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A to I  作者: きんかん


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第7話 Chase II

 アトイは瞬きした。


「名前は識別に必要です」


「識別されないほうがいい時ってのがあるんだよ」


「そう、カイの言うとおりだ。わかるやつだけがわかれば、それでいい」


「区別しなくていいのですか」


「そうだ。だから黙ってろ」


 カイルが言うと、ミロは少しだけ笑った。


「お前、嬢ちゃんに生き方でも教えてんのか?」


「……余計なことをされると高くつくからな」


「いい言い訳だ」


 ミロは扉を大きく開け、二人を中へ入れた。




 内部は、通信機材の墓場だった。


 壁一面に古い端末が積まれ、天井からケーブルが垂れている。型番の違うモニターが不揃いに瞬き、冷却ファンと除湿機が同時に唸っていた。空気は熱を持ち、埃とオゾンと湿った鉄の匂いが混ざっている。


 床には水滴を受ける皿がいくつも置かれていた。

 その隣に、古い基板が乾燥剤の袋と一緒に吊るされている。


 機械を守りたいのか、腐らせたいのか、分からない場所だった。


 ただ一つ、奥で周期的な音がしている。

 低く、重く、不揃いな音。ポンプだ。


 アトイの瞳の奥で、観測レンズがかすかに動いた。


「旧式循環ポンプ。稼働音が不安定です」


「……確かに音がバラついてるな」


「故障寸前です」


 アトイの言葉に、ミロが肩をすくめながら答えた。


「故障寸前だからいいんだよ」


 カイルは奥の暗がりを見た。

 太い配管の下に、煤けた小型ポンプが据え付けられている。外装の塗装は剥がれ、メーカー名も読めない。だが、まだ動いていた。


「まだ回ってんのか、あれ」


 ミロは笑った。

 その笑い方は軽いが、目はポンプから離れていなかった。


「あのポンプが止まったら、ここは死ぬ」


「じゃあ新しいのに替えろよ」


「新品は登録される。登録された機械は、持ち主を喋る」


「……面倒だな」


「そういうことだ。お前が拾ってきたあのガラクタは、名前を喋らねぇ。だから今もここが生きてる」


 カイルは鼻で笑った。


「礼でも言う気か?」


「言わねぇよ。ログに残る」


「口で言うだけだろ?」


「俺が覚えてる、それだけでいい。上に届くログと、人に残るもんは別だ」


 カイルは少し黙り、心底嫌そうに顔をしかめた。


「……気持ち悪いことを言うんじゃねえ」


 アトイが、二人を交互に見た。


「ログには残さず、覚えるのですか」


 ミロはアトイを見た。

 さっきまでの“こいつ”を見る目ではなかった。値段を測る目でもない。どこか、古い配管の奥の流れを読むような目だった。


「そうだよ、青い嬢ちゃん。下層じゃ、それを義理って呼ぶんだ」


 アトイはその言葉を処理するように、わずかに首を傾けた。


「記録――」


 ミロの声が低くなる。


「今のは残すな」


 アトイの口が止まった。

 青い瞳の奥で、薄いレンズが一度だけ収縮する。


「……記録、ではなく……保持します」


 カイルは顔をしかめた。


「変なところばっかり覚えやがって」


 ミロは短く笑った。

 そして、壁際の端末を一つ蹴って起動させた。


 画面に、火星下層の古い配管図が浮かぶ。

 水の流れ。圧力ログ。凍結警告。旧監視線。通行ゲート。死んだカメラ。

 いくつもの線が塔の周囲で絡まり、濁った水路のように重なっている。


「俺のことを情報屋って呼ぶ奴もいるがな」


 ミロの言葉に反応して、アトイが聞き返した。


「違うのですか」


「情報屋は売る。俺は落とす」


「何をですか」


「水垢だよ」


 ミロは指先で、モニター上の古い通行ログを叩いた。


「生きてりゃ残るだろ。水垢も、ログも」


「比喩ですか」


「半分はな。流量、圧力、漏水を見る線に、端末もカメラも通行ログもぶら下がってる」


「水配管は情報配管を兼ねています」


「上の言い方をするな。下じゃ、湿って、錆びて、目が曇る。それで十分だ」


 古いモニターの一つに、かすれた映像が映った。

 誰かが通った記録だろう。だが顔は滲み、時刻表示は三秒ごとに飛んでいる。


「管理局の目は多い。けどな、目玉ってのは濡れると曇るんだよ」


 ミロは端末を操作する。

 いくつもの小さなログが画面に浮かんだ。


 カイル・ローウェル。

 酸素供給料未納。

 区画通行料遅延。

 匿名買い取り候補照会。

 サナ・クロウ店舗付近通過記録。

 青色人工毛らしき映像断片。

 未登録同行者。

 旧遺構反応。


 カイルは舌打ちした。


「もうそこまで流れてるのか……」


「ああ。だが、これはまだ固まってねぇ」


