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A to I  作者: きんかん


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第9話 Descent I

 下層市場の外縁に設けられた仮設の追跡指揮区画で、右側の通路にカイル・ローウェルの反応が出た。


 古い保守灯が一つ点き、錆びた案内板の下で黄色く明滅する。水滴の落ちる音に混じって、照合端末が低く鳴った。


『通行記録照合』


『カイル・ローウェル類似反応』


『青色繊維映像断片』


『旧第九水再生塔周辺反応』


 部下の一人が、端末の前で足を止めた。


「反応が出ました。右です」


 ルーカスは、画面を見た。


 整った顔には、焦りも安堵もなかった。濁った端末の光が、眼鏡の縁に細く反射している。


「右は、見せるための足跡ですね」


 部下が振り返る。


「偽装ですか?」


「はい」


「では、左を追いますか?」


「いえ、まだです」


 ルーカスは端末の表示を指先でなぞった。直接触れたわけではない。手袋の先が画面の前を横切り、空中に浮いた照合線だけを選ぶ。


 右の通路には、足跡が多すぎた。


 カイル・ローウェルに似た反応。青色繊維の断片。水圧記録の時刻ずれ。古い広告端末の起動履歴。


 雑音としてはよくできている。だが、よくできすぎている。


「このやり方は、以前に見たことがあります」


「下層の撹乱屋ですか?」


「撹乱屋ではありません」


 ルーカスは淡々と言った。


「記録を消さずに、汚れを流す相手です」


「厄介ですね、これでは追跡が難しい」


「いいえ。追う対象が変わっただけです」


 彼は右の通路のログを閉じた。

 代わりに、左側の古い整備通路の記録を開く。


 そこには、ほとんど何もなかった。

 通行者反応なし。販売記録なし。広告接触なし。酸素消費記録なし。


 空白。


 部下は眉を寄せた。


「左には何もありませんが」


「ですが、何もないという表示があります」


「同じでは?」


「違います」


 ルーカスは、その空白を見ていた。


 右には足音が多すぎる。

 左には、沈黙が整いすぎている。


「右は、彼のために作られた足跡です」


「カイル・ローウェルの?」


「彼を知っている者の足跡です」


 部下は右のログを見直した。


「では、左が本命ですか」


「本命というより、通された道です」


 ルーカスは画面を切り替える。


 市場端末の販売記録が表示された。


『琥珀色髪留め 二点』


『青色合成毛販売履歴』


『照合保留』


『販売者関連度――低』


『再照会待機』


 その端末には、濁りがあった。


 青色合成毛の販売履歴と、未登録同行者の反応。その二つを接続しかけた線が、途中で薄くなっている。

 削除ではない。切断でもない。関連度だけが、意図的に下げられている。


 部下が言った。


「販売者を外しています。撹乱者のミスでしょうか」


「……違いますね」


「なぜです?」


「彼なら、もっと雑に濁すでしょう。これは綺麗だ」


 ルーカスは、販売者関連度の表示を拡大した。


 周囲のログは荒れている。


 だが、この販売端末だけは、濁っているのに負荷が少ない。

 販売者の照合だけが、やわらかく外されていた。


 ルーカスは画面から視線を離さなかった。


「……民間端末への負荷を避けている」


「逃走中にそんなことを?」


「逃走者なら、しません」


「では、カイル・ローウェルではない?」


 ルーカスは一拍置いた。


「これは、撹乱者の癖ではありません」


 部下は沈黙した。


 市場端末のログが、薄く明滅する。


『琥珀色髪留め 二点』


『青色合成毛販売履歴』


『販売者関連度――低』


 ルーカスは、指先を止めた。


「対象が、自分で記録の付着先を選んでいます」


「対象、ですか」


「未登録の少女型対象です」


「では、彼女はただの同行者ではないと?」


「ただの同行者なら、記録の付着先を選びません」


 ルーカスは、しばらく市場端末のログを見ていた。


 No.002系外界観測端末。

 戦後再構成個体。

 戦時学習パッケージ、照合不能。

 観測対象。

