第60話 選ぶ一歩
午後の森のカフェしっぽっぽには、やわらかな日差しが戻っていた。
昨日までの雨が嘘のように、空は澄み渡り、店内にも明るい光が差し込んでいる。
トラは窓際でのびをし、チビはその影を追いかけてぴょんぴょん跳ねていた。
きなは相変わらずソファに沈み込み、もはや景色の一部だ。
イチは棚の上から店内を見渡し、ジルは少しだけ前に出て、日向に座っている。
ロンは入口で丸くなりながら、穏やかに尻尾を揺らしていた。
カウンターではサトルが静かに茶を飲んでいる。
みどりはカップを拭きながら、小さく呟いた。
「この前の人、来ると思いますか。」
「来る。」
「即答ですね。」
「来るやつは来る。」
「名言っぽいです。」
その時、ドアベルが鳴った。
カラン。
入ってきたのは、あの男性だった。
スーツではない。
ラフな服装で、どこか軽い空気をまとっている。
「いらっしゃいませ。」
「……こんにちは。」
前よりも声がはっきりしていた。
チビがすぐに駆け寄り、男性の足元に座る。
トラもゆっくりと近づき、その場にごろんと横になる。
「来たな。」
「はい。」
「報告です。」
男性は席に座る。
サトルがコーヒーを差し出す。
「ありがとうございます。」
男性は一口飲み、少し息を吐いた。
「辞めました。」
「仕事。」
「早かったな。」
「……勢いです。」
「だが必要だった。」
「はい。」
「辞めたら……」
「不思議とスッキリしました。」
「怖さもありますけど。」
「でも、あのまま続けるよりはずっといい。」
みどりが優しく頷く。
「ちゃんと選びましたね。」
「……はい。」
チビが膝に乗る。
男性は自然に撫でる。
「でも。」
「何だ。」
「次がまだ決まってません。」
「そうか。」
「やりたいことも……」
「正直、まだよく分からなくて。」
サトルは静かに言う。
「問題ない。」
「え?」
「最初から決まってる方が珍しい。」
「……そうなんですか。」
「大体は後から決まる。」
「動いた結果だ。」
男性は少し考える。
「じゃあ……」
「どう動けばいいですか?」
サトルは少しだけ視線を落とす。
そして、カウンターの奥から小さな袋を取り出した。
「これを使え。」
「また何かですか。」
「選択の石だ。」
「……またすごい名前ですね。」
「名前はどうでもいい。」
「何をするものですか?」
「迷った時に使う。」
「二つの選択肢を考える。」
「その石を握る。」
「どちらを選びたいか。」
「少しだけ感情が強く出る。」
「……それって。」
「直感を補強する。」
「そういうことだ。」
男性はじっと石を見る。
「……頼りすぎてもいいですか?」
「ダメだ。」
「え?」
「最後に決めるのは自分だ。」
「……はい。」
「石はきっかけだ。」
「決定じゃない。」
「分かりました。」
男性は石を受け取る。
小さく、温かい感触だった。
「ありがとうございます。」
「一週間使え。」
「また来い。」
「はい。」
ドアベルが鳴る。
カラン。
男性は軽い足取りで店を出ていった。
みどりがサトルを見る。
「次は“選択”ですか。」
「順番だ。」
「本音の次ですね。」
「そうだ。」
トラが「にゃ」と鳴く。
チビは棚に飛び乗り、ジルは少しだけ中央に近づいた。
きなは相変わらず動かず、イチは棚の上から見守る。
ロンは入口で尻尾を振る。
そして一週間後。
ドアベルが鳴る。
カラン。
男性が再びやってきた。
今度はさらに表情が柔らかい。
「いらっしゃいませ。」
「……来ました。」
「どうだった。」
「使いました。」
「石。」
男性は席に座る。
チビがすぐに膝へ。
「最初は……」
「半信半疑でした。」
「だろうな。」
「でも、試しに使ってみたんです。」
「小さなことで。」
「例えば?」
「散歩に行くか、家にいるか。」
「仕事探すか、休むか。」
「……で?」
「不思議と。」
「選びたい方がはっきりしました。」
「それが答えだ。」
「はい。」
「それで……」
「色々試して。」
「一つ、決めました。」
「何だ。」
男性は少し照れながら言う。
「料理、やってみようと思います。」
「料理か。」
「はい。」
「昔ちょっとだけ興味あって……」
「でもやってこなかったんです。」
「今なら、やってみたいと思えて。」
みどりが笑顔になる。
「いいですね!」
「飲食系ですか?」
「はい。」
「まだ見習いレベルですけど。」
「それでいい。」
「最初は誰でもそうだ。」
男性は頷く。
「あと……」
「ここで見てて思ったんです。」
「何だ。」
「誰かの役に立つ仕事がしたいって。」
サトルは小さく頷いた。
「いい理由だ。」
「ありがとうございます。」
ジルがそっと男性の隣に座る。
男性は優しく撫でた。
「前より、ちゃんと感じてます。」
「迷いもあるけど……」
「ちゃんと“選んでる”感じがします。」
「それでいい。」
男性は立ち上がる。
「ありがとうございました。」
「また来てもいいですか。」
「いつでも来い。」
「はい。」
ドアベルが鳴る。
カラン。
男性は今度は迷いのない足取りで外へ出ていった。
みどりが小さく息を吐く。
「すごい変わりましたね。」
「変わったな。」
「本音、選択……」
「順番って大事ですね。」
「そうだ。」
「人は一気には変わらない。」
「少しずつだ。」
トラが「にゃ」と鳴く。
チビが跳ね、ジルがその後ろをゆっくり歩く。
きなは動かず、イチは棚の上から見守る。
ロンは入口で静かに尻尾を振る。
サトルは茶を一口飲む。
(次は……行動だな)
小さな猫カフェ。
そこでは今日も――
誰かが一歩を選び、
少しずつ未来へ進んでいくのだった。




