第十九章 故郷を覆う黒い霧
久しぶりに帰った故郷では、森に異変が起きていました。
ウィチアに入り、故郷の村へ向かう途中で、レオは何度かロバの足を止めた。
何かが違っていた。
青々と茂っているはずの麦が、ところどころ黄色くしおれている。
西に見える森の上には、黒ずんだ霧のようなものが漂っていた。
レオはしばらく森を眺めてから、手綱を握り直した。
*
家の前でロバを降り、扉をたたいた。
「母さん。レオです。帰ってきたよ」
中で物音がした。
足音が近づき、扉が開く。
「レオ……! お帰りなさい」
母はレオの顔を見ると、そのまま抱きしめた。
レオも、母の背へ腕を回した。
帰ってきたのだと、ようやく実感した。
「さあ、入って。おなかがすいているでしょう?」
母はレオを家へ入れると、台所へ向かった。
パンや煮込み料理を、次々とテーブルへ運んでくる。
「学園の勉強には、ついていけている?」
「うん。今学期、一位だったよ」
母の手が止まった。
「一位?」
「エマっていう子と、同じ点数で。それから……」
レオはトランクを開き、大切に包んでいたローブと杖を取り出した。
テーブルの空いているところへ、そっと置く。
「学園祭の魔法決闘大会でも優勝したんだ。これは、その賞品」
母はローブへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触ってもいいの?」
「もちろん」
布地を指でなぞり、杖を眺める。
それから母は、レオのそばへ回ってきた。
「よく頑張ったね。自慢の息子だよ」
もう一度抱きしめられ、レオは少し照れながら笑った。
母に見せられてよかった。
そう思ってから、帰り道で見た畑を思い出した。
「母さん。村で、何かあったの?」
母の表情が曇った。
「畑、枯れているところがあったし。森の上にも、変な霧が見えたけど……」
「先月から、西の森の様子がおかしいの」
母は椅子へ座った。
「体調を崩して寝込む人が出て、作物もしおれ始めてね。一昨日、州の騎士団が調べに来てくれたんだけど、まだ原因はわからないそうよ」
「騎士団が来てるんだ」
「ええ。もっと詳しく調べるって、村の集会所に泊まっているわ。このまま畑まで駄目になったらと思うと……心配でね」
母は小さく息をつき、レオの前へ料理を寄せた。
「さあ、冷めないうちに食べて」
*
食事を終えたレオは、外へ出た。
西の森へ目を向ける。
遠くからでも、木々の上にかかる黒い霧が見えた。
『闇の魔物が集まっているな』
レオは隣を見た。
食事の間、外で遊んでいたファントムが浮かんでいた。
「闇の魔物?」
ファントムは答えなかった。
羽ばたいて高く上がり、森の方を見つめていた。
*
翌朝、レオはパンと水を鞄へ詰めた。
「初級学校の友達に、少し会ってくるね」
母へそう告げ、家を出た。
ファントムもついてきた。
森で何が起きているのか、自分の目で確かめたかった。
村を離れ、しばらく歩くと川へ出た。
向こう岸には、西の森が広がっている。
橋を渡って木々の間へ足を踏み入れた途端、冷たい空気が頬をなでた。
森の中が涼しいのは、いつものことだった。
けれど、今日は違う。
服の隙間から、じわじわと冷たさが入り込んでくる。
小道の脇には、葉を落とした木があった。
少し先では、根元に小さな動物が倒れていた。近づいても動かなかった。
レオは足を止めた。
引き返した方がいい。
そう思いながらも、先の様子が気になった。
もう少しだけと歩いていくと、急に霧が濃くなった。
黒ずんだ靄に遮られ、道の先もよく見えない。
そのとき、人の声がした。
「準備は、ほぼ終わっています。あとは最後の召喚陣を描き、あの方をお迎えするだけです」
レオは木の陰へ身を寄せた。
「あと二日ほどか?」
「ええ。それだけあれば十分です」
心臓が強く打った。
聞き覚えのある声だった。
「近くの村に、騎士団が来たそうだが」
「田舎の騎士など、気にするほどの相手ではありません。最初の標的は、予定どおり州都トピアです」
間違いなかった。
魔法部の捜査官を名乗り、レオを連れ去ろうとした男の声だった。
足音が、森の奥へ遠ざかっていく。
レオは息を殺して待った。
何も聞こえなくなってから、慎重に後ずさる。
