第46話 鍵の記憶
午後の**森のカフェしっぽっぽ**は、いつもと変わらぬ穏やかな空気に包まれていた。
やわらかな日差しが窓から差し込み、店内にはコーヒーの香りが静かに広がっている。
トラは床で堂々と寝転がり、チビはテーブルの脚にしがみついて遊んでいる。
きなはソファの上で完全に脱力し、微動だにしない。
イチは棚の上から店内を見渡し、ジルはカーテンの陰から半分だけ顔を出していた。
ロンは入口の前で大あくびをしてから再び丸くなる。
カウンターではサトルがコーヒーを淹れている。
みどりはカップを並べながら、小さくつぶやいた。
「そろそろ来ますかね。」
「誰がだ。」
「記憶の鍵の人です。」
「一週間だな。」
「どんな顔で来るんでしょう。」
「それは本人次第だ。」
その時、ドアベルが鳴った。
カラン。
入ってきたのは、あの六十代の男性だった。
前回よりも、どこか落ち着いた表情をしている。
「いらっしゃいませ。」
「こんにちは。」
男性は席に座る。
チビが迷いなく膝に飛び乗った。
「また来ましたね。」
「覚えられてるな。」
「チビはそういうやつです。」
トラも足元に来てゴロンと寝転がる。
きなは一瞬目を開けて、またすぐ寝る。
ジルは少し距離を取りながら様子を見る。
サトルがコーヒーを置いた。
「どうだった。」
男性は静かに頷いた。
「使いました。」
「鍵か。」
「はい。」
みどりが少し身を乗り出す。
「どの記憶にしたんですか。」
男性はカップを手に取り、少しだけ笑った。
「妻と初めて出会った日のことにしました。」
「ほう。」
「若い頃で。」
「今でも覚えてるはずなんですが。」
「それでも不安で。」
「だから鍵に封じました。」
チビが膝の上で丸くなる。
男性はその背中を撫でながら話す。
「使った瞬間。」
「少しだけぼやけたんです。」
「消えたかと思いました。」
「だが違ったか。」
「はい。」
「思い出そうとすると。」
「鍵を開けるみたいな感覚があって。」
「ゆっくり戻ってくるんです。」
サトルは静かに頷く。
「仕様通りだ。」
「不思議な感じでした。」
「でも安心しました。」
「消えてないって分かったから。」
みどりが優しく微笑む。
「良かったですね。」
「はい。」
「それに。」
「それに?」
「他の記憶も少し整理された気がします。」
「どういうことだ。」
「大事なものを選んだことで。」
「それ以外も見えてきたんです。」
「なるほど。」
「全部同じ重さじゃないって。」
その時、ジルがそっと近づいてきた。
そして男性の膝の端にちょこんと乗る。
「お。」
「ジルが乗りました。」
「珍しい。」
男性は優しく撫でる。
「この子、やっぱり分かるんですね。」
「落ち着いたやつには来る。」
「そうなんですね。」
男性は少し遠くを見るような目をした。
「妻にも話しました。」
「鍵のことか。」
「はい。」
「最初は信じてもらえませんでした。」
「だろうな。」
「でも。」
「その日の話をしたら。」
「すごく嬉しそうでした。」
「覚えててくれてありがとうって。」
みどりが小さく息を吐く。
「いい話です。」
「はい。」
「忘れるのも怖いですけど。」
「残せるって分かると。」
「少し楽になります。」
サトルはコーヒーを一口飲む。
「人間は忘れる生き物だ。」
「だから残したくなる。」
「その通りですね。」
男性はゆっくり立ち上がった。
「ありがとうございました。」
「また来ます。」
「いつでもどうぞ。」
「猫たちにもありがとう。」
チビが名残惜しそうに降りる。
ジルも静かに離れる。
トラが「にゃ」と鳴いた。
ドアベルが鳴る。
カラン。
男性はゆっくり外へ出ていった。
みどりがサトルを見る。
「いい使い方でしたね。」
「そうだな。」
「記憶って難しいですね。」
「だから価値がある。」
「猫は忘れませんか。」
「猫は今を生きてる。」
「それが一番強いですね。」
イチが棚の上から「にゃ」と鳴いた。
店内にはまた穏やかな時間が流れる。
猫たちはそれぞれの場所でくつろぎ、
コーヒーの香りがゆっくりと広がっていた。
今日もまた、**森のカフェしっぽっぽ**には、大切な何かを守りたい人の想いが、静かに積み重なっていくのだった。




