第6話 Chase I
サナの店の扉が、背後で閉じた。
油切れの蝶番が、最後に短く鳴る。
その音が消えると、旧排熱管の中には、水滴の落ちる音だけが残った。
赤茶けた狭い管路は、人間が通るための道ではない。古い機械の熱を逃がし、砂と埃を外へ吐き出すための穴だ。
壁には油と粉塵がこびりつき、ところどころで剥き出しの配線が垂れている。
カイルは身を屈め、背中のレールガンを壁にぶつけないように進んだ。
ぶつければ音が出る。音が出れば、誰かが聞く。誰かが聞けば、どこかに残る。
今は、それだけで面倒だった。
「待て。距離を取るな」
数歩先へ進みかけていたアトイが、足を止めた。
「歩行速度を落とします」
「そうじゃねえ。……いや、そうだ。くそ、面倒くせえ」
胸の奥が、さっきから微妙にずれている。
痛みではない。息苦しさとも違う。自分の身体のどこかが、背後を歩く青髪の機械との距離を勝手に測っているようだった。
サナの言葉が頭の中で嫌な形に残っている。
髪は同期用のアンテナ。
覆うのも、切るのも駄目。
下手にいじれば、この子より先にあんたが倒れる。
「カイルの循環反応に乱れがあります」
「言うな。記録もするな」
「了解しました」
「そういう返事が機械っぽいんだよ」
アトイは少しだけ首を傾けた。
薄汚れた防塵コートの肩から、青い髪がこぼれている。暗い赤錆の世界の中で、そこだけがやけに鮮やかだった。
隠せない。
覆えば、自分が倒れる。
切れば、おそらくもっと悪い。
火星の下層で、そんな色は目印にしかならない。
「……面倒な髪だな」
「この部位は外界観察および同期補助に使用されています。必要なデバイスです」
「知ってる。さっき聞いた」
先へ進むにつれて、管路はさらに細くなる。
途中、剥き出しの配線が、アトイの髪に触れた。彼女はそのまま進もうとしたが、カイルは反射的に手を伸ばした。
「おい、止まれ」
アトイが止まる。
カイルは青い髪に絡みかけた配線を、指先で外した。
「損傷はありません」
「分かってる。だが、こんなもんが引っかかってたら目立つだろ?」
「目立つことを回避するためですか」
「あと、サナに怒られる」
「理解しました」
狭い管路の曲がり角に、古い監視カメラがあった。
レンズは半分割れ、首振り機構には赤錆が浮いている。死んでいて当然の機械だった。
だが、アトイがそちらを見た。
「右上、旧式監視カメラ。通電反応があります」
「見るな。言うな。記録するな」
「通電反応は微弱です」
「微弱でも、目は目だ」
カイルは歩調を落とさずに言った。
「理由を確認します」
「分かったら従うのか?」
「合理性が確認されれば、行動修正は可能です」
「ならこれを覚えろ。下層じゃ、見たことを口にした奴から値段が付く」
「沈黙が生存行動ですか」
「だいたい合ってる。余計な単語を足すな」
「分かりました」
「それでいい」
旧式カメラの赤い表示灯が、ほんの一瞬だけ点いた。
錆びた首が、アトイを追って一度だけ動く。
「観測対象位置――」
アトイの声が途中で止まった。
「今、何を言いかけた」
「不明です。上位照合語が自動生成されました」
「お前の言葉じゃねえのか」
「はい」
表示灯はもう消えていた。
カイルは足を止めなかった。
止まれば、見たことになる。見たことにすれば、考えなければならない。考えれば、面倒が増える。
だが、アトイは見ていた。
見て、言わなかった。
それだけで、カイルは少しだけ息を吐いた。
排熱管を抜けると、そこは第九外縁通路の裏側だった。
正式な通路ではない。
酸素配管の点検用に作られた細い足場と、廃棄されたパネルを寄せ集めた歩道。下では正規通路を人と小型搬送車が流れている。
遠くで広告ホログラムが壊れた声を繰り返し、古いリフトが軋んでいた。
下層の音だった。
空調機の唸り。水再生税の督促。誰かの怒鳴り声。安い食料パックを売る自動屋台の音声。
昨日までなら、ただの生活音だった。
今日は全部が、自分たちを探すための音に聞こえる。
カイルは足場の縁から下を見た。
人は多い。だが誰も、こちらをまっすぐ見ない。
見ない。
見なければ、巻き込まれない。
下層の礼儀であり、防衛本能であり、時には薄情そのものだった。
「視線の回避を多数検出しました」
「言うな」
「はい」
「見られてねえと思うな」
「複数の視線を検出しています」
