シュガー・ベイビー・ラブ
急激な上昇の感覚に襲われ、突然世界が碧に満たされた。夏の海の喧騒が嘘のようにかき消されてしまう。目が慣れると自分がどういう状況にあるのかわかってきた。
チビだったはずの悪魔が膨大な体躯をもった存在として威圧的に眼前に迫り、はるか頭上の円形の空洞からは、巨大な眼球がふたりを覗きこんでいた。
しかし、その巨きな眼球には生気がなかった。まるで魂を吸いとられたように。
「お前が見あげているあの目玉の持ち主が、いったい誰なのかわかるな。あれはお前の魂の脱け殻だ。お前は今、魂だけの存在として瓶のなかにいるのだ」
等身大……なのかどうかよくわからないが、相対的にサイズが大きくなった悪魔の不気味さはさっきの比ではない。声までも迫力が増している。
猛獣でもテレビモニターで眺めているときには怖さは実感できないが、檻のなかに同居するはめにあわされたらきっと今の拓郎と同じ感覚を味わうことだろう。
たった今生まれおちた赤子のような心細さと恐怖が拓郎の全身を支配していた。
「俺を食べる気なの」
「ことわっておくが、わしはこれでも食通で通っておる。お前のような未熟な魂など食う気にもならんわい」
『痴漢に注意』という看板のある道を毎晩ひとりで歩いていて、まったく被害にあわない女性の気持ちと、今の拓郎の気持ちはにているかもしれない。素直に喜んでいいのかどうかわからないが、危害を加える気はないらしい。
吐き気を催すような下降の感覚。次の瞬間、夏が少年を包みこんだ。遠くから子供たちや若い女の子たちの歓声が耳に飛びこんでくる。強烈な日差しが膚に激しく衝突する。
「わかっただろう小僧。わしがその気になれば、ややこしい取引などは無用でお前の魂を食らうこともできるのだ」
「つまり俺を騙すつもりはない、っつーか、騙す必要がないってことか」
瓶を捨てて逃げだしたくなる衝動が激しく拓郎をかりたてる。しかし、衝動と戦う値打ちのある“おいしい”話だ。
「あのさー、疑うわけじゃないんだけど、あんたを助ける前に一度願いを叶えてよ。よくあるじゃない。ほら、ドモホルンリンクル無料お試しセットとか体験入学とか、試食とかってやつ」
「まったく、やりにくい小僧だ。まあよいだろう。何でもいいから言ってみろ」
拓郎は遠くに見える水着の少女を指さした。砂浜にうつ伏せになって背中を太陽にさらしている。拓郎の目には、その膚は夏の日差しよりも眩しく映っていた。さっき声をかけた拓郎に平手打ちを浴びせた美少女だった。
「あそこのお姉ちゃんとお近づきになりたいんだけど、どうかな」
思春期とは、ようするに発情期の婉曲的表現であり、そして彼はまさに思春期の真っ只中にいた。
「おおかた、そんなことだろうと思っておったわい。つまり交尾したいわけだな」
「交尾とかいうなよ。普段の行動がむなしくなってくる……」
拓郎は口を閉ざした。少女が立ちあがりこちらに向かって歩いてきたのだ。
三流漫画のように安易にことがすすんだ。
すべてが終わり、夢から覚めたように立ちあがり、歩き去ろうとする少女に、慌てて声をかける。性衝動と恋愛感情の未分化なこの時期にありがちなことだが、すっかり恋の病にかかっていた。




