第十一話 夜会の警護
夜会の支度が進む王城の一室で、侍女たちが忙しなく行き交っていた。
鏡の前に座るセレナの髪を、侍女が丁寧に整えている。
銀色の髪は柔らかくまとめられ、細かな髪飾りが一つずつ差し込まれていく。
その傍らでは、別の侍女がドレスの裾を整えていた。
今夜、リアに与えられた任務は、セレナ付きの護衛だった。
白い手袋を嵌めたリアは、部屋の壁際に立っている。
背筋は伸び、両足は揃えすぎず、肩の力も抜けていた。
鏡越しにその姿を見ていたセレナが、ふと顔を上げる。
「あなた、とても姿勢が綺麗ね」
「ありがとうございます」
リアが小さく頭を下げる。
その動きにも、乱れがない。
「誰かに教わったの?」
「……シリウス殿下に」
セレナの手元で、髪飾りを留めていた侍女の指が一瞬だけ止まった。
「シリウスに?」
「立ち方や歩き方を教えていただきました。それから、細かい作法や立ち振る舞いを学ぶなら、セレナ様のお側にいるのが一番いい、と」
セレナが鏡越しにリアを見る。
やがて、口元に小さな笑みが浮かんだ。
「……あの子、まだそんなこと言ってるのね」
「はい?」
「自分は細かいことが苦手だって、言っていたでしょう?」
侍女が髪を整えながら、くすりと笑う。
リアはわずかに目を瞬く。
「……たしかに、そう言っておられました」
「そう。変わらないのね」
セレナはそう言って、鏡の中の自分を眺めた。
侍女がドレスの背を整え、腰の留め具を一つずつ留めていく。
淡い色の布地が身体の線に沿って整えられ、最後に胸元の飾りが調整された。
セレナが椅子から立ち上がる。
侍女たちが裾を確認している間、ふとリアへ顔を向けた。
「今日はあの子も来るのよね」
「そのように聞いております」
侍女が答える。
「そう」
セレナは鏡の前で一度だけ身を翻した。
ドレスの裾が、床の上で静かに広がる。
「じゃあ、リア。今日はあの子のことも見てみると良いわ」
「シリウス殿下を、ですか?」
「ええ」
セレナが振り返る。
目元を細め、楽しそうに笑った。
「細かい作法が苦手だ、なんて言っている人間の振る舞いには、見えないでしょうから」
そう言って、セレナは小さく肩を揺らした。
「ふふっ」
侍女たちからも、控えめな笑い声が漏れる。
リアは何も言わず、セレナを見つめていた。
夜会が始まると、大広間は瞬く間に人で埋まった。
高い天井から吊るされた燭台が無数の光を落とし、磨き上げられた床に淡い金色を映している。
楽団の演奏が流れる中、貴族たちが挨拶を交わしていた。
リアはセレナの少し後ろに立ち、周囲へ目を配っていた。
セレナは次々と向けられる声に、柔らかな笑みを返している。
「まあ、それは素敵なお話ですわ」
相手の言葉に合わせて、ほんの少し首を傾ける。
笑みの深さも、視線の向け方も、すべてが控えめだった。
けれど、その控えめな仕草が不思議なほど人の目を引く。
誰かが話せば、セレナは相手へ身体を向ける。
話が終われば、相手の名を呼んで礼を返す。
ドレスの裾を乱すこともなく、グラスを持つ指先まで静かだった。
上品で、隙がない。
その場にいるだけで、周囲の空気まで整えてしまうような立ち振る舞いだった。
不意に、広間の向こうから歓声が上がった。
「シリウス殿下だ」
人の間を縫うようにして、一人の青年が歩いてくる。
短く整えられた銀髪。
日に焼けた肌。
仕立ての良い礼装を身につけているものの、歩き方にはどこか武人らしい力強さがあった。
シリウスは声を掛けてきた貴族へ、ぱっと顔を向ける。
「これは久しぶりだな!」
笑いながら肩を叩く。
相手もつられて笑った。
「殿下もお元気そうで」
「ああ。最近は訓練ばかりでな。こういう場所に来ると、どうにも肩が凝る!」
大きく笑い、胸を張る。
その仕草はセレナとは対照的だった。
声も、表情も、身振りも大きい。
次の相手には手を広げて迎え、別の相手には身を乗り出して話を聞く。
人の輪の中心に入れば、自然と視線が集まっていく。
けれど、ただ派手なだけではなかった。
給仕が近づけば、さりげなく一歩横へ避ける。
年若い貴族が話しかけようとしていれば、先に気づいて声を掛ける。
「お前、さっきからこちらを見ていただろう?何か聞きたいことがあるなら、遠慮するな」
「え……はい」
緊張していた青年の肩から、力が抜ける。
シリウスは笑ったまま、相手の歩幅に合わせるようにゆっくり歩き出した。
その動きには、訓練で身についた無駄のなさがあった。
人とすれ違うときには自然に距離を取り、後ろから侍従が近づけば身体を半歩ずらして道を空ける。
グラスを受け取るときも、相手の手元を確認してから手を伸ばす。
大きな身振りの合間に、細かな所作がきちんと収まっている。
セレナの優雅さとは違う。
けれど、どちらも人を惹きつけていた。
リアは二人を少し離れた場所から見ていた。
そのとき、シリウスが人の輪の向こうから声を上げた。
「姉様!」
セレナがそちらへ顔を向ける。
「まあ」
シリウスは大きく手を上げて笑っている。
セレナは小さく笑い、裾をつまんで応じた。
シリウスは満足そうに笑い、今度は周囲の人々へ向き直った。
シリウスが別の貴族に呼び止められ、輪の向こうへ消えていく。
セレナはその背中を眺めながら、リアへ顔を向けた。