「固まる?」


「水垢と同じだ。流れたもんを放っておくとこびりつく。こびりつくと、誰が通ったか分かる」


 ミロは別の端末を起動した。


「だから、削るな。浮かせろ。流れに混ぜろ。綺麗に消そうとする奴ほど、傷跡を残す」


 アトイは真面目な顔で言った。


「ログ処理に酸性薬剤を使用するのですか」


「比喩だよ。……半分はな」


「半分の内訳を要求します」


「アトイ、やめとけ。こいつは説明すると調子に乗る」


 カイルが言うと、ミロは楽しそうに笑った。


「で、頼みは何だ。嬢ちゃんを売りに来たんじゃねぇんだろ?」


「ああ」


「だろうな。売るならサナのところで済む」


「厄介事を持ち込むなって怒られたぜ」


「はは、当然だ。じゃあ本題に入るか」


 ミロは椅子に腰を下ろし、端末に両手を置いた。


「ふん。足跡を消せって顔だな」


 カイルは短く言った。


「俺たちの足跡を消せるか?」


「無理だ」


「早ぇよ」


「消せるログなんざ、大したログじゃねぇ。問題なのは、消したら目立つログだ」


 ミロは画面の一部を拡大した。

 サナの裏口周辺の記録。旧排熱管の微弱反応。第九外縁通路の死んだカメラ。


 どれも壊れている。

 だが、壊れたものが同じ方向へ向いた時、それは道になる。


「お前らはもう見られてる。だが、まだ“誰が何を連れているか”までは固まってない。今やるべきなのは、消すことじゃない」


「じゃあ何だ?」


「散らすんだよ」


 ミロは笑った。


「足跡を消すんじゃねぇ。足音を増やす。どれがお前の音か分からなくする」


 ミロが端末を叩く。


 カイル・ローウェルらしき端末が、市場区画へ向かう。

 死亡登録済みのタグが、旧居住棟を通過する。

 壊れた広告ホロが、青い髪の映像を吐く。

 水圧ログが、三分前の通過時刻を七分後にずらす。


「死んだ端末を歩かせる。青い髪は増やす。時刻は濁す。それも適当にな」


「おい、雑だな」


「綺麗にやると目立つ」


「面倒くせえ……」


「面倒だから効く」


 画面に、いくつものルートが走った。

 市場区画。旧居住棟。下層鉄道の廃線。それぞれに、別々の端末反応が付いていく。


「お前の巣、なかなか便利だな」


「壊れてるからな。完全に死ねば片付けられる。直しきれば役所が来る。死なない程度が一番長持ちする」


「故意に不完全状態を維持しています」


「上の言い方をするな、嬢ちゃん」


 カイルは額を押さえた。


「聞いてるだけで頭が痛い」


 ミロは端末を叩いた。

 複数のログが同時に動く。


 汚れた水の中に墨を落としたように、足跡が濁っていく。


 カイルはそれを見ながら言った。


「どれくらい持つ?」


「相手がただの回収屋なら半日。政府の犬なら一時間」


「……嫌な答えだな」


「嫌な相手なら、もう見られてる」


「嫌な相手ってのは?」


 ミロは画面から目を離さずに答えた。


「消した跡を見る奴だ」


 その声には、軽さがなかった。


 カイルは黙った。

 アトイも黙っていた。


 旧第九水再生塔の奥で、ポンプが一度だけ大きく軋む。

 水の流れが乱れ、モニターの映像が一斉に滲んだ。


 ミロは、その濁りを見て、小さく笑った。


「走れ、カイ。俺が濁してる間に」


「お前は?」


「俺はここだ。ここでしかできねぇ仕事がある」


「……死ぬぞ」


「だから、お前が早く消えりゃいい」


 ミロはアトイを見た。


「青い嬢ちゃん」


「はい」


「今見たもんは、残すな」


 アトイはほんのわずかに間を置いた。


「……保持します」


 ミロは満足したように笑った。


「それでいい。走れ、カイ」




 同じ頃。


 下層管理アーカイブの奥で、濁ったログの束が静かに開かれていた。


 青い髪の映像が三つ。

 カイル・ローウェルらしき通行記録が四つ。

 死亡登録済み端末の異常移動が二つ。

 水圧ログの時刻ずれが五つ。


 普通なら、壊れた下層の記録として処理される。

 誰かが見落とし、誰かが後回しにし、誰かが未処理のまま積み上げる。


 だが、その画面を見ている男は、見落とさなかった。


 ルーカス・ヴァーンは、指先で濁ったログの流れをなぞった。


「足跡が消えているのではありませんね」


 端末の光が、彼の横顔を青白く照らしている。


「消そうとした人間の癖が残っています」


 画面上で、複数の偽ルートが静かに重なった。

 その中心に、旧第九水再生塔の古い水圧ログが、かすかに脈打っていた。


 画面の最下層で、ルーカスが開くより先に参照された索引が一つだけ閉じた。




 No.001-LINKED REVIEW : ACTIVE




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