木に背をぶつけそうになり、慌てて振り返った。
来た道を戻る間、何度も後ろを確かめた。
森を抜けると、レオは村へ向かって走り出した。
*
集会所の入口には、一人の騎士が立っていた。
息を切らして駆け寄ったレオへ、騎士が目を向ける。
「関係者以外、立ち入り禁止だ」
「あの、話を――」
「おい。君は、レオじゃないか?」
中へ入ろうとしていた別の騎士が、足を止めた。
「ライオンハート家の?」
「はい。レオ・ライオンハートです」
騎士は顔をほころばせた。
「やっぱりそうか。覚えていないかもしれんが、クーパー・モルゴンだ。君のお父さんとは同期でね」
レオは改めて頭を下げた。
「父が、お世話になっています」
「いやあ、リチャードによく似ている。顔を見て、すぐにわかったよ」
クーパーは笑ってから、レオの様子を見た。
「それで、そんなに急いでどうした?」
「西の森について、お話ししたいことがあるんです」
クーパーの顔から笑みが消えた。
「……入ってくれ」
入口の騎士が敬礼し、扉を開けた。
レオはクーパーのあとに続いた。
*
集会所の中央には、丸いテーブルがあった。
クーパーに勧められ、レオは椅子へ座った。
「それで、話というのは?」
レオは森で見たものと、聞いた会話を伝えた。
二日後に何者かを召喚しようとしていること。
最初の標的がトピアだと言っていたこと。
そして、その一人が、以前レオに接触した男らしいことも話した。
クーパーは黙って聞いていた。
「君の話が本当なら……いや、疑っているわけじゃない。思った以上に、急がなければならんな」
テーブルに手をつき、立ち上がる。
「森へは、これから調査に入るつもりだった。予定を早めよう」
「気をつけてください。強い魔法使いかもしれません」
クーパーはレオを見た。
「我々は騎士団だ。相手が黒龍ケルタウスだと言われても、怖がって座っているわけにはいかんよ」
レオの頭を軽くなで、部屋の奥へ声を張った。
「全員、直ちに戦闘準備! 西の森へ向かう!」
「はっ!」
騎士たちが動き出した。
鎧を着け、剣や槍、盾を手に外へ出ていく。
レオも集会所を出た。
前の広場に、四十人ほどの騎士が集まっていた。
クーパーが馬へ乗る。
その後ろへ、武器を携えた騎士たちが続いた。
頼もしい姿だった。
けれど、レオは不安を拭えなかった。
列が村を出るまで見送ったあと、ファントムへ目を向ける。
「……少し、様子を見よう」
レオは騎士たちに気づかれないよう、距離を置いてあとを追った。
*
騎士団が橋を渡る頃には、太陽が高く上がっていた。
森の入口の開けた場所で、騎士たちは手早く食事を済ませた。
レオも離れた場所で、持ってきたパンを口へ運んだ。
味は、ほとんどわからなかった。
やがて騎士たちが立ち上がり、小道を進み始める。
レオも木々の陰を選びながら、その後ろを歩いた。
しばらくして、森の奥から低い唸り声が聞こえた。
一つではなかった。
あちこちから、重なるように響いてくる。
「戦闘準備! 前方、警戒!」
クーパーの声が飛んだ。
盾を持つ騎士たちが前へ出る。
その後ろへ、弓や杖を持つ者たちが並んだ。
地面を蹴る音が近づいてきた。
黒い霧の中で、いくつもの影が動く。
「防御シールド、展開!」
後列の杖が光った。
前衛のすぐ前に、青いシールドが広がる。
直後、黒い獣たちが飛びかかった。
狼に似た姿だった。
全身に、揺らめく黒い光をまとっている。
ダークバルクの群れだ。
獣の爪がシールドを引っかき、牙が青い光へ食い込もうとする。
「撃て!」
青い魔法の矢が放たれた。
続いて白い光球が飛び、先頭のダークバルクを打ち倒す。
獣たちは次々と襲いかかったが、シールドを越えられなかった。
倒れた一匹を踏み越え、次の一匹が来る。
そこへ、また魔法の矢が突き刺さった。
レオは木の陰で、わずかに息を吐いた。
このまま押し返せるかもしれない。
そう思ったとき、青いシールドに細かな亀裂が走った。
端から光がほころび、突然消える。
前衛の騎士が、とっさに盾を掲げた。
飛び込んできたダークバルクがぶつかり、騎士の足が後ろへ滑る。
隣の騎士が槍を突き出した。
「隊列を保て!」
クーパーの命令が響いた。
