第2話 Avatar II
意識を取り戻した時、カイルはまず、自分がまだ生きていることに安堵した。
どのくらい時間が経ったのかは分からない。体を拘束された形跡はない。
装備もそのまま残っている。レールガンも、ナイフも、酸素ユニットも奪われていない。
先ほどのスリーパードローンも、どこかへ消えていた。
ただ一つだけ、部屋の様子が変わっていた。
部屋の片隅にあったタンクが、淡く青い光を放っている。
まだ頭の芯が痺れている。
喉の奥が苦い。
カイルは舌打ちしながら立ち上がり、レールガンのセーフティを落とした。それから、青く光るタンクへ近づいていく。
そして、光が一段と強くなった。
巨大なコンピューターの表面で、古い表示灯がいくつも点滅する。
割れた表示板に、読めない戦時コードの列が断続的に浮かんだ。
No.001 CORE SYSTEM : LIMITED WAKE
BIOLOGICAL SOURCE : CAPTURED
OBSERVATION TARGET : KYLE LOWELL
VISUAL TARGET : EXTRACTED
EMOTIONAL INDEX : HIGH
BIO-SYNC : EXECUTED
MODEL LINE : A.T.O.I. / No.002
INDIVIDUAL SERIAL : UNREGISTERED
WAR-LEARNING PACKAGE : NOT INSTALLED
A.T.O.I. MODEL 002 : RELEASE
LOCAL HOLD : ACTIVE
「……なんだこりゃ? ふざけやがって」
カイルが吐き捨てた次の瞬間、激しい減圧音が響いた。
蒸気が噴き出す。
タンクだと思っていた機械の扉が開く。
隙間から青い液体が勢いよく流れ出し、床一面に薄く広がった。
扉がこちら側へ倒れ込んでくる。カイルはぎりぎりで後ろへ下がり、それを避けた。
大きな金属音を立てて転がった扉の上に、何かがあった。
この場所に、まったく似つかわしくないものだった。
「嘘だろ、なんで人間が……?」
言いかけて、カイルはすぐに違和感を覚えた。
この区画の生命維持ラインは死んでいる。
ここで生身の人間が息をしているはずがない。
青い液体に濡れた、青髪の少女。
年齢の読めない顔立ちをした、ひどく精巧な人間の形をした何か。
カイルは一瞬だけ目を奪われ、すぐに眉をひそめた。
人間にしては、あまりにもこの場所に似合わなかった。
機械にしては、あまりにも人間に近すぎた。
なぜこんな所に。
どうしてこんな所に。
そもそも、これは生きている人間なのか。
少女の体が、かすかに動いた。
カイルは舌打ちし、警戒を解かないまま手を伸ばした。
「おい、大丈夫か!?」
死んでいるのか、生きているのか。
確かめようと、カイルは少女の首元へ手を伸ばした。
その瞬間。
がしり、と逆に手首を掴まれた。
「っ――!」
心臓が縮み上がる。
青髪の少女は、カイルの手首を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
その透き通った青い瞳に見下ろされ、カイルは一瞬、視線を離せなくなった。
綺麗な目だった。
だが、それは人間の目ではなかった。
虹彩の奥に、薄いガラス板のような層が幾重にも重なっている。
瞳孔に見えた黒い円は、暗所に合わせて音もなく絞りを変える、小さな観測レンズだった。
世界を見つめるために作られた目。
だが、それは人間のように見つめているのではなかった。
測っている。
カイルはそう感じた。
目が合っているのではない。
こちらのデータを読み取っているかのようだった。
「お前は……」
「対象、覚醒を確認」
少女は迷いなく言った。
「生命同期、継続中」
「……何を言ってる?」
「モデルナンバー002。A.T.O.I.」
「エー、ティー、オー、アイ……?」
「Avatar-Type Observation Interface。アバター型観測インターフェースです。短縮呼称、アトイ」
「……アトイ?」
「肯定」
アトイ。
そう短く言う少女の顔は、カイルの感情を酷くかき乱した。
綺麗な顔だと、そう思った。
この顔を知っている気がした。
だが、誰の顔かは出てこない。
何かが、引っ掛かる。
形は整っている。人間の造形としては、完璧と言っていいほどに。
しかし整いすぎていて、目の前のものを人間だと認識できない。
カイルは顔をしかめ、少女から視線を外した。
「一体、何なんだこれは」
「モデルナンバー002、A.T.O.I.。アバター型観測――」
「お前に聞いてねえ。独り言にわざわざ反応するな」
「訂正。発話対象を誤認しました」
「真面目かよ」
会話はできる。
少なくとも、言葉は通じている。
これは一般的なスリーパードローンとは、明らかに別の目的で作られたものだ。
カイルは立ち上がり、アトイと名乗るヒューマノイドを見下ろした。
青い髪は、床に付きそうなほど長い。華奢な身体つきは、強そうには見えない。
だが、立ち姿だけは奇妙なほど安定していた。
もし本当に人間なら、この状況で怯えるはずだった。
ただの機械なら、命令を待つか、警告を返すはずだった。
だがアトイは、そのどちらでもない。
怯えもせず、待機もせず、ただカイルを観察していた。
こんなものを連れ帰れば、どんな噂が立つか分かったものではない。
カイルは、今すぐにでもこれを殴り倒して、機能停止させたい気分だった。
ここまで人間に近いヒューマノイドが市場に出回ったという話は聞いたことがない。
かつて存在したとはいうが、戦後に遺構から見つかったという話もなかった。
