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魚は泳ぐ。蒼の中   作者: 津蔵坂あけび
トーヤとΦ(ファイ)
5/5

ご。

 大海原を悠々と泳ぐ巨大なクジラ。口側にひだの走った腹側は白いが、背中は黒に近い鼠色である。尾ひれを大きく動かし、海水を掻く。その巨体を震わせれば、雨の合図だ。

 クジラの大きさは日によって様々で、イルカほどの大きさのものが群をなすことがあれば、島よりも大きなそれが現れることもある。そして、体色も薄かったり濃かったりする。雨を降らせることもあれば、何食わぬ顔で泳いでいるだけのことも。


 この世界の雨というのは、ひどく異質だ。

 というのは、空を満たすのは青々と澄んだ海水。

 その空から降り注ぐものが水ならば、それは海に溶けて人々の目には触れないだろう。空から降り注いでいると知覚できるのは、それが泡だからだ。泡は油時計の中で時を刻むそれのように、水底にべったりと広がる。てらてらと輝いていて、ぬめぬめとしている。


 泡の雨が降り注ぐ水底を、ひとりの少年が右手で傘を作りながら、駆けていく。麻袋を紐で以て背中にくくりつけて、自転車を必死にこぐ。麻袋からは、がちゃがちゃと金属がぶつかり合うような音が鳴っている。

 

「雨だ。森に隠れよう」


 少年は、雨を凌ぐために近くの森の中に身を潜めることにした。殺風景な、マリンスノーの積もる平原と森を間仕切る木々に自転車を立てかける。太い根っこを這わせる木々が生い茂る森の中では、車輪は無用の長物だ。生い茂るとはいっても、その木々はとっくに死んでしまっているのだが。

 空から降り注ぐ泡は、海底に沈む木々にべったりとまとわりつくそれは、塗れていて気持ちのいいものではない。泡が含むものは空気ではなく、水に沈む重い油だ。人間だけでなく、魚の群れも珊瑚や倒木、岩陰に身を潜める。

 この世界では、雨を天からの恵みとは捉えない。

 蒼い蒼い海を泳ぐクジラは、光沢のある皮膚を持ち、物々しい金属音を立てながら泳ぐ。

 降り注ぐ泡は海底に沈んだ、死んだ森の木々に触れると液体を思わせる動きに変わり、木の肌をするすると滑り落ちていく。そして、森の底に層をつくって溜まっていく。

 その上を少年が踏みしめると、再び泡となって分裂し、水中に解き放たれる。やがてふわふわと降りてきて、再び油溜まりに還って行く。脚にまとわりつく油の泡の感触に、少年は嫌悪感を覚える。それでも頭上を覆う緑の失われた枝の傘に守られているから、幾分かは塗れずに済む。

 少年は歩き疲れているようで、木の幹にもたれかかってへたり込み、靴を脱いで足の指を開いたり閉じたり。


「こんな雨宿りしている時間なんてないのになあ」


 疲れやすい自分の身体と、要領の悪い自分の頭。その両方に少年は悪態をつく。担いでいた麻袋の中身をごそごそと漁り、取り出したのは電子回路の残骸、壊れて配線が飛び出した機械などのスクラップ品だ。


「使えなくてもいいとは言ってたけど、こんなもので足しになるのかよ」


 スクラップ品は、鉄くずと形容するにふさわしいものばかり、生きている部品などあるのだろうかと思うほど、錆びて崩れたものばかりだ。

 赤錆、黒錆、緑青。ありとあらゆる色とりどりの錆を手で払い落とし、顔をしかめる。こんなものを融かしたところで、まともな金属が取れるのか。


「――リャンおじさんも信用ならないしな」


 少年は再び深々とため息をつく。錆を払い落したあと、麻袋の中に戻す。とはいっても、落とし切れてはいない。そもそも麻袋の中も錆屑だらけなので結局綺麗にはならない。

 泡の雨は止む気配を知らず、枯れた枝の隙間をぬって、傘を持たない少年の背中を濡らす。葉の落ちてしまった死んだ森では、そこまで雨を防げるわけではない。

 ここでずっと半端な雨宿りに時間を費やすわけにもいかない。

 少年は歩き始めた。少年の目に映る死んでしまった森には、新たな生命が。海の中に息づく藻や海草が、かつて地上に息づいていた木々を淘汰していく。その様を鋭く指すような視線で睨みつけながら、少年は歩いていく。


 顔を俯けて。途方もなく大きい鯨の腹が空を覆う。そんな様を仰ぎ見ることはしない。少年の視線は常に地面にあった。

 ――ふと、歩みが止まる。


「ロボットの腕だ」


 少年が見つけたのは、藻や海草に飲まれ行く死んでしまった森の中ではひときわ目立つ、動かなくなったロボットの部品。それも、少年が麻袋の中に積めていたものと比べると、かなり保存状態がいい。部品集めをしている少年からすれば、とんだ巡り会いだった。

 ロボットの腕は、人間で言えば肩の付け根から指の先まで。親指の付き方から、左手と分かる。剥き出しになった骨格は、大小の六角形の板と、その頂点同士をつなぎ合わせる鉄骨で構成されていて、内部で導線が黒いフィルムで包まれている。肩の関節部分から露出している導線には、流石に錆が目立つが、フィルムに包まれた中身は使えそうだ。

 少年は迷わず、それに手を伸ばしたが、視界の中に少年のよく知る機械の腕がもう一本飛び込んできた。思わず、伸ばした手を引っ込める。互いに顔を見合わすと、透き通りながらも少年の顔をくっきりと跳ね返す瞳を宿した少女が。エメラルド色に輝くそれは、きりきりと小さな音を立てながら、きょろきょろと動く。


