⑩
時刻は既に17時を過ぎ、夜の帳が静かに町を包み込んでいた。
冬の空気は澄み切っており、吐く息は歩くたびにふわりと漂い夜の気配に溶けて消えていく。
街灯の魔導灯がぽつぽつと灯り、石畳の上に淡い光の輪を落としている。遠くからは、雪を踏みしめる馬車の音と、帰りを急ぐ人々の足音が重なって響いていた。
セリオは肩に掛けた荷物を持ち直し、ブランの前で足を止めた。
「改めて、お礼を言わせてください、隊長殿」
そうして深く頭を下げる。
「息子さんと、その友人がいなければ、私は今ここに立っていなかったでしょう。本当に感謝しかありません」
ブランはまっすぐにセリオに視線を合わせ、わずかに口元を緩めた。
「礼ならあの二人に言ってやってくれ。…もっとも、あいつらは褒められるとすぐ調子に乗るがな」
その言葉に、横で聞いていたアルトがむっと眉をひそめた。
「調子に乗ってない!」
カイルは笑いながらアルトの肩を軽く叩き、「まあまあ、そういうとこだって」とからかう。
セリオはそんなやり取りを見てくすりと笑い、もう一度ブランに視線を戻した。
「このご恩は、必ずどこかでお返しします。それでは、また」
軽く会釈すると、セリオは背を向けて歩き出す。このまま宿泊している宿へと向かうのだろう。
その背中の影は街灯に照らされて長く伸び、やがて夜の闇に溶けていった。
「それじゃ、あたしもこのままギルドに向かうね」
エリシアがマフラーを巻きなおしながら声をかけてきた。
「じゃあ、またね! 風邪ひかないように!」
彼女は手を振りながら、躊躇なく雪を蹴って駆け出す。
「あのっ! 今日はありがと!」
慌ててアルトが声をかけると、
「どういたしまして!」
と走りながら顔だけ振り返り、明るい声で返してきた。
腰のポーチが小さく揺れ、足跡が白い道に一直線に刻まれていく。その走りは軽やかで、まるで寒さなど存在しないかのようだった。
やがて、冒険者ギルドへ続く通りの角に差し掛かったところで、エリシアはふいに振り返り、手を高く掲げてもう一度笑った。
その屈託のない笑顔は、冷たい空気の中でひときわ鮮やかに映った。
アルトはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて父ブランの「行くぞ」という低い声に促され、その場から離れた。
南門を離れ、自宅のある東地区の住宅街へと向かう。薄く積もった雪を踏みしめる音と、時折吹き抜ける冷たい風の音が耳につく。
「あの人、すげーな」
カイルがぽつりと呟いた。
「何が?」
「だって、あのチンピラたちを一瞬でやっつけちまったんだぜ。めちゃくちゃ強え」
カイルは興奮したように、両手を握りしめて上下にブンブンと振る。
アルトは肩をすくめ、少し考えるそぶりを見せてから、
「…まあ、そうだな。Cランク冒険者だって言ってたし」
と、わざとそっけなく答えた。
そのわざとらしさに気づいたカイルがにやりと笑う。
「お前、ちょっと憧れてんだろ?」
「は? そんなわけないだろ!」
アルトは慌てて否定しカイルを睨みつけたが、その様子を見て逆にカイルは声を出して笑いだした。二人のやり取りを後ろから聞いていたブランが笑いをこらえながら声をかける。
「憧れるのは悪いことじゃないぞ、アルト」
「父さんまで何言ってんだよっ」
「強い者を見て、自分もそうなりたいと思う。それは成長のきっかけにもなるんだ」
ブランは歩きながら、先程の元気な少女の姿を思い浮かべた。
「しかしCランク冒険者だったのか…。かわいらしい見た目なのに驚いたな」
どう見てもそんな実力者には見えない。世の中は不思議なものだ――そう考えたとき、一人の女性の顔が脳裏をよぎった。
ヴァレリア・ソルブレイズ。カイルの母。
鮮やかな金髪に、鋭い眼光。戦場で見せるその剣筋は、豪胆かつ鬼のように容赦がなかった。
そうだった、強さに性別は関係ない。ブランはひそかに身震いした。
「カイル…」
「え? なあにおじさん」
「…無事を祈る」
「えっ、マジで何!?」
やがてソルブレイズ家の前に着くと扉が勢いよく開き、カイルの母――ヴァレリアが現れた。
彼女の鋭い視線がまっすぐカイルを射抜く。その姿は、かつて騎士団で名を馳せた頃の凛々しさと威圧感を、当時のまま纏っているようだった。
