夫の憂鬱
「階段から落ちた? しかも、妊娠初期だと?」
底冷えするような義兄の平坦な問いかけに、ライシスは顔を上げることができなかった。
焦りから声を荒らげたライシスを恐れ、階段から落ちたコーデリアは、意識はあるもののどこかぼんやりしていてよく眠る。
医師から、お腹の子は無事だと聞いた時は、ぽかんと口を開けてしまった。
そして、あの時コーデリアが妊娠を伝えたかったことに気づいて呆然とした。
聞けば、二週間も前に診断を受けたという。
同じ屋敷に住んでいて、しかも寝室も同じなのに、妻を避け続けていたツケがこれだ。
「我が妹は、私には何も言わなかったが、当然おまえは聞いていたのだろうな?」
妻とよく似た怜悧な美丈夫が凄む。
公爵家当主となった妻の兄は、先代の残したあらゆる面倒事を一気に片付け、社交界でも圧倒的な存在感を持つ。
表情が乏しく淡々とした口調は、常でも迫力があるというのに、怒りを孕んでさらに恐ろしさを増していた。
ずっと没交渉と言って差し支えなかった兄妹は、近頃は時間を取り戻すようによく連絡を取り合う。
ライシスよりよほど親密なのではと、密かにやきもきしていたりしたのだが。
ため息をついた義兄が妹を見る藍紫の瞳には、痛々しさや慈しみや哀れみが複雑に混在している。
その眼差しに嫉妬する権利すら、今のライシスにはないのだ。
「二日も妹の容態を隠すなど、我が家を愚弄しているのか」
「絶対安静だったのです! 見舞いに来ても、」
「それでも、伝えるべきだった。何を置いてもだ」
公爵の言葉は的を射ている。
妻の生家で家族で、そして政略で結びついた格上の家門。
蔑ろにしていい理由など一つもない。
この二日間ライシスはとにかく忙しかったが、手紙一つ出せる暇がなかったとは言えない。
何度か執事に言われたが、区切りをつけてからと後回しにしたのだ。
理由に、兄妹への嫉妬があったことなど、自分が一番わかっている。
「リリン、体調の変化はあったのか」
すでに場の支配者として君臨する義兄が、ライシスではなく妻の傍に控えていた侍女に問う。
いつの間に、名を呼ばれる関係になったのだろう。ライシスは呼ばれたことなどないのに。
「ええ。時々吐き気と、味覚や嗅覚に変化がありました」
「それに、とても眠いようです。どこででも眠ってしまいます」
侍女と執事が答える。
そんなこと、ライシスはちっとも知らなかった。
「私の妹と婚姻しておいて、よそ見とはいい度胸だな」
「な……」
「二日前、おまえが誰とどこにいたかなど、知るのは簡単なことだ」
知られていた。冷や汗が流れる。
決して、決して倫理に反することはしていない。
ライシスの心はもうずっと前から決まっていて、だからこそケジメをつける必要があっただけ。
コーデリアは、ライシスがどこで何をしていても、嫉妬なんてしてくれない。
嫉妬してほしいと願うくらい、ライシスは妻に惹かれている。愛してしまっている。
「……」
言い訳は、できなかった。
愚直と称されるライシスには、状況の説明すら言い訳になるような気がして、口を開くことができない。
「……あ」
不意に侍女の声がして、ハッと見ればコーデリアの長いまつ毛が揺れた。
慌てて駆け寄ると、ゆっくり青白い瞼が上がる。
「…………ご、ちゃくなん?」
ライシスを通り越した視線が、義兄を捉える。
子供のようにふわふわと頼りない声だった。
「ああ。コーデリア、気がついたか?」
「……なまえ、おこられる」
「大丈夫だ。もう、大丈夫なんだよ」
応える義兄の声は、これまで聞いたことがないほど柔らかく甘やかで、狼狽える妻の気持ちがよくわかった。
そろりと周りを見渡した妻が、言う。
「……おうちに帰りたいな」
ぐしゃりと、心がひしゃげる音がした。
どうして、と幼馴染が泣く。
婚約者ができても諦めきれず、往生際悪く傍に居続けた。
とにかく好きで、どうしたって愛していて、叶わないからこそ愛しくて。
婚姻式が決まった時に、一度、別れを決めた。
互いに涙を流し、抱き合い、妻となる人のために、家門のために背を向け合った。
だというのに、婚姻して妻ともいい関係性を築けている今、ライシスはまた幼馴染を説得する羽目になっている。
事の始まりは、館長を勤める王立図書館の再開館の折、祝いと誘い文句の手紙を受け取ったことだ。
当日は妻も来るし、二度と会う気はなかったが、幼馴染として祝いたいと言われれば断りづらい。
館内で妻と幼馴染が顔を合わせたのにはヒヤリとしたものの、妻はまったく気に留めてはいない様子で、少々落ち込んだ。
幼馴染にも『奥様はあなたに興味がないの?』と問われる始末だ。
ほんのり苦く思っているところに、幼馴染から見知らぬ若い男性と腕を組む妻を見たと教えられた。
特徴を聞けば聞くほど、妻の実兄であることにはすぐに気づいたが、ひどくもやもやとした。
妻は、結婚当初こそ無関心にも近い感じだったが、時を追うにつれて少しずつ距離が縮まっていると思う。
それでも、血の近さゆえか、実の兄弟との睦まじさには敵わない。
いや、比べる相手が間違っているのは承知の上で。
妻は不誠実なことはしないと幼馴染を説得するため、という言い訳をしながら、仕事後に彼女と会っていた。
もちろん話をするだけの健全な交流だが、その実、妻が嫉妬してくれるのを期待していた。
その結果が、このザマだ。
目覚めた妻は、私室のベッドで居心地が悪そうに身を竦ませた。




