㉓
「あとはユーゴ・ルインディルか」
机上に置かれた記録簿を開けば、そこにはユーゴ・ルインディルの名が、不自然な規則性をもって並んでいる。
日付は抜き取り発覚の五日前から前日まで。ほぼ毎日、同じような時間帯に書庫を利用している。
「抜き取り発覚の前日、おそらく抜き取られた日だと思うのですが、その日に受付を担当していた書庫管理者に話を聞きました」
報告を受け、オルフェンは視線を上げる。
その管理者は、エルクとユーゴの両方をよく覚えていた。
エルクとは軽く言葉を交わした記憶があり、ユーゴが難しい顔で書庫に入室してきた様子も鮮明に覚えている。
その上で、妙なことを口にしたという。
オルフェンは眉をひそめ、ページをめくる手を止めた。
「ユーゴが入室してきたとき、他にもう一人いたような気がする?」
「はい。二人入って来たと思ってペンを二本用意したそうですが、そこに立っていたのはユーゴ一人だったと」
「勘違いとかではなく?」
「管理者自身は、当時はそう思ったようです。ただ、どうにも引っかかっていたらしく」
オルフェンの視線が鋭くなる。よぎる悪い予感。
それを代弁するかのように、ブランが低く呟いた。
「…もしかしたら、ここでも認識阻害の魔道具を使われたかもしれないな」
真相を確かめるには、やはり現場の人間から直接話を聞くしかない――そう判断したオルフェンは、足早に諜報局へ向かった。
諜報局執務室を覗き込むと、既に帰宅準備を始めている情報班の面々がいた。少しダルそうな奴は今日の夜勤担当か。奥の方の席にはユーゴ・ルインディルが座っており、淡々と書類をまとめている。その様子から、今日も普通に勤務していたことを伺わせる。
オルフェンはまず情報班の班長を呼び出し、ユーゴの身辺調査を進めている旨を告げ、そのユーゴと比較的親しい職員への聞き取りを了承させた。
情報班の詰める諜報局執務室。その隣にある、小さな個室。
休憩や密談に使われるその部屋は、窓もなく、外の音がほとんど届かない。
オルフェンは椅子に腰を下ろし、向かいに座る情報班員――中年の男、ダニエルをじっと見据えた。
「ユーゴ・ルインディルについて、最近気づいたことはあるか?」
探るような声に、ダニエルは一瞬視線を机の上に落とし、少し考え込む。短い沈黙ののち、やがて決意を固めたように顔を上げ、まっすぐオルフェンの顔を見た。
「…あいつ、ここ数か月で妙に金回りがよくなった気がします」
「ほう?」
「前は昼食も簡単なパンとスープで済ませてたり、食べない日もあったんです。それが最近は外で食べることが増えて…服や靴もそれなりに高そうなものを新調してました」
オルフェンは眉をひそめる。
「収入源に心当たりは? 副業でも始めたのか?」
その問いに、ダニエルは即座に首を横に振った。
「いや、副業はないはずです。むしろ…ギャンブルか何かで一山当てたんじゃないかと」
「ギャンブル?」
「詳しくは知りません。ただ、噂があってですね…ダスクヘイブンのカジノに出入りしてるとか、なんとか」
「…!!」
オルフェンの目がわずかに細まる。
「直接聞いたわけじゃないですが…いや、あいつ自分の事ほとんど話さないんで。これはあくまで憶測なんですけど」
ダニエルは小さく肩をすくめて続けた。
「あいつ、何かしらの金の問題を抱えてるんじゃないかと、俺は思ってます」
ダニエルとの面談を終えたオルフェンは、続けて別の情報班員――若い女性隊員、ミレイナを呼び入れた。
彼女は椅子に腰を下ろすと、落ち着かない様子で指先をいじりながら口を開く。
「…ユーゴさんのことですよね」
「そうだ。最近、何か気づいたことはあるか?」
ミレイナは一瞬ためらい、視線を横に逸らした。言葉を選ぶように唇を噛み、やがて小さく息を吐いた。
「…あの人、少し前までお金に困ってたみたいなんです。食事を控えめにしたりとか、破れたシャツとかも自分で繕って着てたりとか…」
「それが最近は変わった?」
「はい。急に外食が増えて、しかも結構いい店に行ってるみたいで。新しいコートも買ってました。こないだなんか、奢ってあげるって食事に誘われましたし…」
オルフェンは無言で頷き、続きを促す。
「…それに、給金日になると、朝から妙に機嫌がいいんです。前は逆で、給金日前はずっと落ち込んでたのに」
ミレイナは小さく息を吐き、声を落とした。
「…あくまで私の勘ですけど、あの人、借金とか…何か大きな支払いを抱えてたんじゃないかと思います。最近はそれが片付いたのか、急に余裕が出たように見えます」
オルフェンは短く礼を述べ、彼女を下がらせた。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻ると、オルフェンは椅子の背にもたれ天井を見上げる。そのまま、今聞いたばかりの聴取内容を頭の中で反芻し、考えをまとめていく。
急に羽振りがよくなり、そして目に見えて分かる生活の変化。
ダニエルとミレイナ――二つの似通った内容の証言。
困窮からの急な好転。その裏にあるのは、正規の収入では説明できない金の流れ。
――ダスクヘイブンのカジノ。
もし噂が事実なら、彼はそこで何らかの形で大金を手にしているはずだ。
それらは一本の線となり、ユーゴ・ルインディルという人物の影を、より濃く、より不穏に浮かび上がらせていった。
執務室の片隅で、ユーゴ・ルインディルは書類を束ねる手を止めた。
背後で交わされる小声――名前こそ聞き取れないが、そこに混じる視線の重さは、嫌でも肌に刺さる。
(…俺を見ている)
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
ドレイガンに目を付けられてから、借金の返済代わりに細々とした情報を渡してきた。
騎士団のダスクヘイブン視察の日程、近隣貴族の身内や使用人の情報、特定商会の投資計画など、それこそ様々な情報だ。
そして命じられるままに奴の手下を庁舎内に潜り込ませ、外部持ち出し禁止の重要書類まで手渡してしまった。
大きすぎる情報の売却、そこから疑いの視線が生まれた。そして今、呼び出される同僚たち、沈黙の中に漂う探りの気配。
ここまでくると、答えは一つだ。
――もう長くは持たない。
ユーゴは無表情を装いながら、心の中で静かに決意する。
(今夜だ。夜明けを待たずに、ここを出る)
机を離れ、あくまで日常の帰宅に見せかけるように、何気ない足取りで宿舎へ向かった。
部屋には数日前から忍ばせておいた小さな革鞄がある。中身は、最低限の衣服と、偽名で作った身分証、そして現金。
(門までは裏通りを抜ける)
頭の中で、何度も反芻してきた経路をなぞる。
宿舎の裏口から出て、大通りを避けて裏路地へ回り、廃倉庫街を抜け、川沿いの古い橋を渡る。そこからなら、監視の目を避けて貨物区画に入れるはずだ。
決して誰かに見つかってはいけない。一度でも足を止めれば、全てが終わる。
(騎士団からだけじゃない…必ず逃げきって、ドレイガンともこのまま縁を切る)
ユーゴは鞄を革ベルトで固定し、上着の裾を整えた。
表情は平静を装っているが、心臓は暴れるように早鐘を打っている。
(あとは、運とタイミングだ)
東門が見えてきた。冬の空気が一層冷たく感じられる。
ユーゴは深く息を吸い、認識阻害の魔道具を発動させた。




