③
朝靄がまだ薄く漂うグレイズフィールドの街並み。石畳の道は夜露でしっとりと光り、遠くからは鐘楼の澄んだ音が響く。
街の外れには深い森が静かに横たわり、時折、鳥のさえずりと木々のざわめきが混じり合う。森には多くの魔物が生息しているが、近くに騎士団の本拠地があるため、その庇護のもと、人々は安心して暮らしている。
アルトは肩に小さなかばんをかけ、軽やかな足取りでアカデミーへ向かっていた。通り沿いのパン屋からは焼きたての香りが漂い、露店の花屋では朝露をまとった花々が並んでいる。朝の風は涼やかで、その風が頬を撫でていくたびに、今日も一日が始まるのだと感じさせた。
歩きながらも、頭の中では今日の剣術訓練のことでいっぱいだ。父や兄のように立派な騎士になるためには、誰よりも努力しなければならない――そう自分に言い聞かせる。少しでも弱気を見せれば、きっと兄にからかわれるだろう。
その時、通りの向こうに見覚えのある姿が目に入った。昨日、町はずれの森の入り口付近で出会った冒険者の少女――エリシアだ。
赤茶色の髪が朝日を受けて輝き、歩くたびに軽やかに揺れている。彼女は笑顔で露店の店主と何やら話しているようだ。アルトは思わず足を止め、その姿を目で追った。
ふと、昨日は結局、おざなりなお礼しか言えてなかったことを思い出す。
アルトは一瞬、声をかけようか迷った。
(…別に、会えてうれしいとかじゃないし。ただ、昨日のお礼をもう一度きちんと伝えるだけだ)
そう心の中で呟き、意を決して彼女のほうに向かって歩いていく。
近づくと、エリシアがこちらに気づき、彼女の方から声をかけてきた。
「おはよう、アルトくん。昨日ぶり!」
その笑顔にアルトは少し照れくさくなりながらも、同じように挨拶を返した。
「おはよう、エリシアさん」
「これから学校?」
「はい。エリシアさんは?」
「ギルドで依頼を受ける予定。昨日は小さな魔物退治と薬草採取だったけど、今日はもう少し稼げる仕事があるといいな」
ギルドで依頼。その言葉にアルトは小さく目を見開いた。
そうだ、自分と4つしか年の違わないこの少女は、すでに独り立ちしているCランク冒険者なのだ。
「そっか…冒険者だもんね。気を付けて」
「大丈夫。私、こう見えて剣も魔法もそこそこできるんだから」
エリシアは冗談めかしたように言って胸を張るが、その言葉に誇張はないのだろう。事実、昨日は彼女のその実力によってアルトは助けられたのだから。その事に少し羨ましさを覚え、同時に負けたくないと、そんな思いが胸の奥で小さく灯る。
その時、丘の上に建つアカデミーのチャイムが高らかに鳴り響いた。授業が始まるまであと半刻ほどしかない。
「あ、やばい。もう行かなきゃ。じゃあね、エリシアさん!」
アルトは慌ててアカデミーに向かって駆けだした。
「ん、じゃあ、またね!」
遅刻しないようにね! と声をかける間もなく、アルトの背中はみるみる遠ざかっていく。
口元に笑みを浮かべながら、エリシアは小さく息をついた。
「…元気な子だなぁ」
――ああいう真っ直ぐな目、嫌いじゃない。
ほっこりとした気持ちで小さく微笑みながら、彼女は再び歩き出した。その足は、予定通り冒険者ギルドへと向かっていた。
木製の大きな扉を押し開けると、依頼を巡って談笑する冒険者たちのざわめきが迎えてくれる。奥の掲示板には依頼書がずらりと並び、受付嬢が忙しそうに書類を整理している。
エリシアは軽く息を整え、今日の仕事を探すために掲示板へと歩み寄った。
アルトはアカデミーの授業が終わると、急ぎ足でグレイズフィールドの中心街へ向かっていた。
今朝、授業はギリギリ間に合ったのだが、肝心のありがとうを言い忘れていたことに時間をおいて授業中に思い出したのだ。
あの時、自分を助けてくれたエリシアに、ちゃんとお礼を言わなければ――。
石畳の道を駆け抜け、賑わう中心街のさらに先、冒険者ギルドの大きな看板が見えてくる。
木製の重い扉を押し開け、室内に一歩踏み込む。入ってすぐの広いギルドホールは窓から差し込む午後の柔らかな光に包まれていた。
テーブル席には数多の冒険者たちが腰を下ろし、笑い声や武勇談が飛び交っている。カウンターには受付嬢が座っており、何かしらの書類をさばいていた。たしか、昨日もカウンターに座っていた女性だ。
「すいません、エリシアさん、もう戻ってますか?」
「エリシア? まだ依頼中よ。でも、もうすぐ帰ってくると思うわ」
アルトに声をかけられた受付嬢は手元の書類から顔を上げ、にこやかに答えてくれた。
「あら、昨日の男の子ね」
彼女のほうもアルトのことを覚えてくれていたようだ。
アルトは軽く礼を言い、壁際の長椅子に腰を下ろす。
さてどう時間をつぶそうか、と考えていると、扉が勢いよく開いた。そこから軽やかな足取りで入ってくる少女。腰には使い込まれた短剣と小さなウエストポーチ。エリシアだ。
「任務終了の報告にきましたー」
その声は室内のざわめきの中でも不思議と耳に届く。
彼女は足早にカウンターへと駆け寄り、受付に依頼完了の報告書を差し出した。受付嬢がそれを笑顔で受け取り、何やら短く言葉を交わしている。
アルトは立ち上がり、少し緊張した声で呼びかけた。
「エリシアさん!」
振り返った彼女はアルトの姿を見て、ぱっと笑顔を咲かせた。
「アルトくん! 今朝ぶりだね、どうしたの?」
「いや、あの…ちゃんと昨日のお礼、言えてなかったから…」
「え?」
アルトはエリシアの正面に立つと彼女の顔を見上げ、その瞳をまっすぐに見つめた。
「昨日は危ないところを助けてくれて、ありがとうございました。あの時、本当にすごかった」
自分なりに言葉を選び、はっきりとお礼を伝えた。12歳の少年の、精一杯の感謝の言葉だった。
エリシアは驚いたように目を丸くした後、ついで柔らかく笑った。
「すごい? ふふ、最高の誉め言葉だね」
一歩、アルトに近づく。
「でも、お礼なら昨日ちゃんと言ってくれてたよ。それに…」
右手を伸ばし、アルトの頭の上にポンと乗せる。
「…昨日言ったみたいに、キミがケガ無く元気でいてくれればそれが一番のお礼だから!」
エリシアの言葉はアルトに対してどこまでも優しい。それがどこかくすぐったくて、アルトはほんの少しだけ顔を赤くした。
「そうだ、せっかく来たんだし、少し話していかない? 森の奥で見た変な魔物のこととか、面白い話があるんだ」
アルトは目を輝かせ、うなずいた。
おごってもらったジュースを飲みながら、エリシアの冒険譚を目を輝かせながら聞き入る。
彼女の言葉が描く景色は、鮮やかで、遠くて、そして胸を高鳴らせるものだった。
話を聞きながら、アルトの中で何かの想いが形づいていく。
――次は、自分もその景色を一緒に見たい。
少年の中に生まれた小さな決意だった。




