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A to I  作者: きんかん


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第3話 Boundary I

 遺構の外へ出ても、カイルは外へ出た気がしなかった。


 火星の空は、砂塵と排気で薄い錆色をしている。見慣れた空の下で、呼吸だけがまだ巨大な機械の中へ繋がっていた。


 ホバーカーゴの戦利品は乏しい。

 代わりに、防塵コート一枚を羽織った青髪の少女が隣にいる。


 少女の形をした、値段の分からない機械が。


「カイル・ローウェル」


 その機械が、涼しい顔で言った。


 名前を呼ばれた、というより、読み上げられた気がした。

 照合が終わった対象番号を、音声で確認されたように。


「……誰がフルネームで呼べっつった」


「あなたの識別名です」


「呼ばれるこっちが恥ずかしいぞ」


「では、呼称を変更します。カイル」


「今度は馴れ馴れしくなってんじゃねえかよ」


 カイルは額を押さえた。


 睡眠ガスの後遺症か。

 目の前の厄介事のせいか。それとも、さっきから自分の呼吸が自分だけのものではない気がするせいか。


 頭の奥が、鈍く痛む。


「いいか。俺の後ろを歩け。余計なものを見るな。余計なことを言うな。他人に話しかけるな」


「了解しました」


「その淡白な返事も目立つからやめろ」


「了解を停止します」


「……わかった、停止しなくていい。自然にしろ」


「自然の定義を要求します」


「……面倒くせえな」


 カイルはホバーカーゴの荷台を漁り、油と砂に汚れた作業布を引っ張り出した。

 それをアトイの足元へ放る。


「ほらよ、足に巻いとけ。裸足だと目立ちすぎる」


「足裏の損傷は軽微です」


「んなもんはどうでもいい」


「あなたの嫌悪を検出しました。理由は、私の外観が周囲の注目を集めるためですか」


「そうだ。分かってるなら黙ってやれ」


 アトイは素直にしゃがみ、布を足に巻き始めた。


 手付きは正確で無駄がない。

 生まれたばかりのような物言いをするくせに、物の扱いだけは妙に手慣れている。

 そのちぐはぐさが、余計に気味悪かった。


 人の作業を代わる機械なら珍しくない。

 だが、人間そのものに見える機械は、今の火星市場には存在しない。存在すれば禁制品か、戦争時代の亡霊だ。


 その亡霊がいま、汚れた布を足に巻いている。


「行き先を確認します」


「知り合いの店だ」


「医療施設ですか?」


「まあ、似たようなもんだ。もう少し薄汚いがな。身を屈めとけ」


 カイルはホバーカーゴの操縦席に戻り、エンジンを低く唸らせた。


 正規の搬送路は使わない。

 検問に捕まれば、説明できるものが一つもなかった。


 旧遺構から出てきたばかりの、青髪のヒューマノイド。

 体内に仕込まれたナノマシン。

 解除を拒否した巨大なコンピューター。


 どれを口にしても、まともな終わり方はしない。


「警告。この経路は遠回りです」


「近道には検問がある」


「検問を避ける理由は、私の存在ですか」


「そうだ」


「私は、違法な存在ですか」


「知らん。たぶん、そうだ」


「では、あなたも違法行為に関与しています」


「お前のせいで巻き込まれたって言うんだ、これは」


「関与と巻き込まれの差異を要求します」


「俺に選択権があったかどうかだ」


「あなたは現在、自発的に私を同行させています」


「お前が止まると俺も死ぬんだろう?」


「はい」


「なら、選択権はねえ」


 カイルは吐き捨て、アクセルを踏み込んだ。


 ホバーカーゴが、旧採掘トンネルへ滑り込む。


 旧採掘トンネルの壁には、戦争時代の塗装がまだ残っていた。


 矢印。

 注意書き。

 部隊番号。

 半分削れた企業ロゴ。


 どれも砂と排気に汚れて読みにくい。

 だがカイルは、そういう古い印を読むのが得意だった。地図にない道は、そういうものが教えてくれる。


 右手の配管が低く唸る。


 酸素ではない。廃熱だ。


 昔はこの奥に大きな精錬設備があったらしい。

 今は、配管だけが都市の端で細々と生き残っている。


 火星の下層はいつもそうだ。

 死んだ設備の骨を、まだ使える部分だけ切り取って、生きているふりをさせている。


「カイル・ローウェル」


「……何だ?」


「あなたの居住記録を参照しました。酸素供給料に未納があります」


 カイルは、反射的にブレーキを踏みかけた。


「勝手に見るんじゃねえ」


「公開区画管理情報です」


「くそっ。公開すんな、そんなもん……」


「滞納期間、三ヶ月」


「やめろ、読み上げるな」


「支払能力の低下を確認しました」


「確認しなくていい。俺が一番知ってる」


 カイルは奥歯を噛んだ。