「トーヤ……?」

「ファ、φ(ファイ)。な、なんでこんなところにいるんだよ」


 そう聞かれて、腕に継ぎ目のある少女は、瞳の色を濁らせた。瞳を動かす音は、どこかぎこちない音に変調し、エメラルド色の海が瞳の中で満ちていく。海の中で少女が流す涙が見えるとは、奇妙なものだ。

 白黒の螺旋模様の身体に黄色い頭をした一匹の魚が、少女の前でひらりと舞った。足下には赤と白の斑点模様の愛くるしい、大きな鋏を持ったエビも、少女の後を付くように歩いている。


「ジャン、ランドール。ありがとう」


 目の形は違えど、少女の顔を見上げながらくりくりと動かすというのは、どちらも同じ。ただひとり、少年トーヤだけが年の頃には似合わない眉間にしわを寄せていた。その視線に気づいて、少女は「あ」と声を漏らす。


「……名前を付けているのか?」

「ト、トーヤ。隠しててごめん」


「言ったよな。生き物とは関わるなって。生き物は、お前を置いて行ってしまう。ひとりぼっちにしてしまうって」

「トーヤだって、一緒でしょ?」


「一緒じゃないっ!」


 少年は海を割るような、大きな声を出した。

 肩を上下させて、息を荒くして。


「俺は、俺は……、お前をひとりにしないっ! どんなに時間が経っても、お前の傍にいたいんだっ」


「ありがとう」


 お前をひとりにしない。少女はその言葉を噛みしめて、静かに頷いた。――しかし、やがて口を歪める。


「もう、嘘は付かなくていいよ」


 その一言が少年の中の時を止めた。

 少女の視線は、少年の指先から二の腕までも覆う、裾の長い手袋に注がれていた。その下の肌を、少年は必死に隠してきたが、少女にはそんなこと分かっていた。

 少女の両腕にある金属の継ぎ目。少女が偽りの生を持つことの何よりもの証拠。


「トーヤは、人間で私とは違う」

「――今は違うかもしれない」


 少年は、手袋の裾をまくった。

 少年は初めて、自らの人間の肌を少女に見せたのだ。血色がいいけれど、長い間日の下に晒されていない肌は、日焼けを知らない。少女は少年の白い肌を見て、目を細め、継ぎ目のある指で掴んで引き寄せて、頬ずりをした。


「私と違って、生きていて。私の大好きな、命の香りがする」

「なんで、いつか終わる命を肯定できるんだよ。俺は……、お前を置いて死にたくなんかないのに」


「でも、それが自然の理だもの」

「俺は嫌だ。φ(ファイ)をひとりにしたくない」


 少年は少女の腕を乱暴に振り解く。

 歯を食いしばり、口を歪めて、瞳を潤ませながら。少女に向けて、鋭い視線を投げかける。


 真っ直ぐだけど、歪んだ意志。


 少女は、少年が自らの瞳の奥に忍ばせたものを、そう読みとった。


「トーヤは、生きることをやめたいの?」

「違うっ、俺はφ(ファイ)と同じになって、φ(ファイ)と同じだけ生きたい」

「トーヤ、それは生きることをやめることと同じだよ。命は、いつか死んじゃうからこそ生きているの。終わりがあるから、今を感じられる。私にはその感覚がなくて、トーヤにはそれがしっかりとあるはず……」


 死は、命に生を自覚させるために必要。

 そう語る少女の眼差しは、瑞々しい輝きを放っていた。少女の瞳から出た光の矢は、少年の胸を刺す。

 少年は口を歪め、歯をぎりりと噛みしめ、震えた声を漏らす。


「なんでだよ。なんで、リャンおじさんもφ(ファイ)もそんな諦めたこと言うんだよ」



「――今日ね。ローラが死んじゃったの」

「ローラって、誰だよ」

「ジャンのガールフレンドってところかしら」


 ローラもジャンもランドールも。ものを言わない生き物に、少女が与えた名前だ。おそらく彼らは、やがて訪れる死というものの存在を知らない。


「お前も、置いていかれる辛みは分かっているんだろ?」

「分かっているよ」


 少女は、少年とはち合わせるきっかけとなった、ロボットの腕を拾い上げる。もう動かなくなってしまったそれは、機械に命があるとするのなら、死んだ状態だ。


「私を残して動かなくなってしまった機械も、死んでしまった生き物も、私はたくさん知っている。辛いことだけど、私はそれを否定したくない。私は金剛石で作られていて、死ぬことも錆びることも朽ちることも知らない。だけど、終わりを知らない存在は、今を大切にできない。それは、本当に悲しいことなの」


 少女は死んだ機械の部品を拾い上げては、ひとところに集めていた。死んでしまった機械を弔うための祠のようなもの。それが、この沈んだ森の奥にあるという。


「私はそこに、このロボットの腕を納めるつもりだった。トーヤはどうするつもりだったの?」


 首を傾げ、少年の俯いた顔を少女は覗き込む。

 少年は、少し背中を丸め、身を屈めたかと思うと少女の手からロボットの腕を奪い取った。少し怯む少女。


「お前がどう思ってたって。嫌なものは嫌だ。だからこれは、俺の使いたいように使わせてもらう」


 死んだら何もかも無くなって、それだけ。生きていることが全てで、死には何の意味もない。だから、死を肯定しても、少年は受け入れない。

 少年は少女に憧れながら、少女の考えを許容しなかった。


 少年は、まだ泡の雨の降りやまない森の向こう側へと消えていった。





「……、トーヤのバカ」





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