第5話 Boundary III
サナは診断パッドを外しながら、乾いた声で言った。
「さぁ、腹を立ててる暇があるなら逃げ方を考えなさい」
「やっぱり逃げる案件か」
「カイ」
サナは初めて、まっすぐカイルを見た。
「これは、店に置いていい厄介事じゃないわ。下層で噂にしていい値段でもない。たぶん、売った人間から順番に消える」
「だろうな」
「分かってる顔じゃないわね」
「いや、分かってるさ」
サナは作業台の端に置かれたカイルの端末を裏返した。
消灯しきっていなかった画面に、未送信文が残っている。
人型旧戦争資産。
稼働状態。
現物確認可。
「送ってない」
「書いた」
「値段を聞こうとしただけだ」
「それで、値段がよければ?」
カイルは答えなかった。
「分かってない。あんた、自分が死ぬことには慣れた顔をする。でも、自分が値段を付けたものに名前がある可能性には、まだ慣れてない」
カイルは端末を取り、未送信文を削除した。
送信していないことと、売ろうとしなかったことは同じではない。
サナはそれ以上、詰めなかった。
代わりに、診断用の古い端末を切り、手袋を外した。
「とりあえず、ここで切り離すのは無理。設備も足りない。情報も足りない。あたしの腕でも足りない」
「珍しく謙虚だな?」
「請求額は謙虚じゃないから安心して」
サナはアトイを見た。
「あなた、カイを死なせる気はある?」
「ありません」
「理由は?」
「同期対象の死亡は、私の行動継続に不利益をもたらします」
「最悪の返事ね」
サナは煙草もどきを指で回した。
「でも、嘘ではなさそう」
それから、アトイの青い髪を一房つまんだ。
「ついでに、こっちも厄介ね」
「髪か?」
「髪、に見えるもの」
サナは指先で軽く擦る。
髪に見えるそれは、確かに柔らかかった。
だが、サナの拡張レンズの奥で、細い光が走る。
「これ、ただの人工毛じゃない。表面に信号が走ってる」
「信号?」
「外界センサー。気流、温度、粉塵、電磁ノイズ。たぶん、その辺りを拾ってる。あと……」
サナは、カイルの胸に貼った診断パッドへ目をやった。
「こっちとも繋がってる」
「俺?」
「正確には、あんたの中の変なナノマシン。髪っていうより、頭部全体が同期用のアンテナみたいになってる。髪はその外へ出てる感度部分ね」
サナは、拡張レンズの焦点を少しだけずらした。
「設計は古そう。でも、個体としては妙に新しい。旧戦争時代の型番を使ってるのに、摩耗痕が合わない。……嫌な作り方してるわね」
「……じゃあ切るのは?」
「論外よ」
即答だった。
「覆うのも、切るのも、今はやめなさい。下手にいじると、この子より先にあんたが倒れる」
「…………」
「女の髪は命って言うでしょ。今回は、あんたの命も付いてるだけ」
「笑えねえ……」
「笑わせてないわよ」
サナは近くにあった遮蔽布を取り、アトイの頭へ軽く被せた。
その瞬間、カイルの胸の奥が強く縮んだ。
視界の端が白く滲む。
呼吸の拍子が、一つだけずれた。
「っ……おい!」
カイルは反射的に作業台へ手をついた。
サナがすぐに布を外す。すると胸の違和感は、数秒遅れてほどけた。
「ね、こうなる」
「先に言え!」
「言ったらやらせなかったでしょ」
「当たり前だ!」
アトイは自分の髪に指を触れた。
「同期信号の低下を確認しました」
「確認しなくていい」
「カイルの循環反応に乱れがあります」
「お前の髪のせいだよ!」
「私の髪は、カイルの生命維持に関与していますか」
「関与っていうか、巻き込まれてるっていうか……」
サナは遮蔽布を脇へ放った。
「完全に覆うのはやめなさい。特に導電布とか防塵フードは最悪。普通の髪留めや、軽く結ぶくらいなら問題ないでしょうけど、包むのと切るのは駄目」
「じゃあ一番目立つとこを隠せねえじゃねえか」
「隠せないんじゃない。隠すとあんたが先に不具合を起こすだけ」
「同じだろ」
「違うわよ。原因が分かってる分、少しだけ腹が立つでしょ?」
カイルは答えず、アトイの青い髪を見た。
火星の下層では、そんな色は目立ちすぎる。
目撃される。
売られる。
追われる。
それでも、隠せない。
