初めての『期待』と
夫婦生活は、お互いかなり多忙である。
夫は王立建物の運営管理を複数担いながら、領地経営の執務もある。
コーデリアは家政と茶会などの社交、そして婚姻に伴い立ち上がった公爵家と侯爵家の共同事業の補佐などを務めていた。
ちなみに、兄はずいぶん前から婚約者であった女性とようやく婚姻し、今は王都のタウンハウスにいる。
弟は領地経営を主に担う傍ら、両親の見張りも兼ねて領地に住んでいるという。
兄が婚姻できなかった理由は、もちろん気難しさんの両親である。本当に余計なことしかしない。
夫とは、相変わらず寝室は一緒だ。
が、近頃は暇を縫ってヒロインと会うことも多いようで、大変気まずそうにしている。
気まずいならやめればいいのに、と思うが、口出ししない約束なので気づかない振りをしている。
そうして忙しい日々の中で、茶会に出席してくれたご婦人からの指摘があり、専属医の診察を受けることにした。
「ご懐妊です」
「あらぁ……」
思わず他人事のような反応をする当人とは反対に、同席していた執事と侍女が歓声を上げた。
すっかり侯爵家に馴染んだコーデリアは、前世の人生経験を活かし職場改善などにも力を入れたため、使用人にも人気がある。
「若奥様、おめでとうございます!」
ぎゅっと手を握った侍女に頷きながら、ぺったんこのお腹に触れる。
本当に、ここにいるのだろうか。
前世では、婚姻したことも母になったこともないと思う。そういう記憶はない。
嬉しい? そう、たぶん嬉しい。
まだ実感がないけど、少なくとも安堵はしている。
「……喜んでくれるかな」
呟く言葉は、賑々しい声にかき消されて、誰にも届かない。
喜んでほしい。そうでなくても、ただ祝ってほしい。
それは、初めてコーデリアが夫に対して持った〝期待〟だった。
愛してほしいとも、自分だけを見てほしいとも思わないし、期待していない。
けれど、子のことだけは。
「若様には、どうぞ奥様からおっしゃってくださいね。きっと喜びます」
「ええ。私たちは、それまで口を噤んでおりますからね」
にこにこ喜んでくれるのが、執事と侍女だけでは、なぜ満足できないのだろう。
期待しないでいられた時間を、なぜか恋しく思った。
懐妊がわかった日から、夫の帰りが遅い。
つわりが始まり体調を崩しやすいため、見送りや出迎えはできていない。
なかなか時間が合わず、起きる前に出かけ、寝ついてから帰って来る夫に、まだ報告できていなかった。
手紙にしようかとも思うのだが、仕事の妨げになってしまっては申し訳ない。
「若奥様、そろそろ寝られては?」
「ええ……でも、まだ言えてないのよ」
「ですが、お身体に障ります」
執事の方から、もう少し早く帰宅するようにと願い出てはいるようだが、仕事が忙しいらしい。
仕事後にヒロインと一緒にいるのを知っているのは、コーデリアだけ。
小説通りだとすれば、ちょうど二人の関係が急速に深まる時期だ。
かくん、と頭が揺れて、急激な眠気に抗えない。
妊娠中は眠くなると聞くが、本当だった。急に意識が遠のく感覚が、ちょっと怖い。
幸い吐くことは少ないが、強い眠気と特定の香りや味を一切受け付けなくなった。
「……コーデリア?」
座ったまま眠っていたコーデリアは、焦ったような夫の声に意識を引き上げられた。
ああ、助かった。まるで戻れなくなりそうに深い眠りだったから。
「旦那様……おかえりなさい」
「……ああ。眠いなら、部屋に行きなさい」
いつになく強ばった表情の夫に、寝起きのぼんやりした頭のまま首を傾げた。
階下の吹き抜けが見下ろせる場所で待っていたつもりが、そのまま座り込んで眠ってしまっていたようだ。
今なら話せる、と思い身を起こすと、いつもとは違う匂いが漂った。
嗅覚も変わっているから、本来のものとは違うかもしれない。
けれど、甘ったるく滴る蜜のような匂いに、一気に吐き気が襲った。
普段の夫は、もっと優しく爽やかな香りなのに。
「若奥様! 歩けますか? 支えます!」
口を抑えるコーデリアを、すぐさま近寄った侍女が抱えるように支える。
「若様! 湯浴みをしてきてください!」
「急いで、若様。……移り香がございます」
「あっ……」
背後のやり取りを聞く余裕のないコーデリアは、侍女に合図をして、ぐらぐらと揺れる意識のまま、夫に手を伸ばす。
吐き気は少し治まった。大丈夫。今でないと、また会えなくなる。
「旦那様……話が」
「あとでいい」
「いえ、今……」
「あとでと言ってるだろ!」
いつになく険のある鋭い声に、驚いたコーデリアは無意識に後ずさった。
大声は苦手だ。怖い声も。昔、よく聞いた。
キーンと耳鳴りがするほどの甲高い声、低く唸る獣みたいな怒鳴り声。
「若奥様!」
「コーデリア!」
「危ない!」
あれ。地面がない。
そう思った次の瞬間には、お腹を抱えていた。




