第8話 Chase III
旧第九水再生塔の外壁は、内側から聞くよりもずっと静かだった。
濁った水の音も、錆びた配管の軋みも、塔の扉が閉じると急に遠くなる。残ったのは、下層特有の低い機械音と、どこかで漏れている蒸気の細い息だけだった。
カイルは肩越しに塔を一度見た。
開いたはずの扉は、もう壁と同じ色に沈んでいる。古い警告塗料が剥げ、配線の束が垂れ、看板には読み取れない企業名の残骸が残っていた。
その向こうに、ミロがいる。
アトイは閉じた扉を見ていた。
「ミロはこないのですか」
カイルは歩き出しながら答えた。
「あいつは、あそこにいるから強いんだ」
「来ない方が、役に立つのですか」
「そういう言い方をするなよ、妙に酷い言われようになってる」
「不適切でしたか」
アトイは一拍置いた。
「修正します」
「それも今はいい」
足元の水たまりが、鈍い赤色を反射していた。
非常灯ではなく、隣の通路で回っている広告ホロの色だった。半分壊れた女の顔が、人工皮膚の宣伝文句を繰り返している。顔の上半分だけが青く乱れ、髪のようなノイズを流していた。
カイルはそれを見ない。
アトイも見なかった。
見るな。言うな。記録するな。
塔の中で聞いた言葉が、まだ空気の中に残っているようだった。
通路脇の端末が、一つ、短く点滅する。
『通行照合――保留』
『水圧記録――再照会』
『青色繊維映像断片――』
表示はそこで潰れた。濁った画面に、別の通行者の足跡が重なる。
古い販売履歴、酸素代の遅延、廃棄済み端末の起動時刻。意味のあるものとないものが、汚れた水に落ちた油のように混ざっていた。
「……始まってるな」
カイルが低く言った。
「ミロの撹乱ですか」
「声に出すな」
「保持します」
頭上で配管が鳴った。
カイルは足を止め、左の細い通路を選んだ。正面には比較的大きな市場通路があったが、そちらには人の流れがある。
人の流れがある場所には、目もある。目がある場所には、値段がつく。
左の通路は狭かった。
壁から剥き出しになった配線が垂れ、壊れた空調カバーが腰の高さに飛び出している。
床には水と砂と樹脂片が溜まり、歩くたびに靴底が小さく粘った。
「……近いな」
カイルが言った。
「追跡者ですか」
「違う。通路が、だ」
次の瞬間、アトイの髪が、壁際の欠けた端末の角に触れた。
青い髪が細く引かれ、琥珀の光を含まない透明な瞳が、その方向へ動く。
アトイはすぐに止まった。髪そのものに損傷はなかった。ただ、数本が端末の割れた樹脂に引っかかっていた。
カイルが舌打ちする。
「俺がやる、動くなよ」
「損傷はありません」
「損傷の話じゃねえ」
カイルは手袋越しに、慎重に髪を外した。ぞんざいな手つきに見えて、力は入っていない。端末の角に絡んだ青い髪を一本ずつ逃がし、最後に軽く払う。
「長いわ、目立つわ、何度も引っかかるわ。最悪だな……」
「切断は推奨されません」
「わかってるよ。覆うのも駄目なんだろ」
「はい。同期精度が低下します。カイルの循環反応にも影響が――」
「だから、わかってるって」
「はい」
カイルは周囲を見た。
壊れた広告、薄暗い市場の端、濁った通路。どこにでも人目はある。けれど、今はそれ以上に、どこにでも記録がある。
「切れねえ。隠せねえ。なら、せめてまとめるか」
「髪を結束する、という意味ですか」
「そうだ」
「結束具が必要です」
「……針金でいいだろ」
カイルは視線を先へやった。
市場通路の端に、小さな露店があった。
錆びた配電箱の前に布を敷いただけの露店だった。
合成毛、ヘアピース、廃材を磨いた髪留め。その中に「認証攪乱用ではありません」とだけ新しい札がある。
奥には、片目へ古い拡張レンズをつけた老婆が座っていた。見ているのか、見ていないのか分からない顔だった。
カイルは足を止めるなり、布の上を指した。
「髪をまとめるやつ、あるか?」
「急ぎの客は高いよ」
「足元見てんじゃねえよ」
「見逃し料込みさ」
老婆は笑いもせず、汚れた指で品物を分けた。青い合成毛の束、舞台用のヘアピース、ひびの入った金属ピン。
その奥に、小さな琥珀色の髪留めが二つ並んでいた。
透明な廃材ガラスを磨いたものだろう。形は揃っていない。中に細かな気泡が残り、端には古い傷がある。