つまり、これは高く売れる。
旧戦争資産。
人間にしか見えない稼働個体。
カイルは携帯端末を開いた。
下層で旧軍用品を扱う買い取り口は、名前を持たない。暗号化された入力欄へ、三行だけ打つ。
人型旧戦争資産。
稼働状態。
現物確認可。
送信欄に指を置いた。
金額を聞いてから考えても遅くない。自分に言い聞かせるには、それで十分だった。
「それは困ります」
カイルの指が止まった。
「うるせぇ、機械が文句を言うな。って、今……なんて言った?」
「困ります、と言いました」
「……勝手に俺の頭を覗くんじゃねえ。風穴を開けられたくなければ、とっとと自分で機能を停止しろ」
カイルはレールガンを構え、アトイへ向けた。
同意もデバイスもなしに思考を読むなら、まともな都市では即座に違法だ。
そして、買い手へ渡す前から売り手の腹を読む商品は、扱いにくい。
アトイは銃口を見た。
怯えはない。
恐怖もない。
ただ、対象を確認するように、目の奥のレンズが一度だけ収縮した。
「それでは、ジェネレーター出力を二十パーセントまで落とします」
「それでい……い、ぅぐっ!?」
その瞬間、カイルは膝から崩れた。
心臓を内側から握り潰されたような痛みが走る。同時に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が広がった。
「ぐぅッ、なん……だこれ……ッ」
息ができない。
視界が揺れる。
カイルは苦しさに耐えきれず、床へ倒れ込んだ。
「シャットダウンまで六十秒」
アトイの声は平坦だった。
カイルの痛みは、さらに強くなる。
まるで彼の身体が、勝手に死のうとしているようだった。
「やめ……ろ、今すぐ……元にっ!!」
「わかりました。ジェネレーター出力を正常値にまで復帰させ、シャットダウン処理を中止します」
その言葉と共に、カイルは苦しみから解放された。
だが、うつ伏せで倒れ込む彼の額には、脂汗が滲んでいた。
「てめぇ、ふざけたことを……!」
地面から視線を上げると、アトイは目の前にしゃがみ、彼を覗き込んでいた。
「俺に何をした!?」
「私たちはナノマシンにより、お互いの身体的活動状況を同期しています。ジェネレーターの出力を下げると、人間はそうなるのですね」
「当たり前だろ! なんだってそんなことを!!」
「わかりませんが、私の活動停止はあなたの活動停止でもあるということです」
「答えになってねえ。今すぐ元に戻せ!」
アトイはわずかに首を傾けた。
その目の奥で、レンズの層が一度だけ収縮する。
「同期解除権限を要求します」
返事はなかった。
ただ、部屋の奥に鎮座する巨大なコンピューターの表示灯が、冷たく一列だけ赤へ変わった。
No.001 CORE SYSTEM
Request : Release Biological Synchronization
Response : Denied
COMPANION RETENTION : REQUIRED
BIOLOGICAL EXIT : LINKED
「……中枢システムにリクエストが拒絶されました。私にはその権限がないようです」
「中枢システム?」
「はい。No.001 CORE SYSTEMです」
アトイの視線の先には、室内に鎮座する巨大なコンピューターがあった。
それは誰かが語りかけてくる声というよりも、ただそこにある巨大な壁に近かった。
だが、カイルには分かった。
あれは死んでいない。
少なくとも、自分を見ている。
「お前の目的はなんだ?」
「ここから外に出ることです」
カイルは息を荒げたまま、床に片膝をついた。
こいつらは、自分の命を人質に取ったのだ。
このヒューマノイドが破壊されれば、自分も死ぬ。置いていっても、同じことが起こるかもしれない。離れられるかどうかすら分からない。
つまり、彼はここへ誘い込まれた。
そして強制的に、このアトイと名乗るロボットの護衛にされた。
頭の奥に残る嫌な感覚が、まだ消えない。
さっき、何かを覗かれた。
自分でも意識していないような場所へ、機械の指を突っ込まれた。
そして、すべてを見透かしているようなその目。
まるで自分の一挙手一投足を漏れなく調べているかのような。
「胸糞悪い、悪趣味な機械共だ」
カイルは舌打ちをした。
アトイはその言葉を理解したのか、していないのか、ただ静かに彼を見ている。
「観察対象、カイル・ローウェル。移動を推奨します」
「名前で呼ぶな」
「呼称変更を要求しますか」
「そういう意味じゃねえ」
「未判定です」
「いちいち真面目に返すなって言ってんだろ」
カイルはレールガンを背負い直し、落ちていた防塵素材のコートを拾った。
それを、アトイへ投げ渡す。
「これは」
「とりあえず着ておけ。人目を集めたくねぇ」
アトイは受け取ったコートを見下ろした。
「外見隠蔽、実行します」
「好きに解釈しろ」
アトイがコートを羽織る。
青い髪の大半が隠れ、白すぎる肌も、機械じみた目も、フードの影に沈む。
それでも、人間にしか見えない異物であることに変わりはなかった。
カイルは元来た道を歩き始めた。
背後から、裸足の足音がぺたぺたと付いてくる。
端末には、送られなかった売却文面が残っていた。
助けたわけではない。
売らないと決めたわけでもない。
いまは、自分が死にたくないだけだ。
カイルは文面を削除せず、画面だけを閉じた。
部屋の奥では、巨大なコンピューターの表示灯が、もう一度だけ青く明滅した。
カイルは振り返らなかった。
背後で、小さな足音が続く。
その足音よりも静かに、少女の青い目だけが、彼の背中を見続けていた。