 火星では、貧乏は個人情報ではない。

 警告灯と同じだ。赤く光って、周囲に知らせる。


 こいつは支払いが遅れている。

 こいつは空気を買う金もない。

 こいつは足元を見ていい相手だ、と。


 その情報が、いつどこで誰に見られるかまでは考えたくなかった。

 見られたものは、記録になる。

 記録になったものは、管理局の端末に残る。

 残ったものは、あとで誰かが拾いに来る。


 今までは、ただの生活上の恥だった。

 だが、隣に禁制品がいる今、その恥は追跡用のタグになりかねない。


「警告。あなたの心拍が上昇しています」


「黙ってろ」


「羞恥反応ですか」


「黙れって言ってんだろ」


「恐怖反応も検出しました」


 カイルは鼻で笑った。


「違えよ、これから起こる面倒を数えてんだ」


 赤い印が一つ増えるだけで、通れる道が減る。

 声をかけてくる連中が増える。

 借りを作る値段が上がる。

 修理代の支払い期限が短くなる。


 下層では、未払いはただの数字ではない。誰かに利用されるための印だ。


「怖いんじゃねえ。読まれると高くつくんだよ」


「金銭的損失ですか」


「命まで含めた、全部の損失だ」


 旧トンネルの出口には、自動徴収ゲートがあった。

 人は止めない。端末だけを読み、未払いと移動記録を後へ残す。


 貧乏人を今すぐ殺さず、あとでまとめて締め上げるための機械だ。


 カイルはホバーカーゴを手前で止め、端末の電源を落とした。


「通過しないのですか」


「端末が読まれるからな」


「滞納警告ですか」


「そうだ、だからわざわざ繰り返すな」


「迂回経路を検索します。完了、ルート変更をします」


「おい、余計なことすんな」


 カイルは制止したが、アトイは勝手に降りようとした。


「いいからそこで止まれ。下層で生きてりゃ、こういう道は体で覚える」


 カイルはアトイをカーゴへ戻し、ゲート横の整備用隙間へホバーカーゴを滑り込ませた。


 幅はぎりぎりだった。

 車体の左側が壁を擦り、赤い砂と古い塗装が剥がれる。


「注意。接触しました」


「知ってる」


「修理費が発生します」


「知ってる!」


 抜けた先で、カイルは短く息を吐いた。


 この程度の小細工は、昨日までなら日常だった。

 今日は、その一つ一つが綱渡りに思えた。


 自分の名前。

 住処。

 滞納履歴。

 遺構周辺の活動記録。


 普段はただの汚れた生活の跡が、今は誰かに辿られる足跡になっている。




 旧採掘トンネルの先は、住居コンテナと酸素配管が絡む下層区画だった。


『清浄な空気を、清浄な市民へ』


 壊れた広告の下で、若い男が別人名義の酸素タグを胸元へ隠す。露店主は見ていたが、栄養パックを渡す手を止めない。


 周囲の誰も、見たとは言わなかった。


「右側の男性は、死亡記録のある酸素タグを使用しています」


 アトイが平坦に言った。


 その瞬間、近くにいた老人の肩がわずかに跳ねた。

 露店の店主が手を止める。

 若い男の指が、胸元のタグを握り込んだ。


 カイルは即座に振り返った。


「やめろ、見るな」


「対象確認中です」


「違ぇ。そこは、見ないことになってんだよ」


 アトイは首を傾けた。


「視認可能な情報です」


「見えるもんだからって全部を見るなって言ってんだ」


「理由を要求します」


「下じゃな、そういうのを見ねぇことで回ってる場所がある」


 カイルは声を低くした。


「誰のタグだとか、誰の名義だとか、どこから酸素を引いてるとか。そういうのをいちいち口に出したら、明日には誰かが息できなくなる」


「不正の黙認ですか」


「お互いが生きていくための見逃しだ」


「差異を要求します」


「タグだけ見るな。人を見ろ」


 アトイは、通路の向こうを見た。


 赤い警告灯。

 隠されたタグ。

 別人名義の端末。

 それらを見ないふりで通り過ぎる人々。


 誰も、何も知らないわけではない。

 知っている。

 見えている。

 それでも、見なかったことにしている。


 その青い瞳の奥で、薄いレンズが一度だけ収縮した。


「未判定」


「今はそれでいい。口に出すな」


「記録は」


「するな」


「観測端末として、記録停止は――」


「なら、黙って覚えろ」


 カイルは言った。


「記録するな。でも、忘れるな」


 アトイは数秒だけ沈黙した。


「処理を保留します」


 アトイの視界の奥で、カイルには見えない文字が一度だけ開いた。




 OBSERVATION REPORT : PENDING

 UPPER DESTINATION : SEARCHING




 アトイはそれも口にしなかった。


「それでいい、上出来だ」


「肯定評価ですか」


「……調子に乗るな」

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