第45話 記憶の鍵
午後の**森のカフェしっぽっぽ**は、少しだけ賑わいを見せていた。
とはいえ、騒がしいというほどではなく、猫たちののんびりした動きに合わせた、ゆるやかな時間が流れている。
トラは床の真ん中で堂々と寝転がっている。
チビはテーブルの上に乗ろうとして、みどりに軽く止められている。
きなはソファの上で丸くなり、まったく動かない。
イチは棚の上から店内を見渡し、ジルはカーテンの陰から様子をうかがっていた。
ロンは入口の前で番犬らしからぬ寝姿を披露している。
カウンターではサトルがコーヒーを淹れていた。
みどりはカップを並べながら話しかける。
「最近、いい流れ続いてますね。」
「何の流れだ。」
「相談がちゃんと解決してる流れです。」
「解決してるかは本人次第だ。」
「でもみんな少し元気になって帰ります。」
「それで十分だ。」
「猫のおかげですね。」
「それが本体だ。」
その時、ドアベルが鳴った。
カラン。
入ってきたのは、六十代くらいの男性だった。
少し困ったような顔をしている。
「いらっしゃいませ。」
「こんにちは。」
男性はゆっくり席に座る。
チビがすぐに膝に飛び乗った。
「おっと。」
「いきなり来ました。」
「人懐こいですね。」
「仕事だからな。」
トラも足元に来てゴロンと寝転がる。
きなはちらっと見るだけでまた寝る。
ジルは遠くから様子を見ている。
サトルがコーヒーを置いた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
男性はカップを持ったまま、少し迷うように口を開いた。
「相談、いいですか。」
「雑談くらいなら。」
男性は小さく頷く。
「最近、物忘れが増えてきて。」
「年相応だな。」
「そうなんですが。」
「大事なことまで忘れそうで怖いんです。」
みどりが静かに聞く。
「例えばどんなことですか。」
「約束とか。」
「人の名前とか。」
「それだけならいいんですが。」
「もっと大事な思い出まで消えそうで。」
チビが膝の上で丸くなる。
男性はその背中を撫でる。
「家族との記憶とか。」
「妻との思い出とか。」
「忘れたくないんです。」
サトルは少し考えた。
「記憶は消える。」
「そうですよね。」
「だが。」
「だが?」
「残す方法はある。」
みどりが少し笑う。
「また来ましたね。」
「地下の品だ。」
サトルはカウンターの下から、小さな鍵を取り出した。
「これは?」
「記憶の鍵だ。」
「鍵?」
「大事な記憶を一つだけ封じて守る。」
男性は驚く。
「そんなことが。」
「一つだけだ。」
「何を選ぶかが重要だ。」
男性は鍵を見つめる。
「それを使えば忘れないんですか。」
「絶対に消えない。」
「ただし。」
「ただし?」
「封じた記憶は、思い出す時に少し時間がかかる。」
「鍵を開ける感覚になる。」
「なるほど。」
「それでもいいなら使え。」
男性はしばらく黙った。
チビを撫でながら考える。
「一つだけ……」
「迷いますね。」
「全部は無理だ。」
「だから選ぶ。」
その時、ジルがそっと近づいてきた。
そして男性の膝の端に乗る。
「お。」
「ジルが乗りました。」
「珍しい。」
男性は優しく撫でる。
「この子、落ち着きますね。」
「臆病だがな。」
「でも寄ってくる。」
「信頼できる相手にはな。」
男性はゆっくり頷いた。
「決めました。」
「何を封じる。」
「妻との思い出です。」
「全部じゃない。」
「一番大事な瞬間を一つ。」
「いい選択だ。」
男性は鍵を受け取る。
「ありがとうございます。」
「一週間以内に使え。」
「それで定着する。」
「分かりました。」
男性は立ち上がる。
「また来ます。」
「結果を聞かせてくれ。」
「はい。」
「猫たちにもありがとう。」
チビが名残惜しそうに降りる。
ジルも静かに離れる。
トラが「にゃ」と鳴いた。
ドアベルが鳴る。
カラン。
男性はゆっくり外へ出ていった。
みどりがサトルを見る。
「記憶の鍵ですか。」
「たまに使うやつだ。」
「難しい選択ですね。」
「だから意味がある。」
「全部残せたら楽なのに。」
「それだと価値がない。」
「なるほど。」
イチが棚の上から「にゃ」と鳴いた。
店内にはまた穏やかな時間が戻る。
猫たちはそれぞれの場所でくつろぎ、
コーヒーの香りが静かに広がっていた。
一週間後――
あの男性がどんな記憶を選び、
どんな顔で戻ってくるのか。
それはまだ、誰にも分からなかった。




