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A to I  作者: きんかん


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第4話 Boundary II

 下層区画の明かりが、砂塵の向こうで濁っている。


 安い個室コンテナ。整備ガレージ。酸素代の督促。

 カイルの生活は、その三つでだいたい説明できた。


 端末には赤い未払い印がいくつもある。

 サナへの修理代、ホバーカーゴのローン、レールガンの電池と弾、そして酸素。


 火星では、息をするにも許可がいる。

 消えてほしい請求は消えず、消えるのはいつも金の方だった。


 そんな自分が、今は呼吸どころか心臓まで、隣を歩く機械に握られている。


「……最悪だ」


「現在の状況評価ですか」


「独り言だ。記録するなよ」


 アトイは少しだけ首を傾けた。


「カイル」


「名前で呼ぶな」


「心拍が上昇しています」


「お前のせいだ」


「はい。私の存在が主要因である可能性があります」


「分かってんなら少しは反省しろ」


「反省に必要な判断材料が不足しています」


「だったら自分で探してこい」


 返答はなかった。


 代わりに、アトイはただ真っ直ぐ前を見ていた。


 さっきまでと違い、口は開かない。


 見ている。

 だが、言わない。


 赤い警告灯。

 隠されたタグ。

 別人名義の端末。

 名前の合わない作業者証。


 アトイの視線はそれらを通り過ぎる。

 ただし、無視しているわけではなかった。


 見ている。

 覚えている。

 でも、口にしない。


 それだけで、カイルは少しだけ息を吐いた。


「あなたの居住区ですか」


「ここは違うが、近い」


「立ち寄りますか」


「いや、行かない」


「理由を確認します」


「このままお前を連れて帰ったら、近所の連中が二秒で噂にする。五秒で値踏みされる。十秒で俺は死んで、お前はバラされて売られる」


「その時間推定は正確ですか」


「イメージだ」


 カイルは自分のコンテナがある方向を一度だけ見た。


 予備電池も工具も水もある。

 だが、青髪の人型を連れて戻れば、部屋は逃げ場ではなく住所付きの商品棚になる。


 下層の噂は空気より安く、弾より危ない。

 カイル自身も噂を売ったことがあるから、広がる速さも値段の付き方も知っていた。


「……まずはサナだな」


 そう言って、カイルはハンドルを切った。




 旧第六採掘坑の外壁に、看板のない店がへばりついている。


 入口横には古い義手が一本ぶら下がっていた。通電すると中指だけがゆっくり動く、悪趣味な目印だ。

 その義手の下に、小さな張り紙がある。


 修理、義肢調整、神経接続、非正規品相談可。

 値引き不可。

 支払い逃げは指を一本置いていけ。


 カイルはその張り紙を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「医療施設には見えません」


「似たようなもんだって言ったろ」


「衛生状態に疑問があります」


「本人に言うなよ。殴られるぞ」


「注意します」


「絶対に言うなよ?」


 裏手にホバーカーゴを停めると、アトイが先に降りようとした。


「待て」


「危険を検出しましたか」


「違う。人の店に入る時は、俺の後ろだ」


「あなたの後方配置は、私の保護行動に適しません」


「お前に保護される覚えはねえ」


「あなたは私の保護対象です」


「俺にとっての保護対象はお前だ」


「同行します」


「だから後ろだ」


 数秒、アトイは黙った。


「了解しました。カイル」


「……馴れ馴れしいっつってんだろ」


 カイルは毒づきながら、裏口の認証パネルを叩いた。

 古い扉が、悲鳴のような油切れの音を立てて開く。


 部屋に入ると、油と消毒液と焦げた樹脂の匂いがすぐに鼻を刺した。

 奥の作業台で、黒髪の女が義手の指を調整している。