それでも市場の赤い光を受けると、青い夕暮れのドームに滲む街灯のような琥珀色を返した。
アトイの視線が、そこで止まった。
「……それでいい」
「二つで二十クレジットだよ」
「いや、一つあれば事足りる」
「片方だけ売ると、残った方が泣くんさ」
「……髪留めに泣かれても困るんだが」
「物は、持ち主より長生きするからね。泣き方くらい覚える」
老婆はそこで、初めてアトイの目を見た。
「青い目の子は、昔もいたよ」
それ以上は言わなかった。
カイルは舌打ちして、端末にクレジットを落とした。
老婆の端末が遅れて点く。
『雑貨類』
『装身具』
『琥珀色髪留め 二点』
その表示を、カイルは最後まで見なかった。紙片に包まれた髪留めを受け取り、アトイへ放る。
アトイは両手で受けた。
「ほら、これでまとめろ。俺のためだ」
老婆の口元が、そこで初めて少しだけ曲がった。
「おや、大事にされてるねえ?」
「違う、茶化すな」
カイルは即答したが、声が少しだけ低かった。
アトイは紙片を開き、琥珀色の髪留めを確認した。二つ。完全に同じ形ではない。けれど、並べると一組に見えた。
「カイルのために、髪を結束します」
「やめろ、繰り返すな」
「意味の訂正を要求しますか」
「今はいい。早くしろ」
アトイは青い髪を左右に分けた。
アトイは手順を探るように、慎重に髪を左右へまとめた。
琥珀色の髪留めが、青い髪の中へ古い街灯のように二つ浮かぶ。
老婆は最後まで手元だけを見ていた。
カイルはそれを一瞥した。
「……まあ、さっきよりはマシになったな」
「外見評価ですか」
「機能面での評価だ」
アトイは左右の髪留めを、順番に確かめた。
「保持状態を確認しています」
「落とすなよ。二つで一組らしいからな」
「一組」
「そうだ」
アトイは、もう一度だけ髪留めに触れた。
「保持します」
カイルは何か言いかけて、やめた。
老婆が鼻で笑う。
「お似合いじゃないか」
カイルは振り返らなかった。
「見てないんじゃなかったのか」
「聞こえただけさ」
その時、露店の端末が短く震えた。
販売済みの表示が、消えずに残っている。
『琥珀色髪留め 二点』
『青色合成毛販売履歴』
『照合待機』
『未登録同行者――』
画面の文字が、一瞬だけ歪んだ。
アトイの目が、端末へ向いた。
「やめろ、見るな」
カイルが低く言った。
だが、アトイはもう見ていた。
老婆の古い販売端末の上で、表示が何度も重なる。
琥珀色髪留め。青色合成毛。舞台用ヘアピース。通行者多数。旧第九水再生塔周辺反応。サナ・クロウ店舗付近通過記録。未登録同行者疑い。
無関係な記録同士が、濁った水の中で絡むように接続されていく。
ミロの撹乱は、足音を増やすためのものだった。
だが、増えた足音の一つが、いま老婆の端末に沈みかけていた。
「この端末は、私を隠すための偽装経路に巻き込まれています」
「声に出すな」
「このままでは、この人物に危険が移ります」
「なら、運が悪かったんだよ」
カイルの声は冷たかった。
生き残るためなら、知らない老婆へ危険を押し付ける。下層で何度も使ってきた理屈だった。
間違ってはいない。
正しいとも思えなかった。
彼は老婆を見ていない。端末も見ていない。市場通路の奥、壊れた広告ホロの陰、頭上の監視カバー、足元の水たまり。その全部を見ている。
「触るな。助けた記録が残る」
アトイは端末の表示を見つめたまま、動かなかった。
『販売記録再照会』
『青色繊維映像断片』
『旧遺構関連反応』
『未登録同行者支援疑い』
老婆は何も言わなかった。
何かが起きていることには、気づいているはずだった。
けれど、彼女は布の上の合成毛を整えている。青い束を左へ、灰色の束を右へ。値札の曲がりを指で直し、端末から目を逸らしている。
気づいていない、という顔だけが妙に上手かった。
「この記録は、この人物のものではありません」
「だから何だ?」
「誤っています」
「下層の記録はだいたい誤ってる」
「これは、違います」
アトイの声は小さかった。
だが、止まらなかった。
「私の記録です」
カイルが、ようやくアトイを見た。
「違う。お前の記録でもない。ミロがばら撒いた泥だ」
「私を隠すために発生した泥です」
端末の表示が、さらに深く歪んだ。
