第25話 Gaze III
右胸の痛みが、突然輪郭を持った。
鈍い打撲だと思っていたものが、骨の一本へ集まる。
息を吸う。
途中で止まる。
肺が広がる前に、胸壁が痛みを返した。
「ぐっ……がはっ、ふっ……」
カイルが壁へ手をつく。
視界は変わらない。
意識もある。
自分の身体である感覚も失っていない。
ただ、さっきまで身体の内側で働いていた支えだけが、外から勝手に弱められた。
「カイル」
アトイが振り返りかける。
顔は最後まで向かなかった。
代わりに、彼の呼吸数と血中酸素を照合する。
「呼吸補助が低下しています」
「見りゃ……分かる」
痛みが増えるのと同時に、さらに表示が増えた。
OXYGEN MAINTENANCE : CONTROLLED
CARDIAC REGULATION : AVAILABLE
LIFE-SYNC TERMINATION : AVAILABLE
「おい、止めさせろ……」
「私のローカル権限を上書きしています」
「お前の中の……話じゃねえ、俺の方だ……」
カイルは浅い息を繰り返した。
「俺の身体ん中の……もんを、勝手に……いじるんじゃねえ」
No.001は応答しなかった。
命令の取り消しも、感情への反応もない。
代わりに、アトイの現在の判断履歴が開かれた。
HELD RECORDS : NOT SUBMITTED
SYSTEM DESTINATION : REJECTED
OBSERVATION TARGET REFERENCE : EXCESSIVE
INDEPENDENT JUDGMENT : CONTINUED
続いて、カイルの分類が変わる。
OBSERVATION TARGET INTERFERENCE : EXCESSIVE
CAUSAL SOURCE : KYLE LOWELL
COMPANION RETENTION : TERMINATED
BIOLOGICAL SOURCE SEPARATION : REQUIRED
A.T.O.I. UNIT 002 : RETURN TO CONTROL
BIOLOGICAL SUPPORT : RESTORE AFTER COMPLIANCE
アトイは表示を読んだ。
カイルは壁へ肩を預け、呼吸を続けることに集中している。
「……何て言ってる?」
「カイルを、私の判断変化を生じさせた干渉源と分類しました」
「……今までは何だったんだ」
「観測対象。同行補助者です」
「……都合が悪くなったら、切るのか」
「はい」
アトイの声は変わらなかった。
だが、壁面表示へ置いた指が止まっている。
「私が独自判断を停止し、保持記録を提出すれば、カイルの生体補助を復旧します」
「俺の命がまた盾にされてるってことか。お前は……どうしたい……?」
アトイはすぐには答えなかった。
赤い誘導灯が、彼女の横顔を細く照らす。
その顔は、カイルを見捨てにくくするために作られたものだ。
彼女自身はそれを選んでいない。
カイルも選んでいない。
No.001は、その顔を使った同行が役目を終えたと判断した。
必要だった観測対象を、今度は分離対象へ変えた。
「……アトイ」
「戻りません」
白い表示は変わらない。
RETURN TO CONTROL : REQUIRED
BIOLOGICAL SUPPORT : PENDING
「どうにかなるもん……なのか?」
「試行しています」
アトイはカイル体内のナノマシン網へ、生命同期経路から命令を送る。
呼吸補助の復旧。
鎮痛の再適用。
酸素維持のローカル管理。
すべてが、元来の制御権によって拒否された。
LOCAL LIFE-SYNC REQUEST : DENIED
CONTROL AUTHORITY : No.001
SUBORDINATE UNIT OVERRIDE : NOT PERMITTED
アトイは別の経路を探す。
施設接続を切る。
カイル体内の受信機能を停止する。
同期強度を固定する。
どれも、No.001由来ナノマシンそのものが命令を受け取る限り成立しない。
「……止められない、のか」
「命令権限では停止できません」
「じゃあ……壊しちまえ」
「破壊した場合、生命同期と修復機能も失われます」