「ねぇ、どう思って?」
「……確かに、細かいことが苦手と言っている人のようには思えませんね」
リアが答えると、セレナは口元に手を添えた。
「そうでしょう」
肩を小さく揺らして笑う。
「謙虚なのも考えものよね」
セレナの視線が、再び広間の中央へ向かう。
シリウスは何人もの貴族に囲まれ、楽しそうに話を続けていた。
その人の輪から少し離れた場所に、ユリアの姿がある。
騎士服に身を包み、壁際に立っている。
誰かと話すこともなく、シリウスを見つめることもない。
手にしたグラスへ視線を落としながら、時折、広間をゆっくりと見渡す。
人の流れが変われば、立つ位置をわずかに変える。
給仕がシリウスの近くを通ると、その動きを目で追う。
別の客が近づけば、さりげなく視線を移す。
目立つことなく、けれど周囲の動きを一つも逃していない。
シリウスもまた、ユリアへ視線を向けることはなかった。
貴族たちとの会話を続けながら、広間の中央で笑っている。
セレナは扇をゆっくりと開いた。
「あの子、昔はこういう場所に出るのを嫌がっていたのだけどね」
「そうなのですか?」
「ええ」
セレナは扇の端を指先で撫でる。
「気に入った騎士のために、って言って、最近は顔を出すようになったのよ」
リアは目を瞬いた。
「……面倒見がいい方なのですね」
「良い子でしょう」
セレナはそう言って、くすくすと笑った。
紫の瞳が、楽しそうに細められる。
リアは二人を見比べるようにしてから、静かに頷いた。
しばらくして、楽団の曲が変わった。
人の流れも少しずつ変わり、広間のあちこちで新しい輪ができていく。
セレナのもとにも、何人かの貴族が挨拶に訪れていた。
「セレナ様、ご機嫌麗しゅうございます」
「ええ。今夜はお会いできて嬉しいですわ」
セレナは微笑みながら、差し出された言葉に一つずつ応じていく。
そのとき、少し離れた場所から、一人の男がふらつきながら近づいてきた。
頬は赤く、手には飲みかけの酒杯がある。
周囲の者が何度か声を掛けているが、本人は気にする様子もない。
「これはこれは、セレナ様」
男は笑いながら近づいてくる。
歩幅が大きい。
距離の詰め方も、夜会の場にしては近すぎた。
リアの足が動く。
セレナの斜め前へ、一歩。
男とセレナの間に、わずかに身体を差し込む。
男が目を瞬いた。
だが、その前にセレナの声が落ちた。
「大丈夫よ」
リアが振り返る。
セレナはいつもの笑みを浮かべていた。
そして、ほんのわずかに首を横へ振る。
リアは一歩下がった。
再びセレナの後ろへ戻る。
「いやあ、これは失礼」
男はそう言いながら、悪びれもせず笑った。
「しかし、相変わらずお綺麗ですな。こんなに着飾られていると、誰のためにそこまで……」
周囲の空気がわずかに止まる。
セレナは笑顔を崩さなかった。
「まあ。今夜は皆様に楽しんでいただくためですわ」
扇を軽く開く。
「それよりも、先ほどお話しされていた領地の新しい街道について、少し気になっていたことがございますの」
「ああ、あれですか」
男の注意がそちらへ向く。
セレナは自然な調子で話題を変え、そのまま別の貴族へ視線を向けた。
「そういえば、そちらの件については――」
会話の輪がゆっくりと別の話題へ移っていく。
男もいつの間にか、先ほどまでの勢いを失っていた。
やがて別の客に声を掛けられ、その場を離れていく。
セレナは何事もなかったように微笑んでいた。
リアはその横顔を見て、静かに姿勢を正した。
「どうかしたの?」
「……いえ」
リアは小さく首を振った。
「何でもありません」
セレナは小さく笑った。
そして再び、夜会の人々へ向き直った。
夜会が終わる頃には、広間に残る人影もまばらになっていた。
楽団の音が止み、給仕たちが静かに杯を片付けている。
セレナは侍女たちを伴い、静かな廊下へ出た。
その少し後ろを、リアが歩く。
夜会の間と変わらず、周囲へ視線を配りながら一定の距離を保っていた。
やがてセレナが足を止める。
裾が静かに床へ落ちた。
「今日はありがとう、リア」
「任務ですので」
リアは背筋を伸ばしたまま答えた。
セレナが振り返る。
「そうね」
その口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「でも、あなたに任せてよかったわ」
リアの目がわずかに見開かれる。
「……ありがとうございます」
「夜会の護衛は、剣の腕だけでは務まらないもの」
セレナはそう言って、廊下の先へ目を向けた。
「周りをよく見ていたでしょう?」
「はい」
「それに、私が止めれば、きちんと下がった」
先ほどの出来事を思い出したのか、セレナが少しだけ笑う。
「護衛が主を守ることと、主の判断を尊重すること。その両方ができる人は、案外少ないのよ」
リアは黙って聞いている。
セレナは再びリアへ視線を戻した。
「今夜は安心していられたわ」
「……はい」
リアが小さく頭を下げる。
セレナはそれを見届けると、再び歩き始めた。
「さあ、戻りましょう」
「はい」
リアもその後に続く。
廊下に二人の足音が重なり、夜会の名残を残した王城の奥へ、静かに消えていった。
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