⑥
アルトは息を潜めながら、素早く周囲を見回した。
路地は狭く、人がすれ違える程度の幅しかない。両脇には古びた木箱や樽が積まれ、ところどころに雪が吹き溜まっている。足元は昼間に溶けた雪が再び凍りつき、薄い氷の膜が張っていた。
――この狭さと滑りやすさ、使えるかもしれない。
頭の中で、犬と男たちの動きを想像する。
もしあいつらをこの路地に誘い込めれば…
アルトはカイルの袖を軽く引き、小声で話しかけた。
「カイル、あの樽、押せるか?」
「押せるけど…まさか、ぶつける気か?」
「犬をこっちに誘い込んで滑らせる。目をくらませれば、あいつらも動きが鈍るはずだ」
二人は音をたてないように、それぞれ目的の地点へと散った。アルトは立ち止まった先で、半ば雪に埋もれた状態の拳大の石を拾い上げる。刺すような冷たさに眉を顰めるも、握る力は緩めない。
カイルと目配せを交わした後、そのままアルトは無言で石を振りかぶり、犬の方へ投げつけた。
「ギャウン!?」
石はダイレクトに犬の胴体にぶち当たり、短い悲鳴を上げさせる。灰色の毛が逆立ち、犬は牙を剝きながら振り返った。
「何だぁ!?」
「石だ! 誰かがぶつけやがった!」
男たちが怒鳴り、石が飛んできた方向に一斉に顔を向ける。そこに立つ少年の姿を見つけ、醜く顔をゆがませた。
「このガキぶっ殺してやる!」
物騒なことを叫びながら足元の獣をけしかける。犬は鋭い牙を剝き出しにして、唸り声を上げながら雪を蹴散らし一直線に突進してきた。
アルトは心臓が喉までせり上がってくるのを感じながらも、逃げるふりをして獣を凍った路面へと誘導した。巻き込まれない位置まで戻ってきた瞬間、カイルが全身の力を込めて樽を押し倒す。
ガラガラガラッ!
樽は重い音を響かせながら転がり、犬の脇腹に勢いよく激突した。「ガウッ!」と短く悲鳴を上げ、たまらずバランスを崩して氷の上で足を滑らせる。
爪で氷をひっかき耐えようとするが、そのまま樽と一緒に雪の吹き溜まりへ突っ込んでいく。
白い白煙が一気に舞い上がり、視界が真っ白に染まった。
「今だ!」
カイルは足元に準備していた大きめの雪玉を両手で掴み、犬の顔めがけて思い切り投げつけた。
冷たい雪が目と鼻を覆い、苦しげに頭を振り、低い唸り声を漏らす。
その隙にアルトが木の棒を拾い、男たちの足元を横薙ぎに払った。
「うわっ!」と一人が派手に転び、もう一人は避けきれずにもう一匹の犬とぶつかって倒れ込む。一人取りこぼしてしまったが今は構っていられない。アルトが震えている商人に叫んだ。
「逃げろ、商人さん!」
商人は一瞬呆然としたが、はっと我に返り、荷物を抱えて一目散に駆け出した。
「オレたちも逃げるぞ!」
男たちが転んで身動きが取れないうちにと、アルトとカイルも商人とは別の方向へ駆けていく。
――駆けていこうと、した。
「ふざけてんじゃねえぞ、くそガキども!」
背後から荒々しい声とともに手が伸びてきた。
アルトの腕ががっちりと掴まれ、次の瞬間、背中から雪の上に叩きつけられる。衝撃が走り、肺から息が漏れた。
取りこぼしてしまったもう一人の男が、憎悪に満ちた目で見下ろしていた。
「お前らもいつまでも転がってんじゃねえ!」
男の怒号に、雪の上でもがいていた二人が「いてて…」と呻きながら立ち上がる。
「一人はさっきの商人を追え! もう一人はそっちのガキだ!」
カイルは慌てて逃げようと身を翻すが、すぐに背後から腕が回され羽交い絞めにされた。抵抗する間もなく、引きずるように連れてこられる。
「ちくしょっ…離せよっ」
アルトもカイルも必死に暴れ振りほどこうとしたが、力の差は歴然だ。どんなに暴れようとしてもその腕の力が緩む気配がない。
雪の冷たさが服の中まで染み込み、指先がかじかんでいく。吐息が白く揺れ、喉の奥まで冷え込むようだった。
「ガキが余計なことを…」
「おい、このガキどもどうする」
「決まってんだろ。口封じだ」
――くちふうじ?
