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A to I  作者: きんかん


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28/29

第28話 Hold III

「私が、ここを保持します」


 アトイは壊れた制動器へ両手をかけたまま言った。


 背中には、昇降路の支持梁。

 腰の後ろには、床から突き出した固定枠。

 動かない両脚は、制動器の基部を挟むように置かれている。


 カイルは、吊られた整備用移送台を見た。


 錆びた床板。

 曲がった手すり。

 昇降路を横切って張られた二本のワイヤー。

 対岸までは八メートルほどしかない。


 そして、落ちれば十九メートルだ。


「保持って、腕だけでどうにかすんのか?」


「いいえ」


 アトイの瞳の奥で、観測レンズが細く動く。


「本来の質量を使用します」


「……何だって?」


 近くの保守表示板が、赤い誘導灯を反射して点いた。




 LOCAL LIFE-SYNC CONTROL : LOST

 ARGUS-GALE TARGET HANDOFF : PREPARING

 BIOLOGICAL TELEMETRY : UPLINK QUEUED

 OBSERVATION TARGET : KYLE LOWELL




 アトイは表示へ顔を向けた。


「中継局は、カイルの生体情報をARGUSへ引き渡そうとしています」


「さっき身体の方は切ったんだろ?」


「はい。No.001は身体制御を失いました」


「じゃあ、次は何をするんだ?」


「観測と追跡を継続します」


 アトイの声に、間はなかった。


「私は許可しません」


「何をだ?」


「No.001が、カイルを観測し続けることです」


 カイルは表示を見た。


 白い文字は、彼を人間として見ているようには思えなかった。

 生体情報。

 観測対象。

 送信待機。


 呼吸も、痛みも、名前も。

 向こうにとっては、同じ一行なのだろう。


「止められるのか?」


「No.001との接続を切断します」


「どうやって」


「屋上アンテナの破壊です」


 カイルは昇降路の上を見た。


 停止した籠の骨組み。

 何層も続く保守足場。

 最上部には、赤い非常灯に縁取られた小さなハッチが見える。


「……じゃあ、俺たちが行く先は上だな」


「はい」


「その前に、ここを渡るか」


 カイルは移送台を手前へ引いた。


 床板が軋む。

 壁の巻き上げ器から伸びた牽引ワイヤーが、制動器の中で一度滑った。


 移送台が昇降路側へ数センチ動く。


 アトイが制動レバーを引いた。

 だが、割れた根元が歪むだけで、台は止まらない。


「壊れてんぞ?」


「確認済みです」


「なら、いいか」


 カイルは移送台を戻し、アトイを見た。


「で、本来の質量ってのは?」


「マスリデューサーを停止します」


 次の瞬間、金属床が低く沈んだ。


 アトイの身体が、支持梁と固定枠へ深く食い込む。

 制動器の基部が床へ押し付けられ、滑っていたワイヤーが止まった。


 カイルは反射的にアトイの肩を支えようとした。


「重っ……!」


「マスリデューサーによる質量軽減を停止しました」


「説明が遅え!」


「停止前に説明しました」


「実際に重くなる前に、どのくらい重いか言えって意味だ!」


「カイルより……少しだけ、重い程度です」


「嘘つけ!! これのどこが少しだけだ!?」


 少女に見える外殻の内側には、金属骨格も発電器も冷却系も詰まっている。

 普段ごまかしていた質量のすべてを、いまは壊れた制動器を押さえる重りに使っていた。


 牽引ワイヤーが張った。

 移送台が、手前の足場で静止する。


「現在の荷重で、カイルの移送中は保持可能です」


「お前は?」


「カイルが対岸のラチェットを固定した後、移動します」


「先に俺だけ渡れってか」


「はい」


「途中でお前が滑ったら?」


「移送台が落下します」


「俺が訊いてるのは、そうならない方法だ」


「滑りません」


 アトイは両腕で制動器を引き、背中を支持梁へ押し付けた。


 表情は変わらない。

 だが、肩から肘までの人工筋肉が硬く張っている。


「根拠は?」


「保持します」


「根拠になってねえぞ」


「カイルが対岸へ到達するまで、離しません」


 カイルは一度だけ息を吐いた。


「……分かった」


 移送台へ乗る。


 足元の床板が沈む。

 ワイヤーが鳴る。


 アトイの身体が、固定枠へさらに押し付けられた。