『照合優先度上昇』
『販売者情報取得』
『居住区照会』
『関連者確認――』
カイルの手が、アトイの手首を掴んだ。
「行くぞ」
「処理が必要です」
「必要ねえ」
「このままでは、老婆が照合対象になります」
「だから、必要ねえって言ってる。俺たちが死んだら意味ねえだろ」
「はい」
「分かってんなら走れ」
「ですが、違います」
カイルの目が細くなった。
アトイは掴まれた手首を振りほどかなかった。ただ、老婆の販売端末を見つめていた。
端末には触れない。隣の壊れた広告端末にも、触れない。
ただ、そこから伸びてくる細い照合線を見ていた。
『未登録同行者支援疑い』
『販売者情報取得』
『関連者確認――』
その線の先に、老婆の記録があった。
そのさらに先に、アトイ自身へ向かう照合があった。
「おい」
「記録は消しません」
「じゃあ何をする気だ?」
「誤った照合に、応答します」
アトイの瞳の奥で、薄い光が重なった。
彼女は何かを侵入させたわけではない。
新しい記録を作ったわけでもない。
向けられた照合に、観測端末として答えただけだった。
『対象関連照会』
『販売者――未登録同行者支援疑い』
『照合要求』
「この記録は、この人物のものではありません」
アトイは小さく言った。
『観測応答』
『関連度再計算』
『参照元不一致』
青色合成毛の販売履歴は残る。琥珀色髪留めの販売記録も残る。老婆がここで物を売ったことも、端末が代金を受け取ったことも、消えない。
ただ、その記録からアトイへ伸びようとしていた線だけが、照合不能として細くなっていく。
老婆の端末が、低い音を立てる。
『照合保留』
『販売者関連度――低』
『再照会待機』
表示が止まった。
老婆は手元を見たままだった。
ただ、布の上の合成毛を整える指が、一瞬だけ止まった。
カイルはアトイの手首を離した。
「……余計なことをしたな」
「はい」
「分かってんのか」
「完全には、分かりません」
「じゃあ何でやった」
アトイは老婆の端末ではなく、琥珀色の髪留めに触れた。
右。左。
二つで一組。
「この記録は、この人物のものではありませんでした」
「だから、お前が背負ったのか」
「はい」
アトイはまだ、善悪という言葉を使わなかった。
ただ、付着する先が違うと判断し、自分の側へ戻した。
カイルは何か言おうとした。
だが、通路の奥で警告灯が一つ点いた。
赤ではない。白でもない。古い保守用の黄色い灯りだった。市場通路の遠くで、人の流れがわずかに変わる。
誰かが、何かを探している。
カイルは短く息を吐いた。
「余計なことしやがって、走るぞ」
「はい」
老婆の横を抜ける瞬間、低い声が背中に落ちた。
「その子を大事にしな。泣かせるんじゃないよ」
カイルは振り返らなかった。
「……聞こえただけだろ」
「ああ、そうさ。聞こえただけさ」
アトイは一度だけ、老婆の方を見た。
老婆は最後まで二人を客として扱い、逃亡者としては一度も見なかった。
通路を曲がった直後、カイルの携帯端末が震えた。
画面は点かない。音も出ない。ただ、古い水圧計の針のような細い振動だけが、手袋越しに伝わる。
カイルは端末を耳に近づけた。
『右を捨てろ』
ミロの声だった。
カイルは足を止めない。
「理由は?」
『聞く時間があるなら、右へ行け』
「捨てろっつったろ」
『だからだ。右へ行け。捨てる道を、後ろにも見せろ』
カイルは舌打ちした。
「どっちだよ」
『お前は左だ』
通信の向こうで、水の流れるような雑音が混じる。
『右に、お前の足音を残した。左に、青い嬢ちゃんの沈黙を残した』
「意味の分かんねえことを言うな」
『それが分かる奴が後ろにいる』
カイルの目が細くなった。
「……追ってきてる奴か」
『名前を付けるな。名前は高い』
カイルはアトイの腕を引き、左の整備通路へ滑り込んだ。
背後で、右側の通路の表示灯が一つ、遅れて点いた。
『通行記録照合』
『カイル・ローウェル類似反応』
『青色繊維映像断片』
アトイが振り返りかける。
「見るな」
「はい」
『青い嬢ちゃん』
ミロの声が、少しだけ低くなった。
『今のを忘れるな。でも、残すな』
アトイは走りながら答えた。
「保持します」
『ならいい』
通信が切れた。