 回収優先度、最上位。


 資料にあった分類は、その程度だった。


 だが今、ログの上に残っているものは、単なる逃走対象の反応ではない。

 他人に付着しかけた記録を、自分の側へ寄せた痕跡だった。


「……学習していますね」


「何をですか?」


「見たものを、ただ送るだけではなくなっている」


 部下は理解できないという顔をした。

 それでいい、とルーカスは思った。


 現場全体が理解する必要はない。

 理解できる者だけが、判断を間違えなければよい。


 そして、その判断のために必要な情報が、自分にすべて渡されているとは限らない。


 部下の顔に、わずかな緊張が走った。


「回収を急ぎますか?」


「いいえ」


「逃がすのですか?」


「逃がすわけではありません」


 ルーカスは、旧区画の地図を開いた。


 下層市場の外縁。旧排熱管。第九水再生塔。廃棄された保守階段。その先に、薄い灰色で表示された線がある。


 旧第七線。


 ほとんどの地図では、すでに閉鎖済みになっている。通行記録は少ない。保守記録も古い。だが、完全には死んでいない。


「旧第七線方面の圧を下げてください。市場側の規制を右へ寄せ、左の保守封鎖を一段だけ解除します」


 部下が顔を上げた。


「そちらへ誘導するのですか」


「はい」


「危険区画です。旧線の自律保守系統も生きています」


「停止させないでください」


「対象へ危害が及ぶ可能性があります」


「回収対象の損傷は禁止されています。旧系統も、その条件には従うはずです」


「生体対象は?」


 ルーカスは一拍だけ黙った。


「無力化許可の範囲内です」


 答えは命令書どおりだった。

 その命令書に、旧第七線の内部構造も、自律保守機の実際の状態も書かれてはいない。


「安全な道は、人間が選びます」


「では、危険な道は?」


「追われたものが選びます」


 ルーカスは旧第七線の封鎖表示を一段だけ落とした。


「そして、呼ばれたものも」


「部隊を右へ、見せるための足跡を見たことにします」


「左は?」


「閉じすぎないように」


「了解しました」


 部下が指示を飛ばす。


 市場通路の警告灯が、右側で二つ点いた。追跡ドローンの低い羽音が、わざとらしく右へ流れる。通行規制の表示が、遠くで赤く染まった。


 左の整備通路には、何も出ない。

 数秒前まで閉じていた保守封鎖も、最初から存在しなかったように表示から消えた。


 沈黙のまま、旧第七線へ続いている。


 ルーカスはその沈黙を見ていた。


「逃走経路として扱いますか?」


 別の部下が訊いた。


「いいえ」


 ルーカスは答えた。


「こちらは誘導経路として扱います」


 画面の中で、旧第七線の表示が一度だけ暗くなり、再び薄く点いた。




   *




 逃げ道を選んだつもりだった。


 だが、下層で道を選ぶことは、いつも半分だけ嘘だった。


 開いている道。

 閉じている道。

 人が通った痕跡のある道。

 誰も通った記録がない道。


 そのどれもが、選択肢の顔をしている。


 けれど実際には、酸素残量と、追跡ドローンの位置と、監視端末の死角と、ミロが増やした足音と、アトイが自分で背負った記録が、少しずつ二人の足を押していた。


 選んだのはカイルだ。

 選んだのはアトイだ。


 それでも、選べる道は最初から削られていた。


 右側には、分かりやすい逃走痕が残っている。

 古い端末が一度だけ起動し、捨てられた認証タグが床に落ち、誰かが急いで通ったような熱の残りがあった。


 左側には、何もないように整えられていた。


 足跡も、警告も、閉鎖表示もない。

 だからこそ、カイルはそちらを見た。


「……嫌な沈黙だな」


 アトイは左の通路を見ていた。


「はい」


「行くなって意味か?」


「判定不能です」


「じゃあ、行けるって意味でもあるな」


「その解釈は危険です」


「危険じゃねえ道が残ってたら、そっちへ行ってる」


 逃げ道ではない。


 少なくとも、カイルの経験はそう告げていた。


 だが、追われている人間にとって、逃げ道と罠はよく似ている。

 違いが分かるのは、たいてい踏み込んだ後だった。

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