「カイル・ソルブレイズ。遅くなった理由を説明をしてもらおうか」
低く落ち着いた声だが、その奥に潜む怒りは隠しきれていない。
「えっと…」
カイルは口を開きかけるが、視線はどうしようもなく泳ぎっぱなしで、そこから言葉が続かない。
ブランが一歩前に出て、カイルの代わりに簡潔に事情を説明する。しかし無情にも、ヴァレリアの眉間の皺は深まるばかりだった。
「チンピラ? 南門で保護? あんた、何やってんの!」
次の瞬間、ゲンコツが容赦なくカイルの頭に落ち、ゴヅン! という何とも鈍い音が響く。
カイルは「いってぇ!」と頭を押さえながらも、反論はできないようだ。
「ま、待てヴァレリア、こいつらだって――」
ブランが庇おうと口を挟むが、ヴァレリアの射るような鋭い視線が突き刺さり、それ以上言葉を紡げなくなる。
「ブラン、あんたはいつも甘いのよ! 締めるところは締めろって昔から言ってんでしょ!」
その鬼の形相に、ブランは肩をすくめて小さくなるしかできなかった。
アルトは父の背に隠れるようにその様子を眺め、思ったことはただ一つ。
…カイルのお母さん、マジ怖え…
しこたま怒られたカイルはしょんぼりと家の中へ入っていき、ヴァレリアは最後にブランへ「送ってくれてありがとね」と軽い礼を告げて扉を閉めた。
残されたブランとアルトは、しばし無言で顔を見合わせる。
やがてゆっくりと自宅へ歩き出し、石畳を踏む二つの足音だけが、静かな夜道に響いていた。
そうして、ようやくフェルナード家へたどり着く。
ギィ、と玄関の扉が開くと、冷たい夜気が家の中へ流れ込み、暖炉の温もりとぶつかって一瞬ひやりとした空気が広がった。
「ただいま」
「ただいまー」
ブランの低く落ち着いた声と、少し息を弾ませたアルトの声が重なる。
室内には煮込み料理の香りと、薪のはぜる柔らかな音が満ち、外の寒さを忘れさせてくれる。
キッチンから顔を出したエプロン姿のアルトの母――リオナが目を丸くした。
「…あら? あなたとアルトが一緒に帰ってくるなんて珍しいわね」
ブランは肩の雪を払い、苦笑する。
「いや、俺はこの後すぐ戻らないといけないんだ。こいつは南門で拾ってね」
「拾ったって……どういうこと?」
リオナの眉がぴくりと動き、視線がアルトへと向けられた。
ブランができるだけ簡潔に事情を話して聞かせる。
チンピラに絡まれていた商人を助け、その後エリシアという冒険者の少女に助けられ、南門で保護されたこと。そして、迎えに行ったのが己だったこと。
話を聞いていたリオナの表情が、驚きからゆっくりと静かな笑みに変わっていく。
その笑みはが冬の氷よりも冷たく感じられたのは、おそらく気のせいではない。
「…アルト。あなた、危ないことをしたのね?」
「い、いや! 危ないってほどじゃ――」
「――アルト!」
雷鳴のような声が、暖炉の火を揺らすほど響き渡った。
二階に上がっていた兄テオが何事かと顔を出し、しばし様子をうかがった後、苦笑しながら小声で「ご愁傷さま」とつぶやく。
ブランは腕を組み、何も言わずにその場を見守っていた。だが心の中では、己の妻と旧友ヴァレリア、どっちが怖いかというくだらない問答が延々と繰り広げられていたのだった。
「さて…戻るか」
茶を一杯だけ飲んでひと息つくと、ブランはゆっくりと椅子から立ち上がった。隣に座っていたアルトが、湯気の立つマグカップを両手で包みながら父の顔を見上げる。
「父さん、また仕事に行くの?」
「ん、まだ片付けることが残っているからな」
ブランはそう答え、息子の頭を大きな手でくしゃりと撫でた。
隣のキッチンからは、エプロン姿のリオナが顔をのぞかせる。
「ブラン、もう行くの? 夕食は遅くなるのね」
「ああ、すまない。帰りは夜半になると思う」
短く返しながら、腰の剣の位置を確かめる。父親が出かける気配を察知したのか、長男テオが階段を降りてきた。
「父さん、戻るの? 忙しいなら俺も何か手伝おうか」
「お前は今日は休みだろう。家のことを頼む」
ブランはそう言い、軽く手を振った。
そのまま冷たい夜気の中へ歩み出ると、夜道の中、まっすぐ先程の南門へと向かって歩いて行った。