レオは、消えたシールドのあった場所を見ていた。
「ディスペルマジック……?」
攻撃で壊されたようには見えなかった。
獣たちの向こうに、人影があった。
杖を持つ腕が上がる。
騎士たちの頭上に、小さな黒い魔法陣が幾つも現れた。
「上だ! シールドを張れ!」
「展開できません!」
後列から、切迫した声が返った。
杖の先に光が集まりかけ、すぐに消えていた。
「散開!」
騎士たちが左右へ飛び退いた。
黒い光が、頭上から降り注ぐ。
地面がはじけた。
逃げ遅れた騎士が倒れ、盾を落とした。
崩れた列へ、ダークバルクが殺到する。
レオは木の陰から手を伸ばした。
火球を一つ。
倒れた騎士へ飛びかかろうとしていた獣に命中した。
続けて二つ、三つ。
炎に包まれたダークバルクが転がる。
「加勢します!」
レオは走りながら、次の火球を作った。
騎士たちが一瞬こちらを見た。
クーパーも目を見開いたが、すぐに前へ向き直った。
「負傷者を下げろ! 動ける者は、その前へ!」
盾を持つ騎士が、倒れた仲間をかばった。
レオはその脇から火球を放った。
近い。
決闘設備の中とは違った。
獣の息遣いも、爪が地面を削る音も聞こえる。
一匹が盾を回り込もうとした。
レオは横から雷を当て、騎士が槍で仕留めた。
その向こうで、再び男が杖を上げた。
口が動いている。
また、魔法が来る。
レオは男へ火球を放った。
騎士たちも気づき、魔法の矢を射る。
けれど、どちらも届かなかった。
男の手前で光が崩れ、消えていく。
「そんな……」
レオはもう一度、火球を作った。
それも同じだった。
「後退! 負傷者を連れて下がれ!」
クーパーが叫んだ。
騎士たちが互いをかばいながら、後ろへ下がる。
男の頭上に、黒い光が集まり始めた。
その瞬間だった。
紫色に輝く球が、横から飛んできた。
男の前を何にも遮られずに通り、その体へ命中した。
甲高い叫び声が上がった。
男が後ろへ倒れる。
黒い魔法陣が消えた。
同時に、ダークバルクたちの動きが変わった。
騎士へ飛びかかろうとしていた一匹が、急に向きを変える。
ほかの獣たちも一斉に男の方へ駆け戻った。
一匹が身を低くし、仲間に押し上げられるように男の体がその背へ載った。
男を背負った一匹が、霧の奥へ消えていく。
その一方で、木々の間から新たな黒い獣たちが次々と現れ、群れはさらに数を増していた。
だが、こちらを警戒しているのか、襲いかかってはこなかった。距離を保ったまま、じっと様子をうかがっていた。
レオは、球の飛んできた方を見た。
ファントムが浮かんでいた。
いつも眠そうにしている目を細め、男の消えた先をにらんでいる。
「……ファントム」
幼竜は答えなかった。
*
騎士団は、負傷者を連れて村へ戻った。
集会所では、傷を手当てする者と、疲れ切って壁際へ座り込む者がいた。
レオも椅子へ腰を下ろした。
戦いが終わってから、手が震えていることに気づいた。
両手を膝の間へ挟む。
「助かったよ、レオ」
クーパーが近づいてきた。
鎧のあちこちに、爪で引っかかれた跡があった。
「君が来てくれなければ、さらに負傷者が出ていただろう。だが、あとをつけてきたのは感心しないな」
「……すみません」
「それにしても、その年で大した腕だ。どこで覚えた?」
「学園で習いました」
「学園?」
「王立魔法学園です」
クーパーは、目を丸くした。
「王立魔法学園だって?」
レオはうなずいた。
「魔法がからきしだったリチャードの息子が、あの王立魔法学園に?」
クーパーは驚いたように言い、思わず笑みをこぼした。
だが、すぐに表情を引き締め、レオの前へ椅子を引いて腰を下ろした。
「相手は、思った以上に厄介だ。領主様へは、増援を要請した」
森の方へ目を向けてから、レオを見た。
「だから、君はこれ以上関わらず、安全な場所にいてくれ。腕が立つのはわかった。だが、学生の君が引き受ける仕事ではない」
「……はい」
「家へ帰りなさい。お母さんを心配させないようにな」
レオは立ち上がった。
「ありがとうございました。クーパーさんも、気をつけてください」
頭を下げ、集会所を出る。
ファントムが、扉の外で待っていた。
レオは、家へ向かって歩き出した。
お読みいただき、ありがとうございます。




