第二十章 シャドウドラゴン
森で告げられた日が、ついに訪れます。
森で聞いた「二日」という言葉が、頭から離れなかった。
あの話のとおりなら、何かが起きるのは明日だ。
朝食を済ませたレオは、家を出た。
じっとしていられず、西の森へ続く橋へ向かう。
橋には柵が置かれていた。その向こうで、村の青年が二人、槍を持って森を見張っている。
レオも足を止め、川の向こうを見た。
木々の上に広がる黒い霧は、昨日よりも濃くなっていた。
*
集会所の前では、騎士たちが荷物をまとめていた。
クーパーが何かを指示し、その周りには、槍を持った村の青年たちも立っている。
「撤収とは、どういうことですか。村はどうなるのです」
村長がクーパーの服をつかんでいた。
「領主様のご命令です。近くトピアが襲撃されるとの情報があり、各地の騎士団が集められています」
「しかし、森はすぐそこなのですよ」
「武器は一部、置いていきます。自警団を組織して、橋を守ってください。森へは入らず、防御に徹するようお願いします」
クーパーの声は落ち着いていたが、表情は硬かった。
やがてレオに気づき、手招きした。
「レオ。我々はトピアへ戻らなければならなくなった」
「……聞きました」
「敵の主な狙いは、君の話したとおりトピアらしい。この村へわざわざ攻め込んでくるとは思えんが、油断はできない。気をつけてくれ」
レオは森の方を振り返った。
騎士たちがいなくなれば、村を守るのは自警団だけになる。
「僕も、できることは手伝います」
クーパーは何か言いかけたが、レオの顔を見て、短くうなずいた。
「無理はするなよ」
村長とレオに握手をし、馬へ向かう。
準備を終えた騎士たちが、そのあとへ続いた。
列が村を離れると、青年たちは残された槍と盾を持ち、橋へ集まっていった。
*
翌朝も、レオは橋へ向かった。
自警団の青年たちが、昨日と同じ場所に立っていた。
だが、森の様子は違っていた。
黒い霧が、目に見えて膨らんでいる。
木々の間から湧き上がり、上空へ集まっていく。
「何だ、あれ……」
青年の一人がつぶやいた。
霧が大きく渦を巻いた。
一つの塊になり、左右へ広がる。
翼だった。
長い首が伸び、その先に頭が形作られていく。
レオは、息を止めて見上げた。
森の上に、巨大なドラゴンが浮かんでいた。
『シャドウドラゴンか』
隣から、ファントムの声が届いた。
「シャドウ……?」
耳を裂くような咆哮が響いた。
レオは両耳を押さえた。自警団の青年たちも身をかがめる。
黒い気をまとったドラゴンが、翼を動かした。
森の上を離れ、村へ向かってくる。
レオは思わず後ずさった。
ドラゴンは村の上空を通り過ぎ、そのまま飛び去った。
トピアの方角だった。
誰も、槍を構えることさえできなかった。
遠ざかる姿を見送ってから、レオは森へ目を戻した。
あれほど濃かった黒い霧が、消えていた。
*
レオは家へ駆け戻った。
「母さん! 大きなドラゴンが、トピアへ飛んでいった!」
母が驚いて立ち上がる。
レオは息を整えながら、橋で見たことを話した。
それから、荷物をまとめ始めた。
「レオ。何をするつもりなの?」
「トピアへ行く」
手近な袋へ、必要なものを入れる。
母は黙って、レオを見ていた。
「僕が行って、どれくらい役に立つかはわからない。でも、あそこには領主様も、クーパーさんたちもいる。学校の友達だって……」
言葉が詰まった。
森で見た、倒れた騎士たちの姿が浮かぶ。
「父さんも、こんなときに何もしないで家にいたりしないと思うんだ」
母の目に、涙がたまった。
レオは袋を持つ手を止めた。
「母さん……」
母は何も言わず、レオを抱きしめた。
しばらくして腕を離すと、台所へ向かった。
用意してくれた弁当を受け取り、レオは荷物へしまった。
「ありがとう」
母はうなずいた。
玄関を出かけたところで、レオは立ち止まった。
ローブと杖。
部屋へ戻り、学園祭の賞品を取り出す。
このローブには、魔法攻撃を和らげる効果がある。きっと役に立つ。
ただ、杖は違った。
魔法を増幅する杖は、戦闘用の武器に分類される。生徒の使用は認められていないため、賞品の杖にも、増幅用のルーンは組み込まれていなかった。
トピアでルーンを取りつけてもらえば、使えるようになる。
けれど、そんな時間があるだろうか。
ローブを羽織っていると、ファントムが杖へ顔を近づけた。
杖が、紫色に光った。
レオの手を離れ、宙へ浮かぶ。
「ファントム?」
杖の周囲に、小さな魔法陣が幾つも現れた。
光の線が木の表面を走る。
何もなかった軸に、複雑な模様が刻まれていった。
やがて杖が横向きになり、レオの前へ移動した。
おそるおそる手を伸ばす。
握った瞬間、体の中から魔力を引かれた。
「わっ……」
杖が青く光り、赤へ、黄色へと色を変えた。
次々と光が流れ、ようやく収まる。
レオは杖とファントムを見比べた。