切れもしない。
サナは作業台の下から、古い作業ジャケットと、膝まである薄汚れた防塵コートを引っ張り出した。
どちらにもフードはなかった。
「服だけ下層に寄せる。髪は諦めなさい。裸足に布巻いただけの青髪美少女なんて、下層じゃ三歩で値段が付く」
「美少女って言ったか?」
「そこに反応する元気はあるのね」
「いや、機械相手にそういう言い方すんのかと」
「見た目の話よ。いい値段が付く見た目ってこと」
サナは作業ジャケットをアトイへ投げた。
「ほら、着なさい」
アトイは古い作業ジャケットに袖を通した。
サイズは合っていないが、防塵コートを重ねると、ようやく下層の住人に近づいた。
青い髪だけはどうしようもない。
油と砂の部屋で、そこだけに空の色が落ちていた。
アトイは自分の髪をもう一度見た。
「この部位は、外界観察および同期補助に使用されています」
「そういうこと」
「切断は非推奨ですか」
「非推奨じゃない。絶対に禁止」
「了解しました」
アトイは少しだけ間を置いた。
「髪を結ぶことは可能ですか」
サナは片眉を上げた。
「結びたいの?」
「未判定です」
「なら今はそのまま。結びたくなったら、変な金具じゃなくて普通の留め具にしなさい」
「普通の留め具」
「髪飾りとか、ゴムとか。覆わなきゃいいわ」
アトイは、何かを記録するように瞬きした。
「記憶しました」
「記録じゃなくて?」
サナが言うと、アトイはほんのわずかに首を傾けた。
「……記憶しました」
カイルは顔をしかめた。
「変なところだけ学習してんじゃねえ」
サナは作業台の下から、古いブーツも引っ張り出した。
「靴も替えなさい。布巻きのまま歩かせたら、三歩で拾い物だってばれる」
投げられたブーツは、子供用ではない。
小柄な作業員が使っていたものだろう。
「中古だけど、穴は塞いである。文句は受け付けない」
「いくらだ?」
「それを今聞く?」
「聞きたくはねえ」
「正解」
アトイはブーツを受け取り、無言で足に合わせた。
紐を結ぶ手付きは正確だった。だが、最後の締め方だけが少し不自然で、サナがしゃがみ込んで直した。
「そこは二回。下層の床は優しくないから」
「了解しました」
「その返事も目立つ」
「……分かりました」
「少しマシ」
サナは立ち上がり、カイルへ向き直った。
「で、次。あんたの部屋には戻らない」
カイルは眉をひそめた。
「まだ何も言ってねえが」
「そういう顔してた」
「顔で予定を読むな」
「顔に予定を書くな」
カイルは黙った。
実際、考えてはいた。
自分のコンテナに戻れば、予備バッテリーがある。
水再生パックも、古い弾も、使いかけの医療キットもある。
レールガンの調整工具だって置いてある。
だが、そこへ戻れば足跡が残る。
旧遺構から戻った。
青髪の少女を連れていた。
サナの店へ入った。
そのあと自分の部屋へ戻った。
下層で噂を追う連中には、それだけで十分だ。
「でも荷物がいる」
「荷物より命がいるでしょ」
「生きるためにはどっちもいるだろ」
「欲張りね。だから貧乏なのよ」
「関係ねえだろ」
「あるわよ。あんた、いつも拾えるだけ拾って、捨てるのが遅い」
サナの声は軽かった。
だが、最後の言葉だけは少しだけ重かった。
カイルはそれ以上、言い返さなかった。
サナは古い区画図から、正規通路と徴収ゲートをまとめて消した。
「あんた本人より、未払い端末の方がよく喋る。旧排熱管から第九外縁へ抜けなさい」
引き出しから、小さな中古端末を二つ投げる。
「替えの端末なんて持ってねえ」
「今、持ったわ」
「いくらだ?」
「今聞く?」
「聞かねえ」
「学習したわね」
アトイが端末を見た。
「偽装端末ですか」
「違う。死んだ端末」
「死亡記録のある端末を使用するのですか」
その言葉に、カイルがわずかに顔をしかめた。
サナはアトイを見た。
「声に出さない」
「……分かりました。処理を保留します」
「よろしい」
サナは端末の一つをカイルへ押し付けた。
「これは通信用じゃない。鳴らすための餌。追う連中がいたら、あんたの端末っぽい足跡をこっちへ流すの」
「追ってるのは誰だ」
「まだ分からない」
「まだ?」