その言葉が頭の中で鈍く反響し、一瞬で頭が真っ白になる。
次の瞬間、一気に恐怖が膨らんだ。
どうしよう、どうしようどうしよう。
こいつらなにいってんだおれたちどうなるんだなにされるんだ。
どうしようどうしようどうしよう。
おれたちこいつらに…ころされ――――
「それで? その子たちをどうするつもりだって?」
突如、冷たい空気を切り裂くように凛とした声が響いた。
雪を踏む軽やかな足音が近づき、赤い髪の少女――エリシアが路地に現れる。
「何だお前…」
「悪いけど、その子、あたしの知り合いなんだ。放してくれる?」
口調は軽いが、その瞳は冬の空気よりも冷たく鋭い光を宿していた。
年若い少女とは思えない圧に、男たちは思わず息をのみ、一瞬たじろぐ。
「てめ…やる気か?」
「最初からそのつもり。…アルト、ちょっと待っててね、すぐ片付けるから」
アルトにかけるその声は穏やかで、しかし絶対的な自信を滲ませている。
次の瞬間エリシアの足が雪を蹴り、アルトを押さえつけている男に切迫した。その動きはまるで熟練の戦士のそれ。疾風のように鋭く、しかし一瞬で場の空気を支配した。
男が構える隙など与えず、エリシアの右膝がその顎をとらえ蹴り上げる。鈍い衝撃音と共に男の頭がのけ反り、そこへ続けざまに回し蹴り、かかと落とし。連続コンボを食らった男は成すすべもなく白目をむいて雪の上に倒れこんだ。
それをきちんと確認することもなく――いや、確認する必要すらないのだろう。振り向きざまに何事かを小さく呟くと、男たちの傍らにいた人相(犬相?)の悪い二匹の犬の足元から黒い鎖のような影が飛び出し、瞬く間に四肢へ絡みつきその動きを封じ込めた。
獣たちは牙を剥き、唸り声を上げて必死で暴れるが鎖はびくともしない。
拘束魔法シャドウバインド。
その名の通り、影は獲物を逃がさぬ鎖となり、二匹の動きを完全に封じ込めていた。
次いでカイルを羽交い絞めにしている男に向かう。男は舌打ちし、カイルを突き放すと同時に手持ちのナイフを構えた。
しかしエリシアは腰の鞘から素早く短剣を抜き放ち、それを一閃する。金属が弾かれる甲高い音とともにナイフは飛ばされ、雪の上へと転がった。
「なっ…」
簡単に武器を奪われた男は、驚きに目を見開いて眼前の少女を睨むが、そこまでだった。
エリシアの拳が腹にめり込む鈍い音が響く。衝撃に呼吸が止まり、体がくの字に折れたところへ、とどめとばかりに右頬を殴り飛ばされる。男はそのまま崩れ落ち、立ち上がることはなかった。
救出劇は、あまりにもあっけなく終了した。
踏み固められ、土まみれになった足元の雪と、そこに白目をむいて転がる男たち。
アルトとカイルはその一部始終を、呆然としながら眺めていた。
「ふう…」
一仕事を終えたエリシアは軽く息を吐き、ゆっくりと少年たちを振り返る。
「きみたち、大丈夫?」
少女の笑顔は、先程の大立ち回りが嘘のように、明るく朗らかなものだった。