 片目に拡張レンズ。口元に火のついていない煙草もどき。

 油に汚れた指だけが、義手の調整を正確に続けていた。


 サナ・クロウは、顔も上げずに言った。


「で? 今日は何を壊してきたの、カイ」


「……開口一番、それかよ」


「じゃあ何を売りに来たの」


「売らねえ」


 言い切るには、ほんの少し間があった。

 サナの拡張レンズが、その間だけを拾った。


 サナの手が止まった。


「壊してない。売らない。金もない。……あんた、店に来る理由を一個ずつ潰してる自覚ある?」


「お前に見てほしいものがある」


「見るだけなら有料。触ったら倍。黙ってろって話なら、さらに高いわよ」


「まだ何も言ってねえだろ?」


「……言う前から厄介事の匂いがしてるのよ」


 そこでようやく、サナは顔を上げた。


 視線がカイルを見て、アトイを見て、またカイルへ戻る。


「……また顔色悪くして」


「なんだ、心配してんのか?」


「倒れられると床掃除代が増えるの」


「まぁ、死にかけてはいるがな」


「それはいつものことじゃない?」


「今日は、少し違う」


 カイルは、自分の胸を親指で指した。


「俺の命と、こいつだ。切り離せるか見てくれ」


 サナの拡張レンズが、薄く光った。


「乗せて。あと、触って面倒が増えるタイプなら先に言いなさい」


「知らん」


「一番嫌いな返事ね」


 サナは作業台の上を片腕で払った。

 工具、義手の指、神経接続用の細いケーブル、古い煙草もどきの箱がまとめて端へ追いやられる。


 アトイは作業台の前で足を止めた。


「ここに乗ればよいですか」


「そう。できれば爆発しないで」


「爆発機能は確認されていません」


「確認されてない爆発が一番困るのよ」


 アトイは素直に作業台へ腰を下ろした。


 その動作は静かだった。

 人間のように体重を預ける癖がない。

 椅子や台の強度を疑う前に、自分の重さを正確に知っている者の動きだった。


 サナの拡張レンズが、細く光る。


「……軽い?」


「何がだ?」


「この子。見た目より、乗った音が軽い」


 サナはアトイの手首を取った。


 指先が、人工皮膚の表面を滑る。

 雑に見えて、触れ方はひどく丁寧だった。

 義肢を見る手だ。壊れた物ではなく、誰かの身体として扱う手だった。


「脈なし。けど冷たくない。皮膚温は人間寄り。呼吸反応なし。瞬きはしてる。涙腺反応もある。……趣味が悪いくらい丁寧ね」


「製作者への評価ですか」


「褒めてないわ」


 サナはアトイの瞳を覗き込んだ。


 青い瞳の奥で、薄いレンズが重なるように収縮する。

 人間の瞳孔ではない。

 だが、人間の瞳孔に見えるように作られている。


 サナの口元から、火のついていない煙草もどきが少しだけ下がった。


「カイ。これ、人形じゃない」


「そんくらい、俺だって見りゃ分かる」


「見て分かるより、もう少し悪い話をしてる」


 サナは診断用のケーブルを引き出し、アトイの首筋へ近づけた。


「接続端子は?」


「外部診断用端子は露出していません」


「でしょうね。親切じゃないもの、あんた」


「私は親切性評価を受けていません」


「受けたら落ちるわよ」


 サナは小さな探査針を取り出した。

 医療用というより、違法義肢の神経接続を探るための道具だ。


 カイルが眉をひそめる。


「おい、痛いのかそれ」


「この子が痛がるかどうか、あんた分かるの?」


「……分からん」


「じゃあ黙ってなさい。うるさいのは顔だけにして」


 サナはアトイに視線を戻した。


「痛覚は?」


「損傷回避のための反応系があります」


「痛いかどうかを聞いてるの」


「痛みの定義を要求します」


「はい、面倒」


 サナは針をしまった。


 代わりに、非接触のスキャナを起動する。

 古い機械が低く唸り、アトイの身体を青白い線でなぞった。


 表示が一度乱れた。

 次に、警告が出た。


 サナの眉がわずかに動く。