サナは返事をせず、画面の隅を拡大した。
そこには、検索履歴だけでなく、外部へ投げられた候補照会が残っていた。
旧遺構周辺。
未登録機械体。
青色人工毛。
匿名買い取り候補照会。
人型旧戦争資産。
稼働状態。
現物確認可。
最後の三行を見た瞬間、カイルの背中に冷たいものが走った。
「……それ、俺が書いた文面だ」
「送ってないんでしょ」
「ああ」
「でも、候補価格を返すには商品照会が要る。送信ボタンを押す前でも、買い取り口は特徴だけを外へ投げる」
「つまり」
「あんたが最初の石を落とした。青い髪や通行記録は、その波紋に寄ってきたの」
アトイがカイルを見る。
カイルは見返さなかった。
「もう出てんのか」
「出てるというより、探りが入ってる。網を投げる前に、水面を見てる段階ね」
「誰なんだ」
「だから分からないって言ってるでしょ。管理局か、企業か、ただの賞金狙いか。少なくとも、金の匂いを嗅いだ誰かはいる」
「早すぎないか」
「最初の照会があれば、あとは早い。青髪の女の子が旧遺構から出てきて、死にかけのサルベージ屋と一緒に下層へ入った。十分派手よ」
「死にかけは余計だろ」
「でも、事実でしょ」
アトイが静かに言った。
「追跡要因は、私だけではありません」
「分かってる。言うな」
「事実です」
「事実を全部言うな、って教えただろ」
アトイは少し黙った。
「……処理を保留します」
「そうしとけ」
サナは二人のやり取りを見て、短く息を吐いた。
「少しは教育できてるじゃない」
「俺は保育士じゃねえ」
「でも保護者ではあるでしょ?」
「やめろ。寒気がする」
「熱はないから平気よ」
サナは端末を閉じた。
「行くなら今。店の前は使わない。裏の排気ダクトから出なさい」
「また狭い道か」
「贅沢言うなら正面から出る? 目立つ青髪の子を連れて、未払い端末を鳴らしながら?」
「……ダクトでいい」
「素直でよろしい」
カイルは端末をポケットに突っ込み、レールガンの固定ベルトを締め直した。
バッテリー残量は心許ない。
弾も少ない。
財布の中身は考えたくない。
それでも、動くしかない。
「サナ」
「何?」
「助かった」
サナは一瞬だけ黙った。
それから、嫌そうな顔をした。
「そういうの、支払いの時に言いなさい」
「支払いの時は逃げてるかもしれねえ」
「逃げたら、指一本じゃ済まない」
「怖えな」
「怖がれるならまだ生きてるってことよ」
サナはアトイを見た。
「あなたも。カイを死なせないこと。いい?」
「カイルの生命維持は、私の行動継続に必要です」
「最悪だけど、今はそれでいい」
サナは少し考えてから、言い直した。
「必要だからじゃなくて、死なせたくないから、に変わったらまた来なさい」
アトイは瞬きした。
「差異を要求します」
「それは、あんたが自分で見つけるものよ」
カイルはサナを見た。
「お前、意外と教師に向いてるな」
「今すぐにツケを請求するわよ」
「やっぱ向いてねえ」
サナは口元だけで笑った。
そして、裏の扉を開ける前に言った。
「次に頼るなら、ミロね」
カイルの顔が渋くなる。
「……あいつか」
「あいつしかいない。ログを嫌う連中の中で、ログを消さずに濁すのが一番うまい」
「信用できねえ」
「信用できる人間なんて、下層で探す方が間違いよ」
「そりゃそうだがな……」
「裏切った時に、こっちが先に気づけばいいのよ」
カイルは深く息を吐いた。
「最悪だな」
「今のあんたには似合ってる」
サナは裏の扉を開けた。
赤茶けた狭いダクトの向こうから、乾いた風が吹き込む。
アトイの青い髪が、その風にかすかに揺れた。
隠せない目印。
切れない命綱。
そして、誰かが必ず見つける色。
カイルは舌打ちし、ダクトへ身を屈めた。
「行くぞ、アトイ」
「了解しました、カイル」
「名前で呼ぶな」
「処理を保留します」
「そこは保留すんな」
背後で、サナが笑った気配がした。
「ミロによろしく」
カイルは振り返らなかった。
「あいつによろしくなんて言ったら、代金取られるぞ」
狭いダクトの奥へ、カイルとアトイの姿が消えていく。
サナの店の扉が、油切れの音を立てて閉じた。




