、変です」
シリウスは呆れたように息を吐く。
「いずれ兄様を任せるなら、俺に勝つくらい強くなってもらわなければ困るだろ?」
「……」
ユリアは返事をせず、ぷくりと頬を膨らませた。
シリウスがその顔をしばらく眺める。
「……怒ってるのか?」
「怒ってません」
頬を膨らませたまま、ユリアが答える。
「そうか」
シリウスが手を伸ばした。
人差し指が、ユリアの頬に軽く触れる。
ぷすっ、と小さな音がした。
膨らんでいた頬から空気が抜ける。
ユリアの顔が固まった。
シリウスは何事もなかったように手を引く。
「これで少しは静かになったな」
「…………」
ユリアの肩が震えた。
「……意地っ張り!」
「は?」
「あんぽんたん!」
「待て」
「すけこまし!」
今度はシリウスが完全に固まる。
ユリアはくるりと背を向けた。
「もう知りません!」
そのまま大股で歩いていく。
「おい、ユリア!」
返事はない。
シリウスは遠ざかっていく背中を見送った。
「……すけこましは違うだろ」
少し間を置いて、眉間に皺を寄せる。
夕暮れの廊下に、呆れた声だけが残った。
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