「じゃあ、見られたと思うな」
「矛盾しています」
「下層はそういう場所だ。慣れろ」
下の通路では、赤いタグを付けた端末がいくつも揺れていた。
支払いの遅れ。区画使用料の未納。水再生ポイントの不足。
ここでは、人間より先にタグが値段を喋る。
カイルは、その画面を見ないようにして歩いた。
「次の接触対象は誰ですか」
「あいつは水垢屋を名乗ってる」
「職業名ですか」
「元々は悪口なんだが、本人は気に入ってるらしい」
「識別名を要求します」
「ミロだ。余計なことは言うな」
「ミロ」
「復唱するな」
「処理を保留します」
「それでいい」
通路の端に、古い自動徴収ゲートがあった。
通行端末を読み、未払いと移動記録を残す。下層では見慣れた、後から首を締めるための機械だ。
カイルはサナから渡された小さな端末を取り出した。
画面には何も映らない、死んだ端末。誰かの死亡記録が紐づいた、もう持ち主のいない足跡。
「それを使用しますか」
「声に出すなって言われただろ」
アトイは口を閉じた。
カイルは端末を足場の隙間から下へ落とした。端末は古い配管に当たり、跳ねて、正規通路の端で小さく光った。
数秒後、近くの自動徴収装置がその端末を拾う。
『識別確認不能』
『死亡登録済み端末』
『移動ログ異常』
壊れた機械音声が、通路に小さく流れた。
周囲の人々は誰も反応しない。
見ない。
そういうことにしておく。
「追跡者がいた場合、そちらへ足跡が分岐します」
「そうだ」
「死亡登録済みの個人情報を囮に使用しています」
「それ以上言うな、説明なら頭の中でやれ」
アトイは数秒沈黙した。
「記録しません」
「忘れろとは言ってない」
「忘れません」
その返事は、妙に早かった。
カイルは一瞬だけ振り返りかけ、やめた。
「……そうしとけ」
下層に落ちてくるのは、誰かが使い終えた選択肢ばかりだ。
死んだ端末も、切れかけた配管も、値段の付いた沈黙も、拾って今日の呼吸へ変える。
旧第九水再生塔は、外縁通路のさらに奥にあった。
旧第九水再生塔は、赤錆びた外壁と裂けた配管が絡む、湿った鉄の塊だった。
第九水再生塔 管理中継補助施設。
下層では、「補助」と書かれたものから先に捨てられる。
根元には漏水が溜まっていたが、誰も拾わない。水を盗めば、残るのは水より鮮明な移動ログだからだ。
カイルは塔を見上げ、顔をしかめた。
「相変わらず、湿った墓場みたいな場所だな」
「水再生施設です。湿度が高いことは合理的です」
「合理的に機械が腐るんだよ」
塔の入口は、正式な扉ではなかった。
古い点検パネルを三枚貼り合わせ、その上から違う型番の電子錠が二つ取り付けられている。さらに物理鍵が一つ。最後に、ただの鎖。
カイルは鎖を叩いた。
内部のどこかで、古いカメラが動く音がした。
『借金取りなら間に合ってる』
割れたスピーカーから、眠そうな声が響いた。
「俺が借金取りに見えるか?」
『借金してる側には見えるな』
「開けろ、ミロ。カイルだ」
『俺ぁ、客を選ぶんだ』
「選べる立場かよ」
『少なくとも、未払い三ヶ月よりは上の立場だろ?』
「その話をしたら蹴るぞ」
しばらく沈黙があった。
そのあと、鎖が内側から外れた。電子錠の片方だけが開き、もう片方は死んだままだった。物理鍵は回らず、扉そのものが横へずれる。
隙間から、痩せた男が顔を出した。
年齢は読みにくい。若くも見えるし、ひどく老けても見える。頬はこけ、目の下には薄い隈がある。眠そうな顔をしているのに、目だけが妙に鋭かった。
ミロはカイルを見て、次にアトイを見た。
口笛を吹こうとして、途中でやめる。
「来ると思ったよ、カイ」
「……見てたのか?」
「見てねぇよ。見たことにしたくねぇからな」
ミロは扉を少しだけ開けたまま、背後のモニターを親指で指した。
「死んだはずのカメラが三つ、急に働き者になった。サナの裏口、旧排熱管、第九外縁。そこを青い髪が通った」
「どこまで知ってる?」
「何も知らねぇ。知りたくもねぇ。ただ――」
ミロの視線が、アトイの青い髪に止まる。
「こいつぁ、ログに残せねえやつだ」
カイルは眉をひそめた。
アトイが一歩前へ出た。
「私は“こいつ”ではありません。識別名はアトイです」
ミロの顔から、軽口が一瞬だけ消えた。
「簡単に名乗るな、青い嬢ちゃん。名前は一番よく残る」