「面倒なもん、入れやがって……」
カイルの膝がわずかに落ちた。
アトイが肩を支える。
今度は止まらなかった。
顔を背けたまま、身体だけを近づける。
カイルの呼吸は一分あたり二十七回。
浅い。
血中酸素は低下を続ける。
背後の通路で、金属脚の音が大きくなった。
「防衛ドローン、二体。距離十九メートル」
「……撃つぞ」
カイルがレールガンへ手を伸ばす。
指はグリップへ届いた。
だが、銃を持ち上げるだけの呼吸が続かない。
胸を固定しようと力を入れた瞬間、痛みで腕が落ちた。
「今の状態では射撃は困難です」
「言われなくても……」
酸素維持表示が、さらに下がる。
RESPIRATORY SUPPORT : MINIMUM
OXYGEN MAINTENANCE : REDUCING
COMPLIANCE WAIT : ACTIVE
No.001は待っていた。
アトイが戻るまで。
カイルの身体条件を、戻るための材料として調整しながら。
アトイはカイルを見た。
正面からではない。
青い瞳だけを横へ動かし、呼吸、循環、筋緊張、意識状態を読む。
その情報は、No.001が観測対象として集めるものと同じだった。
並べて突き合わせても、彼が死に瀕していることは変わらなかった。
だが、今のアトイは提出のために見ていない。
「代替します」
「……何を」
「あなたのナノマシン網を、です」
「できるのか……?」
「私の循環液内ナノマシンは、情報伝達、修復、身体維持を行います。No.001由来ネットワークへ合流させ、機能を代替します」
「……どうやって」
アトイは答えず、自分の資源配分を変更した。
自己修復用ナノマシン。
人工循環液。
冷却材。
腰部の損傷へ回すはずだった修復材料。
カイルの血管網へ入れるには、粘膜から直接移す必要がある。注射器も接続端子もない。
アトイは口内の軟質膜を自分で裂いた。
痛覚信号が上がる。優先度を落とす。
金属と薬品の味を持つ人工循環液が、口腔へ満ちた。
「……アトイ? なにを……」
カイルが顔を上げる。
アトイは正面を向いた。
カイルの警戒を下げ、同行させるために作られた顔を、今度は誰の許可もなく自分の判断で使う。
襟を掴み、後頭部を固定した。
「口を閉じないでください」
「は――?」
返答を待たず、口を重ねる。
接吻ではない。
少なくとも、アトイの処理にはその分類がない。
投与経路の確保と、嚥下の補助だった。
冷たい液体がカイルの口へ流れ込む。
彼は咳き込み、吐き戻そうとする。アトイは顎を支え、気道へ入らない角度を保った。
「飲み込んでください」
カイルの手が肩を押す。だが、力が続かない。
人工循環液が二人の口元からこぼれる。
損失量、過大。
必要量、不足。
アトイは自分の修復資源をさらに切り崩した。
嚥下反射に合わせ、少量ずつ送り込む。
カイルの喉が動く。
それを確認して、次を送る。
見た目が何に見えるかは、いま判断項目ではなかった。
背後の角を、防衛ドローンの照準灯が横切った。
赤い点が、壁からアトイの肩へ移る。
必要量まで、あと十二パーセント。
アトイは中断しない。
循環液が減る。
体内の冷却配分が低下する。
自己修復待機中のナノマシン群が、口腔を通じてカイルへと移る。
必要量へ到達。そこでアトイは唇を離した。
カイルが激しく咳き込む。
床へ膝をつき、口元を手で拭う。
指に、透明に近い薄青色の液体が付いた。
「何……飲ませやがった……」
「私の人工循環液と、自己修復用ナノマシンです」
「やるなら先に……言え……」
「説明中に死亡する可能性が上昇しました」
「そういう……問題だけじゃねえ……」
カイルは咳き込み、最後まで言えなかった。
まだ呼吸補助は戻っていない。
アトイ由来ナノマシンは、いま口腔と食道の粘膜へ接触したばかりだった。
制御奪取は成立していない。
背後では、防衛ドローンが角を曲がる。
アトイの口元からも循環液が一筋こぼれている。
今度は、彼女は顔を隠さなかった。
No.001が作った顔で、カイルを正面から見る。
同行させるためでもない。
観測結果を提出するためでもない。
命令へ戻る許可を求めるためでもない。
アトイは、自分自身が決めたことを口にした。
「カイルは、私が見ます」




