㉚
天幕を出たエリシアは、まだ心臓の鼓動が落ち着かないまま夜市の通りを歩いていた。歩きながら頭の中をぐるぐると巡るのは、つい先程のコハクの言葉。
『あの男の子との子孫が龍皇の魂を目覚めさせる』
(いやいやいやいや! そんなわけ…そんなわけないでしょ…!)
心の中で何度も否定するが、否定すればするほど、脳裏に浮かぶのは黒髪の少年の顔。顔に熱が集まっていくのを止められない。
夜市は相変わらず賑わっている。あちこちから人々の笑い声が響き、色とりどりの灯りが通りを照らしている。
けれど、今のエリシアには、そのどれもが遠い世界の出来事のように思えた。目に映る景色も、耳に届く喧騒も、どこか薄い膜の向こう側にあるようで。ただ自分の鼓動だけがやけに大きく耳に響いてくる。
やがて、セリオの夜店が見えてきた。
そこには何事もなかったかのようにアルトが立っており、隣に立つカイルと何やら楽し気に話している。
いつもの表情、いつもの声、普段通りの佇まい。
――そうだ、何も知らないのだ。
自分たちの子孫がどうとか、龍皇の魂がどうとか。そんなとんでもない話を聞かされたのは、自分だけ。
エリシアは、思わず歩みを止めた。
ぼんやりとその姿を眺めていると、その視線を感じたのかアルトがエリシアに気づいて振り返った。
「あ、おかえり、エリシア」
そう言われた瞬間――
「っ…!」
エリシアは反射的に視線を逸らした。
(あ、あれ? なんだこれ、顔見れない! あれ? あれれ?)
目の前にいるのは、いつもと変わらないアルトのはずだ。なのに、どういう訳か顔をまともに見ることができない。
「? どうした? 具合悪い?」
不思議そうに首を傾げたアルトが、心配そうにエリシアの顔を覗き込もうとする。が、そこからさらに反射的に顔をそむけてしまった。
「い、いや! 全然! 元気! …あ、あっち見てるだけ!」
慌てて後ろの屋台を指差すが、そこには特に何もない。あえて言うならセリオが客対応している。
特に変わったものはない。これと言って話題にできそうなものもない。
カイルが横で首を傾げた。
「なんか挙動不審だな…」
「そ、そんなことないけど!?」
エリシアは何とか平静を装おうと、ぎこちなく笑顔を作ろうとするが、頬が熱くてうまく表情筋が動かない。
(おお落ち着け…落ち着け…! 落ち着けあたし…!)
心の中で必死に自分に言い聞かせる。
そもそも、アルトを意識する必要なんてないのだ。コハクの言葉だって、あくまで未来の可能性の話にすぎない。そう、可能性。まだ何も決まっていないのだから、気にする必要なんてないはずだ。それなのに、どうしてこんなにも調子がくるってしまうのか。
(あたしはショタコンなんかじゃない…はず…!)
いや、そもそも、そういう問題ですらない。
自分はただ、予言のせいで変に意識してしまっているだけだ。そこは間違いない。
……間違いない、はずなのだ。
「エリシア、本当に大丈夫か? さっきから全然こっち見ないけど」
「だ、大丈夫だってばぁっ!」
アルトの何気ない一言が、見事に思考を吹き飛ばした。
(だから! そうやって普通に話しかけてこないでよぉぉぉっ!)
結局その夜、アルトとカイルが帰路につくまで、エリシアはひたすら平静を装いながら、心の中で何度も悲鳴を上げ続けることになるのだった。
翌日。
昨夜の衝撃も一晩ぐっすり眠ったおかげで何とか落ち着き、エリシアはいつも通りの足取りで冒険者ギルドの扉を押し開けた。昼間は多くの冒険者で賑わいを見せるギルドも、朝早いこの時間帯では人影もまばらだ。
(さて、今日は軽めの依頼でも探そうかな。っと、その前に昨日の報告~)
そう思いながらカウンターに目を向けると。
「はい、これで登録完了です。ギルドカードをお渡ししますね」
受付嬢の明るい声。その正面に立つ人物の姿が、視界に飛び込んできた。
「…え?」
エリシアの足が止まる。
白いローブ、青みを帯びた艶めく黒髪、楚々とした立ち姿。昨夜、天幕で衝撃的な話をしてきた巫女姫、コハク。
(なななんでここに!?)
何かもう、嫌な予感しかしない。
「姉さま!? 何してんの!?」
思わず声が裏返る。普段は滅多に取り乱さないエリシアの焦った様子に、近くにいた冒険者たちがちらりとこちらを振り返った。
コハクはギルドカードを受け取りながら、エリシアに笑顔で軽く手を振る。
「エリシアちゃん、おはよう~。うふふ、冒険者登録しちゃった」
「いやいやいや! 巫女姫が冒険者ってどういうこと!? 国は!? 霊峰は!?」
エリシアが慌てて詰め寄る。声を潜めるどころか逆に少し大きくなってしまい、周囲の視線がさらに集まってしまう。
「昨日も言ったでしょ? あの国つまらないんだもの」
「つまらないって…! いや、そういう問題じゃなくて!」
エリシアは額に手を当て、深々とため息をついた。
この巫女姫様は、本当にどこまで自由なのだろう。
その隣では、コハクが受け取ったばかりのギルドカードを大事そうに指先で撫でていた。初めて手にした玩具を喜ぶ子供のように、満足げな笑みを浮かべている。どうやら、冒険者登録そのものは相当お気に召したらしい。
「…で? まさか、面白そうだからって理由だけで登録したんじゃないですよね?」
「あら。失礼ね、エリシアちゃん」
コハクは少しだけ頬を膨らませた。
「一応言っておくけど、私だって意味もなく冒険者登録した訳じゃないのよ?」
その言葉に、エリシアが眉をひそめる。
「何か目的があるってこと?」
「ええ。だって、これならエリシアちゃんと一緒に行動できるもの!」
「は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
どうしてそうなる。いや、冒険者登録をすれば一緒に行動しやすくなるという理屈はわかる。わかるが、なぜわざわざ自分と行動する必要があるのか。
エリシアが答えを探している間に、コハクはすっと一歩近づいた。
そして、周囲に聞こえないよう、声をほんの少しだけ潜める。
「エリシアちゃん、きっと意地張っちゃってうまく行動できそうにないから」
にこりと笑い、まるで秘密を打ち明けるようにそっと囁く。
「あの男の子とうまくいくように、私がサポートしてあげるね♡」
「…っ!!!?」
衝撃の提案。
エリシアの脳裏で、昨夜の会話が一斉に蘇る。
龍皇の魂。子孫。アルト。
そして、目の前で満面の笑みを浮かべる、余計なお世話の権化。
(やめてやめてやめて! そんなサポートいらない! 絶対いらないから!!)
エリシアは必死に心の中で叫ぶが、コハクの笑顔は揺るがない。
そもそも、アルトと無理にどうこうなるつもりなどないのだ。だから、サポートなど必要ない。必要ないったら、必要ないのだ。
「…姉さま」
「なあに?」
「お願いだから、余計なことしないで…」
絞り出した声は、もはや懇願に近かった。
だがしかし、コハクにはその必死な思いは届かない。
「大丈夫よ、エリシアちゃん。私に全部任せて!」
どこからくる自信なのか、顔を輝かせてコハクが堂々と言い放った。
(な、何ひとつ大丈夫じゃないぃぃぃっ!!)
エリシアの心の叫びは、朝の冒険者ギルドの喧騒に、誰にも知られることなく消えていった。