「カイル、胸部負荷が上昇しています」


「誰のせいだと思ってんだ」


「私を支えたことが原因です」


「今は黙って、俺の呼吸だけ見てろ」


「はい」


 カイルは手動搬送用の牽引索を掴んだ。


 一本を引けば、移送台が対岸へ進む。

 手を離せば、壊れた制動器へ荷重が戻る。


 足場を蹴る。


 移送台が昇降路へ出た。


 下から冷たい空気が吹き上がる。

 赤い非常灯が、何層も下まで並んでいた。


 ワイヤーが軋んだ。


 カイルは牽引索を引く。


 一度。

 二度。


 移送台が、少しずつ対岸へ進む。


「呼吸が浅くなっています」


「分かってる……」


「吸ってください」


「引いてる最中に言うな」


「止めると、移送台が戻ります」


「なら、吸わせろ……」


 胸の内側で、筋肉の緊張がわずかに緩んだ。


 アトイ由来のナノマシンが、肋骨周辺の固定を維持する。

 呼吸筋の動きを補助し、血中酸素の低下を抑える。


 カイルは息を吸った。


 痛い。

 だが、吸える。


 牽引索を引く。

 移送台が昇降路の中央まで来た。


 背後を振り返る。


 アトイは、赤い灯りの中で制動器へ身体を掛けている。

 長い青髪が床へ広がり、左右の琥珀色の髪留めが小さく光っていた。


 人間の形をした機械。

 歩けない身体。

 自分より重い鉄の塊。


 その全部で、こちら側のワイヤーを保持している。


「あと三・二メートルです」


「見りゃ分かる」


「視線が私へ向いていました」


「見てんじゃねえ」


「保持します」


「……好きにしろ」


 カイルは牽引索を引いた。


 対岸が近づく。


 移送台の前端が、向こう側の受け金具へ当たった。

 大きな音が昇降路へ響く。


 カイルは手すりへ掴まり、対岸の足場へ乗り移った。


「着いたぞ……」


「ラチェットを固定してください」


 壁の手動巻き上げ器へ飛びつく。


 歯車の横に、戻り止めの爪がある。

 錆びている。半端な位置で止まり、歯へ噛んでいない。


 カイルはレールガンの底部で叩いた。


 一度。


 爪が動く。


 二度。


 金属音。

 爪が歯車へ落ちた。


 ワイヤーの荷重が、手前側の制動器から対岸の巻き上げ器へ移る。


「固定した!」


「荷重移行を確認しました」


「もう離していいぞ」


 アトイが制動器から手を離す。


 身体は動かない。

 床へ座り込んだまま、腕だけを使って固定枠から外れる。


 その後ろの通路で、金属脚の音がした。


 一体。


 さらに二体。


 四脚ドローンが、崩落した床の向こうへ姿を現す。


「来たぞ!」


「距離二十二メートル」


「台を戻す!」


 カイルは巻き上げ器の切替レバーを倒した。


 戻り索を引く。

 空の移送台が、アトイの側へ滑っていく。


 先頭のドローンが、崩れた床の縁へ到達する。

 四本の脚を広げ、足場の強度を測る。


 アトイは移送台を見た。

 次に、接近するドローンを見る。


「到着まで七秒」


「乗れるか?」


「腕部のみで可能です」


「なら急げ」


 移送台が手前の受け金具へ当たる。


 アトイは床へ手をつき、上半身だけで身体を引いた。

 しかし本来の質量のままでは、腕部の出力が足りない。


「マスリデューサーを再起動します」


「やれ」


 アトイの身体が、わずかに軽くなる。

 それでも、普段の重さにまでは戻らない。


 腕で床を押し、腰を移送台へ載せる。

 動かない両脚を一本ずつ引き上げる。


「何してる、遅えぞ!」


「出力が不足しています」


「もっと上げろ!」


「これ以上上げるには、カイルの呼吸補助を低下させる必要があります」


「下げるな!」


 カイルは即答した。


「俺が引く。お前は俺の方を切るな」


「カイルの筋負荷が許容値を超えます」


「超えてから言え」


「すでに超えています」


「なら今さらだ!」


 アトイは一拍置いた。


「カイルの生命維持を優先します」


「そうしとけ!」


 アトイは移送台の固定帯を、自分の腰へ回した。

 金具を締める。


 先頭のドローンが、崩落した床へ踏み込んだ。


 床材が割れる。

 前脚一本が落ちる。


 だが、機体は止まらない。

 後脚を壁へ突き、作業用の細いアームを伸ばした。


 それにアトイの右脚が掴まれる。


「捕捉されました」


「見りゃ分かる!」


 カイルは巻き上げ器のハンドルへ両手をかけた。

 回しても、ドローンのアームがアトイを後ろへ引き、移送台は数センチしか進まない。


「引き剥がせるか!?」


「現在の質量軽減では、ドローンのアーム保持力が上回ります」


