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この町の名前はグレイスフィールド。アイゼンヴァルト辺境伯領の広大な土地の中で、交易路の要衝として栄える町である。
領内では二番目の規模を誇り、石畳の大通りには遠方から訪れる旅人や隊商などが絶えず行き交い、活気にあふれている。
町には王国騎士団の支部が堂々と構えており、その存在は治安維持の要だ。ここが辺境でありながらも秩序と安全が守られているのは彼らのおかげであり、それが住民たちの誇りでもあった。
また町の東側には未開の森が横たわっており、昼なお薄暗いその森の奥深く、そこには古代遺跡が鎮座している。誰が、何のために築いたのかは定かではない。
この森の存在が冒険者を呼び寄せ、町のもう一つの繁栄の理由となっていた。
グレイスフィールドは、平穏と冒険、日常と非日常が溶け合う境界の町である。
門の詰め所に控えている兵士に、二人は身分証を提示した。
エリシアはギルドカード、アルトはこの街の住民であることを示す町紋入りの住民手形だ。
本人確認のためのこういったカード状のものは、総じて刻紋札と呼ばれている。
シグルカードとは、木札や金属札に、居住登録している自治区または所属しているギルドの紋章、そして持ち主の名前を魔力で刻印したものである。カードは定期的に魔力で更新され、期限切れや紛失時は効力を失ってしまう様式だ。仮にそうなってしまった時は、非常に面倒くさい再発行の手続きが必要になる。
認証のための刻紋照合器にカードをかざし、そのまま特に問題なく二人で門をくぐった。
門を町側に抜けると、冷たい夜風が頬を撫でた。すでに日は沈みかけ、空は茜色から群青へと変わろうとしている。
大通りには、屋台の呼び声や馬車の車輪の音、遠くで響く楽師の笛の音が混ざり合い、賑やかさの中に一瞬の静寂が漂う。
石畳は夕陽を受けて赤く染まり、影は長く伸びて通りの端に並ぶ古びた建物の壁をなぞっていく。
その先に見えるのは、重厚な木の扉と鉄の装飾が施された建物――冒険者ギルドだ。扉の上には灯りがともり、暖かな光が外へと漏れ、旅人や傭兵たちの笑い声が中から響いてくる。
ギルドの扉を押し開けると、木の香りとざわめきが二人を包み込む。
カウンターの奥で帳簿をめくっていた受付嬢が顔を上げ、エリシアの背後に隠れるように立つアルトを見て、少し目を丸くした。
「魔物討伐の報告と、死骸処理の申請をお願いします」
その言葉に受付嬢は頷き、机の引き出しから申請用紙を取り出す。
「討伐した魔物の種類は?」
「グリムウルフです」
「討伐証明の部位はお持ちですか?」
「はい、こちらです」
エリシアは腰のポーチから血の乾いた牙を取り出し、布に包んで差し出す。受付嬢はそれを受け取り、慣れた手つきで確認しながら記録をつけ始めた。
その間、アルトは所在なげに辺りを見回していた。ギルドの中は彼にとって未知の世界で、壁に貼られた依頼書や、鎧を着た冒険者たちの笑い声が、どこか遠い物語のように感じられる。
「その子は?」
「森の入り口付近で襲われていたところを助けました。町の子です」
エリシアは短く説明し、アルトの肩に手を置く。
「アルト君、ここからは私がやっておくから、もう帰っていいよ。家の人も心配してるだろうし」
「……でも、オレもお礼を――」
「いいの。無事でいることが一番のお礼だから!」
エリシアは柔らかく微笑み、背中を軽く押す。
アルトは唇を噛み、名残惜しそうにエリシアを見上げたが、やがて小さく頷いた。
「わかった……ありがと」
そう言って、彼はゆっくりとギルドの扉へ向かう。
扉を開けて、アルトは一度だけ振り返り、ぺこりと小さくおじぎをして外へ出て行った。
アルトは木剣を背に担ぎ、夕闇に染まる道を走っていた。
耳の奥で、父の「暗くなる前に帰れよ」という低く温かい声がよみがえる。息は少し上がってきたが、走るスピードは落とさない。
やがて、見慣れた屋根と煙突が見えてきた。
煙突からは細く白い煙が立ち上り、夕餉の匂いが風に乗ってかすかに漂ってくる。胸の奥に安堵が広がると同時に、ほんの少しの罪悪感が顔を出した。
夢中で剣を振り続け、挙句魔物に襲われ、そこを冒険者の少女に助けられた。これを家族に知られてしまったら、今後町の外に出るのを禁止されてしまうかもしれない。
とりあえず、今日のことは家族には内緒にしておこうと心に決めた。
額に浮かんだ汗を袖で拭いながら、家の扉の前に立つ。胸の奥が、きゅっと縮こまる。
遅く帰ったことを、母はきっと心配している。
父は普段穏やかだが、家族の安全には人一倍厳しい。
兄は笑って庇ってくれるだろうが、母の眉間の皺は避けられない気がする。
アルトは深呼吸をひとつして、意を決して玄関扉を押し開けた。暖かな光がリビングから漏れている。
リビングの扉を開け中に入ると、父が椅子に座ったまま顔を上げ、低く落ち着いた声で「おかえり」と言った。その声には叱責よりも安堵が混ざっている。
兄は入り口に立つアルトに歩み寄り、笑いながら「また剣の稽古か?」と肩を軽く叩いた。その手の温もりに、アルトの緊張が少しだけほぐれる。
しかし、母は腕を組み、じっとアルトを見つめていた。その瞳には怒りと心配、そしてほんの少しの安堵が入り混じっている。
「…遅かったわね」
短い言葉に、アルトは背筋を伸ばす。やはり母はご立腹だ。
「あ、えと…ご、ごめんなさい」
小柄な体をさらに小さく縮こませ、アルトがたどたどしく謝った。
それを見ていた母の口元がわずかに緩み、仕方ない、といった風に大きく息を吐いた。
「…ご飯、冷める前に座って食べちゃいなさい」
その一言に、アルトの胸の奥がふっと軽くなった。よかった、今日はこれ以上怒られることはないようだ。たぶん。
いそいそと自分の席につくと、見計らって母が温かいスープをよそってくれた。その香りと湯気に、自分が空腹だったことを改めて思い出す。
「いただきます!」
そうして気持ちいいくらいの食べっぷりで、無心でパンとソーセージとスープを口に運ぶ。そんな末息子の食事姿を微笑ましそうに見ながら、父が声をかけてきた。
「剣の稽古、がんばってるみたいだな」
忙しそうに口をもぐもぐさせながら、アルトが向かいに座る父の顔を見上げる。
「稽古の成果を、あとで見せてもらうぞ」
「…!」
父の言葉にアルトは大きく目を見開き、キラキラと喜びに輝かせる。ちなみに口はもぐもぐ継続中なので、声には出さない。
「はは、父さんに見てもらえるってだけでこの顔か」
兄が笑い、横から肘で軽く小突いてくる。
「その時は俺も一緒に見させてもらおうかな」
今度は兄の顔を見上げ、目をキラキラとさせる。
大好きで尊敬する二人に修行を見てもらえるのだ、アルトのテンションは爆上がりである。
口の中に詰め込んだパンとソーセージを必死で飲み込むと、言質を取ったとばかりにアルトが弾んだ声を出した。
「ぜったい、絶対だからね! 約束だからね!」
「いいからさっさとご飯食べ終わりなさい! 片付かないじゃないの!」
そうして母の一喝が飛ぶ。
男三人は肩をすくめて途端におとなしくなった。
今日も、一日が無事に終わろうとしていた。




