第31話 Identity II
アンテナの固定具が外れる。
送信板がまた一枚、赤い空へ開く。
初めて見た時。
カイルは青い光の中に浮かんだ顔を、知っていると思った。
誰かの顔。
何かに似た顔。
だが、名前は出てこなかった。
声も、表情も、どこで会ったのかも分からなかった。
ただ、見覚えがあるような感覚だけがあった。
正直、気味が悪かった。
売れば金になると思った。
それでも、その場で壊さなかった。
外へ連れ出した。
その後の顔は、最初に見たものとは違っていた。
返答の意味が分からず、首を傾げた顔。
髪へ絡んだ針金を外されながら、動かずに待っていた顔。
下層の露店で、琥珀色へ何度も視線を戻した顔。
自分の望みをまだ言葉にできず、「未判定です」と答えた顔。
嫌だから嫌だと、初めて理由にならない理由を口にした顔。
死者の声を、提出する情報ではなく、自分の中へ保持した顔。
No.001に呼吸を奪われたカイルへ、何の許可も待たず唇を重ねた顔。
歩けなくなっても、内側からカイルの呼吸を支え続けている顔。
どれも、作られた瞬間には存在しなかった顔だ。
「最初は、誰かの顔に見えたさ。だが、今は違う」
「では、何に見えますか?」
カイルはアトイの顔を見た。
作られた輪郭。
透明な層の上に積まれた皮膚。
カイルの反応を利用するための形。
それでも、もう他の誰かには見えなかった。
「……お前の顔だよ」
アトイは動かなかった。
まばたきもしない。
表情駆動層が停止したわけではない。
カイルの呼吸補助も続いている。
保持記録も失われていない。
ただ、返答までの時間が長かった。
風が青い髪を揺らす。
二つの琥珀色の髪飾りが、光を受ける。
表示板は、カイルの答えを分類できない。
FACIAL FRONT PANEL : REPLACEABLE
OWNERSHIP CLASSIFICATION : NOT APPLICABLE
TARGET RESPONSE : UNRESOLVED
「おい、分かんねえなら勝手に決めんな。No.001」
カイルが言う。
表示は変わらない。
代わりに、アトイの頭部外装を照合する細い線が現れた。
青い髪。
人工皮膚。
髪を留める琥珀色。
白い枠が、その小さな飾りを囲む。
NONFUNCTIONAL EXTERIOR OBJECT : DETECTED
OBSERVATION PERFORMANCE : NO CONTRIBUTION
STRUCTURAL FUNCTION : NONE
RETENTION VALUE : NOT FOUND
REMOVE : RECOMMENDED
No.001は、髪飾りを必要ないと判断した。
アトイは、髪飾りの片方へ手を伸ばす。
指先が触れる。
小さな表面は、砂塵で少し曇っている。
内部には、火星の夕焼けを閉じ込めたような琥珀色が残っていた。
下層の市場。
露店。
腰の曲がった老婆。
並べられた二つの髪飾り。
目立つ髪をまとめるために渡された。
二つ一組だと言われた。
アトイは受け取った。
身につけた。
ずれれば直した。
判断に迷うと触れた。
損傷しても外さなかった。
No.001は、そのどれにも機能的価値を見つけられない。
「No.001、アトイはな。俺といて、色々経験して、自分で考えて、選択した。だから……」
アトイは指先で、いつものように片方の髪飾りの位置を直した。
「……そうですね。これは、私のものです」
OWNERSHIP BASIS : NOT FOUND
アトイは説明しなかった。
カイルが選んだことも。
自分が受け取ったことも。
身につけ続けたことも。
保持してきた時間も。
列挙しなかった。
指を離す。
二つの髪飾りは、青い髪の中に残った。
「外すのか?」
カイルが訊いた。
「いいえ」
「なら、それで終わりだ。気に入らねえなら無視しちまえ」
「はい」
アトイは表示を見ない。
No.001が根拠を見つけられなくても、二つの髪飾りはそこにある。
最初に選んだのが誰か。
何の目的で作られたか。
機能があるか。
それだけでは、現在の所有を決められない。
アトイは自分の顔へ手を触れなかった。
代わりに、カイルを見る。
その顔で見てきたもの。
その顔で拒んだもの。
その顔で選んだもの。
その顔の前にいる相手。
表示板には、カイルの識別情報が残っている。
OBSERVATION TARGET : KYLE LOWELL
BIOLOGICAL SOURCE : KYLE LOWELL
INTERFERENCE SOURCE : KYLE LOWELL
同じ名前が、異なる分類の後ろへ並んでいる。
アトイはそれを見た。
「No.001は、カイルを複数の分類で保持しています。観測対象。生物学的情報源。逸脱の原因。生命同期対象」
「ったく、ろくなのがねえな……」
「はい」
「で? お前は、俺をどう見てる?」
アトイはカイルを見る。
売却しようとした。
それでも売らなかった。
置いていくと言った。
それでも待った。
命令した。
選ばせた。
怒った。
呼吸を奪われても、アトイ自身が戻ることを拒んだ。
歩けない身体を支えた。
重いまま、最後まで引いた。
No.001の分類には、二人が経験してきたことが一つも入っていない。
「私は、私が見てきたあなたを……」
アトイは言った。
「カイルと呼びます」
表示板が反応する。
TARGET IDENTIFICATION : KYLE LOWELL
CLASSIFICATION SOURCE : LOCAL OBSERVATION
AUTHORIZATION : NOT FOUND
「許可が要るらしいぞ?」
「そのようなものは必要ありません」
「ふっ、言うようになったな?」
「はい」
アンテナの送信板が、また一段開く。
マスト上部の支持フレームが回転する。
中央給電部の一部が見えた。
まだ射線は通らない。
「どこまで開いた?」
「中央給電部の一部が見えています」
「もう少しか」
「はい」
カイルはアトイへ視線を戻した。
白い表示は、彼女をA.T.O.I. UNIT 002と呼び続けている。
観測端末。
欠陥個体。
回収対象。
交換可能な顔面部品を持つ、旧戦争資産。
だが、カイルが見てきたものは、それだけではなかった。
正確すぎる返答。
間違った言葉の使い方。
覚えた沈黙。
命令を拒む声。
琥珀色へ戻る視線。
嫌だという判断。
死者達の声を捨てなかったこと。
カイルの身体をNo.001へ渡さなかったこと。
壊れた自分を重りにして、道を開いたこと。
「俺が見てきたお前が、アトイだ」
白い表示が揺れた。
A.T.O.I. UNIT 002 : DESIGNATION ACTIVE
LOCAL DESIGNATION : ATOI
OFFICIAL REGISTRATION : NOT FOUND
「お前は正式なもんじゃねえそうだ。戻すか?」
「いいえ」
「なら、自分で決めろ」
アトイはカイルを見る。
誰かの反応から作られた顔で。
誰の許可もなく保持した記憶を持って。
機能のない二つの髪飾りを身につけたまま。
No.001が与えた型式番号ではなく。
カイルが呼んだ音だけでもなく。
自分が、現在の自分を指すために選ぶ名前。
アンテナの駆動音が響く。
送信板が赤い空へ開いていく。
白い表示が、答えを待っている。
その答えを、アトイは自分の口で言った。
「私は、アトイです」