「じゃあ軽くしろ!」


「カイルの呼吸補助を――」


「下げんなって言ったろ!」


 カイルは足を巻き上げ器の基部へ掛け、身体ごとハンドルへ倒れ込んだ。胸に激痛が走る。


「カイル」


「黙って支えろ!」


 アトイは呼吸筋と肋骨周辺の補助へ出力を集中した。

 カイルが回し、アトイが息を通す。歯車が進み、ドローンの脚が崩れた床を滑った。


「このままでは均衡します」


「もっとましな報告は?」


「一時的に本来の質量へ戻れば、ドローンの姿勢制御を崩せます」


「台まで落ちねえか!?」


「固定帯とワイヤーは保持可能です。巻き上げ器の逆転防止を維持してください」


「わかった、やれ!」


 アトイはマスリデューサーを切った。

 移送台が大きく沈んだ。

 同時にワイヤーが悲鳴を上げる。


 アトイを掴んでいたドローンの前部が、予想以上の荷重に引かれた。

 後脚が床から浮く。

 機体が崩落縁へ倒れ込む。

 作業アームの関節が限界まで伸びた。


「今です」


 カイルはハンドル脇の固定レバーを蹴った。

 逆転防止の爪が、次の歯へ深く噛む。


 同時に、ドローンの前脚が床を失った。

 機体が縁から落ちる。

 作業アームはアトイの脚を掴んだまま、昇降路へぶら下がった。


 移送台が大きく傾く。


「離せ!」


「作業アームのロック解除信号を送信します」


「できんのか!?」


「局所保守規格が一致します」


 アトイの瞳の奥で、観測レンズが収縮した。


 ドローンの作業アームが一度痙攣する。

 爪が開いた。


 機体が、昇降路の下へ落ちていく。

 赤い灯りの中を、四本の脚が回転しながら小さくなる。


 しばらくして、下で金属が潰れる音がした。


「あいつが先に到達したな」


「はい」


 残る二体が、崩落縁で停止した。

 今度は無理に渡ろうとせず、射撃姿勢へ移る。


「こちらへ射線が通ります」


「お前の方で何とかしろ。今、手ぇ離せねえ!」


 カイルは巻き上げ器のハンドルを掴んだままだ。


 アトイはマスリデューサーを限定再起動した。

 移送台が少しだけ浮く。

 アトイは上半身を捻り、台の曲がった手すりを掴んだ。ドローンの射線から身体を外す。


 ドローンの発射した弾丸が、手前側の受け金具へ当たった。


 火花。

 移送台が揺れる。


「引いてください」


「やってる!」


 カイルは脚と体重をハンドルへ乗せた。

 歯車が一つ進むごとに胸が痛み、呼吸が途切れる。そのたびに、アトイが内側から補助する。


「吸ってください」


「回してる!」


「吸わなければ、回せません」


「分かったよ!」


 息を吸い、痛みに耐え、吐きながら回す。


 アトイは自力で一歩も歩けない。

 カイルは、自力では十分に呼吸できない。

 二人の間のワイヤーが、欠けた身体を一つの動作へ繋いでいた。


 それでも、移送台は進んだ。


 対岸まで、三メートル。


 二メートル。


 一メートル。


 最後の一回転で、カイルの右胸へ鋭い痛みが走った。

 腕の力が抜ける。ハンドルが逆へ戻ろうとした。


 カイルの運動指示に合わせ、アトイが筋出力だけを一瞬補助する。


 閉じようとした指へ力が戻る。

 踏ん張ろうとした脚が、カイル自身の命令へ応じる。


 固定レバーを引く。


 歯車が止まった。

 移送台が対岸の受け金具へ当たる。


 カイルはハンドルから手を離し、台へ倒れ込むように近づいた。


「はぁ……着いたぞ」


「はい」


「お前も少しは動け」


「上半身制御は有効です」


「なら、ほら。掴まれ」


 アトイがカイルの首へ腕を回す。


 カイルは固定帯を外し、腰を抱えた。

 移送台から足場へ引きずり上げる。


 重い。


 限定されたマスリデューサーが動いていても、十分に重い。


 だが、手は離さなかった。


 二人は対岸の床へ倒れ込んだ。


 アトイが上。

 カイルが下。


「……二回目だな、これ」


「何がですか」


「お前に潰されるのがだよ」


「質量軽減は稼働しています」


「これでか?」


「はい」


「もっと軽くなれよ……」


「カイルの生命維持に回すリソースを低下させれば可能ですが」


「……やっぱ今のままでいいわ」


 カイルはアトイを横へ下ろした。


 残った向こう側のドローンが、作業アームをワイヤーへ伸ばしている。


「あいつはここまで来れるのか?」


「三十七秒以内に牽引ワイヤーが損傷します」


「なら、放っとくか」


「はい」

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