何をしてくれたのだろう。
家の外へ出て、周囲に誰もいないことを確かめた。
空へ向けて、水砲を放つ。
いつもと変わらない。
小さな火球も、雷も同じだった。
レオが首をかしげると、ファントムの声がした。
『竜の杖だ』
竜。
レオは杖へ目を落とした。
右手に意識を集中し、竜力球の魔法陣を作る。
小さな球を、一つだけ。
そう思ったのに、集まる魔力がまるで違った。
紫色の球が一気に膨らんだ。
レオが慌てて杖を上へ向けると、球は空へ飛び出した。
見る間に高く上がり、小さな点になる。
レオは口を開けたまま、その光を追った。
*
ロバに乗って集会所へ向かい、村長へ事情を話した。
トピアへ急ぎたいと頼むと、村で一番足の速い馬を借りることができた。
ロバとトランクを預け、荷物を移し替える。
レオは馬へ乗った。
馬が走り出した。
その横を、ファントムが飛んでいた。
*
その頃、トピアは混乱の中にあった。
城壁を包む結界へ、黒い息が叩きつけられていた。
上空を旋回するシャドウドラゴンが、首を下げる。
再び、闇のブレスが降った。
結界の表面へ、亀裂が広がった。
地上からは魔法の矢や火球が放たれたが、ドラゴンは攻撃をやめなかった。
太陽が頭上を過ぎた頃、ついに結界が砕けた。
騎士団に加え、冒険者や自警団までが城壁へ集まった。
バリスタの太い矢が、ドラゴンの胴体へ飛び込む。
だが、黒い体を通り抜け、その向こうへ消えた。
教会の聖職者たちが白魔法を放つと、当たった場所がわずかに薄れた。
それでも、ドラゴンは飛び続けていた。
黒いブレスが、通りへ流れ込んだ。
逃げる人々が、一人、また一人と倒れる。
「地下へ! 城の地下へ避難しろ!」
騎士たちが叫び、住民を誘導していた。
子供を抱えた男が走る。
老人の腕を支えていた女性が、背後を振り返った。
通りの向こうから、また黒い気が迫っていた。
*
トピアの城壁が見えたとき、レオは馬上で体を起こした。
間に合わなかった。
結界は、もう見えなかった。
黒いドラゴンが城壁の上を飛び、街へ何度もブレスを吐いている。
レオは手綱を握り、杖を上げた。
まず、一発。
竜力球が飛んだ。
ドラゴンの翼の下を抜けていく。
二発目も、胴体の後ろを通り過ぎた。
遠い。しかも、相手は動いている。
レオは馬の揺れに合わせ、杖先を向け直した。
三発目が、脇腹へ命中した。
黒い体が、わずかに波打つ。
ドラゴンが首を動かした。
こちらを見るかと思ったが、すぐに街へ向き直った。
レオは歯を食いしばった。
届いてはいる。
でも、あれでは足りない。
馬を走らせながら、杖へ魔力を集めた。
もっと。
手のひらから、魔力が流れ込んでいく。
杖先の紫色の球が大きくなる。
城壁が近づいた。
レオは狙いを定め、球を放った。
スイカより大きく膨らんだ竜力球が、ドラゴンの胴体を打った。
咆哮が響いた。
黒い体が大きく揺れた。
ドラゴンが、今度はこちらへ向き直った。
翼を広げ、一直線に飛んでくる。
効いている。
レオは再び魔力を集めた。
近づいてくる頭の動きを見て、もう一発放つ。
竜力球が命中し、ドラゴンが苦しげな声を上げた。
それでも、止まらなかった。
大きい。
街の上を飛んでいたときよりも、はるかに大きく見えた。
レオは手綱を引き、馬の向きを変えた。
街から離れる方へ走らせる。
背後で翼の音がした。
追いつかれる。
レオは振り返りかけた。
黒い気が、すぐそこまで迫っていた。
ブレスが馬へかかった。
馬の脚が崩れる。
レオはとっさに鞍から飛び降りた。
地面へ肩を打ちつけ、転がる。
息が詰まった。
それでも杖だけは、離さなかった。
顔を上げると、シャドウドラゴンがほとんど頭上まで来ていた。
大きな顎が開く。
その奥へ、闇が集まっていた。
もう、避けられない。
足に力を入れようとしても、うまく立てなかった。
怖い。
母の顔が浮かんだ。
レオは震える腕で杖を上げた。
残っている魔力を、かき集める。
せめて、もう一発。
その瞬間、上空から白い光が降った。
太い柱のような光が、シャドウドラゴンを貫いた。
耳をつんざく悲鳴がした。
黒い翼が崩れる。
胴体が薄れ、霧のように散っていく。
レオが集めていた魔力も、杖先からほどけた。
何が起きたのかわからなかった。
地面へ片手をつき、空を見上げる。
辺りが暗くなった。
巨大な白い翼が、太陽の半分を隠していた。
白龍シリウス。
学園の上空を通り過ぎた、あのドラゴンだった。
白龍は翼を動かし、そのまま空を横切っていく。
遠ざかる姿を、レオはぼんやりと見ていた。
助かったのだろうか。
立ち上がろうとしたが、腕にも脚にも力が入らなかった。
体が傾き、地面へ倒れる。
薄れていく意識の中へ、ファントムの声が届いた。
『……ママ』
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