「医療義体の規格じゃない。軍用でもない。民生登録もなし。神経接続の形式だけは医療系に似てるけど、出てる信号が違う」


「違うって?」


「義手や義足は、欠けた身体を補うものよ。これは違う」


 サナはアトイを見る。


「身体を補ってるんじゃない。身体の形をした端末ね」


 アトイは答えなかった。


 ただ、透明な青い目でサナを見返した。


「端末か……」


 カイルはその言葉を口の中で転がした。


 少女。

 機械。

 観察端末。


 どれも同じものを指しているはずなのに、言い換えるたびに少しずつ気味が悪くなる。


「で、接続は切れるのか?」


「そんなに早く結論は出せない」


「こっちは急いでる」


「急いで雑に切って死にたいなら、店の外でやって。床掃除代をあなたから取りたくないの」


「だから死にかけてるって言っただろ」


「だからこうやって調べてるんでしょうが」


 サナはカイルの胸元を指した。


「上、脱ぎなさい。ほら、早く」


 カイルは舌打ちして、上着の前を開けた。


 サナは診断パッドをカイルの胸に貼る。

 次に、アトイの手首にも同じものを貼った。


 二つの波形が、古いモニターに浮かぶ。

 カイルの心拍。

 アトイから出る、心拍に似せた周期信号。


 それらは別々に揺れていた。だが、完全には離れていない。


 サナが何度か表示を切り替える。


 青い線が、赤い線の下に細く絡みついた。


「……嫌な絡み方してるわね」


「分かるように言ってくれ」


「分かりたくないことを言うわよ」


 サナはモニターから目を離さなかった。


「あんたの体内に、何か入ってる。医療用ナノマシンに似てるけど、制御権が取れない。心拍、神経反応、酸素飽和、痛覚反応。たぶん、もっと奥まで見てる」


「外せるか?」


「今は無理」


 即答だった。


 カイルの喉が、わずかに動く。


「今は、ってのは?」


「切ったら、あんたの身体が何を自前でやってて、何をそれに補助されてるのか分からない。心臓だけ止まるかもしれないし、神経が焼けるかもしれない。運が良ければ、ただ死ぬ」


「運が良くてそれかよ」


「悪けりゃ、もっと高くつく」


「金の話か?」


「違うわよ」


 サナは短く言った。


 その声だけ、少し低かった。


「死に方の話」


 カイルは黙った。


 アトイが、静かに言った。


「私が停止した場合、カイル・ローウェルの生命維持は保証されません」


「フルネームで呼ぶなって言ってんだろ」


「現在の説明には識別名が必要です」


「必要でもやめろ」


「では、カイル」


「もっと悪いが、今は我慢してやる」


 サナが二人を見比べる。


「……何これ。もう懐かれてるの?」


「違う」


「違います」


「立派に仲良しじゃない。念のためにタグを付けとく。ナノマシンは体質によって想定外の動きをすることがあるから」


 サナはため息を吐き、モニターに戻った。


「聞きなさい、カイ。これは呪いじゃない。首輪でもない。もっと嫌なもの」


「何だよ」


「保険よ」


 サナはアトイの手首からパッドを外した。


「この子が壊れたら、あんたも危ない。この子を捨てたら、あんたも危ない。この子を売っても、たぶんあんたが先に死ぬ。つまり、誰かがこの子を外へ出すために、あんたの命を担保にした」


 カイルの背筋に、冷たいものが走った。


 遺構。

 青い髪。

 透明な瞳。

 自分の名前を読み上げた声。


 見つけたのではない。

 見つけさせられた。


 その考えが、胸の奥で形になりかける。


「誰がそんなことを?」


 カイルが言うと、アトイは答えた。


「回答不能です」


「知らないのか」


「現在の私は、全記録領域へのアクセス権を持ちません」


「便利なとこだけ忘れやがって」


「忘却ではありません。制限です」


「どっちでも腹立つのには変わりねえ」

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